NRLS-5



「さて、と……」
 ほとんど引きずるようにして由利を家の前まで連れてきた祐樹は、その玄関の前で腕組みをしながら立ち尽くしていた。
「鍵、どうするかな……」
 由利自身が持っているであろうことは容易に想像がつく。だが、正当な理由があるにしても、異性の制服のポケットやバッグの中を探る度胸は祐樹にはなかった。
「どうしよう……」
 無論、外に放り出しておくわけにはいかない。しかし、家には入れない。
「鍵がポケットから落ちたりしてくれればラッキーなんだけど……」
 そう呟くと同時に、何か金属的な物体が道路に落ちる音が耳に入ってきた。祐樹は視線を足元に向け、そして言った。
「……嘘」
 それは何かの鍵だった。形状から見て、恐らく祐樹が求めるものである。祐樹はそれを拾い上げると、玄関にゆっくりと差し込み、回した。
「……開いた」
 ゆっくりとドアを押し開き、とりあえず由利を横たわらせる。祐樹は一息ついてから、由利の靴を脱がせた。
「波田さん?」
 呼びかけてみるが、返事はない。祐樹は由利に再び自分の肩を貸し、彼女をリビングまで連れていった。
「よいしょ、っと……」
 由利を部屋の隅にあったソファーに寝かせ、そばにあった毛布をかけると、彼女は程なくして静かな寝息を立て始めた。
 祐樹は何気なく、周りを見渡してみる。女性の一人暮らしらしく部屋の中はきっちりと整理されていて、その空間を実際より大きく見せていた。
「大変なんだろうなあ……」
 家事全般を一人で全てこなしながら、自分だったら学業をおろそかにせずやっていけるだろうか、と考えてみる。
「僕には、できないな……」
 ふと、テレビの上の写真に目が留まった。
 それはどこにでもあるような、中学校の卒業式をバックに親子三人が写っているものだった。
 普通なら幸せな風景の中にいるはずの由利は、しかしどこか寂しげだった。友人と離れることが原因の表情とは、少しどこかが違う。
「……」
 祐樹はそっとテーブルの上に鍵を置くと、その写真から視線を外した。結局彼はすぐにその場を離れたので、由利が彼の存在に気付くことはなかった。


「おはよう、シン君」
「おはよう」
 あゆみに応じ、いつものように靴をはこうとしたとき、奥から母親の声が飛んできた。
「真一、電話」
「電話? 誰から?」
「学校から。じゃあ私、仕事に行ってくるから。おはよう、あゆみちゃん」
「おはようございます」
「――学校?」
 母親から受話器を受け取った真一は怪訝そうな表情で、電話の向こうに呼びかけた。
「もしもし」
「あ、仲井君?」
 聞こえてきたのは、いつもよりトーンの低い担任の声だった。
「先生。どうしたんですか? 用だったら、学校で聞きますけど」
「その学校なんだけどね……。今日、休み」
「休み? 休みって……」
「学級閉鎖になったの」
 思いがけない担任の台詞に、聞き返す真一の声の語尾が上がる。
「学級閉鎖?」
「そう。ほとんどみんなね、今日休むんだって」
「何で……まさか」
 少しの時間のあと、半信半疑の声音で聞いた。
「二日酔い……ですか?」
「そうみたい。実は私もなんだけど……。あ、水崎さんと前原君にも伝えといて」
「分かりました。それじゃ先生、お大事に……」
「ありがと」
 電話を切った真一は、大きく溜息をつくと玄関先に向かった。
「どうしたの?」
 疲れた顔つきの真一に、あゆみが不思議そうに尋ねる。
「今日、休みなんだって……」
「え? 学校が?」
「厳密に言うとうちのクラスが。学級閉鎖になったって、桜岡さんから電話があった」
「学級閉鎖って、どうして?」
 真一は大きな溜息をついてから、疲労感を多く含ませた表情で、
「……慣れない人が酒を飲んだ翌日って、どうなる?」
「どうなるって、二日酔い……って、それじゃ」
 一応の答えに辿り着いたと同時に怪訝そうな表情を浮かべるあゆみに、真一はゆっくりと頷いた。
「そういうことだ。……今までなかっただろうな。二日酔いで学級閉鎖ってのは。まあ何はともあれ、今日一日空いたってわけだ。――あ、祐樹にも電話しないと。あゆみ、とりあえず上がれよ」
「うん。それじゃ、お邪魔します」
 リビングに踵を返した真一は受話器を取り、もう一人の幼なじみの家に電話をかけた。
「もしもし、仲井と申しますが――祐樹か? あのな、今日学校――」
 真一がクラスの休みを電話で伝えている間、あゆみは家の中を懐かしげに見渡す。いくらかの小さな変化はあるが、基本的には彼女の知っているものと変わっていなかった。
「――まあ、そういうことだ。それじゃ」
 受話器を置いた真一は、あゆみを見て不思議そうな表情を浮かべた。
「どうした?」
「え? あ、ほら、シン君の家に入るのって久しぶりだから……」
「そうだっけ?」
「そうだよ。受験勉強はいつも私の家でやってたし」
「そういえばそうだな。で、どっか変わってるところでもあったか?」
「ううん。どこも」
 と、首を横に振るあゆみの表情は、何故かにこやかな笑顔だった。
「どうした?」
「シン君の家らしいなあ、って」
「え?」
「何も変わってないのが、シン君の住んでる場所らしいって思ってたの」
「そういうこと、ね」
――変わらないことが自分らしい、か。
 それは自分よりむしろ、あゆみのためにあるような言葉のような気がした。
 少なくとも真一の目から見れば、水崎あゆみという少女は子供の頃から何一つ変わっていなかった。無論それは成長していないということを意味しているのではない。成長と変化は、同じものではないのだ。
「なあ、あゆみ」
「何?」
 自分が呼べば、あゆみはいつもあどけない表情で返事をしてくれる。子供の頃から、ずっとそうだった。
「お前……今の自分、好きか?」
「え?」
「それとも、あんまり好きじゃないか?」
 あゆみは少し考えてから、
「嫌な部分は確かにあるけど、そのどっちかって聞かれたら、やっぱり好きだよ。でも、どうしたの? 急にそんなこと」
「いや、あゆみさ、俺のこと変わってないって言っただろ? それと同じで、あゆみも変わってないと思うんだよな。あ、もちろんいい意味でだぞ」
「うん」
「でもさ、変化してないってことはもし自分が嫌いだった場合、ずっとそのままなわけだろ? で、あゆみこの前言っただろ? 子供っぽい自分が好きじゃない、って。だから、もしかしてって思ってな」
「ありがとう。大丈夫だよ。それくらいじゃ自分を嫌いになったりしないから。――でもやっぱり私、もうちょっと大人になりたいな……」
「あ、あのさ。こんなこと俺が言うのも変かも知れないけど――」
 真一はあゆみから視線を外して、照れくさそうに言った。
「あゆみは充分に大人だよ。優しいし他人のこと思いやれるから……。それに俺、お前の子供みたいなところ、それって、長所だと思う。そりゃあゆみは直したいだろうけどさ、俺、……結構好きだから」
「え……」
 真一は後ろを向くと、早口でまくし立てるように言葉を紡いだ。
「ま、まあ、だからって直すなとは言えないけど、少なくとも俺は欠点だなんて少しも思ってない。だから、気にする必要ないと思う」
 特別な意味を持つ言葉ではないはずなのに、何故か少女の顔をまともに目にできなかった。気恥ずかしさが、真一の心を支配していた。
――どっちが、子供だよ……。
 真一はただ、自分自身に呆れるしかなかった。呆れながら、あゆみの声を待った。だが、背後にいるはずの彼女の反応はない。
「……あゆみ?」
 言葉はない。自分の心に素直になったときは、いつもそうだった。もう何年も持っている気持ちのはずなのに、まだそれに慣れていないのだ。
「俺、気に障るようなことでも言ったか? だったら――」
「あ、ううん。そうじゃないの」
 真一の気遣うような口調に、あゆみは慌てて応じた。だが、彼女の瞳は少年の方に向いていない。
「その……照れくさくて、シン君の顔が見られなかったの。やっぱり、子供かな……。でも、ありがと」
「あ、ああ、うん」
 あゆみのあどけない照れ笑いは、真一に小さくない動揺を与えた。それは彼に、自分の方が子供であることを実感させる瞬間だった。
「そ、それはそうと、これからどうする?」
 動揺を必死に隠しながら口にした台詞に、あゆみは満面の笑みで答えた。
「何でもいいよ。私は、シン君と一緒にいられればそれだけで楽しいから」
 真一は、自分の顔が赤く染まる音が聞こえたような気がした。


 その日の夜――。
「きれい……」
 公園の街灯に照らされる満開の桜を見たあゆみは、思わずそう感想を漏らした。
「本当だな」
 真一もそれに軽く相槌を打つ。同じ場所であるはずなのに、昨日とは全く違う印象を受けた。
「でもここ、どうして誰もお花見しないんだろうね? 案外、シン君の話って本当なのかな?」
 真一は苦笑を浮かべて、
「あのなあ。この近くに桜を見るのにはちょうどいいところがあるだろ?」
「北山公園のこと?」
「そう。みんなあっちに行くんだよ。だからこそ、こんなきれいな夜桜を二人占めできるんだろ?」
 真一の言葉が示す通り、公園内にいるのは彼らだけだった。あゆみが微笑んで頷く。
「そうだね」
 全てが優しい夜だった。夜空に浮かぶ星や月も、風に吹かれる桜の音も、ほんの少しだけ冷たい空気も、何もかもが心地よかった。
「星もきれいだね」
「ああ。――来年も、また一緒に見に来ような」
 真一の不意の言葉に、あゆみの顔はほんの一瞬だけ驚き、すぐに笑みにあふれた。
「うん」
 真一も彼女に微笑み返す。二人の心は、今までにないほど素直だった。そして、そのまま何となく、二人とも黙り込む。長く続きそうなその時間を、しかしそうさせなかったのは背後から聞こえてきた声だった。
「――仲井君?」
「よう、波田じゃないか」
「こんばんは、波田さん」
「あ、こんばんは。――もしかして私、邪魔だった?」
 申し訳なさそうな由利の言葉を、正直な気持ちで真一は否定した。
「いや、そんなことないよ。それよりも、どうして波田はここに?」
「何となく。家にいてもやることないから……」
 そう答える由利の様子は、目に見えていつもより明るくなかった。
「どうかしたの? 元気ないみたいだけど」
「そ、そうかな?」
「そうだよ。いつものお前、もっと明るいぞ」
 由利はうつむくと、ためらいがちに口を開いた。
「あ、あの、私、昨日酔いつぶれちゃったでしょ?」
「ああ。お前が俺に張り合って飲んだりするから。それはそうと、体の方は大丈夫だったか?」
「うん。あの、それよりも昨日、誰が私のこと家まで連れていってくれたの?」
 真一はさも意外そうな表情で、
「知らないのか?」
「意識、完全になかったから……。先生?」
 真一はゆっくりとかぶりを振った。
「いいや、祐樹だ」
「祐樹って……前原君?」
「ああ」
 それを聞いた由利は言葉を失い、大きく息をのんだ。
「どうした?」
「う、ううん。何でもない」
 真一はどこか腑に落ちない表情で、首をかしげた。
「……まあいいや。それよりも昨日の祐樹、様子が変だったんだよ」
「変……って?」
 真一は、由利を家まで送り届けるのを手伝う申し出を、祐樹が頑なに断ったことを話した。
「なあ、波田。何か思い当たる節、ないか?」
 由利はその問いかけに、数秒の間を置いてゆっくりと答えた。
「……あるよ。それで一つ聞きたいんだけど、先生は私の家のこと、どう話したの?」
「今言った通りだよ。波田の両親は、二人とも仕事で海外だって」
「それだけ?」
「それだけだ。なあ、それが何か関係あるのか?」
 由利は答えずに、空を仰いだ。しばらく夜空を見つめたあと、近くのベンチに座り一つ溜息をついてからゆっくりと話を切り出した。
「前原君って、優しいでしょ?」
 質問の意図は分からなかったが、とりあえず頷く。
「あ、ああ。今時珍しいくらい優しいよ、祐樹は」
「やっぱり」
 もう一度、深い溜息をつく。由利の表情は、普段からは考えられないほど寂しげで弱々しかった。
「――先生がみんなにした話ね、ちょっと違うの」
「先生の話って、波田さんの家のこと? 違うって?」
「嘘……ってことか?」
 由利はゆるくかぶりを振った。
「ううん。父さんと母さんが仕事で海外にいることも、私が一人暮らししてるのも本当。正確に言うとね、ちょっと足りないの」
「足りない?」
「うん。実はね――」
 先を続けようとする由利の言葉を、真一がさえぎった。
「ちょっと待て。今から話すことが、お前にとって少しでも辛いことなら、別に話さなくていいんだぞ。俺ら、お前のプライベートを知る権利なんてどこにもないわけだし」
「そうだよ。それに見てると、波田さんさっきから暗いし……」
 由利は微笑を浮かべて、
「ありがとう。優しいね、二人とも。でも、聞いて欲しいの。――私の両親ね、離婚寸前なの」
「リ……コン?」
 真一は、それがまるで異国の言葉であるかのように繰り返す。由利は小さく頷き、寂しげな笑みとともに言葉を続けた。
「もう夫婦仲なんて冷え切っちゃってて。大体おかしいと思わない? 高校生になったばっかりの娘を一人にして、両方とも海外に行くなんて」
「そりゃ……まあ……。じゃあ、波田の両親は仕事で移り住まなきゃならないことを口実にして、別居したってわけか?」
「そう。そのうち、判の押された離婚届が届くんじゃない?」
 そう言って由利は笑ってみせるが、その声には力がない。
「あの……波田さん。別居なら、片方が海外に移り住めばいいんじゃないの?」
 あゆみの問いかけに、由利が自嘲的な表情を浮かべながら言った。
「私がね、両方とも行ってくれるように言ったの」
「どうして?」
「最近のお父さんとお母さん、私のことなんかもうどうでもいいって感じだったから。そんな気まずい空気の中で、生活したくなかったのよ。それにね、こう見えて私、中学時代はほとんど友達いなかったし、内向的だったの。でも、高校に入ったらそんな自分を変えようと思って……正直言って、かなり無理してるの」
「で――」
 由利とあゆみの視線が、真一に集まる。冷たい空気を少し吸い込んでから、彼は言葉を続けた。
「それを祐樹が知ってたってわけか」
「……うん」
 弱々しく頷く由利の顔からは、自分に対する嘲笑さえ消えていた。
「でも、どうして? 同じクラスで家も近いけど、祐樹君と波田さんが話してるところなんて一度も見たことないよ」
「それに関しちゃ俺も同意見。聞いても……いいか?」
 由利が小さく頷く。そのあとしばらく沈黙が訪れたが、二人は話を促すようなことはせず、彼女が口を開くのを待った。
「入学式の日にね――」
 由利の声は小さかった。だがそれでも、ゆっくりと確実に話は紡がれていく。
「偶然、私の家の近くで前原君と会ったの。正直言って私は印象なかったんだけど、前原君の方は私のことよく覚えてて……」
「……まあ、無理もないな。片方は型どおりの地味な自己紹介で、もう片方はあれだけ目立ったんだから」
「それで、声をかけられて初めて同じクラスだって気付いたんだけど、そのあとすぐに前原君に言われたの。――『何かあったの?』って。私自身は普通の顔のつもりだったんだけど、前原君には寂しそうに見えたみたいなのね」
「で、そしたら泣いたってか?」
 真一は冗談のつもりで言った台詞だったが、それに対して由利は小さく頷いた。
「……うん。そう」
「え……」
 あとに用意していた台詞が、由利の予想外の反応に全て消え失せる。
「そしたらね、逆に前原君の方が慌てちゃって。――これ、貸してくれたの」
 由利は上着のポケットからハンカチを取り出し、二人に見せた。
「それで、色々気遣ってくれて。そんな前原君見てたら、いつの間にか自分のこと話してたの」
「あいつには、そういう雰囲気あるもんな。どんな辛いことも笑顔で受け止めてくれるみたいな。なあ波田、それ聞いたときの祐樹ってどんな様子だった?」
「その場にずっと立ち尽くしてた。『大変なんだね……』って、それだけ言って。あのときの前原君、すごい辛そうだったな……」
「祐樹君は、他の人のことを思いやれる人だから……」
「え?」
 あゆみの意味ありげな呟きに、由利が思わず聞き返す。そして、それに応じたのは真一だった。
「祐樹は、他人の辛さとか苦しみとかを知ると、自分のことみたいに辛くなるんだよ。たとえそれが親しくない人でも」
「な、何で……? いくら優しいからってそんなの変じゃない」
「あいつ、基本的に他人優先で物事を考え、行動する奴なんだよ。たぶん、そんな生き方ずっと続けてきたせいなんだろうな。あいつは他人の気持ちを理解しすぎるんだ」
「それじゃ……」
「ああ。祐樹がお前のこと一人で家まで連れてきたのは、他の誰にも本当のお前を知って欲しくなかったんだろうな。多くの人間が知れば知るほど、お前は明るくなるのが難しくなるから」
「でも……そしたら、どうして学校で私に話しかけてこないの?」
 由利は今にも泣き出しそうな顔をしていた。それだけに、彼女の疑問の答えを教えるべきかどうか迷った。
「波田、とりあえず落ち着けよ。泣きたくなるお前の気持ちだって分かるけど」
 真一は由利に何度か深呼吸をさせ、充分な間をおいてから口を開いた。
「理由は、二つある。一つは、祐樹がお前に話しかけたら周りに変に思われるから。さっきも言ったけど、祐樹と波田はまだ一度も話をしたことがないはずなんだ。だからだよ。それともう一つは、自分が近くにいると波田が辛くなると思ってるから」
「え……?」
 由利は真一の言葉の意味を理解していた。けれど、それを受け止めたくはなかった。だからこそ、言葉を失い表情で問い返したのだ。自分の解釈が、外れていると言ってもらうために。だが結局、それは期待で終わった。
「俺らを除けば、波田の複雑な事情を知ってるのって祐樹だけなわけだろ? だから、そんな人間が近づいたら波田が辛くなるって思ってるんだよ、あいつは。そういう高校生なんだ、前原祐樹って奴は」
 愕然とした表情で、由利が言った。
「それじゃ私、前原君に自分の悩みを共有させただけじゃない! そんなのって……」
「波田さんは悪くないよ。ううん、最初から悪い人なんて誰もいないよ」
「でも、でも……」
 由利の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「大丈夫だよ。祐樹君もきっと迷惑だとか思ってないし、それに波田さんが泣いてたらもっと祐樹君が気にするでしょ?」
「でも、私……」
「あのな、祐樹が一番嫌いなものって、他人の涙って言ってたぞ。だから、泣くなよな」
「……うん」
 頷いて、由利は祐樹のハンカチで涙を拭こうとする。それを見ていたあゆみの口から、思わず言葉が漏れた。
「そのハンカチ、あんまり使わない方が――」
「おい、あゆみ」
「あ……」
 真一にたしなめられ慌てて口を噤むあゆみに、由利が不思議そうな表情を浮かべる。
「どうかしたの?」
「あ、ううん、何でもないよ」
「……もう遅いって」
 真一は大きく息をつくと、真剣な表情で由利の方を見た。
「波田、落ち着いて聞けよ。……そのハンカチな、祐樹の母親の形見なんだ」
「形見? 形見って……」
「祐樹の母親、あいつが小さいときに亡くなってるんだ。それ以来、父親が男手一つで育ててきたんだよ。そのハンカチは、祐樹の母親が亡くなる寸前まで使ってたものなんだ」
 由利は自分の手にあるハンカチと真一を何度か交互に見つめたあと、
「嘘……嘘でしょ?」
 と、かすれた声で言った。
「嘘じゃない。昔、本人から聞いた」
「そんな……。だって、これ貸してくれたときにそんなこと一言も言わなかったし、そういう素振りだって全然なかったし……第一そんな大切なもの、どうしてほとんど見ず知らずの私に平然と貸せるの!?」
「……そういう奴なんだよ、祐樹は」
 それしか言いようがなかった。再び泣き出す由利の肩に、あゆみが手を置いて話しかける。
「優しいんだね、波田さんも」
 由利は激しくかぶりを振って、
「私は優しくなんかない! 前原君にたくさん迷惑かけて、それで優しいわけない!」
 と、叫ぶように言った。
「私なんて、いない方がいいの! たくさんの人に迷惑かけるだけなんだから!」
「だったら――」
 由利の声とは対照的に、真一がその場には不釣り合いな落ち着いた声で口を開く。
「だったら、謝ればいいだろ? 祐樹に。泣いてたって何も始まらないぞ」
「謝って、それで終わることじゃない!」
「でもそうしなきゃ、何もならないだろ!」
 真一の予想外の大声に、由利の肩が小さく動き、泣き声が止まった。
「確かに謝るくらいじゃお前の気はすまないと思うよ。それでもな、とりあえずは謝ることと、ハンカチの礼を言わなきゃダメだろうが。まあもっとも、祐樹のことだから謝られることは望んでないと思うけど。それでも気がすまないんだったら、少しずつ何かしていけばいいんじゃないのか?」
 うつむき押し黙っている由利に、あゆみは優しく言った。
「もう帰ろうよ、波田さん。帰って一晩寝て落ち着いたら、何をしたらいいのか分かると思うよ」
「そうそう。こういうときは寝るのが一番!」
「……うん。ごめんね、取り乱して」
「ううん、気にしてないよ。送ってくから」
「うん。ありがと」
 そう言って由利は、ようやく笑顔を見せた。

 だが、結局由利はその週、一度も学校に来なかった。