「シン……君、待って……」 途切れ途切れのあゆみの声に、真一は足を止め後ろを振り返った。 「大丈夫か?」 「ちょっと……休もうよ」 「そうだな。ここらでちょっと休むか」 真一は石段に腰を下ろすと、疲れた表情で足を投げ出しているあゆみに声をかけた。 「大丈夫か?」 「う……うん」 「足は?」 「棒みたい……」 「まだ歩けそうか?」 「うん、何とか……」 真一は頷くあゆみの表情とその足を交互に何度か見ると、 「嘘つけ。足、思いっ切り震えてるぞ」 「でも、少しすれば止まるから……」 「お前なあ、そういう問題じゃないだろうが。足が震えるぐらい疲れてるのに、何ともないふりするな」 「だって……余計な心配かけたくないし……」 「バーカ。心配に余計なもんなんて、あるわけないだろ。心配の対象がお前だったらなおさらだ」 そう言うと、真一は小さく溜息をついた。 「まあ、原因の一端は俺にもあるんだけどな。――冷静に考えりゃここ、女の子には相当辛いよな。ごめんな、あゆみ。こんなとこ連れてきて」 と、心配そうな表情を見せる。あゆみはそれを打ち消すように、足の痛みを隠しながら精一杯の笑顔で応えた。 「ううん。シン君が謝ることないよ。それよりも、これからどうするの?」 「あゆみはどうしたい?」 「せっかくここまで来たんだから上まで行きたいな。残り五十段ぐらいでしょ? だったら……」 「だから、無理するなって。おぶってってやるよ」 「え……い、いいよ。そこまでしてくれなくても……」 困惑しているあゆみに、真一は少しだけ強い語調で行った。 「いいから。どうしても連れていきたいんだよ」 「でも……シン君だって疲れてるだろうし……」 「俺は大丈夫だ。それとも嫌か?」 「う、ううん。そういうわけじゃないけど……」 当然、あゆみの言いたいことはよく分かっていた。だが真一はそれに気付いていない顔をし、自分の提案を自身で可決した。 「じゃ、決まり。ほら」 「うん……」 「――よっ、と」 いとも簡単に背負われたあゆみは、顔を真っ赤にしながらも強く真一の背中にしがみついた。 「さて、行くか」 「うん……」 あゆみはしばらく無言でいたが、やがて小さな声で真一に話しかけた。 「ねえ、シン君」 「ん?」 「……私、重くない?」 「あのなあ。あゆみ、体重どれくらいだ?」 「四十一キロ……」 「それで重いわけないだろ」 「でも……」 真一は小さく息をついて、石段を上がる足を止めた。 「あのさ、あゆみ。俺、お前から迷惑かけられた記憶なんて一個もないぞ」 「え……」 「昔からずっと思い返してたんだけどさ、お前、俺に迷惑なんてかけたか?」 「かけたよ。すごく、たくさん……」 暗くなるあゆみとは対照的に、真一はとぼけた口調だった。 「そうか? 俺、お前のせいで嫌な思いしたことなんて一度もないけどなあ……」 「嘘。だって、今だって……」 とても悲しげなあゆみの言葉は、その気持ちを伴って全て真一に届いていた。 「今だって、何?」 「こうしてるし……」 「それが、迷惑?」 自分の背中で、あゆみが小さく頷くのが分かった。真一は目をつむり、彼女との数え切れない思い出を再び掘り返してみる。だが、答えは同じだった。 「あゆみ、お前どんなことが俺にとって迷惑だって思ってる?」 「どんな、って……」 「思い返してみると、本当にお前から迷惑かけられた記憶は、一つもない。けど、お前はことあるごとに『迷惑だった?』って聞いてるんだよな。お前、どんなことが他人にとって迷惑だと思ってるんだよ?」 「他の人を嫌な気持ちにさせたりとか、しなくていいことをさせたとき……」 「で、今回は後者の基準に引っかかるってわけか」 真一の肩をつかむ力が、ほんの少しだけ強くなった。彼の背中に、暖かい額が当たる。 「本当に、しなくていいことだったのかな?」 「え?」 予想外の台詞に、あゆみは思わず顔を上げた。 「お前の言ってるのは、本当なら俺がお前を背負う必要なんてなかったってことだろ?」 「う、うん……」 「それって言い方を変えれば、『本当なら自分は、ちゃんと自分の足で上まで行けたはずなのに』ってことだろ? でもそれ、本当にそうなのか?」 「どういうこと?」 「これは俺の謝らなきゃいけない部分だけどさ、お前、二百段の階段なんて平気な顔して全部上がれるか?」 「それは……」 あゆみの答えを待たずに、真一は言葉を続けた。 「実際相当疲れただろ? 俺だって最初に一番上まで行った次の日は、筋肉痛になったんだから」 「でも……」 その声音は視界に入らないあゆみの表情を想像させるのに、充分に足るものだった。 「そんな悲しそうにするなって。おんぶする以外の方法も確かにあるだろうけど――休みながらゆっくり行くとかな――、でも俺はこうするのが一番いいと思ってやったことなんだ。むしろ、今やってることは俺のわがままだよ」 「わがままって?」 「だってあゆみ、少し恥ずかしいんだろ?」 「……」 自分の心を指摘されたあゆみは、何の言葉も紡げなくなった。 「それでも――お前に恥ずかしい思いをさせてまで上に連れていきたいってんだから、わがまま以外の何でもないだろ? それにどっからどう見たって、迷惑かけてるのはお前じゃなくて俺だろうが。こうしなきゃ上に行けないくらいお前のこと疲れさせたんだから」 あゆみがこのとき真一の横に並んでいたならば、彼女はもっとうつむいただろう。このときの真一は、少し大切なものをなくしたあとのような辛い顔をしていたからだ。 「さあ、行くか」 その言葉はあゆみに対してというより、自分に対して向けられていた。自分がこれから向かおうとしている場所が、大切な人をこんなに疲れさせてまで行く価値があるのか、その自信がなくなったのだ。 確かにあゆみと真一は、他人が入り込みようがないほど多くの時間を共有している。しかし、それで価値観が似るわけではない。自分にとって大切な場所でも、そこがあゆみにとって大事な場所になるという保証はどこにもないのだ。 「……」 ――もしも。そこがあゆみにとって何の意味も持たない場所だったら? 分からなかった。そのときに何と言えばいいのか、どんな台詞がふさわしいのかが。 「ねえ、シン君」 「ん?」 「そこって、どんな場所?」 「どんな場所、って……」 何か特別なものが存在するわけでも、誰かが住んでいるわけでもない。そこにあるのは、あるいはどこにでもある――風景。 「きっと、いい場所だよね」 「……」 そこにどんな感想を持とうが、それは真一の責任ではない。だから、あゆみにとってその場所がつまらないものだったとしても、それで彼が落ち込む必要はないのだろう。だが、彼がそう考えられない人間であるのも、また事実だった。 「なあ、もしも――」 「何?」 「もしも、あゆみにとって何でもない場所でしかなかったら、どうする?」 「そんなこと、絶対にないよ」 即答だった。そうできる理由を、真一は知っていた。だから辛かった。 「シン君の大切な場所でしょ? だったら私の大切な場所にもなるよ」 「……お前は俺じゃないんだぞ。『俺の大切な場所だから』ってのは、理由になんないだろ」 「そうなんだけど、――どう言えばいいのかな。シン君のこと、信じてるから」 「信じてるからって……」 「私をここに連れてきた理由。それ、信じてるから」 「あ……」 理由。それを口にしたわけではないが、恐らくあゆみは完全に知っているだろう。 「シン君、私の大切な場所を増やそうとしてくれてるんだよね。ただ見せるだけだったらさっき引き返してると思うし、そんな意味のないことシン君はしないって、ちゃんと知ってるから」 「か……買い被るな。俺、そんなに大人じゃないぞ」 「うん。分かってる、分かってるよ」 小さな笑い声を混じらせながら、あゆみは相槌を打つ。その口調から、彼女の『分かってるよ』が直前の台詞に対するものでないのは明白だった。 「……」 ごまかしの言葉は見つからなかった。もっとも、何を喋ろうと全く効果はありそうになかったが。 普段のあゆみは、真一にとっては妹のようだった。少しのことに笑い、落ち込み、照れる。あと数ヶ月で十六歳になることを考えれば、明らかに彼女は子供じみていた。 けれど。 自分の感情を話すとき、その心に正直になっているときのあゆみは、誰よりも大人になり、そしてその中に誰よりも子供の部分を残していた。 だがそれは、水崎あゆみという少女を理解できなくしているのではない。彼女は誰の目からも分かりやすい人間であるし、実際、表裏など全くないのだ。 「あゆみ、お前自分で自分のこと、子供だって思うか?」 「うん、いつも思う。本当はそういう部分、あんまり好きじゃないんだけど……」 ――逆だ、逆。それ、一番あゆみが胸を張っていい部分なんだよ。 子供であることと、大人であること。誰もが持っている、二つの要素。 子供は大人になりたいと願い、大人は子供に戻りたいと思う。矛盾しているようで矛盾していない、二つの願望。 その二つはどちらも重要であり、そしてあゆみはそれらをどちらとも所有していた。しかも、両方とも完全でない形で。 「ほら、着いたぞ」 あゆみは真一の背中から降りると、すぐに瞳を輝かせた。 「わあ……」 彼女の視界に広がったのは、小さな草原と、二人の思い出が数多く詰まった街並みの縮小図だった。 「いい眺め……。私たちの街を一望できるところなんてあったんだ」 「最初は偶然だったんだ。たまたまあの階段見つけて、上がってきてみたらこの風景、ってわけ。で、あゆみ」 「何?」 「気に入って、もらえた?」 「うん! ――あ、ねえ、シン君の家ってどの辺かなあ?」 「えっと――」 子供と大人を両方持ち合わせていながら、誰もあゆみに戸惑わない理由――それは、大人であり子供である以前に、あゆみはあゆみだからである。両方の要素に流されないだけの「自分」を持った、どこにでもいる少女。それが水崎あゆみなのだ。 「気持ちいいね、ここ」 春風が吹き抜け、あゆみのセミロングの髪を小さく揺らす。その風を全身で感じるように、目を閉じ空を仰いで、軽く背伸びをする。 何もかもが優しかった。 「ありがとう、シン君」 「え? 何が?」 「ここに連れてきてくれて」 と、あゆみは微笑んだ。暖かな季節の風が、彼女の髪をなびかせる。 「あ、ああ」 いつも見ているはずの笑顔。見慣れているはずの表情。それなのに――。 「どうしたの?」 内心の動揺に気付いたのか、あゆみがいつの間にか顔をのぞき込んでいた。 「な……何でもない」 自分自身の気持ちが、何もごまかしようがないほどに分かりやすかった。そして、その感情を受け入れられることが心地よかった。 「それよりも足、大丈夫か?」 「うん、平気。それよりも、シン君に聞きたいことあるんだけど」 「何?」 「今までここに他の誰か連れてきたことってある?」 「ないけど、それが何か……」 言ってしまってから、少年は自分の発言の重大さに気付き慌てて口を噤んだが、あゆみはおかしそうに笑っていた。 「な……何だよ」 「別に」 素っ気ない相槌を打ちながらも、少女の瞳には優しさがあふれていた。 「ただ、シン君って本当に分かりやすいなあ、ってそう思っただけ」 「……」 真一の思考から完全に言葉が失われる。残ったのは、彼の顔を赤く染め上げるような感情だけ。 「子供の頃からそうだったよね。嘘ついて、すぐに誰かに見破られて、それで何とかごまかそうとするんだけど、でも結局ごまかせなくて、ふてくされてそっぽ向いて。――同じだね、昔と」 そう言われ、真一は自分があゆみから視線を外していることに気付いた。慌てた声で、必死にいいわけをしようとする。 「あ、あのな、別に俺、ふてくされてるわけじゃないぞ。子供じゃあるまいし、ふてくされるわけないだろ」 だがその台詞は、いいわけどころか逆に墓穴を掘っていた。 「じゃあ、どうして?」 「ど……どうして、って?」 「どうして、後ろ向いてるの?」 「う……。そ、それは……」 背中から聞こえてくる、あゆみの小さな笑い声。無論それは真一を嘲るようなものではなく、暖かみのある声だった。 「シン君って、本当に素直だよね」 「そ……そんなことないって」 「ううん、あるよ」 真一はそこでやっと前に向き直ると、溜息をついて言った。 「本当にひねくれてるんだよ、普段の俺は。俺が素直に見えるってのは、そりゃ……、あゆみの前だからだよ」 真一はぶっきらぼうに言い切ると、またあゆみに対して背中を向けた。 「と、とにかく俺としちゃここのこと気に入ってもらえて安心したよ」 話題を逸らすために本心を言った真一には、もう自分自身の感情をごまかせるカードは残っていない。だからこそあゆみの言葉を待っていたのだが、彼女の声は何故か聞こえてこなかった。 「あゆみ?」 訝しげに思って再び振り向こうとした真一だったが、しかし実際に彼の体が前を向くことはなかった。真一の背中にあゆみの背中が重なってきたのだ。 そして訪れる、優しい無言の時間。 「こういうことするのって、初めてだね」 沈黙を終わらせたのはあゆみの方だった。彼女の照れくさそうな声が、その気持ちを分かりやすく代弁していた。 「そ、そりゃそうだろう。普通の生活の中じゃこんなことあんまりしないからな」 背中伝いに、あゆみをいつもよりはっきりと感じられることに少し戸惑いながらも、今の状況から逃げようとは思わなかった。 大切なことはいつでも近くにあり、それらの中に何一つとして特別なことはない。だからこそ、何が自分にとって大きな意味を持つのかがすぐに分かるのだ。 「本当のこと言うとね――」 「ん?」 「さっき、シン君におんぶされたとき、少し嬉しかった。シン君の背中、暖かかったよ」 「分かってるよ。俺も、同じだったから……」 ――そして、優しい時間はゆっくりと流れていった。 |