あゆみは母親に買ってきてもらった文庫本から、時計へと視線の向きを変えた。 「今日も来ないかな……」 午後四時を指している二つの針に溜息をついて、あゆみは読書を再開した。 「……」 だが、それもすぐに中断される。あゆみは枕に頭を乗せ、仕切りのカーテンをぼんやりと見つめた。 入院してからも、考えるのは真一のことが一番多かった。子供の頃のこと、高校に入ってからのこと、これからのこと……。 「明日は……会えるかな……」 と、あゆみはまぶたを閉じ、全ての思考を頭から追い払う。意識が覚醒からまどろみへと移り始めた頃、誰かの手が自分の額に乗っている感覚を覚えた。 「……あれ……シン……君?」 「あ、起きてたのか」 「うん……」 「……えっと……」 真一はばつが悪そうに頭をかいて、傍らの椅子に腰かけた。 「ダメだよ、みんなに心配かけちゃ」 「入院してる人間に言われたくないぞ……」 「それもそうだね」 と、あゆみは微笑み、体を起こした。 「大丈夫か?」 「うん、平気」 「……ずっと、考えてた」 真一は一つ息をつき、ゆっくりと話し始めた。 「俺は、あゆみに何ができるんだろうって……。その答えが出るまでは、あゆみに会っちゃいけないような気がしてた」 「答え、出た?」 真一はかぶりを振った。 「それでも、俺は……あゆみのそばに、いたい。結局、それしか分からなかったよ……」 「……シン君」 真一の頭を、あゆみの小さな手がぎこちなくなでた。少女は少し照れくさそうに、 「よかった。届いた」 「……無理するなよ」 「いつも励ましてもらってるから、そのお返し」 「……悪い」 「ううん、一度やってみたかったから。シン君が元気ないの、あんまり好きじゃないし……って、怪我人が言うことじゃないよね」 「確かに。……あゆみ、十六歳おめでとう」 「大変な誕生日になっちゃったけどね。ありがとう」 「で、これ……」 と、真一はあゆみの手を取り、ペンダントをその上に乗せた。 「誕生日プレゼント……安物なんだけど」 「これ……私に?」 「お前以外に誰がいる」 と、真一は苦笑いを浮かべて、 「本当に、高いものじゃないんだって。……気に入らなかったか?」 「ううん、すごく嬉しいよ。ありがとう」 「まあ、入院してるんじゃつける機会ないけどな」 「そうだね……」 と、残念そうに言ったのも束の間、あゆみは幼なじみに誕生日プレゼントを差し出した。 「せっかくだから……シン君の前だけでも、つけてみたいな」 「つまり……俺がつけろ、と?」 「うん」 「恥ずかしいリクエストしてくれるよな……」 「……ダメ?」 「いや、いいよ。それじゃ、ちょっと失礼して……」 体重をかけないように注意しながら、真一はあゆみの首に手を回す。 「……ねえ、シン君。少し、甘えていい?」 「え? 甘え……」 真一の言葉は続かなかった。 「……暖かいね」 抱きついた幼なじみの体温は、平常より高いように思えた。 「少し、熱ある?」 「……あ、ああ……い、いや、ないと思う」 平静を失った心で、ぎこちなくペンダントを着け終えた真一は、あゆみから離れようとした。 「……離せ」 「もう少しだけ……」 あゆみの声は、弱かった。それとは裏腹に、包帯が巻かれていない手に力がこもる。 「……本当は、すごく寂しくて……怖くて……」 「……ごめん……」 「でも、会いに来てくれたから、いいよ」 あゆみは小さく首を振り、真一から離れた。 「似合う?」 「似合って……ないかな。パジャマだから。普通の服だったら、似合ってるんだろうけど」 「じゃあ退院したら、もう一度感想聞かせてね」 「ああ。それで……もう一つあるんだけど、プレゼント」 「私、これだけで充分だよ」 「……受け取ってもらわないと、困るんだよ」 「ごめんね、お金遣わせて……」 「いや、ただなんだ。その……言葉だから」 「言葉?」 「ああ」 真一は息を呑み、目を閉じた. 「その……俺、あゆみのこと……好きだよ。それはその……つまり、そういう意味で」 「……え……」 「まあ……あゆみだって、気付いてたろ。その……俺の気持ちは」 「……」 少女が真一に背を向けるようにベッドに横たわり、布団の中に潜り込んだ。 「あ……あゆみ?」 「……ねえ、シン君」 「な……何?」 「……ありがとう」 「……え?」 あゆみは布団から顔を出すと、体を起こさずに真一の方を向いた。 「ごめんね……少し泣いちゃったから……」 「見られたくなかった、と……」 「うん……」 言葉だけで頷いたあゆみは、目の端に残る涙を拭って、 「すごく驚いた……」 と、笑った。 「シン君の気持ちには、気付いてたよ。でも、それを言ってくれるとは思ってなかったから……」 「まあ、確かに今さらだとは俺も思ってたよ。それでも、いつまでも言わないでいるっていうのは、ずるいからな。何も言わないで、ずっとお前がそばにいてくれるって保証もないし」 「もしかして、私が告白されたことも影響してる?」 「多いに」 「私もシン君のこと……好きだよ」 「知ってる。けど……」 椅子に深く座り直し、真一は時計を見上げた。 「ここの面会時間、分かる?」 「ううん。あ、でも、七時ぐらいに面会に来る人とかもいるから……」 「まだ大丈夫か。で、思ったんだ。もし俺があゆみの幼なじみじゃなくて、それで好きになったらどうしてたんだろうな、って。――やっぱり、告白すると思うんだ。結局、何も言わなくてもあゆみがそばにいてくれるのは、幼なじみっていう部分が大きくて……それに、甘えたくなかった」 「……うん」 「まあ、告白したって大して今までと変わりそうにないけど。一応の区切りだよ」 と、真一はあゆみの髪に触れ、 「怪我って、どの程度なんだ?」 「打撲と……足の骨に、ひびが入ってるって」 「大変なんじゃないか? 色々と」 「大丈夫だよ。折れてるわけじゃないから」 「そりゃ、そうだけど……」 「それに、シン君がいつも以上に優しいし」 「……そんなこと言う余裕があるんだったら大丈夫だな」 照れ隠しにそう呟いてから、真一は微笑んだ。 「大したことなさそうで、安心した」 「ごめんね、心配かけて……」 「怪我人は自分のことだけ気にしてろ」 少女の額を指で軽く弾いて、 「本当に、俺のことは気にしなくていいよ。迷惑とかは一切考えないで、何でも言ってくれ」 「でも……」 「……あゆみ。体、起こせる?」 「え? あ、うん」 ゆっくりと半身を起こし、あゆみは軽く息をついた。 「あゆみは……優しすぎるよ」 と、真一は少女の頭を抱き寄せた。 「し、シン君!?」 「……お前だってさっきやっただろ……」 「で、でも……」 「体、大丈夫か?」 「うん……平気」 「……俺は」 あゆみが苦しくないように腕に全く力を入れないまま、真一は頭を軽くなでた。 「あゆみにもう少し、わがまま言って欲しいんだ。少しは、応えられると思うから……」 「でも……私、シン君に嫌われたくないよ……」 「わがままを言われたからって、嫌いになったりなんかしない。むしろ、今のままの方が……少し、嫌だな」 「……え……」 「別に、嫌いにはならないよ。ただ、今のあゆみを見てるのは……ちょっと、辛い」 と、少女を自分から離し、真一はうつむいた。 「……シン君?」 「俺は確かにあゆみのこと、たくさん知ってるよ。けど……口に出してもらわなきゃ伝わらない気持ちだって、たくさんある。さっき俺に甘えたみたいに、自分に正直なあゆみの方が好きだよ、俺は」 「……うん」 「自分にできないことはできないって言うし、そんなに無理するつもりはないからさ。で……あゆみの今の気持ちは?」 「えっと……特にないよ」 「だから……」 「ううん、そうじゃないよ。今はね……本当に、シン君がここにいてくれるだけで充分だから」 「……」 真一は、あゆみの顔を包むように両頬に手を当てた。 「……え……?」 真一は大きく息をつき、顔を近づける。そして……。 「あんまり恥ずかしいこと言わないように」 あゆみの頬を、軽く引っ張った。 「何か今日のシン君、意地悪……」 「……照れくさいんだよ。そりゃ前にも同じようなことは何度も聞いてるけど……以前とは違うしさ。それとあゆみ」 「何?」 「今……何か期待してただろ」 「な、何かって?」 「……今さら白々しいって」 少年は苦笑いを浮かべると、あゆみから視線を外した。 「キス……されるんじゃないかって思っただろ、一瞬」 「え……べ、別に……」 「隠さなくてもいいって。……さすがにな、人前じゃできない。だけど……二人きりだったら、また別だから」 「……え……」 「……まあ、そういうこと。きっと……だいぶ先になるだろうけど。まずあゆみが退院しなきゃならないからな」 「……急いだ方がいい?」 「急いでどうにかなることじゃないだろ。それにまあ……正直、まだできそうにないからさ。その……キスは。一応区切りはつけたけど、まだ落ち着いてないっていうのかな、たくさんのことが頭の中を巡ってて……」 「やっぱりシン君、私と似てるね」 あゆみはペンダントを外し、脇に置くと満面の笑みを見せた。 「私も同じ。こうやって話してるけど、まだどこか実感がなくて……。私たち、これから変わるのかな?」 「……今さら聞くか? 変わらないって信じてるのに」 「そうだよね」 「さて、と」 真一は立ち上がり、背伸びをする。伸ばした手の先が、微かに汗をかいていた。 「今日は帰るよ。夕飯食わなきゃならないしな」 「また、来てくれるよね?」 「来るに決まってるだろ。ここに来なきゃ、あゆみに会えないんだから」 と、あゆみの頭に手を置いて、 「退院したら、二人でどこか出かけような」 「それって……デート?」 「そうなるな。でもやっぱり今までと変わりなさそうだけど」 「それでいいよ」 「じゃあ、またな」 病室を出た真一は大きく息をつき、汗ばんだ手を見下ろした。 「そりゃ、緊張もするか」 真一は苦笑し、無機質な廊下を歩き出した。 「で、あゆちゃんとは何かあったの?」 「え?」 サンドイッチを食べていた真一の口が、脈絡のない祐樹の問いかけによって止まった。 「真一って、本当に分かりやすいよね」 「べ、別に何もな、ないぞ」 「それに、嘘が下手」 由利がそう言い、デザートのオレンジを口に入れる。 「あったんだよね」 「……洞察力のある友人ってのも厄介なもんだな」 冗談めかした台詞を吐き、梅雨の隙間の青空を見上げる。 「まあ……その、一応、告白したって言うのか? 一般的には」 「……今、何て?」 自分の耳に入ってきた音の意味をにわかに理解できなかった祐樹は、思わず聞き返す。真一はばつが悪そうに視線を逸らし、ぶっきらぼうに呟いた。 「だから……言ったんだよ、好きだって」 「あゆちゃんに?」 「……他に誰がいる」 「熱、ないよね」 「冗談としてなら、四十度を超えたって言わないぞ」 「じゃあ、本当に?」 「ああ。もっとも、事故があったからじゃないぞ。本当は、誕生日に告白するつもりだったんだ」 「それが事故で遅れた……。それで、あゆちゃんは?」 「相変わらずだよ」 初夏の風に吹かれた雲は、その場に流れる時間と歩調を合わせるようにゆっくりと漂っていた。 「俺たちらしいだろ?」 「本当にね」 「今さら告白程度のチェックポイントで変わるわけないからさ。でも、あゆみが笑ってくれたから、言ってよかったとは思ってるよ」 「嬉しかっただろうね、あゆちゃん」 「まあ、そうだろうな……って、今気付いたんだけど」 「何?」 「……これって、単なるのろけなんじゃ?」 「やっと気付いたの?」 由利が呆れた顔で問い返す。真一は口を噤み、静かに弁当箱のふたを閉じた。 「……しばらく沈黙します」 「別に私はのろけられても構わないけど?」 「真一とあゆちゃんが仲がいいのは今に始まったことじゃないしね」 「いや……遠慮しておく。からかわれるネタ、提供したくないからな」 真一は苦笑して、 「でも……さ。俺って本当に、あゆみのこと好きなんだな……」 「……のろけないんじゃなかったの?」 「いや……そうなんだけど、でも何か……あゆみ以外のこと話せないんだ」 「じゃあ、のろける?」 真一は首を振って、 「何も言わない。今さら言わなきゃいけないことも、ないしな」 「そういうのって、いいな……」 何気ない由利の呟きを、真一は聞き逃さなかった。 「実感こもってますな、波田さん?」 「え……。べ、別にそんなこと……」 「何を動揺してる?」 「……」 「いいと思うけどな、俺は」 「な、何のこと?」 「気付かない方がどうかしてると思うけどな」 真一は最後の一切れを口の中に放り込み、ジュースを飲み干した。 「でも、知りすぎてるっていうのも考え物だぞ?」 「どうして?」 「嘘がすぐばれる」 「嘘、ついてるの? 水崎さんに」 「いや、ついちゃいないけど」 空になった紙パックを握りつぶし、それをバッグの中に放り込む。 「たまにはつかなきゃいけないときもあるだろ」 「浮気したときとか?」 「しないって。たとえば……具合が悪いときとか。心配かけたくないんだよ、あゆみには」 「それがすぐ見抜かれる?」 「ああ。まあ、嘘が下手だってせいもあるんだろうけど」 と、真一はバッグを手に立ち上がった。 「先に戻ってるよ。邪魔者は消えた方がいいだろうし」 狼狽する二人に真一は満足そうな表情を見せ、 「冗談だよ。ちょっとした用事があるから戻るだけだ」 少年は背を向け、屋上から姿を消した。残される、一組の男女。 「……どう思う?」 「え? えっと、別に仲井君は邪魔者なんかじゃ……」 「そうじゃなくって、告白したって話」 「あ、う、うん。でも、どうって?」 「どうして告白したんだと思う?」 「どうしてって……好きだからじゃ?」 「それはそうなんだろうけど……」 事故防止の柵に手を乗せて、祐樹は空を仰ぐ。 「何か、納得してないね?」 「正直、意外なんだ」 「どうして?」 「何となく、そんなこと言わないままいるんじゃないかな、って思ってたから」 「必要ないから?」 「必要は……なかったんじゃないかな」 少女が祐樹の隣に来て、微笑んだ。入学のときより長くなった髪が、小さい風に揺れる。 「そう周りに思わせること自体、あの二人の強さなんだよ」 「それはそうなんだろうけど……」 「そのくらい好きなんだよ、仲井君は水崎さんのことが」 由利は校庭に視線を下ろし、溜息をつく。 「どうしたの?」 「羨ましいなあ」 「あゆちゃんが?」 「ううん、二人とも。自分のことすごく大切に思ってくれる人がいるのは、幸せなことだよ」 「あの二人の場合特別だよ。十年以上の積み重ねがあるから」 校庭の喧騒が、絶え間なく空に消えていく。そのざわめきの中に、少女の小声が混じった。 「絆って……何だろうね」 「何、って……」 祐樹が答えあぐねていると、由利がポケットから一枚の紙を取り出した。 「……離婚届」 「え……」 「わがまま言って、持ち出してきちゃった」 おどけた口調の由利。だが、その表情は決して明るくはなかった。 「何か……分からないなあ」 風にはためくその紙を見つめながら、少女は呟いた。 「お父さんもお母さんも好きだから結婚して、私が生まれたはずなのに……。どうして、今ここにこれがあるんだろうね」 「一度好きになったからって、ずっと好きでいられるわけじゃないから。好きになったから……」 祐樹はその先を、口に出すのをためらった。だが、少女は彼の台詞の続きを知っていた。 「嫌いにもなれる。それならどうして、みんな誰かのことを好きになるのかな」 「やっぱり……悲しい?」 由利はかぶりを振り、夫婦という絆を断ち切る紙をポケットにしまった。 「だけど、少し複雑かな……。お母さんのことは、もう好きでもないけど……」 「寂しい?」 「それも、ちょっと違うと思う。ただ……家族だった人が、そうじゃなくなっちゃうことが実感できなくて……。今までずっと一緒だった人が、一枚の紙でそうじゃなくなるっていうことが、まだどこか信じられなくて……」 「何となくだけど、分かるよ。今は、それでいいんじゃないかな」 「そうかなあ……」 「少しずつ、実感できるようになるよ」 「うん……」 頷き、由利は大きく息をつく。 「私も……好きだった人を、いつか嫌いになる日が来るのかな……」 「それは分からないけど……。でもできれば、そんな機会は少ない方がいいよね」 「どうしても、嫌いになりたくない人もいるし」 と、祐樹の方を一瞬見、すぐに視線を逸らす。 「私は、焦らなくてもいいよね。まだ出会ってそんなに経ってないし」 「誰に?」 「祐樹君に。まだ二ヶ月しか経ってないから、急がなくていいよね」 微笑み、由利は遠くに広がる空を見つめた。 「絆って、何だろうね」 再度の質問。今度はそれに、少年が答えた。 「一人でいないための……大切なもの」 「うん……。一人は、嫌だよね……」 由利の声が沈んでいた。かぶりを振り、言葉を続ける。 「一人は、もう嫌だよ……」 「……大丈夫だよ」 祐樹が微笑を浮かべて、 「みんな、いるから。だから、大丈夫」 「うん……そうだね」 由利が足元のバッグを拾い上げ、祐樹から一歩離れる。 「そろそろ時間だよ」 「あ、うん」 二人の間を風が通り抜けていく。それに心が押されたせいだろうか、由利の本心がほんの少し口を突いて出た。 「もっと、祐樹君と仲良くなりたいな……」 「なれるよ」 祐樹の声に、予鈴の音が重なる。少年は少女の頭に手を伸ばし、その髪に触れた。 「真一の真似……かな?」 照れくさそうに言って、祐樹は手を制服のポケットに入れる。コンクリートの地面に視線を落とした由利は、それをしばらくさまよわせてから口を開いた。 「祐樹君は……今度の日曜、暇?」 「うん、暇だけど?」 「……デート、しない?」 「デート?」 「……変かな?」 「変じゃないとは思うけど……」 「けど?」 祐樹は階段へと続くドアに手をかけながら、 「僕でいいのかな」 「祐樹君だから誘ってるんだよ」 二人の微笑みが交わる。それが、答えだった。 |