NRLS-7



「ねえ、シン君」
 その、帰り道。吸い込まれそうなほど、月がきれいな夜だった。
「ん?」
「波田さん、祐樹君のことどう思ってるのかな?」
「どう……って、惚れてるかどうかってこと?」
 小さく頷くあゆみ。
「今はまだ分からないけど、波田が祐樹に好意を持つのは時間の問題じゃないかな。それよりも、祐樹の方だ」
「波田さんと普通に話してたってこと?」
「そう。知ってる限りじゃ、あゆみ以外と普通に話すあいつなんて見たことないだろ?」
「うん。もしかして、祐樹君――」
 あゆみの言葉をさえぎるように、真一はかぶりを振った。
「だとしたら、逆だろ普通。まして祐樹なんだから」
「じゃあ、何とも思ってない……?」
「だったら、平然と話せない。だから妙なんだよ。少なくとも、あいつが波田のことを気にかけてるってのは事実だと思うけど」
「そしたら、祐樹君も波田さんに好意を持つんじゃない?」
「可能性は低くないだろうな。けど――」
「けど?」
「仮にあの二人が相思相愛になったとしても、互いにその気持ち、言わない可能性があるんだよ」
 そう言って、真一は夜空を仰ぐ。無数の星屑が静かに微笑んでいた。
「祐樹は言わずもがなだろ? 波田にしたって積極的なのはあくまで『友人を作る』ことに対してで、恋愛に関しては奥手だと思うんだよな」
「じゃ、何かきっかけがないとダメかな」
「だろうな。まあ、その前にあいつらの気持ちが好意にならないと話にならないけど。でも、俺たちが横から首を突っ込むのもどうかな」
「やっぱり余計なことかな?」
「そうとも言い切れないけどな。大体第三者が根回ししすぎるとろくなことにならないんだ。でも――波田と祐樹、か」
 真一はそう呟くと、小さな笑みを見せた。
「どうしたの?」
「ん? ああ、あいつらの並んで歩いてるとこ想像してみたら、予想以上に似合っててさ」
 高校生としては小柄な祐樹と、彼より少しだけ小さい由利。降り出す雨と、一つしかない傘。二人はやがて、少し照れた表情で一つの傘の下に寄り添う――。
「って、ありがちな小説の一場面が容易に想像できるよな、あの二人の場合。今時珍しくはあるけど」
 真一はそう言って、もう一度空を仰ぐ。普段以上に、春の空気は澄んでいた。
「そういうのもありだよな。純粋に相手のこと思いやって、何の打算も下心もなしに互いのこと好きでいられるって恋愛もさ」
「祐樹君、絶対にそういう計算とかなさそうだもんね」
「だろ? だからこそ、波田みたいな奴が似合ってるんだって」
 あの二人には、傷ついて欲しくない――それが、真一の本音だった。その純粋さ故に二人は苦しみ、多くの不幸を体験してきた。正直者が馬鹿を見る、そんな間違った世の中だからこそ、由利と祐樹のような素直な人間にはより幸せでいて欲しいのだ。
「成り行きに任せるしかないのかな、あいつらの場合」
「うん。でも――」
 あゆみは一旦言葉を切り、そこから先の台詞に自分の気持ちを重ね合わせた。それに従うように、少し照れくさそうな表情が彼女に浮かぶ。
「上手くいくといいね、あの二人」
「そうだな」
 その気持ちのために相槌を打つ真一の顔は見られなかったが、あゆみには幼なじみの声がいつもより真剣だったような気がした。


「波田さんのお父さん、帰ってきてるの?」
 あゆみの聞き返す言葉に、由利は嬉しそうに頷いた。
「うん。だから――」
 言葉を続けようとした由利は、不思議そうにあゆみが自分を見ていることに気付いた。
「どうしたの?」
「波田さん、何か楽しそうだから……」
 初めのうちはその言葉の意味が了解できなかった由利だったが、やがてあることに思い当たると、納得したような声を上げた。
「あ、そっか。まだみんなには、お父さんが『私のこと気にかけない人』になってるんだよね」
 由利が以前に夜の公園で話した自分の家庭の状況には、父親を気遣うが故の嘘が含まれていた。だが、思い返してみるとそれを真実に修正した記憶はないのだ。
「あれ、嘘なの。あのね――」
 苦笑混じりに話す事実は、あゆみに言葉を失わせた。そこから彼女が、由利の優しさを感じ取ったからだ。
「だから、お父さんには悪いことしたな、って」
「やっぱり波田さん、優しいんだよ」
「誰のためにもならなかったけどね。それよりも今日、仲井君は?」
「ちょっと用事あるからって、先に帰った」
「珍しいね、いつも一緒なのに」
 そう言いながら、家に着いた由利はいつものように鍵を取り出す。それを見たあゆみが、不思議そうに尋ねた。
「お父さん、帰ってきてるんじゃないの?」
「あ、そうだった」
 由利は苦笑いを浮かべて、鍵を差し込むことなくドアノブを回した。当然、玄関は何のためらいもなく開く。
「じゃあね」
「うん。――あ、これから祐樹君のところに行くんだけど、何か伝言ある?」
 祐樹は風邪で学校を休んでいた。由利が少し心配そうな表情を浮かべ、あゆみの質問に答える。
「お大事に、って」
「じゃ、そう伝えておくね」
 由利はあゆみと別れると、後ろ手にドアを閉めながら、
「ただいま」
 と、言った。
「お帰り」
 何でもないそのやりとりに、由利は満面の笑みを浮かべた。
「何か嬉しいことでもあった?」
 英明の言葉に、由利は心から頷いた。
「うん。お父さんが家にいてくれること。――あ、その格好って」
 父親がエプロンをしていることに、由利は気付いた。英明は少し照れくさそうに、苦笑いを見せる。
「似合わないかな、やっぱり」
「そんなことないとは思うけど、でも、ダメ。お父さんは休んでてよ」
 由利はそう言うと、父親からエプロンを脱がせ、半ば強引にソファーに座らせた。
「私だって、少しは料理上手くなったんだから。せっかくだから、食べてよ」
「ああ、そうだな。――なあ、由利」
「何?」
「学校は楽しいか?」
「うん。友達もたくさんできたし、みんな優しいから」
 それが嘘でないことは、娘の口調からすぐに分かった。だからこそ英明は、安心することができた。
「ねえ、父さん。仕事、大変?」
「まあ、それなりには。だけど、そろそろ慣れてきたから」
「すぐにまた、あっちに戻っちゃうんだよね……」
 由利の寂しそうな声音を感じ取った英明は、明るく返した。
「そうとも限らないぞ。首になるかも知れないから」
「だったら、ここにいない方がいいかな。また一人にはなっちゃうけど」
「……悪いな」
 台所から聞こえてきていた包丁の音が止まり、由利が分かりきっている父親の台詞の意味を問いかけた。
「何が?」
「そばにいてやれなくて……」
 再開する料理の音。それと同時に耳に入ってきた由利の声は、落ち込んではいなかった。
「ううん、別に気にしてないから。――私、最近分かったの。大切な人は、絶対にそばにいなきゃいけないわけじゃないって。離れてても、一日一日を頑張って生きてれば、平気だってこと」
 重要なことは、時間や記憶の共有とは限らない。本当に大事なことは、大切な人に自分が頑張っている姿を見せられるかどうかなのだ。
「それに、大切な友達だっているもの。だから、もう大丈夫。私は、以前の私じゃないよ」
 その言葉を聞いた英明が、小さく溜息をついて苦笑混じりに言った。
「子供が育つのに、親がいらないっていうのは本当だな」
「ううん、そんなことない。だって私が今ここにいられるのは、お父さんのおかげなんだから」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。だけど、これからの由利に必要なのは親じゃない。これからの由利に必要なのは、出会いだよ。大切に思える友達だったり、何でも話せる先生だったり、あるいは恋人だったり」
 英明は天井を仰ぎ、その視線のまま言葉を続ける。
「そういう意味じゃ、僕は最悪だ。母さん――裕子と、結婚したんだから」
 由利が作り終えた夕食をテーブルの上に並べながら、首を横に振り微笑んだ。
「そんなことないよ。確かにお母さんはほめられた人じゃないけど、でも、あの人と会ってなきゃ私はここにいないんだから」
「……そう、だな」
 娘の言葉に頷いたことで、ずっと英明が背負っていた負荷が消えていった。今自分のそばで笑っていてくれる人物が由利であることに、彼は心の底から感謝した。
「じゃ、いただきます」
 由利は自分の料理を口に運ぶ英明の表情を、瞬きも忘れて見つめていた。そんな彼女の視線に気付いた父親が、苦笑混じりに食事を勧める。
「食べたら? おいしいよ」
「……本当?」
「娘に嘘をつく趣味はないつもりだけど」
 自分の作った料理に箸をつけた由利は、硬かった表情を崩した。
「うん、おいしい」
 それは以前の由利にない顔でもあった。過去の時間において彼女は、変化のない日常の中に身を置くという、何の変哲もない幸福を感じることさえできなかったのだ。
「結局僕は、何にもできなかったんだな……」
「え?」
「由利が辛い思いをしてても何も助けてやれなかったし、由利が今こうして笑っていられるのに僕は関係してないから……」
「お父さん……」
「ごめんな、由利……」
 涙が生まれていた。けれど由利は、頭を横に振ってから精一杯の笑顔を作った。瞳にはまだ、涙が溜まったままだった。
「そんなこと言わないで。私が頑張ってるのは、お父さんがいるからなんだよ。私が辛そうにしてたら、お父さんが辛くなるって分かってるから、今の私がいるんだよ」
 由利は落ちずに残っていた感情の滴を拭うと、どこにでも存在する日常の瞳に戻った。
「それよりほら、ご飯冷めちゃうよ? 暖かいうちに食べてよ」
「そうだな。せっかく由利が作ってくれたんだからな」
 それは、久しぶりの温度のある食事だった。交わす言葉は、何の変哲のないもので充分だった。それだけで、二人はどこにでもいる家族の姿になっていた。
「由利。――好きな人は、いるのかい?」
 父親の唐突な質問に、由利の食事の手が数秒間静止した。英明の娘を見る目には、優しさと少しの寂しさの色があった。
「急に変なこと聞かないでよ。疲れてるんじゃないの?」
「まあ多少は。で、好きな人は?」
 念を押す父の再度の問いかけに、由利は小さく溜息をついてから逆に質問を返した。
「お父さんはどう答えて欲しいの? いる? それとも、いない?」
「世間の大抵の父親は後者の答えを望むものだよ。だけど、いるんだったらそれで構わない」
 そんなことを言う父親に、由利は小さな笑みを見せながら答えた。
「いないよ。男の子の友達は何人かいるけど。ほっとした?」
「半分は。もう半分は、少し残念だ」
「残念って?」
「由利も高校生になったんだし、恋の一つもして欲しいってことだよ」
 自分のような失敗をしないためにも――英明は心の中でそう付け加えた。
「うん、そのうちにね。――あ、電話」
 いつも通り唐突に鳴り出す電子音に手を伸ばし、由利は数個の言葉を交わしたあと父親に向かって受話器を差し出した。
「誰から?」
 英明の問いかけに少しためらってから、
「――会社」
 と、由利は複雑な表情で答えた。


「シン君からの伝言。『行ってやれなくて悪いな』って」
「真一らしいね。――今日は、心配かけてごめん」
「ううん。祐樹君が大したことなくて安心した」
 あゆみはそう言って微笑むと、学校からの配布物を祐樹に手渡した。
「明日は学校に来られるんだよね」
「うん、大丈夫だと思うよ」
「よかった。波田さんも心配してたよ。『お大事に』だって。――ダメだよ? もっと話とかしないと」
「う、うん」
 祐樹と由利の関係は、まだほとんど変化がなかった。相変わらず、学校内では他人のような雰囲気を保っているのである。
「波田さん、きっと祐樹君と仲良くしたがってると思うよ? 祐樹君もそうだよね」
「うん。でも……」
「大丈夫だよ、絶対に」
 それは無責任な台詞ではなかった。あゆみが知っている祐樹は、自信を持ってそう断言できるだけの少年なのだ。
「最初は上手く話せないかも知れないけど、でも、波田さんは分かってくれるよ。波田さんは祐樹君の友達なんだから」
「分かってるけど、何となく照れくさくて……」
「だから、少しずつでいいと思うよ。友達って自然に始まるから、焦る必要なんてないよ」
「うん、そうだね」
 祐樹は頷くと、少し赤みがかった顔で自分の手に視線を落とした。
「祐樹君、夜ご飯どうするの?」
「適当に食べるよ。昨日の残りとかまだあると思うし」
「じゃあ私、そろそろ帰るけど……」
「あ、うん。気をつけてね」
「それじゃ、また明日」
 部屋のドアが静かに閉まるのを見届けると、祐樹は顔を枕に埋めて小さく息をついた。
「明日……。変わるのかな……」


 その日は、空が青かった。雲一つない晴天で始まる一日だった。
「おはよう」
「あ……おはよう……」
 だが、それとは対照的だったのが由利だった。あゆみの声に返事はしているが、その様子は目に見えていつもとは違っていた。
「どうしたの?」
「ううん、別に……」
 そう言って首を横に振る由利の心は、彼女自身の中に存在していなかった。たまらず真一が口を開く。
「別にってお前、どこからどう見たっていつもと違うぞ」
「あ、そう? じゃ、気にしなくていいよ……」
「気にしなくていいって言われて――」
「ちょっと、シン君」
 真一の声をさえぎって、あゆみは幼なじみを教室の隅まで引っ張っていった。
「何だよ」
「波田さん、そっとしておいた方がいいんじゃない? 私たちの声、ほとんど耳に入ってないよ」
「そんなこと分かってるよ。だからって、あのままにしとけってのか?」
「そうじゃないよ。下手に私たちが介入しない方がいいかも知れないって言ってるの」
「だけどな」
「いいから、しばらく様子を見てみようよ」
「分かったよ。けど、誰かそばにいた方が――」
 真一の唇の動きが止まった。一瞬の沈黙のあと、彼の指が鳴る。
「いた。適任者」
「え?」
 あゆみは一点を見つめている真一の視線を追って振り向く。その視線の先にいたのは、祐樹だった。
「祐樹」
「あ、おはよう真一。あゆちゃん、昨日はありがとう」
「うん。それよりも祐樹君、ちょっとこっちに来て」
 と、あゆみは祐樹を教室の外に連れ出した。
「何? どうしたの?」
「祐樹さ、波田の様子おかしいと思わない?」
「波田さんの?」
 祐樹は教室の中をのぞき込む。由利は相変わらず放心したような顔をしていた。
「そう言われてみると……」
「だろ? お前、何か思い当たることとかない?」
「ううん、別に……」
「そうか。ならそれはそれでいいんだけど、お前さ、波田が元気ないと気になるだろ?」
「友達だからね」
「じゃ、よろしく頼むな」
「え?」
 呆気に取られる祐樹の肩に手を置いて、真一はその横を通り抜けた。
「ちょ、ちょっと」
「お前の役目だよ、祐樹」
 その一言で祐樹の言葉の先を封じ込めた真一は、自分の席に戻ると一切のコミュニケーションを拒絶するように机に突っ伏した。
「僕の役目って……」
 と、祐樹は困惑した視線をあゆみに向ける。だが、申し訳なさそうな顔をしてはいるものの彼女はそれを受け入れなかった。
「ごめんね。いつもだったら手伝うんだけど……。今回は祐樹君一人の方がいいと思うから」
「でも……自信ないよ。もちろん心配だし、何とかしてあげたいって気持ちはあるけど……」
「祐樹君、本当はね」
 あゆみは横目で由利のことを見て、それから幼なじみの不安げな顔を見た。
「私もシン君も、何とかしてあげたいって思ってるの。波田さんの友達は、祐樹君だけじゃないんだから。でもね、それをあえて祐樹君に任せるのは、そうした方が波田さんにとっていいからだよ。波田さんが一番心を開いてるのは祐樹君なんだから、きっと待ってるよ」
「……僕が話しかけるのを?」
「うん」
 あゆみが頷くのと同時に、教室に入ることを強制するチャイムが鳴った。二人のみならず、廊下にいた生徒の動きが慌ただしくなる。
「はいみんな、席について」
 そろそろ聞き慣れてきた担任教師の声で、朝のホームルームが始まる。普段と変わらず連絡事項を伝える桜岡を無視して、祐樹は由利のことを見ていた。
『できるか?』
 祐樹の視線に気付いた真一は、瞳でそう尋ねた。強い意志の内在した目で、少年はそれを受け止め、そして返す。
『うん』
 それは、由利との時間を動かし始めることに対する肯定でもあった。


「波田さん」
 昼休みに入ってすぐ、祐樹は由利に声をかけた。心の所在のない少女は、少し遅れて反応する。
「何?」
「屋上で一緒に食べない?」
 と、手に持ったランチボックスを揺らしてみせる。
「……うん」
 自分の昼食を持ち、由利は力なく立ち上がる。その様子はまるでガラス細工のようで、ほんの少しあと「何か」があれば、拾いきれない数のかけらに砕け散ってしまいそうなほど危うげだった。
 屋上の着くまでの間、由利は何も言わなかった。自然と祐樹も無言になる。
「えっと……静かなとこの方がいいよね」
 由利は何の反応もせず、ただ祐樹に従うだけだった。屋上の隅の方、日陰となっている場所に座り、包みを広げる。
「それで、何があったの?」
 由利の肩が小さく動く。その一言以上は何も声にせず、祐樹はただ彼女を見つめていた。
「……ごめんね、心配かけて」
「ううん、別にいいよ」
 祐樹は先を急かさなかった。
「お父さん、帰ってきてるの」
「お父さん? って、海外にいる?」
「うん。でも――」
「それが直接の原因じゃないんだよね? 波田さんが前に僕に言った『お父さん』のこと、たぶん嘘だろうから。本当は、帰ってきて嬉しいんだよね」
「え……水崎さんから聞いたの?」
「ううん、僕の想像だけど。根拠は波田さんの家にあった写真。あれに写ってた男の人は、子供をないがしろにするようには見えなかったから」
「……うん、私のお父さん、そういう人だよ。でも……」
 由利はほとんど減っていない自分の昼食に目を落として、小さな風に流されてしまいそうな弱々しい声で、祐樹に自分の本心を見せた。
「私は、今以上なんて望んでないのに……」
「今以上?」
 由利は心を覆い隠すように微笑んで、尋ねた。
「前原君は、今よりもいい生活をしたいって思う? そのために、自分の親の仕事が増えても」
「いい生活をしたいって思うことはたまにあるよ。でも、そのために父さんの仕事が大変になるんだったら、僕は望まないけどね。今でも充分満足だし」
「そうだよね。それなのに……」
 由利は自分の弁当箱の蓋を閉めて、赤い布に包み直した。傍らにそれを置いて、空を仰ぐ。
「昨日、お父さんの会社から電話があってね……お父さん、いきなり平社員から社長になったの」
「え?」
「普通じゃ考えられないでしょ? ――お父さんの会社、本当はお母さんが社長だったの。親族経営って言うのかな、代々お母さんの家の人が重役に就いてきたんだけど……社長の夫だっていうのに平社員ってことからしても、どれだけ仲が悪いかって分かるよね」
 祐樹は曖昧な相槌を返して、さらに疑問符を続ける。
「でも、普通会社のトップってそんなに簡単に変わらないよね。それなのにどうして?」
「辞めさせられたの、あの人は。会社の業績が悪化してて、それで責任を取るって形で。それでね、次期社長には一番実力がある人ってことで……」
「波田さんのお父さんが?」
「うん……」
「でもそれって、すごいことなんじゃないの? 普通は副社長とか専務とかがなるのに」
「そんな慣例で選んでる場合じゃないぐらい、経営が危ないんだって。確かに選ばれたことは、自慢できると思う。でも私は……そんなの望んでない。ただ、今の暮らしが続けられればそれでいいだけなのに……」
 少女は孤独を持ち合わせていた。もちろん彼女自身がそれを願ったわけではない。だが、切望しても手に入らないものがあるように、どんなに拒絶しても所有しなければならないものもある。
 由利にとっては、それが孤独だった。
「僕が波田さんのお父さんの立場だったら、やっぱり同じ選択をしてたと思う」
 自分の昼食を片づけながら、祐樹は言った。由利が少年を見つめる。
「たぶん、お父さんは守りたかったんだよ。自分の会社で働いてる人、みんなを。もし今自分の会社が倒産したら、自分も含めて会社で働いてる人と、その家族が路頭に迷うことになるからね」
「お父さんらしいな、それって。でも……」
「波田さんがそれを望んでないのは、お父さんも分かってるはずだよ。だから、今一番辛いのって波田さんのお父さんだと思う。もちろん、だからって波田さんが寂しさを我慢しなきゃいけないってことでもないけど。――大変だよね、大切なものがたくさんあると」
「そうだね……」
「でもさ、お父さん、社長になるってことはこっちに帰ってくるんじゃないの?」
「ううん、外国での仕事が一段落するまでは、あっちにいるって……。前原君、私、どうすればいいの……?」
「波田さんは――」
 言葉を切る。風が由利の髪を小さく揺らした。
「今までと同じに、勉強だったり部活だったり、何でもないことを頑張るしかないと思う。今まで通りの日常を、人前では今までと同じように続けていくしかないんじゃないかな」
「人前では?」
「一人だったら泣いてもいいんだよ、きっと」
 予鈴が鳴り出すと同時に、祐樹は立ち上がった。太陽に向かって、思い切り腕を伸ばす。
「さ、行こう。授業に遅れるよ」
 由利の背中を押すように軽く叩いて、祐樹は微笑んだ。
「……うん」
 瞳に浮かんでいた涙を拭うと、由利も笑った。日常と違ってぎこちない笑顔だったが、祐樹はそれを否定しなかった。
「波田さん、僕にできること何かある?」
 階段を降りながら、祐樹は一番聞きたかったことを口にした。先に階段を降り終えていた由利は、振り返って少年を見上げながら答えた。
「あるよ。もっと友達らしく振る舞ってくれること」
 少女の顔は、ほんの少し普段に近づいていた。