「はい、終わり」 シーラは微笑み、膝に傷を負っていた少女の頭に手を置いた。 「気をつけてね」 「うん、ありがとう」 走って外に飛び出した少女に手を振ると、シーラは小さく息をついた。 「お疲れ様。お茶にしない?」 「あ、はい」 湯気をくゆらせるティーカップとクッキーをテーブルの上に並べて、フィリアは席に着いた。 「いただきます」 カップを傾け、窓の外に視線を向ける。無邪気に遊ぶ子供たちの表情が、シーラにも破顔をもたらした 「やっぱり、怪我する子とか多いんですか?」 「うん。子供は元気が取り柄だからしょうがないけど……。大変じゃない? 毎日じゃ」 「そんなことないですよ。それに――」 シーラは自分の左手を見つめ、 「自分が誰かの役に立てるのって、嬉しいんです」 と、笑った。 「シーラさんの能力のことは……聞いてもいい?」 ためらいながら尋ねるフィリアに、シーラは本心から頷いた。 「はい」 フィリアは疑問に思っていたことのうちのいくつかを口にする。もっともそれも好奇心からの質問ではなく、今後のために確認しておきたいことだった。 「じゃあ、何か制限とかあるの? 疲れたりとかは?」 「使いすぎると疲れますけど、今ぐらいだったら問題はないです」 「どんな大きな怪我でも治せるの?」 「一応、今まで治せなかったことはないです。ただ、そんなに大きな怪我を治したことはないから、どの程度まで治せるかっていうのは、はっきりとは……」 もちろん、興味がないといえば嘘になる。だが、それを満たすことにどれほどの意味があるというのだろう。自分に害を与える力でなければその詳細を知る必要などないはずだ。 第一、シーラが他人を傷つけることなどあり得ない。長い時間を共有したわけではないが、それでも彼女の優しさを知るには充分だった。 「子供の怪我を治すくらいだったら、シーラさん自身に影響はほとんどない?」 「あ、はい」 「それならよかった」 フィリアは硬かった表情を崩し、紅茶に口をつけた。 「ほら、無理させてるなら悪いじゃない? シーラさんがいくら怪我を治せるからって、それに甘えてばっかりになるのもいいことじゃないしね」 「私のことなら、気にしないで下さい。平気ですから」 紅茶の湯気にフィリアの溜息が紛れる。戸惑いを見せたシーラに鋭い――けれど決して悪意はない――視線を向け、諭すように言った。 「そういうわけにもいかないの。私からすれば、子供たちもシーラさんも同じなんだから。他人にはない能力を持ってるからって、他人より頑張らなくちゃいけないってことにはならないんだよ」 「でも、怪我をした人を見過ごすなんてこと、できません」 「何も無視しろって言ってるんじゃないの。無理しないで欲しいだけ」 「でも……」 何かを言いかけたシーラは頭を振り、瞼を閉じる。 窓をすり抜けた陽光が生み出した影は、刻一刻と変化する模様を室内に与えていた。雲脚は亀のように遅く、穏やかな大気は今日の晴天が明日にも引き継がれることを期待させる。その中に飛び交う子供の笑い声と自分を比べながら、シーラは口を開いた。 「無理は、しません。それはきっと、誰も望んでないことだから……。でも、私のこの力で助けられる人がいる限り、自分にできる精一杯のことはすると思います」 「それで、自分が傷つくことになるとしても?」 「傷つくことを怖がって、自分にできるかも知れないことを放棄するのは嫌なんです。傷つくかどうかは、結果に過ぎないことだから」 シーラの意志が揺らぎそうにないことは、その瞳を見れば明らかだった。フィリアは少女に投げかけようとしていた台詞を全て廃棄し、それまでの会話の流れを無視した言葉を呟いた。 「似てるね……セム君と」 フィリアの唐突な台詞の意図が分からなかったシーラは、惑うばかりで相槌を打つこともできなかった。 「いいところも悪いところも、強いところも、たぶん弱いところも……。セム君と、ほとんど一緒。自分のことを後回しにできる部分なんて、特に」 「私はセムみたいに強くはないです……」 「セム君も、同じ。あんな能力を持ってるから、強く見えるけどね。……シーラさんもセム君も、他人にはない力を持ってる。だからそれを役立てたいと思うのは、ある意味で当然なのかも知れない。でもね、特別な力を持ってるから他人よりも頑張って当然、ってことはないと思うの。子供たちの怪我を治してくれてることは感謝してるけど、シーラさんも子供たちも同じなのよ? 大切って意味では」 フィリアは席を立ち、窓を開ける。何人かの子供に笑顔で手を振り、屋外の空気を大きく吸い込んだ。 「それにシーラさんに何かあったら、怒られちゃうもの。子供たちもそうだけど、何よりセム君に。覚えてる? 私と最初に会ったときのこと」 「ルーンさんのお店……ですよね」 「そう。そのときにセム君がシーラさんのことを『俺の関係者だ』って言ったじゃない。あの台詞、普段のセム君じゃまず考えられないの」 「考えられない?」 風と共に、一枚の木の葉が室内に迷い込む。フィリアはそれを拾い上げると、テーブルの上に置いた。白いクロスの上の緑色が、何故か普段より鮮やかに見えた。何気なくシーラが手を伸ばしたことが合図であったかのように、話が再開される。 「セム君の仕事って、その内容は依頼次第じゃない。本人から聞いてるかも知れないけど、危険なものも正直少なくないの。だから、余計な心配をさせないために、ある程度は他人と距離を置くようにしてるらしいのね。まして知り合ってそんなに時間の経ってない人であれば、仕事の依頼主でもない限りは赤の他人みたいな接し方をするのが普通なんだけど、シーラさんのことは『関係者』って言い切った」 「……」 うつむくシーラの耳に、静かに窓を閉める音が届く。それに続いたのは、年上の女性の優しい声だった。 「シーラさんが傷ついたらセム君が悲しむ。それがたとえ、シーラさん自身が望んだ末のことだったとしても。シーラさんが自分の能力で誰かを笑顔にしたいって思っているのと同じように、シーラさんの笑顔を望んでいる人がいるってことも、忘れないで」 シーラは何も言わず、微かに頷くだけだった。彼女の手を握り、目の高さを合わせてフィリアは微笑む。 「何も、言わなくていいよ……。落ち着くまで、このままでいるから」 子供たちの笑い声。ティーカップから生まれ、空気に取り込まれていく湯気。微かに吹く風を孤独にしない、草花の匂い。フィリアの笑顔と、握られた手。 暖かい時間が、少女の居場所だった。 一閃。息をつくセムの目の前を、何本かの木の枝が落ちていく。剣を鞘に収め、水筒の蓋を開ける。水を飲む少年の視線が、自分の横を見たところで止まった。 「あ、いた」 セムの姿を見つけたシーラが微笑み、額の汗を拭った。街外れの雑木林までの道のりは、彼女にとってそれなりの運動になる距離だったのだろう。 「どうして、ここが?」 「ルーンさんが教えてくれたの。迷惑……だった?」 セムはかぶりを振り、水筒を差し出した。 「あ、ありがとう。セムは、ここで何を?」 「少し、体を動かしてた。鈍ってると、命取りになる可能性もあるしな。シーラはどうして、こんなところまで?」 「少し、話をしたかったから……」 木の葉が微かに騒ぐ。セムは近くの木に寄りかかり、シーラの言葉の続きに耳を傾けた。 「セムには、私のことをたくさん背負わせてる……。助けてもらって、励まされて、お父さんやお母さんのことも……。迷惑をかけてること、セムは本当はどう思ってるの?」 「どうって……気にしてない。第一、迷惑だとは思ってないしな」 シーラの頭に手を置いて、セムは言った。 「自分のことを話してくれるのは、俺のことを信じてくれてるからだろ? それを迷惑だなんて思う奴はどこにもいない。だから、気にしなくていいんだ」 「私と知り合ったこと……後悔してないの?」 「どうして後悔しなきゃいけないんだ?」 セムは間髪入れずに反問する。シーラは彼に対する複雑な思いの中から最も強い感情を選び出し、それに素直に従った。 「ありがとう」 「いいよ、礼なんて。シーラが笑っててくれれば、それでいい。そのための迷惑だったら、いくらでも歓迎する」 「うん。でも、嫌になったらいつでも言ってね。そのときは……」 シーラは先を明言せず、曖昧に微笑んだ。セムは木漏れ日を生み出している枝葉を仰ぎ、言った。 「信じるって言ってくれたシーラに、俺は何ができるのかずっと考えてた。結局……守るって結論しか出なかった」 シーラは自分の顔を隠すために、うつむいた。自分でもその正体がよく分からない、けれど決して弱くはない複雑な感情を抱いたまま、彼女は地面に落とすための独り言のような口調で聞いた。 「私は……いつまでここにいるか分からないよ?」 「軽い気持ちで言えるほど、簡単な台詞じゃないってことくらいは承知の上だ。それでも、これからずっとシーラに関わって生きていけるのなら――」 セムは言葉を切る。自分の気持ちを確かめ、それを素直に偽らないために。 「――それも、悪くないんじゃないかって今は思う」 けれど結局、思いは幾分か抑えられた上で伝えられた。その真意を知ってか知らずか、シーラは彼の瞳を真摯な眼差しで見つめていた。 「ただ、俺の仕事は危険なことが少なくない。だから、いつ万が一の事態になるか分からない。……それでもいいか?」 シーラはいくらかの躊躇の後、小さく頷いた。でも、と口の中で呟いて、拳を強く握る。それはそのまま、彼女自身の強さでもあった。 「私に助けられるのならどんなことをしてでもセムを助けるし、セムがどうにかなるのは、はっきり言えば嫌。覚悟しなきゃいけないなら覚悟はするけど、でも、そんなのは無駄になるようにって気持ちも捨てない。セムに何かがあっても、それがしょうがないことなんて絶対に思わない。……それでいい?」 「ああ。強いな、シーラは」 「ううん、そんなことないよ。だからお母さんとお父さんのことだって話したんだし」 あの夜、橋の上で語られたシーラの両親の死。それを話す声が、脳裏に浮かぶ。絶望に覆われた声音の記憶がセムの口を開かせるより早く、少女は偽らざる本心をゆっくりと紡ぎ始めた。 「正直に言えば、話さなければよかったって思ってる。だけど、いくら後悔したってセムの記憶が消えるわけじゃない。だから、たった今決めたの。私のことを背負わせた分、私もセムのこと背負うよ。私は絶対、一人じゃ生きていけないから」 シーラはセムの手を取った。手のひらの温度が、全身に伝わる。不意にシーラは大きく息をついて、その場に座り込んだ。 「シーラ?」 呼吸の間隔が短くなっているシーラの顔を、心配そうに覗き込む。少女は額に流れる汗を拭うよりも先に、苦笑いにも見える微笑を浮かべた。 「たくさん、力を使ったから……ちょっと、疲れただけ」 「何を治すつもりだったんだ? 俺は怪我なんてしてないぞ」 「古傷を治そうと思ったんだけど、無理だったね」 セムは年齢にふさわしくない傷跡だらけの手に視線を落としてから、それでシーラの髪に触れた。出会った頃より長さを増した黒髪が、その持ち主の頬を撫でるように微かに揺れた。 「どんなことをしたって過去はなくならないように、たぶんこの傷も一生消えない。でも、俺はそれでいいと思ってる。この傷があったから、シーラと出会えた。だから、俺はこの傷に感謝してる。見た目が悪いのは確かだけどな」 「じゃあ、余計なことしちゃったね」 「傷を治そうとしてくれる人がいることは、ありがたいことだよ。余計なんかじゃない」 不意の足音が聞こえてきたのは、セムが微笑んだのと同時だった。少年は反射的に剣に手をかけるが、警戒は木々の間から現れた小柄な人影を確認した瞬間に解かれた。 「どうしたんだ、爺さん」 「散歩じゃよ。そっちは、逢い引きかね?」 茶色いローブを羽織った老人は、そう言って愉快そうに笑い声を上げる。だが、その声が穏やかなためか、不快になることはなかった。 「話をしてただけだ。彼女はシーラ・アミス。噂くらい聞いてるんじゃないか?」 「初めまして。シーラ・アミスです」 「これはわざわざ丁寧に……。儂はセノア・サイルと申します」 「サイル?」 シーラはその名前に疑問を覚える。それに答えたのは老人本人ではなく、セムだった。 「爺さんは、この街の創始者の一人なんだよ。この街の名は、爺さんの名前からつけられたんだ」 「もっとも、儂は何もしとりゃせんが。ただの爺じゃよ。時にお嬢さん、聞きたいことがあるのじゃが……」 「あ、はい。何ですか?」 「聞くところによると、不思議な力を使えるそうじゃが……ペンダントを持っていたりせんかね?」 「はい、持ってます」 「悪いが少し、見せてくれんかね?」 シーラはペンダントを渡す。セノアはそれをかざしながら丹念に観察すると、本来の持ち主に決して速いとは言えない動作で返した。 「ふむ……。それはどこで手に入れたのかね?」 「私の家に代々伝わっているものです。詳しいことは分かりませんけど……」 「ペンダントについて何か知ってるのか?」 「昔話の範囲を出ないものならば、知らないこともないが……」 「教えて下さい!」 シーラの声は、いつになく強かった。一瞬気圧された老人は微笑み、近くにあった切り株の上に腰を下ろした。 「本当に、大したことを知っているわけではないのじゃよ。ただ、お嬢さんと同種の能力を持っていた人間が過去にいたということと、その人物は全てペンダントを身につけていた、ということだけだからの」 「そのペンダントが、これなんですか?」 「確証はないがの」 「でも、私の父も母も、祖母も祖父も誰一人として私みたいな力は持っていません。それならこのペンダントは、関係ないんじゃないですか?」 「ペンダントは象徴なのじゃろう。何故お嬢さんだけがその能力を使えるかは、見当もつかん」 「そうですか……」 落胆の色を隠さないシーラに、セムは言った。 「シーラはその能力で色々な人の怪我を治してきた。だから絶対、意味も理由もある。どうしても見つからなければ、自分で意味や理由を与えてやればいい……これは受け売りだけどな」 「……うん」 自分よりもずっと若い二人のやりとりを見つめていた老人の足下に、いつの間にか白い毛並みの猫がすり寄っていた。膝の上に乗せその体を撫でてやると、猫は体を丸め、心地よさそうに目を細めた。 「飼い猫ですか?」 「この辺りをうろついてる野良だよ。街の人間に近づいてきては、餌を得て生きてる気紛れな奴だ」 「触ってもいいですか?」 「構わんが、なかなか人には懐かんからの。気をつけなされ」 だが、セノアの言葉に反して、猫は自分の体に触れる手を拒もうとはしなかった。それどころか、老人の膝から離れ少女の足にすり寄る。老爺は感心したように短く声を上げ、嬉しそうに笑った。 「気に入られたようじゃの。セムとは大違いじゃ」 セムは憮然とした顔で猫に手を伸ばす。すると、今までシーラに甘えていた動物は態度を一転させ、総毛立たせながら威嚇を始めた。 「何かしたの?」 シーラの問いに、苦笑し肩をすくめながらセムは答える。 「何も。昔から動物とは相性が悪い」 シーラは猫を抱き上げ、その頭を撫でながら尋ねた。 「名前とか、あるんですか?」 「何も。野良じゃからの」 「じゃあ、私がつけてあげる。何がいい?」 短く鳴いて応えた猫と、穏やかな笑顔で猫に話しかけるシーラを見つめながら、少年は小さく息をついた。 「何から何まで、セムとは反対じゃの」 「全くだ」 シーラは猫と会話をしながら――もちろん、少女が一方的に話しているのだが、彼女の声に猫がいちいち反応する様は会話のように見えた――、時折、笑顔を覗かせる。つい今しがた知り合ったばかりの猫は、彼女がずっと前からの主人であるように、腕の中でおとなしくしていた。 「それじゃ……『リンウ』ってどう? 嫌?」 猫は短く鳴く。承諾の返事だった。 |