第三章 境界線上 怪鳥の襲来を受けた、十日後。少年は一人、森の中にいた。 「……はっ!」 傍らの木に蹴りを叩き込む。無数の木の葉が宙に舞った。 「風を刃とし、断て!」 音もなく木の葉が両断され、地面に横たわっていく。やがて空を漂っていた全ての葉が落ちると、セムは一枚ずつ拾い始めた。 「まだまだだな……」 地面に散らばった木の葉を一つ残らず拾い、背後に積まれたそれの山の上に置く。セムは深く息をつき、近くの切り株の上に座った。 「セム?」 木々の間から、突然少女が現れた。 「どうした?」 「木が揺れてたから来てみたの。何してたの?」 「あれだよ」 と、セムは大量の植物を指した。 「俺の能力を制御するための、ちょっとした訓練だよ。木を蹴って、落ちてきた葉を狙う。大体六割ってところだな、命中率は」 「いつも、こういうことを?」 セムはかぶりを振り、自分の行動の理由を淡々と説明し始めた。 「今日が初めてだ。狙ったところに確実に当てられれば、戦いを長引かせずにすむ。戦うことが避けられないんだったら、早く終わらせればいい。そうすれば、俺自身も巻き込まれた奴も、多くの傷を負わずにすむからな」 「グラハさんのこと、気にしてるの?」 少年が目を伏せる。問いかけが的を射ていたことを証していた。 「……この前は助かったからよかったけど、死んだら取り返しがつかない。俺が強くなることで守れるものが増えるなら、どんなことをしても強くなってやる」 それは決意というよりも、自らの弱さを責めているような声だった。彼の瞳からは、その心の奥底は推し量れない。微かな後悔を覗かせながらも、本心を映すことまでは拒絶していた。 「どうして、セムはそんなにたくさん抱えようとするの? 私のこともそうだし、グラハさんのことにしてもセムが悪いわけじゃないのに……」 「そういう性分なんだろうな、きっと」 冗談とも本気とも取れる口調で言い、セムは天然の椅子を離れた。 「少し、歩かないか?」 「あ、うん」 木の群を抜けると、セムは不意に立ち止まった。彼の顔をシーラが覗き込む。 「どうしたの?」 「いや……」 セムは曖昧に首を振ると、再び歩き出した。彼の態度を不思議に思いながらも、少女がそれ以上の追求をすることもなかった。 「もし――」 短い沈黙を破ったのは、セムだった。抑揚のない声が、穏やかに紡がれていく。だが、彼の心中はそれと正反対の色を帯びていた。 「あのとき襲われたのが、カウムじゃなくてユイナだったら……そう考えると、怖くなる。あの日以来、そのことばかり考えてる。ユイナは襲われなかったし、カウムは助かった。だから、考える必要はないのかも知れない。でも……」 重い息と共に、セムは言葉を切った。 シーラは口を開かず、視線を地面に落としていた。少年にまとわりついている恐怖と酷似した感情を、彼女もまた知っていたからだ。 真紅に染まった衣服。何かを考えるよりも先に、カウムに触れた。止めどもなく体外に流れ続ける血液が、少女を嘲るように問う。 ――もし、助けることができなかったら? 結果として、それは杞憂に終わった。けれど、あのときに抱いた危惧は未だ自分の中で燻っている。 「カウムが死んだら、一番悲しむのはユイナだからな……。子供の泣き顔なんて、見ない方がいい」 シーラは小さく頷き、微風にすらさらわれてしまいそうな声で呟いた。 「あんな気持ちは、知らなくていいよ……」 両親を失ったという現実の重さから逃れるために、シーラは感情の一部を封じた。それがどれほどの悲傷の果てにあることなのか想像できない少年が、短く謝罪する。 「……悪い」 「ううん、いいよ」 シーラは微笑む。その目はセムを責めてはいなかったが、見慣れている澄んだ色とも違っていた。 「無責任なこと、言うね。私、セムが羨ましい。セムの力は、傷つくことを防げるから」 「治すことよりも、壊すことのできる力の方がいいのか?」 彼女は俯き、力のない言葉を土の上に落としていった。 「贅沢を言ってるのは、分かってる。でも、私の力は……」 誰かが傷つくことを阻止できる力と、傷ついた誰かを癒せる能力。それは、先手を打つか後手に回るかという決定的な差を有していた。 「セムの力は、使い方によって傷つく人を減らせるかも知れない。でも、私は傷が生まれるのを待つしかなくて……」 死を覆すことは、シーラの力でも不可能だ。故に、彼女は常にある恐怖と対峙していた。 「もし手遅れだったら、か」 「うん……」 「全てを救えるのが理想だろうし、それを願う気持ちは分からなくはない。でも、それはあり得ないことなんだ。たとえどんなに特殊な力を持っていても、全ては救えない」 セムの言うことは、頭では理解できた。少女自身、誰一人例外なく助けられるとは思っていない。だが、理性では肯定できても感情が拒んでいた。 「諦めろって言うの?」 反射的に発した声は、いつもよりも荒れていた。その声音に驚きながらも、セムはゆっくりとかぶりを振る。 「自分にできることをやるしかないんだよ。救えたかどうかなんて、所詮は結果でしかない」 「もし、助けられなかったら?」 「落ち込んで、泣いて……それくらいだろうな。そこから先は、そのときになってみないと分からない」 「そうだよね……」 何らかの達観した台詞を吐き出せば、正解があるはずのない逡巡を止めることは不可能ではない。けれど、そうしたところで何も変わらないことは自明の理だった。気休めをいくら重ねても、少女はまたすぐに同じ壁にぶつかるだろう。障害を取り除く術を知らない少年は、無言を貫く。言葉を失った二人の周囲を、足音が支配していた。 太陽は僅かに西に傾き、その光の温度は春が残り少ないことを教えていた。春と夏の間にある風景の色彩は、日に日に鮮やかになっている。空は青く、雲は白く、漂う空気すら目に見えそうな季節の中に、小さな嘆息が紛れた。 「それでも助けたいって思うのは、意味のないことなのかな……」 「いいんじゃないか、そう思ってて。意味の有無は俺には分からないけど、自分の気持ちと向き合った上で答えを出すことが大切なんだ」 最終的に、答えはシーラ自身が導き出すより他にない。その事実を承知してなお、セムは一つの問いを口に出さずにはいられなかった。 「傷ついた誰かを助けることができなかったら、シーラは力を使うことをやめるか?」 少女は反射的に首を横に振ったものの、次に唇を動かし始めるまでには幾ばくかの躊躇があった。 「やめないと思う。自分の力を拒みたくはないから」 少年は微かに笑う。やがて二人の足は、双子の大樹の前で止まった。その片割れに背を預けて、セムは空を仰いだ。 「厄介な力だよ、お互いに」 扱うことが困難なほどそれぞれの能力が大きかったら、頻繁に使うことなどなかっただろう。自らの力が及ばなかったときのことに思いを巡らせ、心に影を落とすこともあるいは避けられたかも知れない。手中に収まるからこそ、自らに多くのものを――正負に関係なく――もたらしていた。 「だけど、捨てられない。これは自分の一部だから」 セムの目の前を通り過ぎようとした一枚の木の葉が、音もなく両断される。断片の一つを握り潰して、彼は呟いた。 「面倒だよな……」 セムの言葉には応えず、シーラは自分の手を静かに見つめていた。彼女の行動の意味を問うこともなく、少年は目を閉じる。彼の脳裏に浮かんだのは、ある言葉だった。 ――この世の中に、正解は一つもない。 それが記憶の中に刻まれたとき、彼はまだ物心がついたばかりの子供だった。誰に言われたのか覚えていないことと、当時は理解できなかったその意味を現在は知っていることが、否応なしに時間の経過を思い知らせる。 正しさは、所詮相対的なものでしかない。誰かにとっては正義と呼ばれることも、逆の立場にいる人間にとっては悪となることもある。個々人が抱く価値観によって善悪も正誤もそれぞれに決定されるからこそ、万人に通用する正解は存在しないのだ。 故に、彼は自分を信じている。絶対の普遍がないのなら、自分が正しいと思うことを探し出せばいい。真実は、自分にとって意味があればいいのだから。 「あの……」 突然の聞き慣れない男性の声によって、セムは現在へと引き戻された、隣には、彼の妻らしき女性が所在なさそうに立っている。 「ユイナという女の子を、御存知ないでしょうか?」 初対面の人物の口から出た知己の少女の名は、彼女を知る人間の心に新たな波を立てた。漠然とした不安を、少年は言葉に代える。 「あんたらは、一体――」 女性が、セムを遮るように口を開いた。 「あの子は私たちの子供なんです」 「誕生日、おめでとう」 「誕生日……?」 それが自分に向けられた祝辞だと気付かずに、ルイは無感情な返事を幼なじみに返した。 「お前の誕生日だよ。熱でもあるんじゃないか?」 と、ルイの額に手を当てる。変調は特にないようだった。 「ああ……うん、そうだった」 「本当に忘れてたのか?」 怪訝そうに尋ねるキトに頷き、女性は重い息を吐き出した。 「悩みでもあるのか?」 「……馬鹿げたことよ」 孤独になることへの恐怖が原因だと、何故言えるだろう。根拠のない感情に捉えられることは、愚行以外の何物でもなかった。 「誕生日を忘れるほどの悩みが、くだらないことなのか?」 「そうよ」 笑われるのが嫌なわけではない。むしろ、その逆だ。今、自分の心を占めている不安を口に出して、それをキトが一笑に付さなかったらどうすればいいのだろうか。 「誕生日だから何だって言うの?」 そんな心情を反映するように、棘のある声音が吐き出される。ルイの胸の内を察したのか、キトは何も答えなかった。 「私が産まれた日っていうだけじゃない。どうして祝わなくちゃいけないの?」 子供じみた台詞なのは承知していた。それでも、自らの唇を止めることはできなかった。 「大体、生きてれば何もしなくても一年に一度は必ず来るのよ? そんな日の何が特別なのよ。それに本当に祝う気なんてあるの? 単に形だけ――」 ルイが口を噤む。男性の手が、自分の頭の上に置かれたからだ。 「おめでとう」 「……ありがとう」 足下の石を蹴飛ばしながら、ばつが悪そうな顔で応える。ルイは自らの感情を説明しなかったが、それについての説明をキトから求められることもなかった。 「一つだけ、聞いていい?」 「何だ?」 「キトは私のこと、嫌い?」 男性は訝しげな表情を幼なじみに差し向ける。彼女は真剣だった。 「嫌いだったら、どうして誕生日を祝福するんだ?」 「惰性で」 キトは不意に足を止めると、 「何故そういうひねくれた考えになるかな」 と、ルイの両頬を掴み思い切り引っ張った。 「惰性で祝うなんて、そんな面倒なことするか」 溜息混じりに女性の頬を放し、再び歩き始める。痛みの残る肌をさすっている間に、彼は何の躊躇もなく彼女から遠ざかっていった。 「あ、待ってよ」 キトに小走りで追いつくと、横顔に視線を向けた。その顔つきから、怒りの色は見て取れない。彼女は胸を撫で下ろしながらも、彼の感情を害さないよう穏やかに質した。 「これからどこに行くの?」 「人のいないところ」 「何か企んでるの?」 ルイの声はおどけていた。キトも、同じ種類の口調で応える。 「企んでると言えば、企んでるな」 「変なこと?」 「まあ、普通じゃない」 と、キトは些細な前触れもなくルイの手を握った。不意を突かれ面食らっている幼なじみを尻目に、彼女の手を引いて歩き続ける。目に映る人家はまばらになっていたが、女性は彼を信じていた。 「転ばないように気をつけろよ」 村の外れにある小さな林を、連れられるままに通り抜ける。多くの樹幹と無秩序に伸びている枝に遮られていた視界が、一転して広がった。 「まぶし……」 開放された世界に軽い目眩を覚えながら、ルイは細く瞼を開いた。 足下を覆い尽くす淡い緑が、風に微かに揺れている。呆然とした顔でその場に立ち尽くすルイの額を軽く指で弾いて、キトは微笑んだ。 「好きな場所なんだ」 そう言うと、キトはその場に座り込んだ。陽の匂いと草のそれが、時折吹く風によって混ぜ合わされる。彼は息を大きく吸うと、戸惑っているルイを見上げた。彼女は相好を崩し、尋ねる。 「隣、いい?」 「どうぞ」 何の他愛もない日々だけを、ルイは望んでいた。代わり映えのない生活を繰り返し、キトと共にこの村で一生を過ごすことが、彼女の些細な夢なのだ。何故、それが叶わないはずがあるだろう。 二人は会話を交わさない。不規則な薫風が女性の髪を撫で、草花はそこかしこでさざめいている。互いを忘れてしまうような安穏とした沈黙を、幾度こうして迎え入れただろうか。そこに流れている無駄な時間は、埋める必要のないものだった。 「何か話した方がいいか?」 「ううん、気にしなくていいよ」 空は高く、地面が近い。普段よりも低い瞳が、ルイの知らない世界を映し出していた。 「私は、何も知らないのかもね」 「え?」 その呟きの意味するところをキトは察せられなかったが、詳細を問おうとはしなかった。 目の高さが変わるだけで、景色の印象が一変する。一面の緑でしかなかった草葉の形が分かり、空が自分から逃げ出したように思えた。地面に座り込んだだけで自分の周囲が姿を変えることは、普段の視界の狭さを暗に示していた。 「さて、そろそろやるかな」 「やるって、何を?」 「見てれば分かる」 と、立ち上がり深呼吸を繰り返してから、キトはゆっくりと瞼を閉じた。彼を取り巻く空気が、緩やかに重さを増していく。太陽は雲に遮られていないにも拘わらず、ルイは何故か肌寒さを感じ小さく身震いした。 「――」 キトが何かを呟き始めるが、その声は低く内容を聞き取ることはできない。風に揺れる髪を女性が押さえた次の瞬間、水を打ったように静寂が訪れた。 「一つ」 それは、ルイの目の前から始まった。小さな光の粒が突然虚空に姿を現し、その数を増やしていく。呼び名を知るはずもない現象を呆然と見つめながら、彼女は落ち着き払っている男性に尋ねた。 「これ……キトが?」 「さあ?」 白々しく肩をすくめると同時に、二人の周囲を漂っていた無数の光がゆっくりと降り始めた。一つがルイの肌に触れ、吸い込まれるように消える。微かに暖かかった。 「光の……雨?」 「雨っていうよりも雪だな、これは」 光の雪が、地面と二人の体の上で溶けていく。キトは懐から小さなペンダントを取り出し、自分よりも小さな手のひらの上に置いた。 「随分質素ね」 青地に花の彫刻があしらわれただけの、簡素な装飾品。それに対する感想を聞いたキトは、憮然とした表情を隠さなかった。 「それに少し、失敗してる?」 花の輪郭が僅かに歪んでいることをめざとく発見したルイは、装身具を空にかざしながら改めて眺めた。 「お世辞にもいい出来とは言えないわね」 「しょうがないだろう、俺が作ったんだから。それより、いらないなら返してくれ」 「誰もそんなこと言ってないけど?」 と、ルイは手製のペンダントを身に着け、破顔一笑した。 「ありがとう」 アクセサリーに光が溶け込む。彼女の笑顔のせいか、それとも星のような雪がそうさせたのかは分からないが、彼も小さな笑みを見せた。 「綺麗ね」 「ああ」 積もらぬ雪は降り続く。キトは懐に隠したままの、ルイに渡したものよりもう少しだけいびつな青い装飾品を、その存在を気付かれぬようにそっと握った。 それに刻まれているのは、ルイの胸元に咲いているのと同じ花だった。 |