NRLS-9



「……」
 耳に入ってくるのは、聞き慣れた効果音。建物を大量の滴が叩く音だ。
 窓の外、学校の玄関を見下ろす。校門の前には出迎えのものであろう、いつもより多くの車が止まり、何人かの生徒は雨の中を駆けていたものの、やはり人通りは普段よりずっと少なかった。従って、教室の中には人が多く残っていた。
「今日はあいつ、傘なんて持ってないよな……」
「あいつって誰?」
「決まってるだろ、あゆみだよ……っておい、波田!」
「何?」
「独り言に横から入ってくるな!」
「じゃあ、縦からならいいの?」
「もういい……」
「冗談よ、冗談。で、水崎さんがどうしたの?」
「だから、傘持ってないよな……って」
 由利が訝しげに真一の顔をのぞき込んだ。
「仲井君、今日、変だよ? あんなに晴れてたのに、雨降ると思うか? なんて聞いてきたり、それに今だって……」
「実際、降っただろ?」
「それはそうだけど……」
「それに変なのは、お前だってそうだ」
「何が」
「あれ」
 真一が指した方では、祐樹が退屈そうに暗く重い空を見上げていた。ときどき、溜息すら混じる。
「一人だぞ? 話しかけるには絶好のシチュエーションじゃないか」
「あ……えっと……その……」
「というわけで、話しかけろ」
 軽く背中を押してやる。と、それが不意だったのか、それとも演技なのか、由利がよろけながら立ったのは祐樹の目の前だった。
 雨の音と真一からの距離、それに二人の声が小さいことで会話の内容を知ることはできなかったが、目に映る映像としての情報だけでも、二人の間に以前とは違う意味で妙な空気が漂っているのが分かった。
「何かあったな、あの二人……」
「シン君」
 振り返ると、笑顔のあゆみが立っていた。
「一緒に帰ろう」
「う……お、俺、用事が……」
「あるの?」
 少女が見せている屈託のない笑顔は、真一の嘘を封じ込める充分な効果を有していた。
「ない……」
「じゃ、帰ろう」
「だ……だけどな、俺、傘が……」
「あるよ?」
 満面の笑みで、あゆみは自分の傘を見せる。当然、その手にあるのは一本だけだった。
「だから、帰ろう」
「だ……だけどな……」
 あゆみは真一の隣に立って空を見上げると、狼狽している少年に言った。
「でも、ちょっと雨足が強いね……。もう少し、弱くなってから帰る?」
「あ……ああ。そうした方がいいな」
 真一は胸をなで下ろし、大きく息をついた。そんな幼なじみを見て、あゆみが楽しそうな微笑みを見せた。
「安心した?」
「いや、そういうんじゃないけどさ……」
 真一も空を仰ぎ、何となく黙り込む。しばらくそうしていると、窓に映り込むあゆみが不意に不安の色をその顔に浮かべた。
「どうした?」
「本当は……嫌だった……?」
「何が?」
 問い返された答えとして、あゆみは視線を傘に落とした。真一は優しい表情で、あゆみの頭に手を置いて、
「そんなことないよ」
 と、軽くかぶりを振った。
「ただちょっと、照れくさかっただけ」
「うん……。それは、私も……」
「だろ? だから、それだけだよ。それにしても……」
「何?」
 あゆみの表情は、もう普段のものに戻っていた。真一はそのことに安心しながらも、その気持ちを表には出さないようにしながら言葉を続ける。
「よく今日、傘なんて持ってたな」
「実はね……持ち帰るの忘れて、そのままにしてたの」
「はあ……」
 真一は遠慮なく溜息をついて、
「お前らしい理由だよな、それって……」
 と、呆れながらも決してあゆみを馬鹿にしているわけではない口調で言った。
「うん。でも……忘れ物も、悪くないよ」
「……そうかもな」
「うん」
 あゆみは満面の笑顔で頷いてから、空を見上げた。
「雨、やまないよね」
「だろうな」
「シン君は……やんでくれる方がいい?」
「さあ……どうだろうな」
 真一は曖昧に答えると、窓に軽く寄りかかった。
「俺は、雨はあんまり好きじゃないけど……でも、この雨は降り続いてて欲しいって思うよ」
 と、真一はあゆみの方を向いて、はにかんだ表情を見せた。
「きっと……暖かい雨だからな」
「そうだね」
 それに応じるあゆみも、当然のように笑っていた。そんな少女の頭を、真一は何となくなでた。
「わっ」
「そんなに驚くことないだろ」
「だって……」
「まあ、気持ちは分かるけどな」
 少し赤くなった顔で、真一は再度窓の外に目を向けた。見下ろす先の人影は、数えるほどになってきている。
「暗くならないうちに、帰るか」
「え?」
 意外そうな声を上げたあゆみに、少年は逆に怪訝な視線を送った。
「学校に泊まるのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「だったら、帰るぞ」
「でも……」
「どうした?」
「……いいの?」
「いいも何も、それしか方法がないんだろ? 俺は雨に濡れる趣味はないしな」
 少年はそこで、あることに気付いて教室内を見回し、それが事実誤認でないことを確認すると微苦笑を浮かべた。
「誰もいなくなってるな」
「あ、本当だ」
「教室の中に二人しかいないっていうのも変な感じだよな……」
「うん……」
 真一は手近にあった椅子に座り、黒板に残されたたくさんの落書きを一つ一つ頭の中で評していると、あゆみがその顔をのぞき込んだ。
「何見てるの?」
「ん? ああ、色々な落書きがあるんだな、って思ってさ。――でも、この教室って意外と広いんだな」
 学びの場所としてのその空間は、いつも人口密度が高く、狭苦しかった。だが、逆に今は広さのせいで息苦しさを感じるほどだ。
「じゃあ、帰るか」
「うん……」
 真一はあゆみの頭に再び手を置いて、少し乱暴になでた。そして、乱れた髪型を軽く直す。
「照れくさいけど……嫌じゃないから」
「え?」
「それ」
 真一はあゆみの手にある一本の傘を指さし、頭をかきながら言った。
「小学生のときは、何も話さなかったけど……」
「覚えてたんだ……」
「そりゃ、嫌な思い出ってわけじゃないから。あのとき何も話さなかったのは……単に、照れくさかったからだよ。――でさ」
 真一は黒板に歩み寄ると、無造作に自分とあゆみの名前が記された相合い傘を書き記した。
「次の日、黒板にこんなのが書かれてて、からかわれたんだよな」
「そんなこともあったね」
「で、みんながあんまりにもからかうから、ついには泣き出したんだよな、お前」
「うん。そしたらシン君、本気で怒ってからかうの止めてくれたんだよね」
 あゆみが目を細めて笑い、軽く頭を下げる。
「あのときは、ありがとうございました」
「何を今さら」
「ずっと、言ってなかったから」
「そんな言葉なんかより、よっぽどたくさんのものをもらってるよ、あゆみからは」
「そんなことな――」
「あるよ」
 真一はあゆみの声に自分のそれを重ねて言葉をさえぎると、相合い傘とその他の落書きを消し始めた。
「手伝うよ」
「サンキュ。――俺は、お前とたくさんの時間を過ごして、その中で色々と大切なことを知ってきたから……そういうものは、あゆみがくれたものだよ」
「それを言ったら、私だってそうだよ」
「だったら、お互い様。それはそうと、さっきの話なんだけど――」
「さっきの話?」
「俺が、本気で怒ったって話。俺さ、あゆみが泣いてるのは嫌なんだよ。まあ、それの理由が嬉しいことだったら別だけど」
「シン君……」
 気付くと、あゆみの手が止まっていた。真一が苦笑いで少女の仕事の再開を促すと、あゆみは慌てて黒板消しを動かし始めた。
「今もそうだけど、あの頃はさらに子供だったからな。嫌いなものは素直に拒否してた」
 最後の落書きを消し終えると、真一はあゆみから黒板消しを受け取り、クリーナーのスイッチを入れた。耳障りな大音量が、教室の中を支配する。
「だから」
 真一はクリーナーのスイッチを切り、同時にあゆみが掃除し終えたチョークの粉受けの溝に黒板消しを置いた。
「あのときは、本気で怒った」
「……うん」
「さて……黒板掃除も終わったし、帰るか」
「そうだね」
 二人は自然に笑顔を交わした。それは、二人の間にある宝物の一つ。
「もし、シン君が泣いてたら……私は、何かしてあげられるかな?」
「そうだな……」
 真一は少し考え込むと、おどけながら答えを差し出した。
「そのときは抱きしめてくれ、できる限り強く」
「え……」
 あゆみは一瞬言葉に詰まったが、やがて小さい声で、
「うん、いいよ……」
 と、その提案を受け入れた。
「私には、それくらいしかできないから……」
「そんなこと、ない……」
 小さくかぶりを振った真一の表情は、どこか悲しげだった。
「あゆみが自分を卑下してるのは、できれば見たくない……。見てて、辛いからさ……」
「……」
「寂しい言葉は……あんまり、好きじゃない……」
「……うん。ごめん」
「いや、いいよ」
 真一は優しい瞳をあゆみに向け、下駄箱から自分の靴を取り出した。
「少し、寒いね……」
「まあ、この天気だからな」
 上履きをしまい、真一はあゆみから傘を受け取る。校舎から一歩だけ出た真一は、傘を開くと後ろで立ちつくすあゆみに声をかけた。
「ほら」
「あ、うん……」
 自分から少し離れた場所に立ったあゆみを、真一はその肩を抱くようにして近づけた。
「し、シン君!?」
「そんなところに立ってたら濡れるだろ」
「そ、それはそうだけど……」
「いいからくっついてなさい、今は」
 真一はそう言うと少女の肩から右手を放し、傘を左手から持ち替えた。
「風邪なんか引いたらどうするんだよ、大体」
「それは……困るけど……」
「だったら、離れるな」
「分かるけど……恥ずかしい……」
「……だから、それは今さらだ……」
「シン君は……恥ずかしい……?」
「……あのな」
「うん」
「恥ずかしくない……わけないだろ」
「やっぱり」
 嬉しそうに笑ったあゆみは、一瞬悪戯めいた色を浮かべたあと真一の腕に組みついた。
「な……」
「くっついてろって言ったのは、シン君だよ」
「そ、そりゃそうだけどな……。まあ……いいか」
 最初こそうろたえていた真一だったが、不意に普段の顔つきに戻ると、灰色の空を仰ぎながら呟いた。
「別に、迷惑ってわけじゃないしな……」
 そして思い出すのは、今と同じ空気の幼き思い出。
「シン君」
「ん?」
「今、私が何考えてるか分かる?」
「たぶん、俺と同じで……『あのとき』のこと」
「あ、やっぱりシン君も?」
「そりゃな。あれからもう五年、か……」
「早いよね」
「そうだな」
「あの頃は、高校生までシン君と一緒にいられるとは思ってなかったな……」
「うん?」
「絶対そのうち、愛想尽かされると思ってたから」
「……それ、今でも思ってる?」
「ううん」
「ならいいんだけど……」
「今はね、シン君のこと信じてるから」
 きっかけは、なかったのかも知れない。ただ、様々な出来事が積み重なっていく中で、いつしか信じることを覚えたのだろう。
「少し、嬉しいな」
「何が?」
「シン君が、喋ってくれることが」
「……あのときは、喋らなかったからな」
「うん。私も、シン君のこととやかくは言えないけどね」
「はは、そうだな」
 それは、今から五年前。今日と同じように、突然の雨が降り出した放課後の話――。


「どうしよう……」
 唐突に降り出した雨を見つめながら、あゆみは困惑した表情を浮かべた。
「どうかした?」
 背後からの声に振り向くと、そこには不思議そうな表情を浮かべる幼なじみの少年がいた。少女の瞳に、安堵の色が浮かぶ。
「シン君」
「雨?」
「うん……」
「突然だもんね」
「どうしよう……」
「走って帰る……わけにもいかないか、女の子だと」
「うん……」
 真一はあゆみの頭に手を置いて、微笑んだ。
「だったら、話でもしてようよ」
「うん」
「えっと、それじゃ……」
「シン君、最近あんまり話しかけてくれないよね?」
「うん……。女の子と仲良くしてると、からかわれるから……」
「今は、いいの?」
「構わないよ。時間もあるし」
 二人は近くにあった椅子に座り、真一から話を切り出した。
「女子はさ、男子と仲良くしててもからかわれたりしない?」
「あんまりないかな?」
「やっぱり男子って、女子より子供なのかなあ……」
「そんなことないと思うよ」
 と、あゆみは微笑んで、
「シン君、大人だから」
「そりゃ、あゆみといつも一緒にいたら……」
「え?」
 少し不安そうな少女に、真一は優しい視線を向け、言葉の先を口に出した。
「あゆみ、大人だから」
「そんなことないと思うけど……」
「そんなこと、あるよ」
 と、真一は苦笑いを浮かべて、
「俺、子供だよ。あゆみに比べると」
「そんなことないよ。私は……シン君に比べると迷惑ばっかりかけてるもん」
「それじゃ……恩返し。ちょっと待ってて」
「え?」
 真一は一旦自分の席に戻ると、そこにかかっていた傘を取り、あゆみに差し出した。
「これ、貸すよ」
「え……だって、シン君は?」
「大丈夫だよ。走って帰るから」
「ダメだよ。風邪、引いちゃうよ?」
「大丈夫だって」
「ダメだよ!」
 普段にはない強い物言いに、一瞬真一がたじろいだ。
「あ……ごめん」
「いいよ。でも、どうする? 俺だって、あゆみが風邪引くのは嫌だよ」
「あ……うん。だったら……」
 あゆみは真一の手にある傘を指さして、はにかみながら提案した。
「一緒に、帰ろう?」
「……」
「あ、あの、シン君? 私の言ってる意味……」
「そりゃ……分かるよ。でも……」
「……そうだよね」
「親に、迎えにでも来てもらうか」
「私は……ダメかな」
「仕事、か……」
「うん……」
 あゆみは寂しそうな色を混ぜた微笑を浮かべながら、微かに頷いた。
「お父さんもお母さんも、今日は家に帰ってこないから……」
「……そっか……」
「シン君は?」
 明るい声であからさまに寂しさを隠そうとするあゆみに、口にすべき言葉を見つけられなかった真一は、少女のオウム返しの質問に答えることしかできなかった。
「今日、用事あるって言ってたから……六時過ぎないと無理だと思う」
「じゃあ……どうしよう……」
 真一は困惑しているあゆみの顔を見、それから傘に視線を向け、少しばつが悪そうにある提案を出した。
「……もし、あゆみがよかったらだけど……」
「何?」
「この傘、二人で使わないか?」
「え……それって……」
「まあ、そういうこと……なんだけど……」
 真一はあゆみから大きく目を逸らして、わざとらしい咳払いを何度かしてみせた。
「で……どうする?」
「……シン君は嫌じゃないの?」
「嫌だったら言ってないって」
「……そうだね」
 あゆみは顔を薄赤く染めながら頷いて、あどけない笑みを見せた。雨音が少し弱くなり、少年は高鳴っている自分の心音が聞こえてきそうな錯覚にとらわれる。
「ありがとう、シン君」
「な、何がだよ」
 わざと乱暴な口調で問い返して、真一は窓の外に意識を向けた。それは無論、気恥ずかしさという感情を下地とした行動である。
「たくさんのことだよ」
「あ、そ、そう……」
「うん。とっても、たくさんのこと……」
 あゆみは目を閉じ、小さく息をついた。体にまとわりつく緊張を、逃がそうとするかのように。
「そろそろ、帰ろう」
「あ、ああ……」
 二人はランドセルを背負い、教室を出る。頬を撫でる冷えた空気が、真一には心地よく思えた。
「そういえば、あゆみさ……」
「何?」
「今日、うちに泊まりに来ない?」
「え?」
「理由があるわけじゃなくて、単なる思いつきなんだけどさ……って、あゆみ!?」
「え?」
 少女は、涙をこぼしていた。彼女の足元に滴が落ちるたび、少年の心中の戸惑いが大きくなる。
「そ、その、えっと、ご、ごめん!」
「……う、ううん、違う、よ……」
 しゃくり上げながら、それでもパニック状態に陥った幼なじみを落ち着けようとあゆみは大きくかぶりを振り、赤くなった顔と端に涙を残した瞳で、優しく笑ってみせた。
「別に……悲しくて、泣いてるわけじゃ……ないから……」
 あゆみは自分のハンカチで涙を拭うと、再び微笑み、そして申し訳なさそうに言った。
「また、迷惑かけて……ごめんね」
「迷惑?」
「……周り」
 そう言われて初めて、真一は周囲を歩く他の生徒の視線が自分に刺さっていることに気付いた。だが、それを気にするどころか、彼はむしろ周囲をにらみ返した。
「それよりも、落ち着いた?」
「うん……」
 あゆみはハンカチをしまうと、感謝を顔中に浮かべた。
「本当にありがとう、シン君」
「俺はただ、泊まりに来ないって言っただけだけど?」
 とぼける真一の真意を追究せず、あゆみはその台詞を文面通りに受け入れた。
「うん」
「……変な奴」
「そうかも。でも、ありがとう」
「何のことか分からないけど……とりあえず、受け取っておくよ」
「うん」
 真一の見え透いた優しい嘘に微笑むと、あゆみは何かを思い出したように短く声を上げた。
「どうかした?」
「あ、うん。シン君にね、プレゼント持ってきたんだ」
「プレゼント?」
「クッキー。手作りの……」
「またお前は学校にそういうものを持ってきて……」
「迷惑だった?」
「そうじゃないけど、先生に見つかったら怒られるだろ?」
「それはそうだけど……」
「まあ、迷惑ってわけじゃないよ。家で、一緒に食べような」
 そんな会話を重ねているうちに、二人は下駄箱に着く。靴をはきかえると、真一は空を見上げ、傘を開いた。
「じゃ、あゆみは俺の隣」
「……うん」
 恥ずかしそうにうつむきながら、あゆみは真一の右隣に収まった。
「……じゃ、行くか」
「……うん」
 お互いの体温が感じられる距離――今までで互いが最も近い場所――に立った二人は、ゆっくりと、まるで今という時間の経過を惜しむかのように歩き出した。