NRLS-14



「シン君」
「ん?」
 皮をむき終えたりんごを皿の上に置きながら、真一は声だけで相槌を打った。
「私たちって、恋人なのかな」
「また答えの分かってることをどうしてそうやって聞くかな……。違うだろ、どう考えても」
「そうだよね」
「俺たちは俺たち。それ以外の何でもない」
 真一は果物を乗せた皿をあゆみの前に置き、果物ナイフを丁寧にバッグの中にしまった。
「恋人かどうかなんてこと、こだわりたいか?」
「ううん、こだわりたくない」
「だろ?」
 真一の手が、自然とあゆみの頭の上に伸びる。長さを増した髪を梳いた手は、少女が子供の頃からずっと好きなものだった。
「恋人なんかよりずっと大切だからさ、あゆみは」
「じゃあ別に恋人がいるんだね、シン君には」
「ああ、なるほど……ってそういうことじゃなくて」
 あゆみはおかしそうに目を細めながら、皿の上に置かれた果物に手を伸ばす。
「分かるよ、シン君の言いたいこと」
「じゃあ茶化すな」
 真一もりんごに手を伸ばし、一切れの半分ほどを口の中に入れる。口の中に広がった甘酸っぱい味は、過去を映写してくれた。
「前にもこういうこと、なかったっけ?」
「私、入院するの初めてだよ」
「いや、そうじゃなくて……」
 真一は腕組みをし、椅子に体重を預けながら天井を仰いだ。
「ああ……もしかしたら」
「もしかしたら?」
「中ニの冬にさ、あゆみが風邪で寝込んだときだよ。あのときもこうやってりんご食べてただろ、確か」
「そんなこともあったね」
「確かずっと『ごめん』って言ってたよな、あゆみ」
「うん……」
 と、あゆみは目を閉じる。まぶたの裏側にある瞳が、明るい色を宿していないであろうことは容易に想像できた。
「今も言いたい? 『ごめん』って……」
「……シン君がお見舞いに来てくれるのは嬉しいよ。だけど、正直……」
「……そっか」
 慎重に言葉を一つずつ選び、心の中で文章を組み立てる。伝えたい気持ちを自らに問いながら、少年はゆっくりと口を開いた。
「迷惑って、巡るものだと思うんだ。仮にあゆみが俺に迷惑をかけたとしたら、その分どこかで俺もあゆみに迷惑かけると思うんだ。それにさ、迷惑が全然許されない関係って、息苦しい気がするんだよ」
「でも、もし少しでもシン君の負担になってるなら……」
「負担なんかじゃないって。俺は好きでここに来てるんだし」
 苦笑いを浮かべ、真一は腕時計を外す。自分の思考から時間の概念を追い出すための行動だった。
「それに無理はしないよ。あゆみに余計な気を遣わせたくないからさ」
「……ごめんね」
「何が?」
「……私、嘘ついてた」
「嘘?」
「本当は、シン君に嫌われたくないだけ……。嫌われるのが、怖いから……」
「自分のために迷惑をかけないようにしてた?」
 微かな肯定のサイン。うつむいた少女の頭に手を置き、真一は言った。
「それでいいんだよ。自分のためで」
 少年は、笑っていた。少女の自責も、毛布を濡らした涙も包み込むように。
「あゆみはもっと、自分を大切にした方がいいよ。そんなに自分を追い詰めたって誰も喜ばないんだし」
 幼なじみの頭を静かに抱き寄せ、真一は大きく息を吐いた。速まっていた鼓動が平常に近づく。
「……どうしてそんなに怖がるかな」
「……」
「俺はあゆみのこと、簡単に嫌いにならない。なれないって言った方が正確かな。あゆみのことを嫌ってる自分っていうのが、想像できないんだ」
「……私……シン君のそばにいていいのかな」
「いつダメって言った」
「だって……迷惑じゃ……」
「……本気で怒るぞ」
 真一の声には小さな棘があった。だが、あゆみにそれが刺さるより早く、少年は心を吐き出す。
「迷惑じゃないから、こうしてるんだろ」
 と、少女をそっと自分から離し、はにかんでみせた。
「ちょっと近すぎたけどな」
「そうだね」
 あゆみも照れくさそうに微笑み、果物に手を伸ばした。
「波田さんと祐樹君、どうしてるの?」
「相変わらずだよ……って、見舞いに来ないのか?」
「うん。だから何かあったのかなと思って……」
「……気を遣ってるんだろ、あいつらなりに。おかげで嫌になるほどからかわれてるけどさ」
「そうなの?」
 真一は大げさに肩をすくめ、諦めの混じった困惑の表情を浮かべた。
「もう水を得た魚のように」
「隠しておけばよかったのに」
「告白したことをか? そんなことしたところですぐ気付かれるのは目に見えてるし、大体あいつらに隠しておく必要もないだろ。別に悪いことしてるわけでもないし」
 あゆみは頷き、りんごを飲み込むとベッドに仰向けに倒れ込んだ。
「疲れた?」
「ううん。――シン君ね、看護婦さんたちの間でも噂になってるよ」
「噂……って?」
「私の恋人じゃないかって。毎日色々聞かれてるよ」
「色々って……たとえば?」
「出会いはいつなのかとか、どんなところが好きなのかとか」
「……で、あゆみはどう答えてるわけ?」
「正直に答えてるよ」
「その『正直』の中身が問題なんだ……」
 ナースステーション付近で視線を感じるはずだ――そう内心で溜息をつき、あゆみの額を軽く指で弾いた。
「あんまり余計なこと言わないように」
「悪いこと言ってるわけじゃないよ?」
 と、少女は悪戯っぽく笑い、
「おかげで看護婦さんからは羨ましがられてるよ。シン君みたいに優しい恋人が欲しいって」
「……何を言った、何を」
「あ、優しいっていうのは私が言ったわけじゃないよ。たぶんほとんど毎日お見舞いに来るから、そう思ってるんじゃないかな」
「自業自得か……。まあ、しょうがないな」
 真一は小さく息をつき、制服のポケットに手を突っ込んだ。
「そろそろ入院生活にも飽きてきたんじゃないか?」
 冗談めかした台詞と共に、真一は幼なじみの額に手を置いた。
「あゆみがいないと面白くないよ、学校は」
 不意に、真一の服の裾に負荷がかかる。少女の手が、ブレザーの端を持っていた。
「どうした?」
「久しぶりに制服が着たいな」
「退院すれば嫌ってほど着られるぞ?」
「今、着たいの」
「分かりましたよ」
 真一は渋々といった感じで上着を脱ぎ、それをあゆみに差し出した。
「今度は何を企んでるんだか……」
 少年の嘆息をよそに、少女は嬉しそうに制服を羽織る。当然普段自分が着用しているそれよりはサイズが大きいが、彼女はそれを気にするどころか、むしろ子供のように無邪気に余った袖を振っていた。
「手、大丈夫か?」
「うん、平気。――やっぱり大きいね、シン君の制服」
「そりゃそうだろ」
 と、真一はグレーのネクタイを外し、薄いバッグの中に丸めて放り込んだ。
「で、今度の行動の真意は?」
「シン君の制服が着てみたかった……っていうのは変かな?」
「……悪趣味」
 真一はそう答え、あゆみの左頬を引っ張った。
「痛い……」
「あゆみが悪い。大体俺の制服を着たがるのなんて世界中探したってお前くらいしかいないぞ」
「他にいたら困るよ」
「……そう言われればそうだな」
「シン君こそ変わってるよ。普通、ほとんど毎日お見舞いになんて来ないよ?」
「どうせ変わり者だよ、俺は」
 真一は腕時計に視線を落とし、まぶたを閉じた。
「ずっと考えてたことがあるんだ」
「何?」
「俺たちが仲良くなったきっかけ。前に聞いただろ? ――これ、覚えてるか?」
 と、真一はバッグの中から、色あせた一枚の写真を取り出して見せた。
「――懐かしいね」
 頬を赤らめる幼い二人の周りに、真っ白な雪が横たわっている。たぶん親によって巻かれたものだろう、その頃の二人にとって大きかったマフラーは顔を半分ほど隠し、子供たちの間で微笑む雪だるまは少しいびつな容姿をしていた。
「それが初めてなんだよな、二人で撮った写真って。それまでは写真どころか、ろくに話すらしなかったし」
「友達のいなかった私に、話しかけてきてくれて……よく覚えてるよ、あのときのこと。たぶんずっと忘れないと思う。――覚えてていいんだよね?」
「また変な質問を……。大体記憶なんてそう簡単にどうこうできるものじゃないだろ。また必要のない心配してるのか?」
「ううん、聞いてみただけ。――あのときも上着、貸してくれたよね」
「そうだっけ?」
 とぼけながら、写真へ視線を落とす。確かに、幼い真一の服装は、彼が立つ風景には不釣り合いな薄着だった。
「この頃はシン君の服も普通に着られたんだね、私。そういえば、シン君も私の服着てなかったっけ?」
「……あれは親に謀られたんであって、俺が望んだわけじゃない……。じゃなきゃ誰がスカートなんて……」
「シン君のスカート姿、確か写真に撮ってたよね。見たいな」
「……とっくに廃棄させていただきました」
「でも探せばまだ一枚くらいありそうだよね」
「ないことを願う……」
 と、真一はあゆみに写真を手渡して、
「それ、あゆみが持ってて」
「え? でも……」
「いいって。ネガも残ってたはずだから、いくらでも焼き増しできるし。看護婦さんには見せるなよ……って言ってもきっと無駄なんだろうけど」
 真一は諦め顔で肩をすくめ、それから真剣に尋ねた。
「もしいつか、俺たちに別れるときが来るとしたら、それってどんなきっかけなんだろうな」
「……え?」
 戸惑いと不安を隠さない少女に真一は微笑みかけ、
「別に、実際にあゆみと距離を置きたいとか思ってるわけじゃないよ。ただ、あゆみが事故に遭ってから漠然と考えてたんだ。ずっと一緒にいられるって無条件に信じるのは、もしかしたら危険なことなんじゃないかって」
「危険?」
「あゆみが事故に遭ったって知ったとき、どうしたらいいのか分からなかった。混乱するだけで、何もできなかった。それどころか、逃げ出そうとした……」
「……ごめん」
 真一はかぶりを振って、言葉を続けた。
「誰かを責めるための話じゃないよ。大体あゆみが悪いわけじゃないし。――何をやってるんだろう、どうして俺はここにいるんだろう……桜岡さんの家で、ずっとそのことばかり自問してた。本当にやらなきゃいけないことはまず、これからどうなるにしろあゆみと会うことだって知ってるはずなのに、会えなかった。その理由が、過信じゃないかと思うんだ」
 いつの間にか降り始めた夏の入り口の雨が、病室から無音の時間を剥奪する。まるでドラマの演出でもあるかのように、雨音は静かに続いていた。
「あゆみが俺のそばからいなくなるなんて、本気で考えたことなかった。これから先もずっと一緒だって盲目的に信じてたから、今回みたいなことが起こるなんて少しも思ってなかった」
「考えないのが普通だよ……?」
「確かに事故に遭うなんてことは考えないよ。そういうことじゃなくて、たとえばあゆみが転校する、喧嘩、他に好きな人ができる……別れのきっかけはどこにでも転がってると思うんだ」
「だから、そうなったときにショックを受けないように、別れを考えなくちゃいけない……」
「そうじゃないよ。別れるときのことを想像するなんて、辛いだろ? 大切なのは、お互いが近くにいることが特別なんだって自覚して、大事なものを見失わないようにすることだよ」
「大事なもの……?」
「初心だよ」
 と、真一はあゆみの手から写真を取った。
「この写真を撮ったときは、お互いのことなんてほとんど知らなかっただろ? だから、たくさん会って話して、知ろうとした。今は、それをしてないような気がする。確かに昔よりはあゆみを知ってるけど、知らないことだってたくさんあると思うんだ。もっと相手のことを理解しようって気持ちが、俺たちは――いや、俺には欠けてたと思うんだ」
「そんなこと――」
 勢い込んで反論しようとするあゆみを諌めるかのようにその頭に手を置き、真一は微笑んだ。
「いいところも悪いところも見るようにして……あゆみも、自分の気持ちを表に出してさ」
「……うん。じゃあ、一ついいかな」
「何?」
「シン君は私のどこが好きなの?」
「……黙秘権は?」
「認めません」
 と、あゆみは悪戯を成功させた幼子のような表情を見せ、
「もちろん嘘もだめだからね」
「どうせ偽証したところですぐばれるだろ……」
 真一は盛大な溜息をつき、自分の心を確かめるように言葉を紡ぎ始めた。
「ずっとあゆみのことを見てきて、たとえば優しいところだとか、子供っぽいところだとか、不器用だとか……そういうのって、時と場合によって好きにも嫌いにも思えるんだ。だから、どこが好きかって聞かれても、なかなか難しいんだけど……」 
 真一は白く無機質な天井を仰ぎ、大きく息を吸い込んだ。まるで、鼓動が速くなるのを事前に防ごうとしているような行動だった。
「そばにいてくれる限り、俺はあゆみのこと嫌いにならないと思うよ。何かあるたびに、好きなところが増えていくから。それが、質問の答え」
「上手くごまかされた気がする……」
「本心なんだからしょうがないだろ」
 小さく溜息をつき、真一は立ち上がった。
「さてと……帰るから制服、返して」
「あ、うん」
 パジャマ姿に戻ったあゆみは、不意に少し困ったように笑った。
「……私もね、少し考えてたんだ」
「何を?」
「これから私が、シン君に何をできるか。でも、分からなくて……」
「不安?」
「……うん」
 小さく頷いたあゆみは、再び困惑を含んだ笑顔を見せる。
「最近そのことばっかり考えてて、少し寝不足なんだけどね。でも好きだよ、シン君のこと」
「何をいきなり言うかね、この少女は」
 その年齢にふさわしくない、芝居がかった口調で言った真一の頬に、少女の冷えた手が触れた。
「暖かいね」
「……」
 照れ隠しに視線を逸らした真一の頬をつねりながら、あゆみは何も起こっていないかのように平然と言葉を続ける。
「ここにいると、時間がたくさんあるから――」
「……その前にこの手を放してくれませんか?」
「うん」
 あゆみは素直に手を離し、また頬に触れる。先程と同じ仕草は、今度はつねっていた部分をいたわっているかのように見えた。
「……で、何?」
「時間がたくさんあるから、色々考えて不安になったりもするんだけど、一つだけ変わらないことがあるんだよ。シン君が好きだってこと」
「恥ずかしいことを言ってくれますな……」
「本当のことだからね。あ、ねえシン君」
「うん?」
「シン君、いつも言ってくれてるよね。わがまま言いってもいいって。一つお願い、してもいいかな」
「何?」
 あゆみははにかんでうつむき、呟くように言った。
「退院したら、たくさん甘えてもいい?」
「甘え方にもよるけど……まあ、前向きに考えておきましょう」
 恥ずかしさで即座に頷けなかった真一は、遠回りな言い方で承諾した。
「あ、それと……好きだよ、あゆみのこと」
 そう言うと同時に少年は、少女の表情を見ないように彼女の背を向けた。
「言わなきゃならないことも言ったし、帰りますか。じゃあ、また」
「うん。私……本当に、シン君でよかったと思ってるよ」
 と、あゆみが真一の腕をつかむ。振り返るより早く、彼女の唇が少年の手の甲に触れた。
「退院したらデートしようね」
「あ、ああ」
 真一は振り返らなかったが、少女が浮かべているであろう表情は容易に想像することができた。 続く雨音が、二人の心のように柔らかになっていた。


エピローグ

 夏休み初日。
「お待たせ」
 蝉の声と、汗を流しながら行き交う雑踏。その片隅で、少年と少女が出会う。
「いや、ついさっき来たところだから。――髪、切った?」
 前日には肩まで伸びていた髪が、今は耳にかかるくらいだった。少女は恥ずかしそうに微笑み、
「うん。似合わない?」
「いや、そんなことないよ。でも、何もこのタイミングで切ることないだろ」
「どうして?」
「『失恋したの?』って誰かは聞いてくるだろ、絶対」
「あ、もう聞かれたよ、それ。祐樹君に」
「……絶対嫌がらせしてやる。それにしても、どうして切ったんだ?」
「失恋したっていうのとそんなに変わりないよ、たぶん」
 あゆみの意味深な発言に、真一は戸惑いを隠すことができなかった。その顔色を充分に楽しんだ少女は、自らの台詞の真意を差し出す。
「気持ちの区切りって言うのかな、私とシン君が今までとそんなに変わらないんだとしても、一応の『線』が欲しかったから」
「ああ、なるほど。でも、そういう意味じゃ便利だよな。男なんて髪を切ったところで区切りにならないよ」
「女の子の特権だよ」
「かもな。でも残念だけど――」
 と、真一は自分のバッグから白い帽子を取り出し、あゆみに乗せた。
「それ、かぶれ」
「これ……私の?」
「そう、あゆみの」
「どうしたの?」
「それがだな、俺が家を出る少し前におばさんが来て、渡されたんだ。今日は暑いから、って」
 真一は大きく溜息をついて、
「ばれないようにってわざわざここで待ち合わせしたの、無駄だったみたいだな。むしろ、逆効果だったんじゃないか? いつも二人で出かけるときは大概俺があゆみの家に行くだろ? でも今日はそうじゃない。ってことは――って感じで考えたんじゃないのかな。帰ったらケーキとクラッカーくらい用意されてるぞ、たぶん……」
 真一は諦めたように苦笑いを浮かべ、
「まあ、それも悪くないけどさ」
 と、肩をすくめた。
「さて、どこ行く?」
「考えてないの?」
「一応は考えてるけど、あゆみの希望もあるだろ?」
「今日は全部シン君に任せるよ」
「それじゃ、映画でいいか?」
「うん」
 頷いたあゆみの手を取り、真一は照れ隠しに冗談の色が塗られた台詞を口にした。
「じゃあ行きましょうか、お姫様」
「じゃあシン君は王子様?」
「いや、従者」
「白い馬、似合いそうにないもんね」
「その発想、古いぞ……」
 つながれた手を、どちらからともなく強く握る。冗談が積み重なる会話とは裏腹に、二人の手のひらは一瞬も逃さず互いの体温を感じ取ろうとしていた。
「でも、確かに王子様じゃない方がいいかな。王子様って、たくさん恋人がいそうだし」
「俺ってそんなに信用ない?」
「ううん、信じてるよ」
「ならいいけど。それはそうと、何か飲まない?」
 近くの自動販売機に気付いた真一の提案に、あゆみはすぐ答えた。
「じゃあ私、オレンジジュース」
「了解」
 人通りのない歩道の脇に立つ自販機が、二枚の百円玉と一枚の五十円玉を飲み込む。蝉の鳴き声の隙間に、大きな音と共に吐き出された缶は、夏の空気に触れると程なく汗をかき始めた。
「ほら、オレンジジュース」
「ありがと」
 あゆみに缶を渡し、真一も飲み物――紅茶――を取り出す。
「シン君」
「うん?」
 振り向いた瞬間に、不意打ち。
 風に押され、少女から白い帽子が落ちる。木々のざわめきが、真一にやっと自分の現状を理解させた。
「……ふう」
 あゆみが小さく息をつき、微笑む。
「……ったく」
 帽子を拾い上げ、少女に乱暴にかぶせて、真一は口を開いた。
「何の予告もなしにキスするか? 普通」
「……嫌だった?」
「嫌なわけないだろ」
 真一はぶっきらぼうにそれだけ答え、紅茶のプルタブを開ける。
「ファーストキス……だったんだろ?」
 紅茶を半分ほど飲んでから、少年は小声で尋ねた。
「……うん」
「あんな……いい加減なのでよかったのか?」
「うん。……シン君が相手だから」
「……あんまり恥ずかしいこと言わないように」
 そして、二人はまた手をつなぎ、笑顔を交わす。
「行くか」
 真一は空を仰ぐ。蝉の声を吸い込む雲ひとつない穏やかな青空は、二人の心の象徴に思えた。
「ねえ、シン君」
「ん?」
「これからもよろしくね」
「こちらこそ」
 そしてまた、一つの絆の始まり。

FIN