NRLS-12



 いつか、見た風景。正確に言えば、過去の自分の記憶。
 一人の女の子が泣いている。その子の周りには、彼女をからかう何人かの男子。その少女をかばうように彼女の幼なじみが立ちはだかり、叫んだ。
「やめろ!」
 その声はむしろ、周りの野次をより高めるものとなった。
「やっぱり夫婦だ」
「仲いいねえ」
「ちょっと、いい加減にしなさいよ」
 揶揄を続ける男子をたしなめようと、女子の一人が口を開く。だが男子はそれを気にせず、さらにからかい続けた。
「夫婦、夫婦」
「てめ……」
 真一が血が出そうなほど握りしめていた拳を振り上げようとした瞬間、野次を飛ばしていた男子の一人が殴り倒されていた。
「……祐樹?」
 その場にいた、全員の時間が止まった。男子が殴られたことよりも、その行動を起こしたのがクラスで最もその手の行為と遠い少年だったことが、その理由だった。
「……楽しい?」
「……え?」
 誰かのうわずった声。その主が誰なのかは分からない。
「女の子泣かせて、楽しい?」
 静かな口調。その瞳は、自分が殴り倒した男子に向いていた。怯えた表情で、首を振る男子。
「……今日はもう帰る」
 祐樹は空のランドセルを背負うと、ためらう様子も見せずに教室を出ていった。
「待てよ祐樹!」
 真一は走って祐樹を追いかけ、すぐに追いつく。
「真一……」
「俺も帰るよ」
 と、自分の手に持ったランドセルを示し、笑ってみせる。
「あゆちゃん、一人にしていいの?」
「大丈夫だろ。女子もいるし」
「そうかなあ……」
「さすがに殴っておけばからかわないだろ」
「いや、そうじゃなくて……」
「前原君、正解」
 唐突な背後からの声。振り返るとそこには男子をたしなめようとした女子と、うつむいているあゆみがいた。
「一人だけ残されて、元気に授業を受けられると思う? あゆみが」
「……思わない」
「というわけで、これ」
 と、女子があゆみのランドセルを真一に手渡す。
「ちゃんと家まで送ってね」
「いいけど……三人も一度に早退したら先生に変に思われるんじゃ……」
「何とかするから大丈夫」
「……どうする? 真一」
「たまには……そういう日があってもいいんじゃないかな」
「じゃ、決まり」


「正直、驚いた」
 いつも夕暮れ時に遊んでいる公園の芝生の上に寝転がり、いつもより高い位置にある太陽の光を受けながら真一は口を開いた。
「何が?」
「祐樹が殴るとは思わなかったから」
「好きじゃないんだけどね、ああいうの」
「普段の祐樹を見てればそれは分かるよ」
「だけど、僕がああしてなかったら真一が殴ってたよね?」
「そりゃ、まあ……」
「もしあそこで真一が殴ってたら、もっとややこしいことになってたんじゃないの?」
「それじゃ……」
 祐樹はかぶりを振って、
「違うよ。単純に真一と同じ気持ちだっただけ」
「……ごめんね」
 学校からずっと黙っていたあゆみが、弱い声で謝った。
「私のせいで……」
「そんなことないよ」
「そうだって。あゆみは悪くないだろ」
「ううん……。私が傘、持ってこなかったのが悪かったんだよ……。濡れて帰ればよかったのに……」
「そんなこと……」
「ごめんね……」
「あゆみ……」
「迷惑ばっかりかけて、ごめんね……」


「でも、本当によかったよ。大したことなくて」
「お医者さんもね、運がよかったって言ってた。車のスピードが遅かったからこの程度ですんだんだろう、って」
「波田さんなんか、あゆちゃんが事故に遭ったって聞いて、取り乱して」
「心配かけて、ごめんなさい……」
「ううん。無事で何より」
 由利はかぶりを振ると、見舞いに持ってきたりんごの皮をむき始めた。
「退院はいつ頃になりそうなの?」
「まだ分からないけど、そんなにはかからないみたいだよ」
「六月中には学校、来られるようになりそう?」
「そこまではまだ分からないけど……」
「それもそうだよね。それより、あの……」
 と、由利は先を言い辛そうな顔で、祐樹に目配せした。
「……真一、来た?」
 首を横に振って、あゆみは静かな雨が降りしきる窓の外を見、小さな溜息をついた。
「……シン君、元気にしてる?」
「それが……」
 口を開きかけた由利を制して、祐樹がゆっくりと現状報告を始めた。
「あゆちゃんが事故に遭って以来、僕たちは真一を見てないよ……僕や波田さんだけじゃなく、クラスメートも桜岡先生も、真一の両親も」
「それって……失踪じゃ……」
「……そうとも言えるね」
「私の……せい」
「……え?」
「私のせいだよ……」
 呟いて、あゆみは目を閉じた。
「事故に遭う直前まで、シン君と一緒にいたから……」
 と、少女は幼なじみとクラスメートに弱い笑顔を浮かべて、
「喧嘩したんだ、私たち」
「喧嘩?」
「喧嘩って言うと大げさかな、言い争いをして別れて、少し放心状態で注意散漫になってて……」
「それで、事故?」
 頷いたあゆみに、由利が反論を向ける。
「だからって仲井君が姿を消す必要はないんじゃない? 事故の直接の原因は、仲井君には関係ないんだから」
「……うん。それは、正しいと思うよ。でも……」
「でも?」
「それでも責任を感じるのが、シン君なんだよ」
「……」
「とりあえず、クラスのみんなや先生で探してはいるけど……手がかりなし」
「……警察には?」
「届けてないよ。考えてはいるけど……大事にしたくないって、真一の両親は言ってるけど」
「……ごめんなさい」
「水崎さんが謝ることじゃないでしょ」
「でも……」
「はい、りんご」
「あ、ありがとう……」
「祐樹君は?」
「あ、食べるよ」
 と、二人のやりとりを見ていたあゆみが柔らかな微笑を浮かべた。
「『祐樹君』になったんだ?」
「え? ……あ、そ、それはその……」
「よかったね」
 と、あゆみはもう一度微笑んで、
「仲がいいに越したことはないからね。……喧嘩なんかしない方がいいよ」
「あゆちゃん……」
「ごめん……少し疲れたから……」
 と、あゆみは二人に背を向け、ベッドに横たわった。
「休むね……」
「それじゃ……また来るね」
 と、由利はバッグを手に持ち立ち上がる。
「学校の方は心配しなくていいよ……。ノート、コピーして持ってくるから……」
「うん、ありがとう……」
「それじゃ……」
 病室を出た由利は、深く息をついた。
「やっぱり……元気なかったね……」
「うん……」
「仲井君探し出して……首に縄をつけて連れてくるしかないかな」
「首に縄、って……」
「それくらいしなきゃ。このままじゃ水崎さん、かわいそうだよ」
「けど、真一がどこにいるのかが分からないと……」
「でも、手がかりはなし」
「一回、整理して考えてみた方がいいね」
 と、祐樹が待合室の椅子に座り、バッグからノートとペンケースを取り出す。
「まず、事故が起こったのが六月十三日。あゆちゃんの誕生日の前日だから、今から四日前だね」
「うん」
「その日を境に、誰も真一のことを見てない」
「もしかして、誰も知ってる人がいないような場所にいるのかな」
「近くにはいると思うよ」
「どうして?」
「だって――」
 と、何かを言いかけた祐樹は、自分の脇にノートとペンケースを置いて不意に立ち上がった。
「ど、どうしたの?」  
「手がかり……あるかも知れない」
「え?」
「待ってて、確かめてくる」
 そう言うが早いか、祐樹は駆け出した。


 五分後。
「やっぱり思った通りだったよ」
 軽く息を切らして戻ってきた祐樹は、そんな台詞を由利に向けた。
「思った通りって?」
「真一が自分を責めて姿を消したんだとしても、あゆちゃんのこと気にしないはずがないからね。きっと、あゆちゃんの様子を聞きに来てると思ったんだ」
「来てたの?」
「うん。疲れた感じの男の子が現れて、大したことがないって分かると見舞いもせずに帰っていったって」
「それが仲井君?」
「間違いないと思うよ」
「でも、それだけじゃどこに行ったかなんて……」
「それについてなんだけど、手がかりがあるかも知れないよ」
「あるの?」
「手がかりがないってことが、手がかりだと思うんだ」
「どういうこと?」
「つまりね」
 祐樹は一旦言葉を切り、椅子に座り直すとノートを開いた。
「手がかりがないってことは、この四日間誰も真一を見た人がいないってことだよね」
「うん」
「それって……かなり難しいことなんじゃないかな。今もまだ、この近くにいるなら」
「やっぱり、遠くに行ったんじゃ……」
「確かに、あゆちゃんのことになると真一は非常識になるけど……」
 でも、と言って、祐樹は待合室の時計を見上げる。五時になろうとしていた。
「出ようか」
「あ、うん」
 街を包む雨を、傘越しに仰いでみる。決して強くはなかったが、長く続きそうだった。
「それで、続きは?」
「え? あ、真一は確かにあゆちゃんが絡むと非常識になるけど、だからって何もかも放棄するほど馬鹿じゃないよ」
「じゃあ、まだ近くに……?」
「そういうこと」
「でも、それなら誰も見てないっておかしいんじゃない?」
「そう。で、誰にもずっと見つからないためには、どうすればいいかってことなんだよね」
「どうすれば……外に出なければいい?」
 祐樹は頷いて、
「と、なると一人でいるわけない……誰かのところに転がり込んでる」
「誰か、って?」
「そこが問題なんだよね……」
 祐樹は息をついて、足を止めた。
「絞り込むことはできるかも知れないけど……聞いたって素直に答えてくれないだろうし……」
「……」
「どうしたらいいかなあ……」
「……ねえ」
「何?」
「もしかしたら、だけど……」
 前置きをしながらも、由利はそれでもためらっているかのように視線を中空に向けた。
「そんなこと、ないのかな……でも……」
「何か、思い当たること?」
「思い当たるっていうか、推測なんだけど……」
「それでもいいよ」
「知ってるんじゃないかって思ったの。仲井君の居場所」
「……誰が?」
「仲井君の両親が」
「……え? それじゃ、嘘ついてるってこと?」
「うん」
「でも、どうしてそんなこと……」
「たぶん言ったんだと思う。誰にも会いたくない、って」
「でも……だとしたら誰のところに?」
 由利は深く息をついて、目を閉じた。
「……灯台下暗し」
「え?」
「そういう場所にいるんじゃないかな、きっと。仲井君の両親が警察に言わないのだって、居場所を知ってる、もっと言えば信頼の置ける人のところにいるって分かってるからじゃない?」
「信頼の置ける人……?」
「私も祐樹君も仲井君も知ってて、仲井君の両親から信頼されてて、水崎さんの状態が逐一分かる人」
「それと灯台下暗し……」
 祐樹は指折り、由利が提示した「条件」を口の中で反芻していく。何度かそれを繰り返してから、彼はゆるくかぶりを振った。
「分からない?」
「一人……たった一人、該当者と思える人が浮かんだことには浮かんだけど……」
「信じられない?」
「メリットが……ないよ。あの人にとっては……」
「あの人が損得勘定だけで動くと思う?」
「……思わない。けど……」
「とにかく行ってみよう。えっと、確か……」
 由利は自分のバッグから連絡網のプリントを取り出し、「その人物」の住所を確かめた。
「この住所って、ここから遠い?」
「そんなに遠くないよ」
「それじゃ、決まり」
 と、手早くバッグにプリントをしまい、祐樹を促す。
 戸惑いの表情を浮かべながら、祐樹は由利を案内するように歩き出した。


 三度、五年前。
「……ねえ、シン君」
 暗闇と雨音の中、あゆみは真一に小さな声を投げた。
「……起きてる?」
「寝てる……」
 真一はそう答えると、部屋の明かりを無からオレンジ色の豆電球へと変えて、
「眠れない?」
 と、半身を起こして尋ねた。
「うん……」
 寂しそうな相槌。それから生まれたしばらくの沈黙を破ったのは、謝罪だった。
「……ごめんね」
「何が?」
「心配、かけて……」
「……」
 何も言えなかった真一の心の隙間に、雨音が忍び込んでくる。五線譜の上に記されることのないメロディは、少年に言い知れぬ不安を与えた。
「……おじさんとおばさん、まだ忙しい?」
「うん……しばらくは……」
「……そっか」
「一人は……嫌だよ……」
「……あゆみ」
 布団を抜け出し、あゆみのそばにあぐらをかいて座ると、真一は幼なじみの頭に手を伸ばした。
「寂しいときは、寂しいって言っていいから」
「……うん」
「一人じゃないから。一人になんて、させない」
 あゆみが小さく笑う。狼狽した真一が、しどろもどろになりながら抗議した。
「な、何で笑うんだよ」
「ごめんね」
 と、あゆみは目の端の涙を拭い、
「私の幼なじみは、こんなに優しいんだって思えたら急に気が抜けちゃった」
「……」
「ありがとう」
 真っ赤になり口を閉じた真一は、あゆみの頭に置いていた手を戻すと視線を床に落とした。
「どうしたの?」
「何でも……ない」
「何か私、変なこと言った?」
「いや、えっと……俺の方こそ、変なこと言ったかな……」
「ううん、全然」
「そっか……。なあ、あゆみ」
「何?」
「もう寝る?」
「寝なきゃいけないんだろうけど……目がさえちゃって」
「実は俺も。明日学校、大丈夫かな」
 デジタル時計が二十三時を示す。普段ならとうに眠っている時間も、今の二人には睡魔を差し向けなかった。
「……ずる休みしようよ、そのときは」
「親が鋭いからね……たぶん無理」
「それじゃ、意味ないなあ……」
「俺がいないから?」
 冗談半分に真一は言う。あゆみは口の中で歯切れの悪い言葉をいくつか呟いてから、不意に小さく頷いた。
「うん……そうだよ」
「え……」
「シン君が一緒にいてくれると、楽しいから……」
「……」
「でもシン君は、楽しくないよね……」
「そんなことないよ」
「うん……ごめん」
 と、あゆみは溜息をつく。幼なじみの少年がその理由を尋ねるのよりも先に、少女が言った。
「『ごめん』って言ってばっかりだね、私」
「気にしてないよ」
「でも、他に言いたいこと、たくさんあるのに……」
「言いたいこと?」
「うん。いろんなこと……」
「一つずつ、ゆっくり言ってくれればいいよ」
「……聞いてくれる?」
「もちろん」
「ありがとう」
 真一は手を頭の上に置いて、あゆみの笑顔に応える。と、少女がその腕をつかんだ。
「……しばらく」
「ん?」
「しばらく、こうしてて欲しいから……」
「俺が眠くなるまでだから……たぶん少しだけど?」
「それで、いいよ」
 真一は軽く頭をなでると、あゆみを促して布団に体を横たえさせた。
「やっぱりあゆみが寝るまで、そばにいるよ」
「じゃあ私、早く寝た方がいいよね……」
「まあ、どっちでもいいよ」
 あゆみは目を閉じ、自分の額に触れている幼なじみの手のひらの温度に意識を集めた。
「……暖かいね」
 くぐもった雨音の中に、甘えるような声が混じる。
「私、もう寂しくないよ……」
 と、あゆみは小さく、穏やかに笑った。
「シン君……」
「ん?」
「お休み……」
 程なくして、あゆみの呼吸が静かな寝息へと変わる。真一は大きな欠伸をついて、自分の布団に潜り込んだ。
「お休み、あゆみ……」


「ここ……かあ」
「時間……何時?」
「六時前……遠くはなかったけど、迷ったからね」
 と、祐樹は苦笑いを浮かべ、不意に空を仰いだ。
「雨、やんでるね」
 傘をたたみ、由利は目の前の一軒家に視線を向ける。
「帰ってきてるかな」
「帰ってなかったら……どうする?」
「それはそのときに考えよう」
「……そうだね。じゃ、押すよ」
 祐樹は一つ深呼吸をし、インターホンを鳴らした。
「はい?」
 桜岡の母親のものらしい、穏やかな声がインターホン越しに聞こえてきた。
「こんばんは。桜岡先生のクラスの者ですが、先生いますか?」
「はいはい。ちょっと待っててね……」
 緊張しながら、二人は玄関が開くのを待った。
 一つ、風が吹く。それが合図だったかのように、ドアが開いた。
「珍しいわね。どうしたの?」
「あ……その……」
「仲井君、見つけました」
「……本当?」
「はい。……ここにいるんですよね」
 一瞬の沈黙と、停止。
「どうなんですか?」
「……」
「先生?」
 桜岡は視線を落とし、大きな溜息をついた。
「……その頭、勉強の方にも使ってよね」
「それじゃ……」
「推理通り。確かにいるわ」
「……上がっていいですか?」
「ええ、もちろん」
「じゃ、お邪魔します。えっと……仲井君はどこに?」
「二階の奥の部屋よ」
「それじゃさっさと捕まえて――」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 勇んで上階に向かおうとしていた由利を、慌てて祐樹が止める。
「いきなり行ったら、真一が逃げるんじゃ……」
「……逃がすわけないでしょ」
「……はい」
 短いその一言に、祐樹と桜岡は気圧された。
「……背中にオーラらしきものが見えない?」
 と、桜岡は自分のクラスの男子生徒に耳打ちする。
「見えます……」
「ずいぶん入れ込んでるのね、水崎さんに……」
「……どうしてなのかは分からないんですけど……そうみたいですね」
「まあ、しょうがないかもね……普段の水崎さんを知ってるから……」
「……ですね。それに、僕も逃がすつもりはありませんし。それよりも、何で真一のこと……」
「それはあとで。とりあえず仲井君を締め上げるんでしょ?」
「締め上げる、って……教師の言う台詞じゃないです、それ」
「私が教師らしかったことって、ある?」
「……自分で言います?」
「いいから、早く行った」
 桜岡に背中を押されるようにして、祐樹は階段を上がる。
「……先生」
 廊下の突き当たりで、憮然とした表情で立っていた由利が目の前のドアを見つめたまま口を開いた。
「この部屋、鍵かかってるんですけど……蹴破っていいですか?」
「気持ちは分かるけど、できれば遠慮してくれる?」
「……はい」
「とりあえず呼んでみるわね。……仲井君?」
 先程より大きくなった雨音に負けないように、桜岡は強くドアをノックする。だが、反応はない。
「仲井君?」
「やっぱり蹴破っていいですか?」
「……安月給だから却下。仲井君?」
 と、ドアノブが動いた。少し間があって、ドアがゆっくりと開く。
「ふぁ……」
 寝ていたのだろう、少し乱れた髪と細った目で姿を現した真一の欠伸が止まった。
「とりあえず……あゆちゃんからの伝言っ!」
 祐樹がそう言った次の瞬間、真一の体は部屋の床に倒れていた。
「起きた?」
 たった今幼なじみを殴った拳を握り締めながら、少年は尋ねた。
「ああ……目、覚めたよ」
 真一はついさっきまで体を横たえていたベッドに座ると、ゆっくりと問うた。
「あゆみは……元気か?」
「体の方はそんなに大したことないよ。でも、心は……」
「……そっか。この天気と……一緒なんだな」
 窓の外は、泣いていた。それが真一には、あゆみの涙のように思えた。
「あゆちゃんには……会えない?」
「……分からない」
「分からない、って……」
「……あゆみは、俺と会いたいのかな」
「会いたいに決まってるじゃない」
 明らかにいらだっている由利の声音を、真一は沈黙を身にまといながら耳から耳へと流すだけだった。
「あゆちゃんに、会いたくない?」
「そりゃ、会いたいよ。けど……」
「けど?」
「あゆみに会って、俺……何て言えばいいのかな。あゆみに、寂しい思いをさせたこと……」
「……」
「……事故は」
 真一は手を頭の後ろで結んで、天井を仰いだ。
「あゆみの運が悪かったんだって、思うようにしてるよ……。そりゃ確かに喧嘩して別れてなかったらあゆみが事故に遭うこともなかったんだろうけど、それは結果論だから」
「そこまで分かってて、何で……」
「あゆみは、優しすぎる。きっと……俺を責めたりなんてしない」
「怒られたいの?」
 真一は由利の問いには直接答えず、直前の自分の台詞を引き継ぐような独り言を吐き出した。
「優しくされるのが、辛いときってあるからな……」
「だから、会わないの?」
「いや、会うよ。これ以上あゆみのこと、待たせるわけにもいかないしな。先生にも迷惑かけられないし」
「先生はどうして、真一のことかくまったんですか?」
「最初はそのつもり、なかったんだけど……」
 自嘲気味に微笑んで、桜岡は部屋の明かりのスイッチを入れた。
「水崎さんが事故にあった次の日、雨の中でびしょ濡れになってる仲井君を見つけてね」
「一旦ここに連れてきた」
「そういうこと。少し、気持ちを落ち着ける時間が必要だと思ったの。で、整理はできた?」
「少しは……」
「それで充分。会えるでしょ? 水崎さんに」
 真一は微かに首を縦に動かし、まぶたを閉じた。一粒だけ、涙が頬を伝う。
「これで何度目かな、あゆみを心配させるのは……」
「無数だね」
「……ああ。それでもそばにいてくれるんだから、あいつも人がいいよな……。なあ祐樹、覚えてるか?」
「何?」
「お前が人を殴ったときのこと。あゆみが泣かされてさ」
 祐樹はばつの悪そうな表情で、
「ずいぶん前のこと持ち出してきたね……」
 と、言った。
「小五の今の時期だから……五年前か。あの頃も今も、俺があゆみのためにしてやれたことってろくにないんだよ。その意味じゃ祐樹、お前の方があゆみにふさわしい気もするしな」
「でも、あゆちゃんが一番に必要としてるのは真一だよ?」
「……ちょっと愚痴を声にしてみただけだよ」
 明日の天気はやはり雨だろうか――真一はこの状況に不相応な思考を、頭の中に生み出してみる。
 いつも大切な日には、決まって雨だった。空が俺たちを妬んでるのかもな――そんな台詞を口にしたのは去年の夏休みで、あゆみはそのときも静かに微笑んでいた。
――あの笑顔を、また見たい。
 銀色の尾を持つ星が見えるはずもないし、二駅先の小さな神社に売っている祈願成就のお守りも今は手元にない。だから、少年は降りしきる雲の涙に小さな願いをかけることにした。
「答えは、決まってる。だから……そろそろ帰るか。あ、そうだ祐樹。傘、借りるぞ」
「借りるぞ、って……僕は?」
 真一は幼なじみを怪訝そうな表情で見つめ、
「お前には波田がいるだろ。どうせ帰る方向も同じなんだし」
「な……」
 祐樹が二の句を継げなくなったことを確認すると、真一は立ち上がり背伸びをした。
「それじゃ、ご迷惑をおかけしました」
「別に気にしなくていいわよ。どうせ学校で雑用にこき使ってあげるから」
「……はい。それにしても先生」
「何?」
「俺とあゆみをクラス委員に選んだの……間違いでしたね。こんな面倒な人間じゃない方がよかったんじゃないですか?」
 桜岡は真剣な面持ちでかぶりを振った。
「あなたと水崎さんを選んで正解だったと思ってる。これ以上ふさわしい人はいないと思うから」
「……それ、本心で言ってます?」
「嘘言ってどうするの?」
「それもそうですよね……。うん、それじゃお世話になりました」
「仲井君。これは教師じゃなく、人生の先輩として言うけど……大切に思えるものを見つけるのと同じくらい、失うのも大変なことよ」
「肝に銘じておきます」
「それと……仲井君、明日は休みね」
「……はい?」
「今までの不徳を取り戻すには、丸一日くらい必要でしょ?」
「……教師が生徒にサボタージュを勧めますか、普通……」
「例外があるから世の中は成立するの。それとも皆勤賞でも狙ってるの?」
「……狙ってません」
「でしょ? あなたくらいの年代ならね、法に抵触することじゃなければ『若気の至り』にかこつけて大抵の無茶はできるんだから。ずっと前から惚れてる幼なじみのために学校を完全無視するとか」
「……無理ですよ」
 と、真一は深い溜息をついた。
「そんなことしたらあゆみの口癖が炸裂しますから。『私、また迷惑かけちゃったね』っていう台詞が」
「それじゃ、どうするの?」
「どうするって普通に学校に行って、それから病院に行きますよ」
 そう言って、真一は祐樹の傘を取り、ドアノブに手をかける。
「先生……教師って職、似合いませんよね」
「本人の目の前で言う?」
「裏で言うよりよっぽど潔いじゃないですか」
「それはそうだけど」
「……じゃあ、また明日、学校で」
「あ、それじゃ私たちも……。お邪魔しました」
「寄り道しないで帰るのよ」
 冗談めかした台詞で生徒を送り出して、一人になった桜岡は視線を窓に向け、
「教師らしくない、ね……。あなたたちだって全然高校生らしくないんだから……おあいこよ」
 と、まるで子供のように笑った。