NRLS-10



「はあ……」
 祐樹は溜息をつき、廊下の壁にもたれかかった。
「悩み?」
「桜岡先生……」
「どう? 私でよかったら話、聞くけど?」
「あ、いいです」
「遠慮することないわよ?」
「でも……個人的なことだから……」
「個人的なことじゃない悩みってそんなにある?」
「……」
「波田さんのことでしょ?」
 桜岡はその立場に似合わない、悪戯めいた笑みを浮かべて言葉を続ける。
「恋の悩みは若人の特権……ってね」
「そ、そういうことじゃ――」
「いいからいいから。どうせ波田さん絡みには変わりないんでしょ?」
 教え子の言葉をさえぎり、桜岡は念を押すように再び問いかける。
「それはそうなんですけど……」
 祐樹は言葉と共に重い息を吐き出した。
「じゃ、ここ」
 と、桜岡はすぐ近くにあるドアを指す。その上方には、「相談室」と書かれたプレートが掲げられていた。
「ここなら人に聞かれないでしょ?」
「それはそうですけど……」
 桜岡は笑って、祐樹の背中を叩いた。
「ほら、入った入った」
 担任の教師に押される形で相談室の中へと入った祐樹は、小さく溜息をついて椅子に腰を下ろした。
「それで、どうしたの?」
 コーヒーを入れながら、桜岡は口を開いた。
「波田さんと喧嘩でもした?」
「そんなことはないですけど……」
「じゃ、どうしたの? ――はい、コーヒー」
「あ、ありがとうございます」
 桜岡から受け取ったコーヒー――ちなみにブラックだ――に口をつけ、祐樹はゆっくりと話を切り出した。
「僕は何ができるんだろうなあ、って……」
「うん?」
「波田さんに何かしてあげられることはないかな、って思うんですけど……それが何なのか、分からなくて……」
「なるほどね」
 カップをテーブルの上に置き、桜岡は真顔で呟いた。
「前原君にとっては、波田さんは特別なのね。悪い意味で」
「え?」
「前原君は、仲井君や水崎さんに対してもそういうこと考える? 特別、強く意識することってないんじゃない?」
「そうですけど……」
「だから、悪い意味で特別なんじゃないかなあ、って」
「悪い意味……」
「色々心配するのは悪いことじゃないと思う。でも、気を遣いすぎるのって逆に重荷になるんじゃない?」
「そう……ですね」
「他の……仲井君や水崎さんと同じようには付き合えない?」
「たぶん……できるとは思います。でも……」
「意識しすぎる?」
「……」
 祐樹の無言の返答に桜岡は溜息をつき、そして言った。
「どっちにしても、友達思いなのは悪くないからね。その気持ちは、忘れないこと」
 と、桜岡は笑ってみせ、コーヒーカップを傾ける。
「まあ、あなたなら大丈夫だと思う。そんなに悩まなくても、きっと何とかなるわよ」
「……だといいんですけど」
「物事は楽観的に考えた方が簡単よ。まあ、時と場合によるけど」
 と、桜岡はコーヒーを飲み干し、立ち上がって軽く背伸びをした。
「それじゃ、私は仕事があるから。そういえば波田さん、教室にいたわよ?」
「え、まだ帰ってなかったんですか?」
「そうみたいね」
 桜岡は微笑んで、教え子の背中を叩いた。
「もしかしたら、あなたのこと待ってるのかもよ?」
「え……」
「まあ、分からないけどね」
 と、桜岡は悪戯めいた笑みを浮かべた。
「とにかくほら、早く行った」
 桜岡に急かされるように部屋を出た祐樹は、一つ息をついてから歩き出した。
「意識しすぎ、かあ……」
 祐樹は戸惑ったように呟き、それでも教室に向かって足を進める。
「そうなのかな……」
 部活動の喧騒を聞きながら、祐樹は教室の中に足を踏み入れる。
「波田さん」
 そこには担任の言葉通り、一人で外を眺める少女がいた。
「あ、前原君」
 由利は無邪気な笑顔を見せ、視線を風景から祐樹に移した。
「どうしたの?」
「ちょっと、人を待ってたの」
「待ってた?」
「うん、前原君を」
「あ……待たせてごめん」
「ううん、私が勝手に待ってたんだから気にしないで」
 と、由利は微笑んだ。
「それとも……迷惑だった?」
「そんなことないよ」
「よかった……」
 由利は本当に安心したような表情を見せ、言葉を続ける。
「勝手に待つのって、あつかましくなかったかな?」
「あつかましくなんかないよ」
 祐樹は本心で答え、自分の席からバッグを取った。
「まだ学校に用事ある?」
「ううん、ないよ」
「じゃ、帰ろう」
「うん」
 頷いた由利に笑顔で応えると、祐樹はふと思い出したように尋ねた。
「ところで、何で僕のこと待ってたの?」
「一緒に帰ろうと思って……」
「それだけで?」
「うん……やっぱり、変かな?」
「変じゃないとは思うけど……」
「けど?」
「僕なんかと一緒に帰って楽しい?」
「楽しいから待ってるんだよ」
 由利は荷物を持って席を離れ、祐樹の隣に立った。
「前原君と話すのが、今の私の一番楽しいことなんだよ」
 と、由利は目を細め、伏せる。
「前原君はそんなことないんだろうけど……」
「そ、そんなことないよ」
「ううん、別にいいよ。一番じゃなくても」
 何かを言いかけた祐樹をかぶりを振ってさえぎり、でも、と続ける。
「私と話してるときが、前原君にとって楽しい時間だったらいいな、とは思うけど」
 と、由利は目を細めながら祐樹の手を取り、普段より少しだけ速く歩き出した。
「あ、う、うん」
「……前原君」
「な、何?」
「ありがとう」
「え?」
 あまりも唐突な感謝の言葉に戸惑っている祐樹に振り返り、由利は微笑んだ。
「何となく言ってみたくなったの」
 と、悪戯めいた顔。
「それより……嫌じゃ、ない?」
「え?」
「……手」
 短く言った由利の視線の先には、つながった少年と少女の手があった。
「あ、えっと……嫌じゃないけど、少し照れくさいかな……」
「そ、そうだよね」
 と、由利は慌てて手を離し、ごまかすように曖昧に笑ってみせた。
「ごめんね」
 祐樹はかぶりを振り、
「それより、波田さんのお父さんは?」
 と、話題を転換した。
「まだ海外……」
「いつまで?」
「夏休みくらい……もしかしたらもう少しかかるかも知れないって」
「……寂しい?」
「寂しくない……って言ったら嘘になるかな」
「そう……だよね」
「でも……前よりはずっと平気」
 由利は沈んでいく夕日をまぶしそうに見つめながら校舎の外に出、どこにも向いていないようで実際は祐樹を見ている言葉を口にした。
「心配してくれる友達がいるから」
 夕日を横顔に受けながら、由利は優しい表情を見せる。
「そうだよね? 前原君」
「え……えっと……」
「そういう気持ちって、伝わるんだよ」
「でも、僕は何も……」
「ううん、そんなことないよ。前原君のおかげで、ずいぶん助けられたから。心配してくれる人がいるだけで、一人じゃないって思えるんだよ」
「それは波田さんが強いからだよ」
「私は強くなんかないよ。強くなんかないから……前原君と一緒にいたいって思うんだよ」
「え……」
「迷惑……かな?」
「う、ううん、そんなことないけど……」
「よかった」
 と、由利は祐樹の手を取り、先程よりも強く握る。
「……迷惑?」
 祐樹は多少大袈裟に首を横に振る。由利はそれを確認すると、自分の足元に視線を落とした。
「……何か変だね」
「え、な、何が?」
「手をつなぐのが、恥ずかしいってこと……」
「え、そ、そうかな?」
「うん……」
 由利は小さく頷くと、一息でその理由を言い切った。
「この前抱きしめてもらったのにね」
「あ、そ、その、あれは……」
「お父さん以外の男の人に抱きしめられたのって、前原君が初めてなんだよ」
「あ、そ、そうなんだ」
「うん。だから……」
 少年に視線を向けた少女の横顔がオレンジ色の光に照らされ、その瞳が強い心を宿す。
「私は、前原君のこと信じるよ。あのとき抱きしめてくれたことの意味、笑ってくれること、一緒にいる時間や思い出……」
 言葉を切り、そして短くも真摯な問い。
「信じていいんだよね?」
「……『信じていいよ』って、簡単には言えないけど……」
 祐樹は自分の正直な心を、飾ることなく口に出す。
「そう言えるように、できる限り頑張るんじゃ……ダメかな?」
「前原君らしいね、それ」
 由利はおかしそうに表情を緩め、
「普通、そういうときは嘘でも頷くよ」
 と、どこか悪戯めかした口調で言った。
「でも……うん、その方が前原君には似合ってる」
 その言葉を流さないように、小さい風が二人の間に吹く。由利の髪が微かに揺れ、生み出されたわずかな無言の時間には、二人らしい素直な心があった。
「今の私たち、他の人に見られたらどう思われるのかな?」
「どう……って?」
「……誤解……されるかな?」
「え……」
「やっぱり誤解されたら……困るよね?」
「僕は平気だけど……波田さんは困らない?」
「私も別に気にしないよ。だって……」
「だって?」
 由利は一瞬視線を足元に落とすと、大きくかぶりを振った。
「ううん、何でもない」
「えっと……?」
「とにかく、私は気にしないよ」
 そう言うと同時に、由利はつないだ手にほんの少しの力を加える。
 それが、彼女が口に出さなかった言葉の意味だった。


「なあ、お前と波田……何かあったか?」
「え、何かって?」
「詳しくは分からないけど……何か」
「たぶん、真一が考えてるようなことはないよ」
「そっか……」
「でも、何で?」
「何となくなんだけどな……お前と波田、どこか空気が違う気がしたから」
 と、真一は昼食の菓子パンを口の中に放り込み、ビニール袋を丸める。
「だから、多少はどうにかなったんじゃないかな、と」
「どうにかって?」
「お前好きなんだろ? 波田のこと」
「……え?」
 自分で作ってきた弁当を食べる祐樹の手が止まり、言葉がなくなる。彼の幼なじみの少年は溜息をつき、呆れたように問うた。
「……気付かない理由があると思うか?」
「え、えっと……」
「別にそれが悪いっていうんじゃなくてさ。……好きなんだろ?」
「それは……答えないといけない?」
「まさか。黙秘権は当然ある」
「じゃ、行使させてもらうよ」
「ああ」
 真一は苦笑いを浮かべながら、新発売のシールが貼られたパンの袋を開ける。
「でもさ」
「ん?」
「最近、少し変わってきてるのは確かだよな」
「僕と波田さん?」
「ああ」
「自分じゃよく分からないけど……真一からそう見えるのなら、そうかもね」
「まあ、いずれにしても焦ることじゃないからな。大丈夫だと思うよ、お前らなら」
「そうだといいけどね」
 と、祐樹は空になった弁当箱をしまい、ジュースに口をつける。
「ところで、真一の方はどうなの?」
「何が?」
「あゆちゃんと。進展した?」
「したように見えるか?」
「全然」
「じゃ、そういうことなんだよ」
 真一はそう答えると、後ろの壁にもたれかかりほぼ真上にある太陽を仰ぎながら呟いた。
「そもそもさ……『恋人』っていう関係になることが本当に『進展』なのかどうか、疑問なんだ。思わないか? 男と女は恋人とそうじゃないかしかないのか、って」
「それはそうだけど、でも真一はあゆちゃんのこと――」
「そういう気持ちがあったって同じだよ。『恋人』って関係が男と女にとって、最上なのか――正直疑問だよ、俺は」
「そう思うのはきっと……真一とあゆちゃんだからだよ」
「……」
「普通は不安なんだよ。他の人に気持ちが向くんじゃないか、自分を見てもらうにはどうすればいいか、どうしたら相手のこと理解できるのか……」
「……祐樹も?」
「ないって言ったら、嘘つきになるよ」
 と、祐樹は立ち上がって、手すりに背をもたれけかた。
「真一がそう思えるのは、きっと相手があゆちゃんだからだよ」
「……やっぱり俺たちって、特殊なのかなあ」
「なかなかいないっていう意味じゃ特殊だと思うよ。だから悪いっていうことでもないけど」
「そっか……」
「真一だって本当は分かってるんじゃないの?」
「何が?」
「人と人との間に、全部呼び名をつける必要なんてないって」
 真一は大きく息を吐き出し、祐樹のすぐ隣の手すりに両腕を乗せ、そこに顔を伏せた。
「それは……たぶん分かってる」
「じゃ、どうして『特殊なのかな』なんてこと?」
「俺は正直……今のままでいいと思うよ」
「だったら……」
「でも、あゆみがそれでいいかどうか……分からないんだ」
 真一はブレザーのポケットに両手を突っ込み、強く拳を握った。
「あいつはいつもそばにいてくれて、そのことには感謝してる……あいつの気持ちにも、気付いてるつもりだよ。だから……あいつのこと、待たせたままでいいのかどうか、分からないんだ」
「真一はどうしたいの?」
「それが分かれば苦労しないよ」
 真一は深く息をつき、眼下に広がる校庭に視線を落とした。
「ただ、一つだけ言えるのは……」
「そばにいたい?」
「……ああ」
「だったら、それだけでいいと思うけど?」
「そうとは言い切れないだろ……」
「何かしてあげたい?」
「それもある。けど……結局『そばにいるだけでいい』って思うと、それに甘える気がする」
「気負ってるのかな、真一」
「……気負うのがよくないってことくらい、俺だって分かってるよ。余計なことを考えずに今まで通り付き合っていくのが、少なくとも今の俺たちには最良なんだと思う。でも、あゆみは本当に大切だから……気負うなって方が無理だ」
「それは……分かる気もするよ。だけど何で今、そう思うの?」
「前々から、頭のどこかで考えていたことではあるんだよ。もっとも、前は本当に頭の隅にある、って程度だったけど」
「それを強く考えるようになったのは……高校生になったから?」
「それも原因の一端ではあると思うよ。けど、一番大きかったのはあゆみが告白されたことなんだろうな」
「告白された? あゆちゃんが?」
 真一は小さく頷くと、弱い笑みを浮かべた。
「その事実を聞かされたときから、やっぱりあいつも女の子なんだな、って思ってさ」
「それまでは、ただの幼なじみとしてしか見てなかった?」
「まさか」
 真一はわざとらしく大袈裟に肩をすくめると、真顔に戻って呟くように言った。
「ただ、幼なじみってことに甘えてた部分は正直あると思う……。そんな自分を、断ち切りたいからな。ちょうどいいきっかけではあったよ」
「不安には……ならなかった?」
「ならないわけ、ないだろ?」
 と、真一は苦笑いを浮かべ、
「俺はあいつに迷惑かけるばっかりで……そのくせ、俺は何もしてやれてないからな。いつ愛想尽かされるかって、いつも怖かったよ」
「あゆちゃんも同じこと言うよ、きっと」
「だろうな。けど、俺があゆみに愛想尽かすなんてこと、絶対にない」
「それもきっと、同じこと言うね」
「……結局、俺とあゆみは似てるんだろうな」
「そうだろうね」
「だから……あゆみも今、同じ気持ちなのかな」
 見上げる空の高い場所で、鳥が弧を描いて飛んでいる。真一は指のピストルでそれを撃つ真似をし、そのまま目を閉じた。
「だとしたら……さ。しっかりしないと」
「うん」
「あゆみと俺にとっての一つの分岐点みたいなものが、今なんだと思う。もちろん無視して、舗装されてない道を歩くこともできるけど……それはやりたくないから」
「新しい道を作るっていうのは?」
「さすがにそこまでの気力はないぞ……」
「まあ、どっちにしても真一だけで決めることじゃないからね」
「……だな。あゆみの気持ち、ちゃんと考えないと……」
「真一だったらきっと大丈夫だよ」
「そう願いたいね。あいつの気持ちの隣にいるだけじゃなくて、たまには交差もしないといけないと思うから」
 辺りに予鈴が響き始める。真一は背伸びをし、小さく息を吐き出した。
「次、何だっけ?」
「数学」
「数学かあ……寝てるかな」
「あゆちゃんに怒られるよ?」
「冗談だよ、冗談」
 真一は不意に目を閉じ、あゆみのことを思い描く。
 まぶたの裏に浮かんできたのは――笑顔、だった。
「さて、行くか」
「うん」
 それは言うまでもなく、少年の守るべきものだった。