LIVE-on the way-8



「無秩序の破壊を以て、彼の獣を討たん!」
 空間が爆ぜる。一瞬の静寂を切り裂いて、鷲が姿を現した。
「この……!」
 苦し紛れに振った腕の軌道に、炎が走る。獣は急上昇し、少年を見下すように空中に留まった。
「冷気は我が手の中に。彼の熱を奪い――」
 詠唱が完了するよりも早く、獣の質量がセムの体に衝突した。声は止まらない。
「狂気を絶て」
 氷が鷲を捉える。鉤爪が凍りつき、獣の体勢が崩れた。セムが地面を蹴る。左拳に、炎が纏っていた。
「砕けろ……!」
 全体重を乗せて、左手を氷塊に叩きつける。一瞬の静寂。
「グラハさん!?」
 シーラの声と交差するように、綺麗な音を立てながら氷ごと爪が粉砕される。獣は叫声を辺りに響かせ、大きく羽ばたいた。
「カウムのこと、頼む!」
 敵と間合いを取り、セムは大きく息を吐いた。彼の左腕に水の帯が巻きつく。
「他人の真似は、好きじゃないが!」
 セムは腕を振るう。一直線に伸びた鞭を鷲がかわした直後、液体自体に意志があるかのようにその軌道が変わった。
 凶器をなおも逃れようとする獣の体に、水の鞭が絡みつく。空に棲む生物が地面に叩きつけられ、水は砕け散った。
「……終わりだ」
 鳥の頭部を、氷の槍が貫いた。その場に座り込んだセムに、同い年の少女が話しかける。
「大丈夫……?」
「ああ。それより、カウムは?」
「もう心配ないよ」
 と、シーラは血にまみれているセムの右腕に視線を移す。何も言わず、彼女は真っ赤に染まった手を握った。
「……」
 右腕がほのかな温度に包まれる。徐々に痛みが和らいでいく中、シーラの顔が微かに紅潮していることに気付いた。
「……シーラ?」
「大丈夫……」
 セムはただ、名を呼んだだけだ。だが、隠しておきたいことがあるからこそ、シーラは自分の状態を表す言葉を答えたのだ。
 少女の額に手を当てる。彼女の体温は、平常時よりも高くなっていた。
「熱、あるぞ」
「気のせい……」
 セムの腕と肩からの出血は止まり、痛みもだいぶなくなっている。まだ自分の手を握っているシーラの手を引き剥がすと、彼女の体を本人の意志も確認せずに抱き寄せた。
「無理するな」
「セムに言えたことじゃないよ……。それにまだ、全部治ってない……」
「これだけ治ってれば、充分だ」
「でも……」
「いいから、休んでろ」
「ごめんね……」
 自分の肩に額を載せた少女の髪を撫でながら、セムは空を仰ぐ。
 鳥の姿がない以外は、見慣れた風景だった。


「いらっしゃ……おや、セノアさん」
 開店前の店に入ってきた人物に、ルーンは意外そうな声を上げた。その老人と個人的な面識はあったものの、彼が店の扉をくぐることはほとんどなかったからだ。
「珍しいですね。何か飲みますか?」
「いや、気にせんでくれ。単なる気紛れじゃからの」
 ルーンは慣れた手つきでハーブティーをカップに注ぐと、老人にそれを差し出した。
「おごりです」
「相変わらず、儲からんことしとるの」
「趣味みたいな商売ですからね」
 ルーンは微笑む。セノアはハーブティーに口をつけ、ゆっくりとカップをカウンターの上に置いた。
「さて、老人の世間話にでも付き合ってもらおうかの?」
「構いませんよ」
 亡妻の絵に手を合わせ、ルーンはカウンターの中にある自分専用の椅子に座る。老爺はしわがれた声で、話を切り出した。
「あの子は、元気かね? セムが連れてきた、怪我を治せる……」
「ああ、アミスさんですか。元気ですよ」
「セムとは、仲良くやっとるのか?」
「それなりには上手くやってるみたいですよ。セノアさん、あの子のことが気になるんですか?」
「お前さんは、気にならんのか?」
「そりゃまあ、気にならないって言ったら嘘にはなりますけどね」
 治癒の力を持つ、不思議な少女。彼女がセム・ファーイと出会い、この地に住むようになったことは、普通に好奇心を持ち合わせている者であれば興味を示さずにはいられなかった。
「それより、セムとあの子が出会ったのは、偶然だと思うかね?」
「偶然……でしょう? 確かに、あの二人の出会いを詳しくは知りませんけど、とても意図的なものがあったとは……」
 セノアは首を横に振る。彼の言おうとしていることは、与太話と解釈しても何ら差し支えないものだった。
「いや、二人の出会い自体は、偶然によるものと考えて相違ないじゃろう。そうではなくて、あの二人の出会いはもっと以前から……この世に生を受ける前から、約束されていたような気がしてならないんじゃよ」
「運命だった、と?」
 セノアは頷いた。
「セムとあの子の力は、対をなしている。他にはない破壊と治癒の力を持った者が、同じ地で生きていることに、意味があるような気がしてならないんじゃよ」
「その言葉、セムが聞いたら怒るでしょうね」
「じゃろうな」
 サイルにいる人間は、誰もが自分の意志で生きることを選んだ。だからこそ、運命を信じている者は一人として存在していないのだ。ましてセムは、シーラが自分自身で生きる道を選択したことを知っている。それが初めから定められていたことだと言われたところで、どうして納得するだろう。
「偶然ですよ、アミスさんがセムと出会ったのは。――それより、一杯付き合ってもらえませんか」
 シェイカーと材料をカウンターの上に並べながら、ルーンは尋ねた。
「酒は苦手なんじゃがのう」
「大丈夫ですよ。アルコールはほとんど入ってませんから」
 手際よく材料を注ぎ、シェイカーを振り始める。独特の音の中で、ルーンが独り言のように呟いた。
「これは、ユアが好きだったんです」
 音が止まり、カウンターの上に置かれたカクテルグラスの中に黄色い液体が注がれる。月の色によく似ていた。
「『クレセント・ムーン』です」


 目を覚ましたシーラの目に最初に映ったのは、見慣れない天井だった。仰向けのまま視線を動かしてみたが、やはり見覚えのある場所ではない。混乱しかけた少女を落ち着かせたのは、よく知る声だった。
「あ、起きたか」
「セム? じゃあここって……」
「俺の家だよ」
 水を入れたバケツを置き、シーラの額に手を当てる。それが右手であることに気付いたシーラは、自分が看病をされている立場であることも忘れて尋ねた。
「腕、大丈夫だった?」
「ああ。――熱、まだあるな」
 シーラの額に絞り直したタオルを置き、セムは微笑んだ。
「どうして、私はセムの家に?」
「フィリアだよ。お節介だからな、基本的に」
「……どういうこと?」
「仲直りしろ、ってこと。看病は任せるから、元気になるまでにちゃんと話しておけって、怖い顔で脅されたよ。……俺が男だって認識がないんじゃないか、フィリアは」
「信用されてるんだよ」
 シーラが小さく笑う。彼女が抱いている、同い年の少年への信頼を証す顔だった。
「それより、どうしてセムは戦ってたの?」
「急に襲われた。あの鷲、たぶん異形だ」
「異形? でもどうしてセムやグラハさんを?」
「詳しいことは分からない。ただ、最近の異形の凶暴化と無関係ではないだろうな」
「じゃあ、またあんなことが?」
 窓を閉め、セムは頷く。不安を瞳に宿した飼い主を気遣うように、猫が鳴いた。
「セムは……やっぱり戦うの?」
「ああ。それが俺にできることだから」
「……傷ついても?」
「ああ。ただ、戦うことと傷つくことは同じじゃない。だからできる限り、傷つかないようにはするつもりだ。シーラを心配させるのは、好きじゃないしな。それより、体は大丈夫か?」
「うん。……ごめんね、心配かけて」
 セムはかぶりを振った。
「俺が言わなきゃならない台詞だろ、それは。俺の方こそ、ごめん」
「ううん。昨日、何も言えなかったのは……セムのせいじゃないから」
 瞼を閉じる。吐息がいつもよりも熱く、窓の外は静寂に包まれていた。
「私のせいなの。傷ついて戻ってきたセムを受け入れられなかったから、だから……」
「いいんだ、それで」
 再びシーラの額に触れ、飲み水を――無論バケツの水とは別のものだ――彼女に差し出した。
「ありがとう」
 中身の半分ほどを一息に飲む。熱を帯びた体内を、ゆっくりと液体が落ちていくのが感じられた。
「受け入れなくていいんだ。俺も、傷つくことに慣れたくはないしな。嫌だって思ったら、ちゃんと言ってくれればいい。――窓、開けていいか?」
「あ、うん」
 涼風が室内に吹き込む。部屋の中に迷い込んだ木の葉を広い、少年が尋ねた。
「寒くないか?」
「うん、大丈夫」
 セムは足を投げ出し、壁に背中を預けるようにしてその場に座り込んだ。口を開こうとしたシーラは、いつの間にか枕元に白猫がいるのに気付いた。
「リンウも、ごめんね」
 頭を撫でられた飼い猫は、短く鳴くだけでその場から動こうとはしなかった。葉音が室内に紛れ、期せずして訪れた静寂が漠とした不安を誘い出す。近くにいるはずのセムの姿が、遠くにあるような錯覚に陥った少女は、その距離を縮めるために言葉を発した。
「……怖かった。もしもセムが死んだら、私はどうしたらいいんだろうって思って……セムが悪いわけじゃないのに、責めるような言葉しか浮かんでこなくて、それで……」
「何も言えなかった」
 引き継がれた言葉に、シーラは小さく頷いた。
「本当はもっと、他に言いたいことがたくさんあったのに……」
 再び、微かな風が吹く。今度は一枚の白い花びらが、部屋に舞い込んだ。
「俺は、ここでこうして生きてる。言いたいことがあるんだったら、これから言ってくれればいい。心配させたのに何もしないで終わるなんて、嫌だから」
 セムは床に落ちていた花びらを、シーラの枕元に置いた。リンウがその意味を問うように鳴いたが、少年は何も答えない。だがそれでも、少女は笑顔になった。
「ありがとう」
 と、顔を横に向けた拍子に、タオルが滑り落ちる。額に白い布を置き直し、シーラは赤ら顔のまま言葉を続けた。
「セムの話、聞かせて」
「俺の話? 何を話せばいいんだ?」
「何でもいいよ」
 木の床を何度か指で叩くと、セムは小さく息をつく。そして訪れた静寂は、子供の声に慣れた少女にとっては新鮮に感じられるものだった。
 セムの家は、サイルの外れにある。緩やかな坂を登った先、小高い場所にある小さな木造の建築物。来訪者の評判のよくないが――特にルーンには――、彼自身は何の苦もなく静けさを手に入れられるこの場所を気に入っていた。
「そう言われてもな……」
 困惑気味に呟いた言葉が、広くはない部屋に消えていく。自分の頭と心を探ってはみるものの、現在の状況にふさわしい話題を見つけることはできなかった。
「みんな、大丈夫かな……」
 不意にシーラが呟く。それは、彼女の看病がセムに任されたもう一つの理由でもあった。
「こんなときにまで、他人を気にしなくていいだろ」
「でも……」
「フィリアに言われたよ。シーラが無理しないようにちゃんと見張っておけ、って」
 自分の体調が悪くとも、目の前で誰かが傷ついていれば見過ごせない。シーラがそういう性格だと承知していたからこそ、周りに人のいないセムの家で休ませたのだ。
「何かあったらフィリアが知らせに来てくれるし、小さな怪我なんていうのは子供にとっては日常茶飯事だから、そんなに心配しなくていい。大体、たまには心配される立場になったっていいんだよ。もっとも、俺が言えた台詞じゃないけどな」
 と、セムは苦笑いを浮かべた。
「それより、俺の話か。何でもいいんだよな?」
「うん」
「サイルに来た理由、とかでもいいか?」
「聞いていいの?」
 セムは頷くと、静かに話を切り出した。
「ある晩、俺は自分の喉を焼いた――」
 元々は名のある家の末子として生を受けたセムは、無論その誕生を祝福された。けれど盛大な祝辞が、小声で耳から耳へと伝わっていくような悪評に変わるまでに、長い時間はかからなかった。
 セムが自らの能力を自覚したのは、生まれて五年も経った頃だった。他人との差異を未だ知らぬ幼子にとっては、それは玩具でしかない。だが、周囲の人間にとっては恐怖の対象であり、野心を持つ者にとっては何としても入手したい「道具」だった。
 幸いだったのは――あるいは、不幸だったのは――幼かったセムは、その力を制御できなかったことだ。悪意を抱き自らに近づく者は誰であろうと退け、結果としてそのことが一層の恐怖を自分以外の人間に植えつけた。やがて恐れは嫌忌へと変化し、誰もが自らの安寧を手に入れるためにそれをセムに向けた。
 少年は自らを守るために、心を閉じた。どんな醜い言葉も、感情さえなければ単なる事実として受け止められる。自身が望んだわけでもない能力を忌む他者を憎悪したところで、何が変わるのだろうか。だからこそ彼は流れる時間に身を委ね、考えることを一切やめた。何も感じなければ、何も疑わなければ、傷を負うことなどないのだから。
 しかし、それは間違いだった。空っぽにしたはずの心はゆっくりとゆがみ、本人にすら聞こえないほどの弱音と共に軋んでいた。
 気付いたときには、もう手遅れになっていた。
 崩壊を始めた心と対峙するには、セムは幼すぎた。十二歳だった少年は、自分が欠けていく苦痛に耐えながら、「その日」を待った。
 一年に一度の、神聖なる祭りのためだけに存在する湖。神のいる場所とされ、何人たりとも立ち入ることを許されない場所。透明な湖面には、月が浮かんでいた。
 星を見上げ、喉に手を当てる。空気を吸い込み、自分を解放する言葉を紡いだ。
――我が力は禍々しきものなり。我が炎を以て、この声と共に葬らん。
 痛みは感じなかった。本来の形を取り戻した心を抱き、彼は深い闇の中へと落ちていった。
「それから俺はミルアに助けられ、サイルに来ることを決めた。面白くもない話だろ?」
「……死にたかったの?」
 シーラの質問は、五年前のセムに向けられたものだった。成長した彼は、首を横に振る。
「いや。だが、死んでも構わなかった。もっともそれで本当に死んでたら、単なる犬死にだったけどな。喉を焼いたところで、俺の力はなくならないから」
 言葉は媒介でしかない。故に声をなくしたところで、能力そのものが消失するわけではなかった。無論そのことには気付いていたが、彼は自らを制止する術を持っていなかった。
「どうして、サイルに来た理由を話してくれたの?」
「不公平だからな、シーラが俺の過去を知らないのは」
 そう言いながら、セムは内心で問うていた。自分語りをしたのは、ただ逃げたかったからではないか、と。シーラがここに来た理由を一方的に知っているという重圧から、解放されたかっただけではないのか。
 セムは自問を否むように小さく息を吐き出し、シーラの額に手を置いた。
「もう少し、寝た方がいいぞ」
 シーラは静かに瞼を閉じ、白猫も体を丸くする。彼女から手を離し、少年は窓の外に視線を向けた。
 単純な空が、そこにはあった。