第四章 クロス・ライン ゴールデンウィークも明け、五月になって三回目の日曜日だった。 「はあ……」 何の目的もなく店頭のショーケースを見ていた由利は、思わず溜息をつく。一人きりの休日の退屈さを紛らわすために潜り込んだ街の雑踏は、実際はその機能を全く有していなかった。 「はあ……」 人の波に押されるように、あてどもなく歩き回る。いつもより速く流れる雲の背景として見える青空は、前日に降っていた雨を少しも想像させなかった。 「あの、そこの人」 不意に背後から声をかけられ、由利は振り返る。 「肩を落として溜息をついてるなんて、あんまり女子高校生のやることじゃないと思うぞ」 「仲井君」 「何やってるんだ? こんなとこで」 その同級生もまた一人だった。そのことが何よりも由利には意外だった。 「散歩。仲井君は一人? 水崎さんは?」 「いないよ」 「どうして?」 「どうしてってお前……俺は常にあゆみと一緒にいなきゃいけないのか」 「うん。いけないと思うよ」 「俺とあゆみは二人でワンセットか……」 「少なくとも学校じゃそうでしょ」 「う……。否定できない……」 「まあ、仲がよくて不都合なことはないからね。それに子供の頃からずっと一緒なんだから、気にすることもないと思うけど。――あ、でも、水崎さんに嫉妬されちゃうかな?」 自ら墓穴を掘ることになるとも知らず、由利の悪戯めいた台詞に真一は慌てた顔で反論した。 「な、何であゆみが嫉妬するんだよ。そんなことあるわけないだろ」 「そう言ってる割には顔が赤いんですけど」 「波田が急に変なこと言うからだな……」 「じゃあ、水崎さんが嫉妬してくれなくても別にいいの?」 「え?」 「それって、水崎さんに何とも思われてないってことだよ。それでもいいの?」 「そ、それは……」 言葉に詰まる真一を見て満足そうな笑顔を浮かべると、由利は白々しい口調で言った。 「まあ、私はどっちでも構わないけどね。答えはもう分かりきってるんだし」 「そういうお前こそどうなんだよ。祐樹が妬くんじゃないのか?」 実際のところ、その言葉によって由利が先程までの自分と同じような態度になるだろうと、水井は思っていた。 「それはないよ。前原君は仲井君のこと信じてるし、第一嫉妬するタイプじゃないもの」 だが、完全に水井の予想は外れていた。由利は平然と応じると、戸惑っているクラスメイトに対してさらに追い打ちをかけた。 「私は信じてるから、前原君のこと。まだ、そんなによく知ってるわけじゃないけどね。でも、信じてもいいと思う。そうでしょ?」 「あ……ああ」 別人のようだった。驚くほど由利は自分の気持ちを素直に受け入れ、そしてためらいなくそれを声に出していた。 「でも、そしたらどうしてここに一人でいるんだ? 祐樹と一緒に来ればいいのに」 「今日、前原君のお父さんの誕生日なんだって」 「ああ、そういえば……って、ちょっと待て」 「何?」 「お前、実際に祐樹のこと誘ったわけ?」 「うん、聞いてはみたよ。だけど、それが何か?」 驚きを通り越して、真一はもはや呆れていた。そして、馬鹿げたこととは知りつつも、思わず問いかける。 「あの、あなた波田由利……だよな?」 「そうだけど?」 「高校一年で俺のクラスメイトで今年の春に引っ越してきた人だよな? 別人……じゃないよな」 「あのね、世界に私は二人といないの。仲井君の前にいるのは、間違いなく波田由利」 「だよな……。だったら、熱でもあるのか?」 「あったら家で寝てるでしょ、普通」 「いや……。だってそうでも考えなきゃ説明が……」 「説明って、何の?」 「その性格の変貌ぶりだよ。俺の知ってる限り、短期間でそんなに性格の変わったのはお前以外に存在しない」 「変わったって……どこが?」 「祐樹だよ、祐樹! ほんの何日か前まであいつの名前を聞いただけで顔を真っ赤にしてた人間が、何で今日はそんなに平然としてるんだよ」 真一はそこで何かに気付いたような顔を見せ、そして訝しそうに尋ねた。 「お前ら……何かあった?」 「何かって?」 「そりゃ……まあ、色々と考えられるけど……」 「何もないよ。少なくとも、仲井君が考えてるようなことはね」 「じゃあ、ますます説明ができない……。あ、もしかしてお前――」 「二重人格じゃないからね、言っておくけど」 もちろん本気だったわけではない。ただ、そうでも考えなければ全く説明のしようがなくなるのも事実なのだ。 「それはそうと、仲井君はどうしてここに?」 「お前と同じ。暇つぶしだよ」 「じゃあさ、ちょっと付き合ってよ」 「付き合う? どこに」 「映画。一人で見に行くのも寂しいし、お金それぐらいはあるよね」 「あ……ああ。けど、映画なら祐樹と来れば? 俺よりもそっちの方がいいんじゃないか?」 「うん。でも、今日で見たい映画終わっちゃうから」 「けど、それこそ誰かに見られたら誤解されるんじゃないのか?」 「別に。友達同士で映画を見るってだけでしょ?」 「まあ、そりゃそうだけど……」 「じゃ、決まりね」 結局、由利に押し切られる形で、真一は一日中彼女に付き合うことになった。 「――ってことがあったんだ。おかしいと思わないか?」 「でも、暗くなるよりいいんじゃないの?」 由利と「デート」をした翌日の朝、真一はあゆみにその一部始終を話していた。もちろん彼女に意見を求めるためという意味もあったが、それ以上に誤解されることを恐れたのだ。 「まあ、そりゃな。けど、あそこまで普段と違うと逆に怖いぞ」 「ここ数日、波田さんのこと祐樹君に任せっきりだったから、そのせいじゃない?」 「動物の子供じゃないんだから……。一応そこら辺も波田に聞いたら、別に何もないって言ってたしな」 「あ、もしかして」 「何?」 「波田さん、シン君のこと実は好きだったりして」 あゆみのあまりにも予想外な台詞に真一は一瞬言葉をなくし、力を込めて言った。 「んなわけないだろ!」 「そうかなあ……」 「お前な、あんまり突拍子のないこと言って俺を脱力させないでくれ……。大体、祐樹の立場はどうなる」 「でも、可能性としてはあると思うよ」 「あのなあ……。お前はそれでいいのかよ」 「え?」 「そりゃ、お前の言うことは正論だよ。けど、あゆみはそれでいいのか?」 「それは……」 「俺はよくない。たとえ――可能性としちゃ低いだろうけど――波田が俺のこと好きだったとしても、俺はそれを受け入れられない。その理由が俺にはあるからな。あゆみはどうなんだ?」 「私は――」 答えに迷った。確かに今の自分は幼なじみとして真一の近くにいる。だが、それだけの理由では彼の恋愛を制限することなど当然できないからだ。 「シン君が……幸せだったら、それでいいと思うよ。誰かを好きになるなんて、自由なことなんだから……」 抑制していた感情が顔をうつむかせ、その声を次第に小さくさせていく。真実と虚構がちょうど等しく存在する心は、あゆみを感情の袋小路に追いつめるには充分すぎるものだった。 「そっか」 素っ気ない相槌。そして、真一は何気なく言った。 「だったら、なおさら受け入れられないな」 「え……」 「あゆみが俺の幸せを願ってくれてるんだったら、波田と付き合うわけにはいかない。俺が一緒にいて一番楽しい人と、離れなきゃならないことになるから」 「それって、誰?」 真一は白々しく肩をすくめながら、 「さあね。だけどもう知ってるよ、あゆみは。たぶんそれで当たってる。それとな、あゆみ」 「何?」 「もうちょっと自分の感情、大切にしろ。じゃないとお前、辛いことにしか出くわさなくなるぞ」 「自分の感情、って……」 戸惑っているあゆみの頭を軽く叩いて、真一は続けた。 「お前自身、もう分かってるはずだろ? 何が自分にとって大切なのか、何を大切にしなきゃいけないのか。だから、それに対して正直になれってことだよ」 何気なく、空を見上げる。紛れもない春の空がそこにあった。 「あゆみ、春眠暁を覚えずって言葉、知ってるか?」 欠伸混じりの幼なじみの問いかけに、あゆみは苦笑せずにいられなかった。 「シン君は一年中眠そうにしてるね」 「ずっと寝不足でさ……」 「早く寝れば?」 「いや、寝てるつもりなんだけどな……」 「言っておくけど、学校で寝ちゃダメだよ?」 「分かってるよ……って、入学式の日にもこんな会話してなかったっけ? 俺たち」 「あったね、そういえば」 何となく顔を見合わせて、お互いに笑顔を交わす。 穏やかな日常の繰り返し。それは疑いようのない幸せのかけらで、当たり前のようだったからこそ大切なものだった。 「で、気がつけば隣には……か」 「え? 何か言った?」 「何でもない。単なる独り言」 言って、真一は小さな笑みを浮かべた。 「前原君」 上靴を下駄箱にしまっていた祐樹に、由利は満面の笑顔で声をかけた。 「今から帰るの?」 「うん」 「じゃあ、一緒に帰ろう」 「え……」 祐樹は言葉を返せなかった。呆然としている少年に対して、由利はおかしそうに目を細める。 「どうしたの? 変な顔して」 二人の幼なじみ同様、祐樹も積極的な由利は見たことがなかったのだ。彼女の「変化」は真一から聞いてはいたが、やはり目の当たりにすると戸惑いを隠すことはできなかった。 「べ、別に……」 靴をはきかえた由利は、嬉しそうに言った。 「久しぶりだね、一緒に帰るのって」 「そ、そうだね」 夕日によってオレンジ色に染まる街並みは、一つの大きな宝石のようだった。由利は西の空に視線を向けて、まぶしそうな表情とともに呟く。 「迷惑、かな。こういうのって……」 「え?」 由利は自分の隣を歩く同級生を少し寂しそうな瞳で見つめて、 「誤解されるかも知れないし……。ごめんね、前原君」 「ごめん、って……。今日の波田さん、何か少し変だよ」 「うん、そうかも」 と、笑顔を見せる由利。それは祐樹の知っている、何かをごまかしているときの表情だった。 「何か……あった?」 「ううん、別に……」 その否定が嘘であることは明白だった。普段の祐樹なら追求などしないのだが、今回だけは偽りをそのままにしておいてはいけないような気がした。 「……あったんだよね。話してよ」 波田が応じるまでには、ほんの一瞬の空白が存在した。 「……うん」 頷くと同時に、由利は足を止めた。胸中に存在する不安をごまかすために澄んだ空を見上げて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。 「前原君、好きな人って……いる?」 「……え?」 何を尋ねられたのか、祐樹はすぐに理解できなかった。もう一度、短く由利が質問する。 「いるの?」 「ううん、いないよ」 「……そう。でも、前原君を好きな人はいるんだよ。別のクラスの人だけど」 祐樹は反応できなかった。何故か、胸が痛かった。 「……よかったね」 最初はほんの小さなとげが刺さったような感覚だった。 「かわいい人だよ」 由利の一言ずつが、その感覚を次第に大きくしていくのが自分でも分かった。 「好きな人がいないんだったら、ちょうどいいと思うけど……」 足早に歩き出す祐樹。驚いて、由利が少年を追いかける。 「どうしたの? 前原君……」 「ごめん、波田さん」 「え、何が?」 「嘘、ついてた」 「嘘?」 「やっぱり、好きな人がいるみたいなんだ」 今度は由利が言葉を失う番だった。祐樹はクラスで花見をした公園に立ち寄り、すっかり葉桜になった枝を見上げた。 「好きな人……いるんだ……」 「うん」 風で立ち並ぶ木々が揺れ、心地よい音を奏でた。祐樹は視線を由利へと戻し、春の空気を大きく吸い込む。 「波田さんだけにはそのこと、はっきり伝えておかないと」 「……うん。私も、応援するよ」 だが、祐樹はその言葉を受け入れず、ゆっくりと首を横に振った。 「その必要、ないよ」 「どうして? 私は前原君の友達――」 声が途切れる。 「そんな辛そうな顔して『応援する』なんて言われても、頷けるわけないよ……」 聞こえてくるのは普段より速い少年の鼓動。感じられるのは自分を包み込んでくれている腕の暖かさと、そして何より、前原祐樹という一個人の優しさ。 「前原君……」 自分から由利を離すと、祐樹は真っ赤な顔で微笑んだ。 「じゃ、帰ろうよ」 「うんっ!」 それで何が変わるわけでもない。何かが始まることもない。単純にそれは、祐樹と由利だったからこそ生まれた思い出の一つでしかなかった。 どこにでもあるからこそ、価値のあるものだった。 「シン君。ちょっといい?」 昼食も食べ終わり、机に突っ伏していた真一はあゆみの声に面倒そうに顔を上げた。 「ごめんね。せっかく寝てるところ邪魔しちゃって……」 「いや別に……。それでどうした?」 「うん……。ちょっと話があるんだけど、ここじゃ言いにくいから廊下に出て」 大きく開く口に手を当てながら、真一は何気なしに幼なじみの背中を見た。どこかいつもとは違う後ろ姿だった。 大きく開放された廊下の窓から顔を出して、あゆみは季節の移ろいを肌で感じた。春と夏の中間にある風は、湿気を含んだ重く冷たい空気だった。 「どうした?」 「うん……」 「……言いにくいことか?」 あゆみの所持している普段とは違った雰囲気は、真一に会話の先を急がせなかった。 「ううん、そんなことないけど……」 「そっか」 あゆみの横顔は何も言いたくなさそうだった。けれど、それを聞くのは真一の義務でもあった。 「それで、何?」 「うん……。私ね、告白されたの」 「え……」 言葉が返せなかった。どう反応していいか分からなかった。 「私、どうしたらいいと思う?」 何もできないうちに、あゆみが次を紡いだ。しどろもどろになった真一に唯一できたのは、うわずった声で聞き返すことだけだった。 「ど……どうって?」 「こんなの、シン君に尋ねるのは変だと思うんだけど……」 「え、えっと……前にも言ったよな。あゆみが幸せなら、それでいいって」 「それじゃ……」 あゆみの顔には寂しさと悲しさがあった。まぶしそうに太陽を見上げる瞳が、どうしようもない憂いを秘めていた。 「けど、俺は……付き合って欲しくない。俺の単なるわがままだけど……」 「ううん、わがままでいいよ」 あゆみの長所の一つは、素直な心に従ってその表情がすぐに切り替わることだった。だから、今の彼女は微笑んでいた。 「でも、とうとうあゆみも告白されるようになったか……」 感慨深く真一は呟く。まるで父親のようなその口調に、あゆみは苦笑混じりの小さな抗議をした。 「そんな言い方しないでよ。私だって驚いたんだから……」 「ああ、悪い。でも、あゆみに先を越されちゃったな。何かちょっと悔しいよ」 あゆみは心外そうな表情を見せて、そばにある真一の瞳をじっと見つめた。 「シン君、告白されたことないの?」 「あったらお前、知ってるはずだろ? お前の記憶にないってことは、実際もそうなんだよ」 「私ってそんなに、シン君のこと知ってる?」 「ああ」 真一の肯定には、微塵の迷いも混在していなかった。そしてそれは、あとに続く少年の台詞においても同様である。 「逆に、俺もあゆみのことたくさん知ってるよ。他の誰にも負けないくらい」 「うん、そうだね」 少年と少女にとって、「知ること」は常に意識の外にあった。相手についての新しい発見は、いつでも大切な時間の背後にだけ存在していた。 「――長く一緒にいるだけじゃないよね、私たち」 不意に口をついて出た気持ちに、真一は戸惑うことなく自分の心を返した。 「ああ。だから今の俺とあゆみがいる」 全ての出会いは偶然である。だが、それを過去として振り返ったとき、必然となっていることもある。 真一とあゆみは、まさに「偶然から始まった必然」だった。 「俺、今の自分は好きだからな。あゆみには感謝してるよ」 時間を多く共有しているだけに、傷つけてしまうこともそれなりにあった。そのたびに真一は自己嫌悪に陥り、あゆみはそんな少年をいつも優しい笑顔で励ましてくれた。 あゆみらしいその性格を、重荷に感じたこともあった。そんな理由で幼なじみの励ましを否定し、彼女に悲しみと不安を与えて、さらに自暴自棄になってしまったこともあった。 だがそれでも、あゆみは真一のそばにいた。理由は分からない。あるいはそんなものは最初から存在せず、少女にとってはごく当然なことだったのかも知れない。いずれにしても、彼女は彼をいつでも守っていた。 「――もうすぐ、誕生日だよな」 ほとんど無意識に出た言葉だった。だから真一にしてみれば何ら特別な意味は持っていなかったが、あゆみにとっては必ずしもそうではなかった。 「え? 覚えててくれたの?」 「六月十四日。忘れるわけないだろ」 「でも去年は、何にもなかったよ」 「忙しかったからな、去年は。というわけで、何か欲しいものとかある?」 「え、ううん。別にいいよ」 「……あのなあ、あゆみ。お前、去年の俺の誕生日に何くれたか覚えてる?」 「合格祈願のお守りだけど……」 真一はわざと大げさに溜息をついて、 「それだけじゃないだろ。手編みのマフラーもだ」 「う、うん」 「俺の誕生日、十二月の九日なんだぞ。そんな追い込みの時期にマフラー編まれて感謝しない奴がどこの世界にいる」 「シン君そのマフラー巻いてきてくれたんだよね、ここの受験の日に」 そのときのことを思い出して嬉しそうに目を細めるあゆみに真一は少し照れ、視線を話し相手の顔から外しながら、 「まあ、あのときは珍しく雪が降ってて寒かったからな。だからだよ」 と、呟くように言った。あゆみはその裏にある真一の真意を知ってか知らずか、相変わらず微笑み続けている。 「それよりも、今度の誕生日のことだろ……。とにかくそこまでされて何もしないってのは、いくら俺でも気になるんだよ」 「それじゃ聞くけど、何でもいいの?」 「俺に用意できる範囲でだけどな。ただし、大したものはあげられないぞ」 「ううん、充分だよ」 言うまでもなく、その気持ちが何よりも価値のあるプレゼントだった。 「誕生日、シン君は一緒にいてくれるの?」 「もちろん。ちょうど日曜日だし。それよりも、プレゼント。何かあるだろ?」 「ううん、ないよ。だから、シン君が私に一番プレゼントしたいもの、くれればいいから」 「俺があゆみにあげたいもの? それでいいのか?」 「うん」 「つまらないものだったら?」 「別に構わないよ」 「構わないって、お前なあ……」 真一は呆れ果てた声を出し、やがて諦めの溜息をついた。 「……分かったよ。ただし、あとで絶対に文句とか言うなよ」 「うん、言わない」 この返答で、真一はプレゼントを選択する際にますます頭を抱えることになった。あゆみの場合、本当に抗議をすることなど万に一つもないからである。 「ねえ、シン君」 「ん?」 「そろそろ梅雨だね」 「何だそりゃ?」 訝しげな表情で問い返す真一を見て、あゆみは何故か楽しそうに微笑んだ。 「私ね、この時期になると思い出すことがあるの」 「思い出すこと? 俺絡み、だよな。あゆみのことだから……」 「うん」 「何だろうな……」 腕組みをしながら、真一は横目に幼なじみの顔を見、そこからヒントを引き出そうとする。だが彼女は、にこやかな表情を浮かべるばかりだった。 「梅雨か……雨……雨……あ」 何かに気付いたように声を上げた真一は、そのまま空を見上げた。 「思い出した?」 「……いい、天気だな」 真一は答えることを避け、感情を空に逃がした。それと同時に、チャイムが校内に鳴り響く。 「じゃあ、その話はまたあとでね。教室に戻ろうよ」 「ああ……って、あとで?」 「そう、あとで」 目を細めて笑っている幼なじみから視線を外して、真一はわざとらしく溜息をついた。 そして、誰にも聞こえないように小さな声で、 「参ったなあ……」 と、呟いた。 それは小学生になったばかりのころの出来事だ。別にそれは真一にとって思い出したくない過去というわけではなく、むしろ大切にしまっておきたい思い出である。それでも戸惑っているような言葉を口にしたのは、それが少年にとって気恥ずかしいことであるからに他ならなかった。 「なあ、波田」 自分の席に座った真一は隣席の少女に声をかけるが、彼女は上の空である一点を見ていた。 「……波田?」 由利は魔法にかけられたかのごとく、周りのことなど全く気になってしない様子で、ある少年の横顔を見つめていた。 「波田さーん……」 やはり反応はない。真一は深く溜息をつくと、机の中から教科書を取り出し、それを丸めて軽く由利の頭を叩いた。 「……あれ?」 「やっと気付いたか……。友達の顔を観察するのもいいけどな、程々にしろよ」 その言葉で、由利の顔が一瞬にして赤く染まった。 「お前、本当に分かりやすいな……」 「な、何が……」 「今さら説明することないだろ? さて、それよりも」 真一は雲がゆっくりと流れる窓の外を見、そして尋ねた。 「今日、雨降ると思うか?」 「この空のどこを見たら、そういう質問が出てくるの?」 「だよなあ……」 空は青かった。だから、「あのとき」のような事態はないはずなのだが、何故か嫌な予感が胸をよぎる。 「雨が降ると、何か不都合でもあるの?」 「濡れるだろ」 「それはそうだけど、何か別なことを考えてたような気がしたから」 「別なことって?」 「それは分からないけど……」 この波田由利という少女、普段は鈍いように見えてたまに妙な鋭さを見せることがある。真一自身、その性格に驚かされることが少なからずあった。 「自分に向けられる気持ちには鈍いくせにな……」 「何か言った?」 「いや、何も」 由利の怪訝そうな視線から逃れるように前を向くと、ちょうど次の担当の教師が入ってきた。騒然としていた教室がスイッチを切り替えたように静まり返る。 「降るはずない、よな……」 空は抜けるように澄んでいた。天気が変わる気配など、微塵も感じられなかった。だから、真一の胸によぎっている感情は杞憂で終わるはずだった。 |