第二章 優しさという名の残酷な感情 「本当に大丈夫なんですか……?」 「問題ないって。場所だって公園に変えたんだし」 「いや、そういう問題じゃなくて……」 平日の午前九時半。真一たちA組の四十人ほどは、学校の近くの公園に来ていた。 「さすがに学校の敷地内でやるのは問題あるって言われたから――」 「で、外なら問題ない……って、んなわけないでしょ!」 「堅いことは言わない! 今日は無礼講なんだから!」 溜息をつく真一の肩を、大げさに桜岡が叩く。 「細かいことは気にしない。別に高校生だって分かんないだろうし」 真一は自分の服装を充分すぎるほど見下ろしてから、 「制服を着て飲酒する社会人がどこの世界にいるんですか」 「まあまあ。それに去年警官に見つかったけど、『程々にしとくように』って言われただけだったわよ?」 「この街の警察は、伝統的にいい加減なんですよ……」 「じゃ、いいじゃない。ということで、入学歓迎大宴会、初めまーす」 「俺は前座の漫才師かよ……」 今の担任とのやりとりがコントになっていることに気付いた真一は、疲れたように呟きながら近くの木の下に座った。 「はあ……」 「お疲れさま」 あゆみが普段と変わらない笑顔で、ジュースを差し出す。 「サンキュ」 「隣、いい?」 「いいけど、制服汚れるぞ」 あゆみは微笑むと、幼なじみの隣に足を投げ出す姿勢で腰を下ろした。 「あゆみは酒、ダメなんだよな」 「うん。シン君も全然なんだよね」 「飲めるけど、まあ、嫌いだな。そういえば子供の頃、雛祭りのときに白酒飲んで大変なことになったの覚えてるか?」 「え、私?」 「俺。ものは散らかすわ壁に落書きはするわで、あとでひどく叱られたよ、あのときは」 「そんなこともあったね」 「今となりゃ懐かしい思い出だな」 と、真一は満開の桜の木を見上げる。無数の花びらが、風にくすぐられて小さく揺れている。 「ねえ、シン君」 「ん?」 「この木って、あれなんじゃない?」 「あれって?」 「願いの木」 いつの間にか、祐樹が二人の前に立っていた。彼は微笑みながら、言葉を続ける。 「この木の前で願い事を言うとそれが叶う――三年前は、信じてなかったんだけどね」 「でも、本当に叶った。俺ら三人が、再会できますようにって願いが。にしても祐樹、宴会には参加しないのか?」 祐樹は苦笑を浮かべながら、 「僕もアルコール、苦手だから。それにあそこまでにぎやかだとちょっと……」 と、背後の喧騒に視線を向ける。その中心にいるのは、波田由利その人だった。 「やっぱりあいつか……」 あまりにも予想通りのその構図に、真一はもはや呆れる気すら起こらなかった。 「え、何?」 「いや、何でもない。しっかし、祐樹も変わってないよな」 「それは、二人も同じでしょ?」 「まあ、そりゃそうなんだけど。俺らの場合、変わりようがないからな」 祐樹はその台詞に微笑で応じたあと、でも、と口を開いた。 「二人の関係はこのままでいいの?」 その言葉の意味に気付いた真一が、言葉を返しながら横目であゆみを見る。うつむいているということは、彼女もまたその意味を理解したのだろう。 「あゆみが困るような質問をするな」 「でも……」 祐樹の言葉をさえぎって、真一は素っ気なく答えた。 「いいんだよ、別に。俺は、あゆみのそばにいられるだけで幸せだからな」 真一の口調があまりにも普段と変わりなかったので、祐樹のみならずあゆみもその台詞の重要性に気付くのが一瞬遅れた。 「――だって。あゆちゃんは?」 「え? あ、あの、わ、私だって、そうだよ」 一気に言い切った真一とは対照的に、あゆみの言葉はしどろもどろだった。 「ほら、もういいだろ。とっとと話題変えろ」 「やだなあ、話題変えるなんて野暮なことしないってば。邪魔な人はさっさと消えるよ」 「あ、そう……って、おい!」 「じゃあねー」 祐樹が立ち去ったあとに訪れたのは、当然無言の時間。お互いが横目で相手を見、目があってはすぐに視線を逸らす。そんなことを何度か繰り返したあと、先に口を開いたのはあゆみの方だった。 「……シン君」 「な、何?」 「さっき言ったこと……あれ、本当?」 「ああ、ま、まあな……」 真一は自分の膝に視線を落としながら、 「嘘ついてもよかったんだけどさ、それじゃお前が色々と気にするだろうし、それに――」 「……」 「お前に対しては嘘、言いたくないから……」 真一は桜の木にもたれかかると、また言葉を封じ込めた。すぐ隣にある見慣れた女性の顔を、どうしても視界に入れることができなかった。 「ねえ、シン君。……二人で来たいね、ここ」 「あ、ああ、そうだな。じゃあ、明日にでも来るか」 「うん」 ――幸せ、か。 先程祐樹に言った台詞は、実はとっさに口から出たものだった。だからといって、それが嘘なのではない。無意識的な言葉によって、自分の気持ちが分かったのだ。 真一の記憶の中には、いつもあゆみがいた。二人でいる思い出の方が、一人のそれより多いほどである。 「あゆみこそ、嘘……なわけないよな」 「う、うん……。幸せって言っていいのかどうかは分からないけど、でも、シン君のそばにいると安心できるから……」 「それなら、俺だって同じだよ。さて、と」 真一は立ち上がり、砂を払いながら前方の大騒ぎに視線を向けた。 「どうしたの?」 「いやね、そろそろあの騒ぎの矛先がこっちに向いてきそうだからさ。――ほら、来たみたいだ。どうした、祐樹?」 「真一、悪いんだけどあっちに参加してくれる? 何かやれってうるさくってさ」 「ああ、分かったよ。それじゃ祐樹とあゆみ、協力してくれないか?」 「何するの?」 「特権だよ。ここを昔から知る人間の、ね」 真一はそう言って、悪戯っぽく笑った。 「待ってましたー」 「何やるのー?」 真一は桜の木の前に立つと、神妙な面持ちで口を開いた。 「季節外れの怪談、ってところかな」 「真一……まさか、あれ話す気?」 「そういうこと。連中の酔いを醒ますのにはちょうどいいと思うから」 「あの話って、まさか……あれ?」 と、恐る恐る聞いたのはあゆみ。 「そう、そのまさか。さて、始めましょうか」 真一は少し芝居がかった敬語口調で、宴会集団の方に視線を向けた。 「皆さん、桜の木の下に死体が埋まってるっていう話は聞いたことありますね? 死体の生命力のおかげで、桜は妖しいまでの美しさを保っていると言われていますが、ここの桜にはそれとはちょっと違うエピソードがありましてね……」 真一は一旦言葉を切ると、傍らの木を一度仰いだ。 「詳しいことは知らないんですが、過去にここで色々あったらしいんですよ。で、まあ昔なんかはここでよく見たらしいんですね、幽霊とかを。もっとも最近はそんなことないらしいんですけど」 真一から目配せされた祐樹が、話を引き継ぐ。 「その幽霊っていうのが、今みたいな桜の咲いてる時期しか出なくて、しかも――騒いでる人たちのところに姿を現すらしいんだよね。昼夜関係なく」 一瞬で水を打ったように全員が静まり返った。 「一説には桜の精だって話もあるんだけど、真相は分からないんだ。けど、この桜の前で騒ぐ人が多ければ多いほど、次の年はきれいに咲くんだ。まあこれだけなら、何のことはない神秘的な話なんだけど――」 再び、真一。 「ここの桜がきれいになればなるほど、不幸に襲われる人が多くなる――で、初めに不幸になっていくのがここで騒いだ人らしいんですね、これが」 「う……嘘でしょ? ねえ、水崎さん?」 女子の一人が、あゆみに否定を求める。だが彼女が首を横に振ったのは、それまでの話に対してではなかった。 「残念だけど、本当。この辺りじゃ有名な話だから」 「だから、地元の人間はここじゃ花見はやらないんだ。やっても騒がないし。証拠に、この公園ほとんど汚れてなかっただろ?」 「ちょ、ちょっと待ってよ。そんな話があるなら、何で止めなかったの?」 と、由利。完全に瞳が怯えきっている。 「止めたところで中止するか? まあ、あくまで過去の話だし迷信だとは思うけどな。真相はここを汚されたくない連中がでっち上げた作り話ってところだろ? これで俺の話は終わり」 真一は話を切り上げると、幼なじみの二人とともに「願いの木」の下に戻り、座り込んだ。 「名演技だねえ、お二人さん」 愉快そうに、真一は他に聞こえないように小声で言った。 「僕はいいとしても、まさかあゆちゃんまで合わせるとは思わなかったけどね」 「特別だよ?」 あゆみの表情には苦笑が混じっていたが、まんざらというわけでもなさそうだ。 「こう見えてもあゆみ、あの手の悪戯とか嫌いじゃないんだよな。まあ、他人に迷惑をかけないものに限るけど。しかし、見事に騙されてくれたよな」 「本当に真一って話を作るの上手いよね」 真一は先程に比べはるかにおとなしくなった――もっとも、それでもしっかりと飲酒は続けているのだが――クラスメイトたちに、悪戯の色を含んだ視線を差し向けると、小さく笑った。 「あの話は小学校時代に考えた中でも最高傑作だからな。高校生に通用するかどうか、不安だったんだけど。まあ、これで多少は静かになるだろ。それはそうと、クラスの連中の顔を見てたら思い出したね。お前らにあの話したときのこと。あゆみ泣き出しそうになって、それですぐに嘘だってばらしたんだよな」 「それ以来、一個も怖い話は作らなかったんだよね。真一、まだ物語とか作ってるの?」 「たまにな。もっとも、怪談は作ってないけど」 「あゆちゃんが泣くから?」 と、祐樹はからかうように言った。 「いくら何でも、高校生になって怪談で泣くかよ。あの手の話は作るのが難しいんだよ」 「最近は、ほのぼのするような話が多いよね」 「ほのぼの?」 「要するに、あゆみが好きそうな話だ。何せ祐樹がいなくなってからは、あゆみにしか聞かせなくなったからな」 あゆみは意外そうな表情で、 「え? 他の人に聞かせてないの?」 「お前以外の奴には笑われそうだからさ。もっとも大切じゃない連中に、自分の夢を聞かせようなんて最初から思わないけど」 「で、その『大切な人』があゆちゃん?」 その会話を充分に楽しんでいる口調の祐樹に、真一は大きく息をついた。 「お前もだろうが、祐樹。別にいつも俺らと一緒にいたから、お前に聞かせたわけじゃないんだぞ? そうやって人のことからかうのはいいけど、お前の方こそ彼女とかできたのか?」 「まだ。なかなかそういう縁ってないんだ」 「だろ? まあ、焦ってもしょうがないよな。それよりも――」 と、突然立ち上がる真一を、祐樹は不思議そうな表情で見上げる。 「どうしたの?」 「ほら、あっち」 「あっちって……何、あれ……」 祐樹に指差された方を見た祐樹は、ただ言葉を失うしかなかった。 「え? ……ノーコメント」 それは、担任教師と由利の二人以外、全員が酔いつぶれてしまっている光景だった。一言で表現するならば、死屍累々という熟語が一番ふさわしいだろう。 「さすがに平日の昼間から高校生が酔いつぶれてるってのは、あんまりほめられたもんじゃないだろ? だから、起こそうかと思って」 「起こすって、どうやって?」 「あれだよ」 真一が示したのは、公園の水飲み場だった。 「で――これを使う、と」 「何それ? ホース?」 「ああ。でも、ちょっと変わっててな。霧状にして水をまけるんだ。こんなこともあろうかと、用意してたんだよ」 「……そんなことして、大丈夫なの?」 真一の意図を汲み取ったあゆみが、不安げに尋ねる。 「じゃあ聞くが、あのままほっといていいと思うか?」 「よくないけど……」 「あとで、みんなに恨まれないかな」 と、祐樹。 「大丈夫だろ。……根拠はないけど。じゃ、やってくる」 真一は水飲み場の傍らに立つとホースを取り付け、何のためらいもなく蛇口を全開にした。 「起きろ起きろ起きろー!」 少し粒子が大きい霧に様々な方角から悲鳴が聞こえてくるが、真一は気にせず水をまき続ける。やがてほぼ全員がしめってきた頃、蛇口を絞め尋ねた。 「起きましたか?」 「な……何するの!」 最初に突っかかってきた由利に、真一は平然と答えた。 「何って……目覚まし時計代わり」 「時計代わりって……私は寝てないって!」 「けど、他の連中はみんな酔いつぶれてたんでな。そんな状態のままほっとくわけにもいかないだろ? しかし、みんなして弱いなー」 「あのね……仲井君、一滴もお酒飲んでないでしょ!?」 抗議するような口調の由利に、真一は肩をすくめながら応じた。 「分かったよ。飲めばいいんだろ?」 そして、一時間後――。 「何だ? 波田、結局酔いつぶれちゃったよ」 傍らに寝転がる由利を見て、真一は呆れた声を上げる。だが、他の人間の反応は違っていた。 「仲井君……あなた……」 桜岡は言葉を失うしかなかった。真一が平然とした表情で周囲を見渡す。 「何だよ、みんなで呆気に取られた顔して。幽霊でも見たか?」 「幽霊の方がまだ驚かないと思うわよ……」 と、担任曰く。 「じゃあみんな、どうして驚いた顔してるんですか?」 「どうして、って……あのねえ」 桜岡は一呼吸おいてから、 「未成年が一時間で日本酒二升も飲んで、平気な顔してれば誰だって驚くでしょ!」 「そうですか? 強かったらこのぐらい飲めるもんじゃないですか?」 「強いったって限度があるわよ。第一、普通の水だって一時間で二升も飲めないわよ」 「そう言われてみればそうかも……。それよりも、こいつどうするんですか?」 と、傍らに寝転がる由利に視線を落とす。 「どうするって……家まで送っていくしかないんじゃない?」 「送っていくって……誰が? 波田の家、知ってる奴いるんですか?」 一通りクラスメイトの顔を見回すが、真一の予想通り全員の目が否定していた。 「先生、知ってます?」 申し訳なさそうに桜岡は首を横に振って、 「まだ日が浅いから、そこまで把握してないの」 「じゃあ、どうするんですか? いっそのこと、無理矢理叩き起こします?」 「それ、やめた方がいいと思うよ?」 と、男子の一人が言った。 「どうして?」 「だって波田さんって、寝起き悪そうだから」 「……成程。正論だ……って、それじゃなおさらどうするんだよ?」 「お取り込み中悪いんだけど……」 遠慮がちに、祐樹が会話に割り込んでくる。そして彼は、話題の結論を持っていた。 「知ってるけど……波田さんの家」 一瞬の沈黙のあと、全員の視線が祐樹に集中した。 「だから、送っていってもいいけど」 「ちょっと待て。何で祐樹が波田の家を知ってるんだよ?」 「波田さんの家、僕の家の近くなんだ。だから」 「じゃ、前原君、お願いできる?」 「あ、はい」 祐樹が快く頷くと、桜岡は安心したような表情を見せた。一応は、教師としての責任を感じていたのだろう。 「それじゃ、今日はこれで――」 解散、という言葉を真一がさえぎった。 「ちょっと待って下さい。波田を家に送り届けるのはいいんですけど、彼女の保護者にどう言うんですか? まさかそのまま言うわけにもいかないと思うんですけど」 「ああ、それなら大丈夫。波田さん、一人暮らしなんだって」 「一人暮らし……って?」 「彼女の御両親、どっちも仕事の都合で海外に住んでるらしいのよ。で、彼女はこっちに残ってるんだって」 「へえ……」 ほとんどが感心したような表情を見せる中、祐樹だけは複雑な顔をしていることに誰も気付かなかった。 「祐樹」 「え? あ、ああ、真一」 「俺も手伝うよ。波田がこうなったのは、俺が原因なわけだしさ」 真一がまるで水のように酒を飲み始めたのを見て、何を思ったのか由利もそれに張り合ったのだ。だがその時点ですでにアルコールが入っていたのに加え、真一の信じがたい強さに、結果は前述の通りとなったのである。 「大丈夫。それよりも、あゆちゃん送っていってよ」 周りに聞こえないように、祐樹はささやき声で言った。真一も、幼なじみと同じく小声で返す。 「あいつなら問題ないだろ? 酒だって飲んでないわけだし」 「いいから。知らないの? あゆちゃんって意外と嫉妬深いんだよ」 「そ……そうなのか?」 「うん。それに、僕の方は一人で平気だからさ」 「……分かった。悪いな、祐樹」 「気にしなくていいよ」 「じゃ、また明日な」 それが、場の解散の合図になった。それぞれが家路につく中、真一は釈然としない表情でその場に立ち尽くしていた。 「シン君?」 「ん? ああ、あゆみか。なあ、お前って嫉妬深いか?」 「え? ううん、そんなことないと思うけど」 「だよなあ」 腕組みをして祐樹が帰っていった方を見つめる真一に、あゆみは少し前から持っていた疑問を尋ねた。 「それはそうと、どうして祐樹君が波田さん送っていったの?」 「え? あ、お前のいた場所じゃこっちの会話、聞き取れないもんな。祐樹の家、波田の家の近くなんだと。で、波田はそこに一人暮らししてるんだってさ。両親は二人とも仕事で海外にいるらしいんだよ」 「それじゃ、家のこととか全部一人でやってるのかな?」 「だろうな。けど、問題はそれじゃなくて――歩きながら、話すか」 「あ、うん」 真一は「願いの木」のそばに置いてあったバックを背負うと、中断していた話を再開した。 「でな、波田がああなった責任は俺にあるわけだろ? だから、手伝うって言ったんだけど――」 「断られた?」 真一は神妙な面持ちで頷いた。 「いいから、あゆみのこと送れって言われて。でもさ、お前酒なんか一滴も飲んでないわけだし、別に俺が送らなくても大丈夫だろ?」 「うん」 「だから、そう祐樹に言ったんだよ。けど、それでもあいつ断ったんだ。変だと思わないか?」 「確かに変だね……。あ、もしかして祐樹君、波田さんのこと……」 真一はゆっくりとかぶりを振った。 「普通に考えればそうなるんだけどな。祐樹の場合、顔とか態度にすぐ出るから。でも、そんな素振りは少しもなかった」 「じゃあ、どうして?」 あゆみの問いかけに、真一は小さく溜息をつきながら答えた。 「俺が聞きたいよ」 |