LIVE-on the way-7



 警鐘が鳴り響いている。ルイにしか聞こえない、心の中の鐘。その警告は、彼女の両親が姿を消したときから一日として止まることはなかった。正体も分からないままにそれを飼い慣らしている女性は、空に向かって小さな嘆息を吐き出した。
 最も身近な人間が自分の前から姿を消した理由も、消息も掴めないままに五年が過ぎた。短くはない月日は肉親への想いすら薄れさせ、孤独に対する耐性を与えた。風景も人も変えてしまうような時間の中で、心に釣り下がっている鐘の音だけは変わることがなかった。
 両親が失踪し、彼女は独りになった。だからこそ、もう失うものはないはずだ。彼女が大切に思っているのは、たった一人の幼なじみだけなのだから。彼さえも離れていくことなど、想像の範疇にすらなかった。
「……」
 胸に、手を当ててみる。
 警鐘は、未だ消えない。


 サイルを一望できる小高い丘の上に、少年は一人佇んでいた。昨日、襲撃者によって負わされた傷は、少女によって全て癒されていた。けれど、彼の心はいつもよりも重かった。
「……はぁ」
 空に嘆息が消えていく。穏やかに漂う雲とは対照的に、少年の胸中には暗雲が垂れ込めていた。
「珍しいな、溜息なんて」
 少年に声をかけたのはカウム・グラハだった。サイルに二人しかいない医者の一人である。常に生やしている無精髭のせいで、三十歳という年齢よりも老けて見える。セムが医師を一瞥し、口を開こうとした瞬間、甲高い少女の声が問いかけた。
「どうしたの?」
 ユイナ・グラハの幼い瞳がセムを見上げていた。彼の服の袖を引っ張りながら、一月前に六歳になったばかりの少女が質問を重ねる。
「どうして元気ないの? どこかいたいの?」
「大丈夫。何でもない」
「厄介事に巻き込まれたって聞いたが、それ絡みか?」
「……多少は」
「苦戦したって聞いてるが……なるほど、そういうことか」
 セムから何も聞かないうちに事情を察したカウムは、唐突に少年の袖をまくった。
「見事なもんだな」
 古傷しかない腕を見たカウムは、思わず感嘆の声を上げた。
「で、叱られでもしたか? お前の怪我を治してくれた人に」
「……逆だ。何も言われなかった」
「そりゃ、深刻だな」
 と、カウムは軽い口調で感想を述べた。
「普段から心配してる人間が、突然全身血だらけで現れたら無言になるのも当然だろうな」
「……致命傷は受けてないぞ」
「そういう問題じゃないって、分かってるよな?」
「……ああ」
 頷き、再び重い息をつく。自分が間違っているとは思っていない。だが、シグアスとの戦いを終えてから今に至るまで、シーラが口を噤んでいる理由も、誤りではないだろう。
「どうしたらいいんだろうな……」
「そのうち、元に戻るんじゃないか? 時間が何とかしてくれるさ」
 気楽な立場で答えるカウムとは正反対に、セムの表情が晴れることはなかった。
「そういうわけにもいかないんだよ……」
「お前がそこまで彼女に気を遣わなきゃならない理由はないだろう?」
 無論、要不要の問題でないことは承知していた。セムの気持ちを浮き彫りにするために、故意に意地の悪い台詞を吐いたのだ。
「放っておけない、か?」
 と、カウムはユイナの頭に手を置いて、
「放っておけない人間は、誰にだっている。俺にとって、ユイナがそうであるように」
「……」
 口を開かないセムの服を、ユイナが再び引っ張る。彼女に応じるわけでも振り払うわけでもなく、彼はただ漫然と中空を見ていた。
「どこかわるいの?」
 純粋な瞳が少年を心配していた。かぶりを振り、彼女の不安を消すために微笑んでみせる。ユイナはセムの右手を両手で握った。
「平気……?」
「平気だよ」
 ようやく安心したのか、ユイナは満面の笑みを浮かべる。吐き出しそうになった三度目の溜息を飲み込み、逆に大きく息を吸い込んだ。
「特殊能力持ちも、子供には弱いか」
「……勝てる奴なんていないんじゃないのか」
「確かにな」
 と、カウムは小さく笑う。人を不快にすることのない、優しい表情だった。
「ねむい……」
 ユイナが目をこすりながら、カウムの服を掴む。彼は近くのベンチに座ると、自分の膝を枕として少女を椅子に横たわらせた。
「お休みなさい……」
「お休み」
 静かな寝息を立て始めた少女の体の上に、自分の上着をかけた男性はしばらく何も言わずその寝顔を見つめていた。
「……馬鹿らしくなってくるな」
 静かに眠る少女を見ていたセムは、思わずそう呟いた。
「何が馬鹿らしいって?」
「悩んでることがだ。ユイナを見てると、考えること自体が無意味に思えてくる」
「同感だ。だが、俺もお前も、もう子供にはなれないからな。考えるしかないんだよ」
 と、カウムはユイナの髪を撫で、
「俺は、いつまでユイナの親でいられると思う?」
「どういう意味だ?」
「あの日以来、俺はこの子を育ててきた。だが、それでも……」
 カウムはその先を言わなかったが、続きは容易に想像することができた。
「だったら、何だって言うんだ」
 ユイナとカウムに血の繋がりはない。六年前の春に、泣くことしか知らないユイナを双子の大木の近くで見つけたのが出会いだった。
 毛布にくるまれ、泣くばかりの乳飲み子について分かることは、布に挟まっていた紙に記された名前だけだった。ユイナ――その三文字以外は、彼女が産まれた土地も両親も、何故この場所に置き去りにされていたのかも分からなかった。
「お前はユイナの親だ。そうでなければ、どうしてお前の膝を枕にして眠ってるんだ?」
「……ああ」
 カウムは頷くと、再び娘の髪に触れた。風はなく、気紛れに聞こえてくる鳥の声も少女の眠りを妨げることはない。静かな寝息は、父親に対する信頼を証明していた。
 ユイナは何も知らない。彼女にとっては、カウムが父親であるということだけが真実だった。
「ユイナの居場所は、ユイナ自身が決めるべきことだろう?」
「そうだな……」
 あるいは、いつか事実を伝えなければならないのかも知れない。それがどのような結果を導くにせよ、最終的な判断は彼女に委ねられるべきだろう。
「それよりも、尋ねたいことがある」
「ああ。何だ?」
「人間が四百年も生きるなんてこと、あるか?」
「……仮にも俺は医者だぞ。その質問に首を縦に振ることがあると思うか?」
「ないだろうな」
「それは昨日の厄介事と、何か関係が?」
「あるどころか、本人だ。自称長寿の奴が昨日の相手だったからな」
 今度はカウムが溜息をつく番だった。
「……信じたくない話だな」
「外見はお前より若かったぞ」
「それじゃ、まるで――」
「不老不死、だな。言ってて自分でも馬鹿げてるとは思うが」
「お前は……それを信じるのか?」
 セムは視線を足下に落とし、地面に置き去りにするかのように言葉を紡いだ。
「俺を荒唐無稽な嘘で騙したところで何の得がある? 真実でなければ、そんなことを言い出す奴はいないだろうな」
「医者の常識を根底から覆さないでくれ……」
 頭を抱えるカウムに、少年が続けたのは追い打ちとなる事実だった。
「しかもそいつは、傷つくことがない。自分の腕に短剣を突き立てても、血が流れないどころか傷跡すら残らないんだ。そのことについて、医者としての見解は?」
「……その短剣が偽物だという可能性は?」
「ない。俺と戦ったとき、実際に使っていた武器だからな」
「医者としては、理解も受容もしたくない話だ……。それにしても、傷を負うことがない奴を相手によく渡り合えたな」
「例外ってのは、何にでも存在するからな」
「それは……お前が能力持ちだからか?」
 セムは神妙な面持ちで頷いた。
「そうだとすると、昨日戦った相手が死なない理由と、お前の能力の間には何らかの関係があるということか?」
「それは何とも言えない。まだ分からないことが多すぎるからな」
「それで、厄介事を持ち込んできた奴はどうしたんだ? お前が勝ったんだろう?」
「ああ、それは――」
 セムの言葉が途切れる。彼の視線の先にあるのは、何の変哲もない空だった。
 柔らかに地上を照らす太陽、ゆっくりと流れる雲、澄んだ青色の中を旋回する一羽の鳥。どれもが見慣れた光景だった。
「どうした?」
「……悪い。また厄介事に巻き込まれるかも知れない」
「何だって?」
 シグアスを見た瞬間に心の中で聞こえ始めた雑音が、今もセムの感情に混在していた。何がその音源なのかも分からないまま、空を見続ける。そこに違和感を生み出すものはなかったが、目を逸らすことはできなかった。
「気のせいじゃないのか?」
「だといいんだが……どうやら、平穏には縁がないらしい」
「え?」
 セムの瞳に映る風景の一部が、変化していた。遙か上空を飛ぶ鳥の軌道が、先程までよりも大きな楕円を描いていた。
「来るぞ」
 そして鳥が降下を始める。標的は人間だった。
「退け!」
 声と共に、無数の礫が飛ぶ。鳥はそれを問題にせず、翼を広げたままセムにぶつかった。なす術もなく吹き飛ばされた人間を見下すように、鳥は中空に留まっていた。
「どうしたの……?」
 眠そうに目をこする娘を抱き上げると同時に、カウムが叫ぶ。
「何なんだよあれは!」
「鷲だよ! 見れば分かるだろう!」
「どうして鷲が襲ってくるんだよ!?」
「知るか! 炎よ、彼の獣を傷つけよ!」
 宙にいくつかの炎が生まれ、放たれる。鳥は全ての炎をかわし、鉤爪でセムの肩を切り裂いた。
「セム!」
「いいから逃げろ! 死にたいのか!」
 弾かれるように、娘を抱えたままカウムが駆け出した。獣の眼が、動くものに向けられる。獲物を見ている色だった。
 セムが口を開く。氷の矢がいくつも飛ぶが、一つも命中しない。鳥の飛翔を止めるものはなく、人間との距離は縮まり、そして。
 獲物は、狩られた。
「カウム!」
 背中を切り裂かれた男性は、娘を抱えたまま地面に倒れ込んだ。狩りに成功した余裕からか、鷲は人を見下すばかりで次の行動を起こそうとはしない。動物と人間の間に割って入ったセムは、敵を見据えたまま口を開いた。
「カウム! 生きてたら何か言え!」
「ユイナ……無事か……?」
 父親の腕から抜け出したユイナは、その背中に広がる鮮血を目の当たりにした。
「おとう、さん……?」
「ユイナ!」
 錯乱状態に陥るより早く、セムの声がユイナの意識に届く。少女はただ、その場に立ち尽くしていた。
「走れ! シーラを呼んでこい!」
「ユイナ……怪我、は……」
 混濁する意識の中、カウムは娘に微笑みかける。狂気を宿した鳥が、大きく羽ばたく。その眼はセムの後ろにいる、唯一無傷の少女を見ていた。
「カウムが死んでもいいのか!」
 その言葉と、鳥の翼が空を切る音が交差した。血飛沫が舞う。
「行け!」
 少年の腕には、鷲の嘴が突き刺さっていた。ユイナが走り出すのと同時に、右腕を引き抜く。赤い体液が、彼の利き腕を染めていった。
「……無茶……する……」
「お前が言える台詞じゃないだろう」
「……寝て、て……いい、か……?」
「ああ。……死ぬなよ」
 獣がまた、動き出す。少年はゆっくりと、抗うための言葉を紡ぎ始めた。


「はい、終わり」
 いつものように子供の怪我を治すと、シーラは小さく息をついた。
「お疲れさま。一息入れない?」
「あ、はい」
 立ち上がろうとしたシーラの体が、わずかにふらついた。普段よりも、体が重かった。
「大丈夫?」
「少し疲れただけですから」
 と、シーラは微笑む。ティーカップをテーブルの上に並べながら、フィリアは尋ねた。
「セム君と仲直り、した?」
「……」
「してないのね」
「その、セムのことなんですけど……」
 カップを両手で持ったまま、少女は微かに揺らめく暖かなものを見つめていた。
「分かってるんです。セムは好きで戦うわけでも、傷つくわけでもないって……。それなのに、何も言ってあげられなかった……」
「本当は、何て言ってあげたかったの?」
 シーラは首を振った。
「分かりません……」
「セム君が昨日、怪我をして戻ってきたとき、どう思った?」
「嫌だ、って……。こんなセム、見たくないって……」
「でも、それをそのままセム君に言うわけにはいかない。だから黙った?」
 少女は目を伏せ、小さな声で感情を編み続けた。
「傷は全部治すって約束して、覚悟もしたはずなのに……それなのに、動揺してる自分が情けなくて、それで……」
「誰だって、人が傷つくのを見るのは嫌だと思うよ。それが友人なら特に」
「それはそうですけど、でも……」
 口を開けなかったのは、自分の弱さを露呈させるのが嫌だったからだ。自分の心を一つでも声に変えてしまえば、そこに醜いものが混ざってしまうのは明らかだった。
「セム君は――」
 フィリアは静かに、言葉を紡ぐ。残酷にも思える、事実だった。
「どんなに傷ついても、戦うことをやめないと思うよ?」
 シーラは何も言えなかった。そんな彼女に対してフィリアが続けたのは、予想外の問いだった。
「そもそも、セム君ってそんなに偉いのかな?」
「それは……」
 少女は答えられなかった。セムとは出会って以来、常に対等だったからだ。二人の間に上下を見出そうなどと、考えたことすらなかった。
「セム君は確かに、他の誰にもない能力を持ってるし、戦って傷つくことも少なくない。だからって、シーラさんが自分の気持ちを押し殺す必要はないんじゃないの?」
「でも、実際に傷つくのはセムなんです。私はいつも安全な場所でセムを待って、傷を治すだけしかできないのに……」
「傷を治すってことすら、私はできないのよ?」
 皮肉ではなかった。その証拠に、フィリアは穏やかな表情を崩してはいない。
「セム君はあの能力を持っているからこそ、今の生き方を選んだ。誰に強制されたからじゃなく、自分でそう決めたの。それは、シーラさんも同じ。他人の怪我を治すのは、自分がそうしたいからだよね?」
「はい……」
「サイルで生きている人は、みんな自分の意志でここに来た。子供は違うかも知れないけど、それ以外は誰もが自分で生き方を決めたの。それに優劣はないよ」
 フィリアは紅茶を一口飲み、でも、と苦笑いした。
「実際、私もセム君は偉いと思うけどね。真似しろって言われても、絶対無理だし。ただ、セム君は嫌がると思うよ、そういうの。セム君自身は、自分のことを偉いなんて思ってないはずだから」
「それは……分かるんです。だけど、傷ついて戻ってきたところに、私が気持ちをぶつけるようなことはいけないんじゃないかって……」
「程度問題ね。セム君の気持ちを考えるのはもちろん必要だけど、考えすぎて何も言えなくなるのはよくないから」
 シーラは小さく頷くと、やっと紅茶に口をつけた。少しのぬるさが、逆に心地よかった。
「まあ、そんな単純なことでもないんだろうけど。でも、伝えたいことがあるんだったら、ちゃんと伝えておいた方がいいよ。セム君も、そんなに心が狭いわけじゃないんだし」
 フィリアは紅茶を飲み干し、窓外で遊ぶ子供たちに視線を向けた。時折見せる微笑だけで、彼女の子供たちに対する母性を窺い知ることができた。
「子供、好きなんですね」
「……そうね」
 フィリアの瞳に一瞬だけ陰が浮かんだ気がした。だが、その真相を確認するいとまもなく、彼女はいつもの調子で答える。
「一緒にいると、いつも元気をくれるから。それにみんな素直だし、可愛いし」
「セムのことは、どう思ってるんですか?」
「弟みたいな感じかな。やっぱり、気になる?」
「あ、いえ……」
 曖昧に返事をすると、少女はテーブルの上に置いた両手を見ながら、
「私は、まだセムのことをよく知らないから……」
 と、言った。
「セム君のこと、知りたい?」
 シーラはいくらかのためらいを見せてから、わずかに頷いた。
「本人からは、やっぱり聞き辛い?」
「何が聞いていいことなのか、分からないんです。でも、他の人から聞き出すのはセムが嫌がるだろうし……」
「当たり障りのないことから聞いてみたら? 好きな食べ物――」
 フィリアの声が不自然に終わる。屋外の光景に、目を奪われていた。
「ユイナちゃん……?」
 少女は、足取りすらおぼつかなかった。遠目にも肩で息をしているのが分かる。倒れかけた少女を、彼女よりも六歳上の少年が支えていた。
「水だ、水!」
 少年が叫ぶ。動揺の伝播すら終わっていない中で、井戸の近くにいた数人が動いた。ある者は水を汲み、ある者は大人に知らせるために走る。少年が水を飲ませると、ユイナは小刻みな呼吸のまま彼に尋ねた。
「シーラ、ちゃん、は……?」
「シーラさん? シーラさんだったらもうすぐ……あ、ほら、あそこ」
 少年が指さした先には、ユイナが必要としている人物の姿があった。まだ力の入らない幼い足で歩こうとした少女は、すぐに再び地面に倒れ込んだ。
「ユイナちゃん!」
 シーラは駆け寄り、ユイナを抱き起こす。彼女の目は、涙で潤んでいた。
「どうしたの? どこか怪我した?」
「――さんが……」
「え?」
「おとう、さん、が……」
「お父さん? お父さんがどうしたの?」
 ユイナの頭に手を置きながら、視線の高さを合わせたフィリアが尋ねる。大粒の滴をいくつも落としながら、少女は掠れた声を大人にぶつけた。
「おとうさんが、死んじゃうよ……!」