「それで、俺にどうしろと?」 乾いた返事だった。予想外の台詞にも、セムが動揺を見せることはない。 「それは俺が答えることなのか?」 「いや……」 カウムは首を横に振った。セムの家にともされた灯りに、医者の苦渋に満ちた表情が照らされていた。 「答えなんて……一つしかない。実の親の申し出をどうして断れる?」 「それでいいのか?」 「俺に選択できることはないからな。仕方がないんだ」 諦めたかのような台詞とは裏腹に、カウムの感情は複雑に交錯していた。だがそれでも、彼は言葉を紡ぐことをやめなかった。 「血が繋がってない以上、偽者でしかない。いつまでもユイナの親でいる資格なんてあるはずないだろう?」 あからさまな嘘だった。普段なら見逃すであろう偽りの裏に存在するものを、少年は短い台詞で質した。 「それは本心か?」 「……酷な質問はしないでくれ」 と、カウムは重い嘆息を吐き出した。 「たとえ六年前にユイナを捨てた人間だとしても、血の繋がりには勝てない……か」 少年は独り言のように言う。窓の外には、吸い込まれそうな漆黒が広がっていた。 「選ぶのは、ユイナじゃないのか」 医者に直接問うことを避けるように、セムは梁から吊り下げられたランプに向かって呟いた。 「ユイナに教えろって言うのか? 自分が捨てられていたことを?」 「結果は同じだ。お前の口から真実を話そうが、何も語らずにユイナを引き渡そうが、お前が実の親でないってことをあの子は知ることになる」 「ああ……」 呻き声と区別できない相槌を打ったカウムは、拳で床を打つ。だが、その腕に力はなかった。 「俺は、親じゃない……」 「何を――」 セムは否定しようと口を開きかけたが、うなだれるカウムの姿を一瞥すると、元々の意図とは逆に彼の呟きを肯定した。 「確かにそうだな。血の繋がりという意味では、お前はユイナの親じゃない。。だが、単なる事実なら誰の口からでも聞ける。俺が聞きたいのは、お前にしか語れないことだ」 「俺だけ……?」 「お前の本音だ。ユイナを渡したいと本気で思ってるのか」 場が沈黙に支配される。窓外のそれとは重さの違う静寂だった。 そもそも、自分が関与する必要のあることではない。シーラのようにサイルでの生活を始める人間もいれば、当然離れる者も存在する。来た理由を尋ねないことが暗黙の了解であるように、去る自由も全ての住人に認められているのだ。そこにどんな事情があろうと、第三者が介入すべきではない。 では何故、カウムの心に踏み込もうとしているのか。その理由は、苦笑いするしかないほど陳腐なものだった。 「……そういうこと、か」 床を見たまま、不意にカウムが呟く。室内の空気を変える一言だった。 「何を企んでる?」 「何のことだ?」 問い返した言葉とは裏腹に、セムは小さく笑っていた。もっとも、視線を落としたままのカウムが少年の表情に気付くはずもない。医師はうつむいたまま言葉を続けた。 「お前が意味もなく残酷な問いをするはずがない。何らかの意図があるはずだ。違うか?」 「気付くのが遅いんだよ」 セムは窓を開ける。小さな風の声が室内に迷い込んだ。 「エンザース・テクシムとその妻パニエ。それが、ユイナの両親だと名乗り出てきた人間の名前だ。出身はリアス。そこそこ大きな港町で、サイルからは徒歩で十日ほどの距離にある。何度か訪れたことがあるが、悪いところじゃない」 一匹の小さな蛾が、光に誘われるように部屋の中に飛び込んだ。その動きを目で追いながら、セムは話し続ける。 「そしてリアスには、ある一人の老人がいる。ミルトニア・テクシム。エンザースの母親だ。夫に先立たれ、今は何人かの使用人と屋敷で暮らしている。ちょっとした仕事を何度か頼まれたことがあるんだが、名士と呼んで差し支えのない人物だ。ところが、息子とその妻はどうやら正反対らしい」 「正反対?」 「いい噂を聞いたことがない。エンザースとパニエという名に次いで語られるのは、きな臭い話ばかりだ。人を殺したらしい、なんてことまで囁かれるほどだからな。その真偽はともかくとしても、平凡に生きてるならそんな話自体出てくるはずがない」 「そんな人間が、ユイナの親……?」 カウムは呆然としていた。彼の目の前を虫が飛び回るが、気付いていないのか振り払う仕草を見せる気配すらなかった。 「正直なところを言えば――」 空には星が浮かんでいる。その微かな光を求め、虫は再び闇の中に消えていった。 「テクシム家はユイナと関わりがないと、俺は考えてる。根拠らしい根拠はないが」 「……どういうことだ?」 「エンザースとパニエは本当の親じゃない可能性がある。そういう意味だ」 カウムの視線が少年に注がれる。愚かしい者を見る瞳だった。 「親以外の誰が、ユイナを引き取りに来るって言うんだ? 下手な気休めなど、今さら無意味だ。テクシム夫妻はここにユイナがいることと、捨てられていたことを知っていたんだろう? サイルの住人以外でそんなことを知り、あの子を引き取りたいと言ってくるのはユイナを捨てた張本人――つまり、実の親以外にはあり得ない」 「六年前、ユイナを『門』の根元に置いていったのはあの夫婦に間違いないだろう。だが、二人がユイナの生みの親だという証拠は今のところどこにもない」 カウムは何も返してこなかった。言葉に詰まっているのか、単に呆れているのかは窺い知れない。セムは意に介さず、言葉を紡ぎ続けた。 「証拠がない以上、調べてみる価値はあるだろう?」 「調べる、って……お前がか?」 「他に誰がいる?」 夜は音が減る。疲れを癒すように多くのものが口を閉じ、自らを静寂に委ね、暗闇を受け入れる。故に、その中にある光とわずかな声は昼間よりも深く意識に刻まれるのだ。 「その結果、お前には今よりも辛い事実を突きつけることになるかも知れない。だが、いずれにしてもこのまま黙ってユイナを引き渡す気はないんだろう?」 「……ああ」 「だから、悪あがきだよ」 苦笑いを浮かべ答えながら、セムは窓を閉めた。自己主張の弱い灯火を仰ぎ見ながら、至極当然の疑問を医者が口にする。 「何故お前が関わる?」 「この前のことの罪滅ぼしみたいなものだ」 「この前って、あの鳥のことか? お前のせいじゃないだろう」 「襲われたこと自体は。だが、お前が傷つくことは避けられたんじゃないのか?」 「気にしてるのか」 「多少はな。でもそれ以上に、この件に関わる口実が欲しいんだよ」 再びの苦笑が少年の顔に浮かぶ。彼は木の床に座り込むと、呟くように言った。 「どういう結果になろうと、ユイナがお前のことを恨むようにだけはなって欲しくない。親を憎みながら生きるのは、楽なことじゃないからな」 「体験談か?」 「そんなところだ」 少年は大袈裟に肩をすくめ、小さく息をついた。 「気持ちは分からなくもないし、ありがたいとも思う。だけど、やっぱり今回の件は俺とユイナの問題だ。無関係のお前の手を煩わせるわけにはいかない」 「他の奴ならそうなるんだろうな。だが、俺は元々他人の事情に首を突っ込むことを生業としてるのを忘れたか?」 セムの予想外の台詞に、男性は思わず問い返した。 「仕事として依頼しろと? ユイナのことを?」 セムは穏やかに燃え続ける炎を見上げ、 「無償で動くほどお人好しじゃない。もっとも、ルーンの店で安くてまずい酒でもおごってくれれば、それで充分だけどな」 と、口元だけで笑う。誘われるように、医者も苦笑いを見せた。 「相変わらず儲からない商売だな」 「ああ。だが、俺はこうして生きている。それで充分だよ」 夜は更ける。明日の形を誰も知らないからこそ、闇の中には得体の知れない恐怖と希望があった。 同日、深夜。ハインはルーンの店の壁に背を預けながら、黒い空を見上げていた。雲に遮られているのか、月は見えない。重く長い溜息を吐き出し、男性はその場にしゃがみ込んだ。 「入らないのか?」 店の出入口から顔を出したルーンが尋ねる。ハインは首を横に振った。 「散歩してただけですから」 ハインは立ち上がり、再び歩き出そうとする。だが、彼の細い腕を中年男性が掴んでいた。 「暇なんだろう?」 「……ええ」 ルーンの手が放れる。青年は彼についていくようにして、店の中へと足を踏み入れた。 「いつになく強引ですね」 ルーンが外にいる人間を引き込む姿など見たことがなかった。彼自身も風景の一部であるかのように、いつも小さな店のカウンターの中にいた。そこが彼の居場所であり、他の誰も立ち入れない矮小な聖域だった。 「お前さんが深刻な顔をしてるのは珍しいからな」 「そうですか……」 ルーンはカウンターの上にグラスを置くと、その中にゆっくりと無色透明の酒を注いだ。 「これは?」 「飲んでみれば分かるさ」 言われるままにグラスを傾ける。口に含んだ直後、思わずハインは顔をしかめた。 「随分強いお酒ですね」 「悪酔いするには向いてるだろう? 饒舌になろうと潰れようと、全てを酒のせいにできる。さて、どうする?」 ハインは一気にグラスの中身を煽った。アルコールが体の中に落ちていくが、到底酔えそうにはない。彼は返答があることを期待せずに呟いた。 「誰でも、嘘はつきますよね」 「ああ。特にここにいる人間は、何かしらの偽りを抱えてるんじゃないか」 「そうですよね……」 「もう一杯飲むかい?」 ハインはかぶりを振った。 「酔ったところで、何も変わりませんから……」 「逃げることは罪になると?」 「そういう場合もあるでしょう」 ルーンは空のグラスを水で洗いながら、質問を重ねた。 「嘘を抱えてるのが、辛くなったか?」 ハインは何も答えず、木のカウンターをじっと見つめていた。 「お前さんの嘘は、フィリアの……『罪』に関係してるのか?」 反射的にハインが顔を上げる。その視線はルーンを射ぬかんばかりに鋭かったが、中年の男性がたじろぐことはなかった。 「何も知らんさ。以前にフィリアがそんな台詞を呟いたのを聞いただけだよ」 「そう……ですか……」 絞り出したような声で言うと、ハインは天井を凝視しながら呟いた。 「過去を変えたいと思ったことはありますか?」 「愚問だよ、それは。否定したい記憶が一つもない人間など存在しない」 風景に塗りたくられた黒は、小さな店から漏れる灯りに飲み込まれることはない。夜は自然からその鮮やかさを奪い、光に形を与えていた。 「ユアが生きていればと考えたこともある。だが、そんなことをいくら思ったところで彼女が生き返るはずはない。過去は置物でしかないからな。それに、人はいずれ死ぬ。ユアに私の死を看取らせたくはなかったから、先に逝かれたことが悲劇だったとは言い切れんさ」 「嘘ですよね、それは」 ルーンは肯定も否定もせず、ハインに背を向けると、 「仮に私が強がりを言っていたとして、それを非難する権利がお前さんにあるのかい?」 と、穏やかな声で問い返した。 「ないですね」 「そういうことさ。お前さんがどんな嘘をフィリアに対してついていようが、それに関してとやかく言う立場にないんだよ、私は」 グラスを棚に置くと、中年の男性は亡妻の絵に視線を移した。 「看取らせることがなくてよかったと思ってるのは、嘘じゃない。無論、若くして永い眠りについて欲しかったわけではないがね。私は十歳も上だったが、少しでも彼女より長く生きるつもりだった」 ルーンは瞼を閉じる。愛した人の最期は、未だ鮮明に描くことができた。 「ユアを愛していた。だから彼女よりも老けて、感謝の言葉で送り出すつもりだった。だが実際は、私は何も伝えられなかったんだ。先に彼女に言われてしまったからね、『ありがとう』と」 「心残り……ですか?」 ルーンは微笑むだけだった。ハインは続きを紡ごうと口を開きかけたが、短い溜息をつくとゆっくりとかぶりを振った。 「……すみません」 「他人を詮索したくなるような夜も、たまにはあるさ」 ハインは口を噤み、ルーンも黙り込む。長く続くかのように思えた静寂は、外から聞こえてきた話し声と、それに続いた怒号によってすぐに終焉を迎えた。 「何だ?」 店外に出た二人が目にしたのは、十人を越える男と一人の少年が対峙している光景だった。二組の間には数人が倒れ込み、苦しそうに呻き声を上げている。少年が言った。 「次は誰だ?」 弾かれるように男の一人が飛び出した。手には刃物。少年は一歩も動かず、腕を振るう。 次の瞬間、男の体は酒場の壁に叩きつけられていた。そこにいた二人の顔見知りにやっと気付いたセムは、普段と同じ顔で声をかけた。 「ルーンにハインか。いたのか?」 「一体何の騒ぎだ?」 「準備運動……だよ!」 斧を振りかざし突進してきた男の顔面に蹴りを入れる。得物は地面に刺さり、その持ち主は鼻血を噴き出しながら仰向けに倒れた。 「遊びに時間を費やす気はないがな」 無数の白い球体がセムの拳を囲むように浮かんでいた。奇声を発しながら、残りの男――五人――が一斉に襲いかかる。 「純粋なる破壊の力よ、彼らがもたらす凶禍を退けよ。牙を折り、その意を削がん」 拳を右に払う。セムの手を離れた光は敵に触れ、彼らを全て吹き飛ばした。 「さて、と」 斧を引き抜き、その隣でうずくまっている男の眼前に突きつけると、 「何が目的だ?」 「……」 少年は溜息をつき、 「答えたくない、か。見当はついているんだがな」 と、再び斧を地面に突き刺した。ただし今度は、男の鼻先と斧の間が十センチと開いていなかったが。 「ある子供を依頼主のところへ連れて行くこと。依頼主の名は――」 一呼吸置いて、セムはその人物の名を口にした。 「エンザース・テクシム。あるいはその妻か?」 男の目が大きく見開かれる。答えとしては充分だった。 「正解、か」 声と同時に、男の顔に少年の拳が叩き込まれていた。気を失った男の顔を見下ろしながら、セムは深く息を吐いた。 「また厄介事かい?」 「ああ。もっとも、半分は自業自得だが」 「それはそうと、これはどうするんです?」 と、地面に横たわる人間を指しながらハインが尋ねる。セムはさして興味がないのか、 素っ気ない口調で答えた。 「煮るなり焼くなり、好きなように。不安ならこいつらの腕、残らず折っておくか?」 「別にそこまでする必要はないですよ」 と、ハインは苦笑いを浮かべ、 「子供を連れていく、ってどういうことですか?」 一転、厳しい表情で問うた。 「聞かれたところで素直に答えると思うか?」 青年はかぶりを振る。その直後言葉を続けたのは彼自身ではなく、中年の男性だった。 「本当に『連れていく』程度の穏やかな話ならそれで納得するところだがね。この光景を目の当たりにしてそんな呑気な解釈ができると?」 「無理だろうな」 少年は酒場の壁にもたれかかかり、何も存在しないかのような暗闇に対して言葉を投げ始めた。 「狙われていたのは一人だ。それが誰なのかは言えない。その理由は分からない。事情の説明を請われても、首を縦に振ることはできない」 「つまり、ほとんど何も話せない。お前さんが関わった厄介事というのは、その子が関係することなんだな?」 「そういうことだ」 「しかし、子供一人をさらうためにこんな大人数で?」 「そういう馬鹿が裏にいるんだよ、今回の件は」 嫌悪感をあらわにした語調で、セムは吐き捨てた。 「目的を果たすためなら、手段を選ばない種類の人間がな。俺はそいつらを止めるために、明日からリアスに行く。その間に、今回狙われた子供が危険な目に遭わないという保証はない。だから……守ってやってくれないか?」 「守るべき人が誰なのかも分からないのに、ですか?」 当然の反問に、セムは無理難題をもって答えた。 「守るのは、サイルにいる子供全てだ。相手がどんな手段を使ってくるのか分からない以上、無関係の人間を傷つける可能性もあるからな」 「無理を言ってるって、分かってますか?」 「承知の上だ」 ルーンとハインは顔を見合わせ、黙り込む。セムも瞼を閉じ、口を噤んだ。 子供が悲しむ顔だけは、どうしても慣れることはできなかった。純粋であるが故に、彼らの嘆きは重いからだ。あるいは幼い者達の涙に、過去の自分を見るからかも知れない。いずれにしても、テクシム夫妻のやり方を許すことはできなかった。 「……明日から、しばらくは休業だな」 「他に、協力を仰いでも?」 「少人数なら。あまり多くの人間に今回の件を知られたくない」 「わがままだな」 「だが、受け入れる価値はあると思うぞ? 何しろ報酬は子供の笑顔だからな」 ルーンは空を見上げ、溜息をつく。少年の言葉を肯定する吐息だった。 「ユアは子供が好きだったな……」 「ハインはどうする? 関わるか?」 「ここまで聞いて断れる方がどうかしてますよ……」 少年は笑う。狡猾であり、優しくもある笑顔だった。 「一つだけ、聞いてもいいですか?」 「何だ?」 「セムが守るべきなのは、今回の件の当事者である人物だけのはず。何故他の子供にまで気を回すんです?」 「子供が悲しむ顔を、ハインは見たいのか?」 「それは見たくはないですけど……」 「俺だって同じだ。ただそれだけだよ」 「本当にそれだけなのかい?」 尋ねたのはルーンだった。セムは頷きかけたが、不意に視線を自らの右手に落とすと本心を紡ぎ始めた。 「以前にシーラが言ってたことが影響してるのかもな……」 セムは酒場の外壁から背を離し、足元の石を蹴飛ばす。微かに聞こえた虫の声は、彼の話の先を促しているようだった。 「子供は笑うためにいる――そんな他愛のない言葉を、俺は真に受けた。それが理由だよ」 |