第二章 理由 強風に煽られ宙を舞う洗濯物を、伸ばした自らの腕に絡ませると、キトは几帳面にそれを畳み直して幼なじみに手渡した。 「助かった。ありがとう」 「もう取り込んだ方がいいんじゃないのか?」 頭上で燦々としている太陽と、騒々しいほどの葉音を比べ、 「うん、そうする。手伝って」 乱れる髪を撫でつけるのも程々に、ルイは籠に洗濯物を放り込み始める。干されていた全ての衣類を受け入れ、重量を増した籐籠をキトが小脇に抱え、空いたもう片方の手で崩れた幼なじみの髪に触れた。 「綺麗だな……髪だけは」 「相変わらず褒めてるのか貶してるのか分からないわね」 と、ルイは微笑んだ。 ひねくれた言葉の真意は、いつもその裏側に存在していた。それを知っているルイの顔に、感情を害した気配は微塵もない。 「でも実際、手とかは綺麗じゃないだろ」 「これは……しょうがないじゃない」 憮然としながら、ルイは右手を振ってみせる。毎日の水仕事で荒れた手は、確かに彼女には似つかわしくないものだったが、それでも自分の肌を恥じることはなかった。むしろ、自分が生きている証左として誇りに思っているからこそ、幼なじみに抗議したのだ。 「分かってるよ。その手、俺は好きだし」 「どういう風の吹き回し?」 キトは無言で肩をすくめ、先に家の中へと入っていった。直に吹かれることはなくなったが、窓を耳障りに思えるほど強く叩くことによってその強さを誇示していた。 「なあ、ルイ。やっぱり、物騒じゃないか? 一人で住んでるのは……」 「こんな小さい村で何が危ないって言うの?」 問い返すルイの声が強張っていることに、キトは気付いていなかった。 「それはそうだけど。最近はここらにも盗賊が出没するって噂があるし……」 「噂は噂。大丈夫よ」 「そうだとしても、一人じゃ何かと大変なんじゃないか?」 投げつけられた空の籐籠が返答だった。キトはそれを受け止めると、抗議をするどころか謝罪の意志を呟いた。 「ごめん……」 「どうして謝るのよ……」 理に適っていないキトの言動をはねつけるように、ルイは苛立った声を彼にぶつけた。 「悪いのはキトじゃなくて私なのに……」 ルイが住む一軒家は、キトが言うように一人で暮らすには不向きな面積を有していた。事実、物置と化した部屋もある。女性は部屋の中に視線を巡らせてから、所在なさそうにうつむいた。 「みんなが心配してくれてるのは分かる……。だけど私がここにいなきゃ、誰がお父さんとお母さんを出迎えるの?」 ルイの両親が行方知れずとなったのは、今から五年前のことだった。いつもと変わらずに家を出ていく背中が、家族に関する最後の記憶になるとは知る由もなかった。 「無駄かも知れないって、私自身思うときはある。だけど、それでも待っていたい。自分で確かめるまでは、ほんの少しの可能性でも、生きているって信じていたい。分かってもらえなくてもいい。それでも、私は……」 無論、両親の行方を探しもした。ルイやキトだけでなく、全ての村人が自分にできる形で手がかりを得ようとした。だが、何一つとして有益な情報は入手できなかった。 そして、時が過ぎれば出来事は例外なく「過去」となる。それはルイにとっても真理だった。 「……ごめん。馬鹿だよね」 キトは何も言わずにルイの瞳だけを凝視していたが、やがて彼女が視線を逸らすと同時に口を開いた。 「馬鹿なんかじゃない。この世に二人しかいない親のことなんだから」 窓を割らんばかりの風勢の中、地に落ち始めた雨が土砂降りに変わるまで、長い時間は要さなかった。強雨が奏でるルールのない旋律は、明確な理由を与えないままキトの不安を駆り立てた。漠然とした動揺を隠しながら、彼は言う。その言葉は結果として、下手な慰めよりもよほど意味を持った。 「ただ、ルイは一人じゃないって……言いたいのは、それだけだよ。自分を自分で追い詰めるのはいいことじゃないから、辛くなったら吐き出せよ?」 「……うん」 わずかに頷いて、ルイは不器用に笑った。 「ありがとう」 「いいよ。お前の心配するのが、俺の役目だ。それより、ここでしばらく雨宿りさせてもらっていいか?」 「もちろん。それじゃご飯、作るね。お腹空いてるでしょ?」 背を向け、ルイは台所へと向かう。その途中、独り言と何ら変わらない声色で呟いた。 「本当に迷惑だったら……見捨てて構わないから……」 キトの溜息が、雷鳴にかき消される。嵐を受け入れた窓外の景色を眺めながら、彼は穏やかに答えた。 「大丈夫だ。俺がルイを見捨てるなんてこと、絶対にあり得ないから」 暖かい夜だった。寝静まった街を分けるように流れる川に掛かる橋の上で、セムは小さく溜息をついた。 「……こんな時間に散歩か?」 背後に近づいていたフィリアに、振り向かず話しかける。彼女は足を止め、セムと向かい合う形で欄干の上に腰かけた。 「何となく眠れなくて。セム君は?」 「似たような理由だよ。それにしたって、こんな時間の独り歩きは危ないんじゃないのか?」 「セム君と一緒にいれば、安心でしょう?」 「……まあ、確かに」 と、セムは向き直り、 「シーラは……元気か?」 「元気よ。やっぱり、気になる?」 「気にならないって言ったら、嘘になる」 「その割には、一度も会いに来てないみたいだけど?」 セムは蒼い月明かりに照らし出されている足下の石を拾い上げ、それを川面に投げ入れた。川音が一瞬途切れ、何事もなかったようにまた奏でられ始める。彼はゆっくりと言った。 「会う理由がないんだよ」 「嘘ね、それは」 紡がれた言葉を、フィリアは断じた。 「会いたくないの?」 「別にそういうわけじゃ……」 「それなら、会いに来る理由はあるじゃない?」 セムは何も答えない。彼の心中を察したように、 「心配かけたくないの?」 と、尋ねた。 「……どうしたって、危険と隣り合わせの仕事だからな。心配してくれる人がいるのはありがたいが、だからこそ余計な心配はさせたくない」 「だから距離を置いてるの?」 「正しいとは思ってない。それでも、他にどうすればいいか分からない……」 空に雲は一つもなく、その半分に闇を被せた月も、夜が単純な一色であることを許さない多数の星宿も、何にも遮られることなく静夜の中に映えていた。 「気持ちは分からなくもないけど、やっぱり会わないっていうのは間違ってるんじゃない?」 セムが返答――反問――を発するまでには、いくらかの無言の時間が存在した。それでも迷いがあるのか、彼の瞳はフィリアの肩に焦点を合わせていた。 「……一つだけ、聞いていいか? シーラは俺のこと、何か言ってたか?」 「気にはかけてる。それを言葉に出すことはあんまりないけど、そういうのって態度で分かるから」 セムは小さく息を吐き出すと、視線を足下に落としながら尋ねた。 「俺が行ったら……邪魔にならないか?」 「大丈夫、手伝ってもらうから。報酬は手料理でどう?」 「充分だ」 「じゃあ、商談成立ね」 と、フィリアは相好を崩す。それと同時に、不意に第三者の声が会話に割り込んだ。 「あの……こんばんは」 「どうしたの、こんな時間に?」 問われたシーラの表情が緩む。 「それはフィリアさんだって同じですよ。それに、セムも」 「俺は散歩してただけだよ。それにフィリアも。それで、どうした?」 「私も同じ。月が綺麗だし」 欄干から降りたフィリアは、シーラの表情を一瞥し、 「私、そろそろ帰るね。セム君はもう少しいるんでしょ?」 「ああ。まだしばらくはいると思う」 「じゃあシーラさん、私は先に帰ってるね」 「あ、はい。お休みなさい」 フィリアを見送ると、シーラは改めて微笑んだ。 「少し久しぶり……だね。元気だった?」 「見ての通り、何も変わりはなし。シーラの方は?」 「フィリアさんは優しいし、みんないい人だし。幸せだよ」 「幸せってことは……ないだろ。心配させたくないんだとしても、そんな嘘はついて欲しくない」 「ううん、違うの」 シーラはかぶりを振る。セムが知る限りの彼女からは想像しがたい重苦しい声は、否応なしに不安を与えた。 「楽しいのは、本当。毎日私は笑ってる。まるで、親のことなんか忘れたみたいに」 シーラは無表情だった。唯一微少の感情を宿している瞳だけが、彼女の本心を推す手がかりだった。 「お母さんもお父さんも大好きだった。それなのに、私は普通に生きてる。泣きもしないで、毎日を過ごしてる」 抑揚を持たず羅列される言葉は、自身に対する呵責のようにも思えた。どんな慰めも空々しくなることを知っていたセムは、その場に立ち尽くしていることしかできなかった。 「……ひどいよね」 「そういうことも……あるんじゃないか。現実を受け入れられないことは、誰にだってあるだろ」 シーラは自分の首に手を回すと、その手を握ったままセムに差し出した。 「……これ」 セムの手のひらに乗せられたのは、青いペンダントだった。月光に照らされた装飾品には、花の模様が彫られていた。 「お母さんの形見なの。代々伝わってたものなんだって……」 そのペンダントに、古めかしさは微塵も感じられなかった。作られてまだ一年も経っていないと言われても、何も疑いはしないだろう。 「それを見るたびに、お母さんとお父さんのことを思い出すの。楽しかったことも、悲しかったことも……。それでも、私はずっと泣かずにいる。今日も、きっと明日も……」 その言葉は、自責のために吐き出されたものだろうか。あるいは、自嘲か。そこにどんな負があるにしろ、セムにできるのは自らの本心を伝えることだけだった。 「俺は、シーラがそんなに冷たい人間だとは思わない。泣けないのが事実だとしても、シーラは今そのことで苦しんでる。本当に冷たかったら、そんなことは気にしないんじゃないのか?」 シーラはただうつむいているだけだった。セムは喋り続けることしかできない自分を道化師のように滑稽に思ったが、それでも何もしないことを選択する気はなかった。 「シーラの苦しみを分かるなんてことは口が裂けても言えない。今の苦しみから助けるなんて約束もできない。それでもよければ、いつでも頼ってくれていい。シーラのことを放っておけない人間は、何人かはいるぞ。もっとも、この街は他人に不用意に踏み込まないことが暗黙の了解となってるから、シーラが何か言わない限りは誰もどうしようもないけどな」 「ごめん……」 「謝ることじゃないだろ。ほら、これ」 と、セムはペンダントを本来の所持者に返し、欄干に体を預けながら空を仰いだ。 「いずれにしろ、考えないよりはずっといい。俺はシーラと正反対で、親のことを憎んでる。あいつらの顔を思い出すだけで吐き気がしてくるから、親のことなんてほとんど考えない。でも、シーラはそうじゃないだろ? 一番大切な人を失ったんだ。その現実を受け入れるのは容易じゃないし、気持ちの整理をするなんてこの短い時間じゃできなくて当然なんだよ」 シーラは何も言わず背を向ける。一陣の風が吹き抜け、頬に冷気がまとわりついた。 「そろそろ寒くなってきたから戻るか。風邪――」 「ごめん。もう少しだけ……」 シーラはセムを見ないままに、彼の台詞を遮った。 「泣けない理由、本当は分かってるの。私が、逃げてるから」 「逃げてる?」 振り返ったシーラの背後で、いくつかの星が瞬いた。少女の笑顔がひどく儚く思えたのは、そんな星屑の呼吸すら感じられるような澄んだ夜だったからだろうか。 「現実から。私はきっと心のどこかで……それを認めたくないから」 しかし、それは子供じみた希望から生まれた錯覚でしかなかった。今にも消えてしまいそうに思える今の姿こそ、脆弱な嘘の裏側にある真実だった。 「逃げたって、現実は何一つ変わらないのにね……」 その瞳を、セムは知っていた。それはかつて、自らの能力に憎悪を抱いていた頃の自分自身と同じだったからだ。 シーラは、死ぬつもりはないと言った。生きる意志を示したからこそ、セムも彼女をサイルに連れてきた。だが、その決意が壊れない保証はどこにもない。彼女の生きようとする心が、必ずしも安定している土台の上に存在しているとは限らないのだ。彼女が今立っているのが、危うく揺れながら均衡を保っている秤の上でないと、誰が断じられるだろう。 「それは……どういう現実だ……?」 答えは、淡々と紡がれた。 「お父さんとお母さんが死んだのは……私のせいなの」 「死人、とはね」 サイルからそう遠くない墓地で、白骨と化した骸が歩いているところを目撃されたのは三日前のことだった。墓地といっても木で組まれた十字架を墓標とした簡素なものだが、それでも肉体から離れた魂が眠る場所には違いない。セムは神妙な顔でその場所を見渡した。 「う、嘘じゃないですよ……」 墓守だという男は震えた声で言い、青ざめた顔色でセムを見る。 「分かってる。俺を騙すためだけにサイルに来るような悪趣味な奴なんて、いるはずがないからな。少し、調べさせてもらっていいか?」 「は、はい」 セムは墓標のそばでしゃがみ込み、土を手に取ってみる。同様の行動をいくつかの十字架の近くで繰り返してから、彼は言った。 「確かに、掘り返した形跡があるな。墓守というのは、一人で?」 「いえ、他にも何人かはいますが……」 「他に見たと言っているのは?」 「私だけですが……」 そのときのことを思い出したのか、墓守は派手に身震いした。セムは苦笑いを浮かべながら、なおも墓地に変わったところがないか歩き続ける。墓地を一通り調べ終え、得た些細な情報から今回の件を頭の中で整理していると、不意に足下の土が隆起した。 「来たか」 セムは飛び退いて、剣を抜いた。背後の墓守に目配せし、命じる。 「隠れてろ!」 墓地の地面はそれ自体が生きているかのように多数の隆起を作り、そのいくつかから指が姿を現した。正確に言えば、指の骨が。 白骨は人の形を作りながら、立ち上がった。中にはまだ土に還りきっていない、腐敗臭を伴う肉を纏っているものもいる。覚悟はしていたものの、不快感は拭えなかった。 「不死者は専門外だが……やるしかないか」 両手に剣を持ち直し、セムは一瞬で骸との間合いを詰めた。得物で肋骨ごと背骨を殴りつけると、あっさりと骸骨は地に崩れ落ちた。 「もろいのが唯一の救いか……。だが……」 剣を払い、もう一体を粉砕する。視界の隅で振り下ろされた墓標を紙一重で避け、セムは詠唱した。 「風の刃よ、骸を再びの眠りにつかせろ!」 人骨がくの字に折れたかと思った次の瞬間、それは地面に積み重なるように崩れ落ちた。それを確認もせず、振り向きざまに不安定な十字架を蹴り倒し、その遠心力で剣を叩きつける。三人分の骸が同じ場所に崩れ落ちると同時に、墓標の下敷きとなった骸骨の頭蓋に剣を突き立てた。 「……!」 引き抜いた剣で頭上からの襲撃を受け止め、振動も収まらないうちに片腕で振るう。かつて人だったものは空中で四散し、再び永い眠りについた。 「剣よ、氷を纏え。我に仇成す死者を――」 まだ肉体を完全には失っていない死体が、自らの胃液を吐き出す。 「凍らせよ」 胃液を墓標で受け止め、骸を剣で貫く。突かれた部分を始点に、死者は氷で覆われていった。 「……砕けろ」 破砕した氷塊は地に吸い込まれる。セムは振り返り、残りの数を確認すると――五体――、目を閉じ雑念を追い出した。暗闇の中に、残りの不死者を思い描く。そして、想像。 かつては自らの命を顧みないほど憎悪し、冒険者となってからは数々の危機を切り抜けさせてくれた能力は、決して無制限ではなかった。 基本的には、頭で思い描いたことを言葉に変換することで、その事象を現実に起こすことができる。セム自身も、普段はその方法で能力を発動している。だが、「詠唱」は本来必要なものではない。一切の言葉を介さず、頭の中の映像を直接現実のものとして出現させることも可能なのだ。事実、詠唱の余裕がない場所ではそうしている。言葉は、能力の発動の際に精神にかかる負荷を軽減する、触媒の役目を果たすものなのである。 「居場所を違えし者よ、汝に褥を与えん」 セムは地面に剣を突き立てる。一瞬の静寂。空気が震え、木々が騒ぎ始める。 「その褥は――」 炎が剣を包む。喧噪が失われ、全ての音が消滅したような静寂がセムの周囲を飲み込んでいた。 「紅蓮の柱なり」 無音が破られると同時に地を走った炎は、五本の柱に姿を変えた。柱に捕らえられた骸は、断末魔を叫ぶこともなく灰となった。 「終わり……か」 「ありがとう。お疲れでは?」 「……どういうつもりだ」 労うように出迎えた墓守に、鞘に収めようとしていた剣を突きつけながらセムは問う。 「お前は……誰だ」 「悪ふざけが過ぎましたな。しかし、どこで分かりましたかな?」 「気配と口調でな。再度聞くぞ、お前は誰だ」 「名を答えたところで意味はないと思いますが。何しろ私はずっと昔に肉体を失ったものですから」 「となると……お前の家は、ここか」 と、セムは今しがた出てきたばかりの墓地を指した。 「驚かないのですな」 「あんな連中と一戦交えた後だからな。今さら生きている人間に別の魂が乗り移ったところでどうってことはない」 「なるほど、一理ありますな」 「今回のことについて、何か知っているんだろう? だからこの男の体を借りた」 「ええ。永き眠りについていた私たちは、あるときふと目を覚ましました。生きていたときの時間で言えば、十日ほど前のことでしょうか。目覚めたにしても、肉体は失われております。従ってほとんどの者は再びの眠りが訪れるのを待っていました。ですが……」 「一部に、例外がいた」 墓守の体を借りた「魂」は、神妙な面持ちで頷いた。 「元々、誰もが自分の死に納得しているわけではありません。志半ばで倒れ、未だ生への執着を持った者も存在します。そのような者がどのようにしてか骸を動かす手段を獲得し、それを実行したのが今回というわけなのです」 「……頭が痛くなる話だな」 「信じられませんか?」 「何とも言えない。少なくとも常識の通用しない話であることは確かだが。――異形の凶暴化にしろ、今回の件にしろ、妙なことが多すぎる……」 セムは数回自分の額を指で叩き、小さく息をついた。 「おかげで仕事に困ることはないけどな」 「ではそろそろ……」 「ああ。できれば、すぐにあんたと再会しないことを願うよ」 墓守は笑う。次の瞬間男性の体は頽れ、地にゆっくりと横たわった。 「墓……直さないとな」 荒れた墓地を見ながら、セムはただ苦笑いを浮かべるしかなかった。 「妙な話ですね」 ハインはグラスを置き――中に入っているのは水だが――、セムの仕事に対する感想をそう述べた。 「異形の凶暴化に死人の覚醒。次は天変地異でも起こるかね?」 「……信じてないだろ」 自分を睨んでいるセムの視線を受け流し、ルーンは肩をすくめた。 「お前さんが悪趣味な冗談を言っているとは思っていないさ。ただ、およそ常識で量れない物事に対しては、戯れ言でも言いたくなるのが人間というものだからな」 セムはグラスを傾け――これも中身は水だ――、 呟いた。 「常識なんて……何の意味もない」 「まあ、そうかもな」 墓を直した後、夕陽を横顔に感じながら帰路を辿るセムは、自分の思慮のなさを悔いていた。墓地を荒らしたことではない。異形退治の仕事に向かう途中、山道で出会った同い年の少女のことだ。 『私のせいなの』 その一言が、どうしても頭から離れなかった。何故、その事実に思い至らなかったのだろうか。彼女がサイルという場所を望んだ理由を生み出した真実は、ひどく単純で醜悪だ。だからこそ、それを想像できずに彼女自身の口から語らせた自分が、どうしようもなく愚かしい存在に思えた。 「ところで、アミスさんとはどうなっているんだい?」 その答えは、自らが生命を持っているように浮き上がり、切っ先をルーンに向けたナイフが提示した。 「……死にたいなら容赦はしないぞ。今は虫の居所が悪いんでね」 「悪かった。前言撤回する」 ナイフが元の場所に戻る。ルーンが恐る恐る触れたときには、もう何の変哲もない刃物になっていた。 「喧嘩でもしましたか?」 「喧嘩? そんなものは幸せな連中の気紛れだろう? お前とフィリアがいい例だ」 セムは吐き捨てるように言い、グラスの中に残っていた水を飲み干した。 「そんなに幸せな理由じゃないんだよ。……俺が馬鹿なだけだ」 「傷つけるようなことでも?」 「……そんなところだ」 「でも彼女は、いつも通りでしたよ? 思い過ごしでは?」 「同じ穴の狢だ。サイルに住んでる人間全てが騙されてるんだよ、シーラ一人に」 「騙すって……そんな人には見えませんけどね」 「お前も馬鹿の一人らしいな」 その声はハインを蔑んでいた。そしてセム自身に向けられた嘲りの感情は、自らを嫌悪する台詞として紡がれた。 「騙されてたんだよ。誰一人として、真実を見ようとしなかった。シーラはそれを利用したんだ。誰かが自分のことを知ってしまえば、余計な心配をしてしまう。だから、騙したんだ。何でもないふりをして、普通に振る舞った。でもここがどういう街で、どういう人間が集まるのか、誰もが知ってるはずだよな? シーラだってそれは例外じゃないんだよ」 「知っているのかい? あの子がここに来た理由を」 「……ああ。もっとも、聞かれたって言う気はないけどな」 あのとき、何も言えなかった自分は、シーラの話を聞きながらどんな顔をしていたのだろうか。深々と頭を下げて、闇の中に消えていった少女は、どんな心を抱えていたのだろう。何一つとして答えは出せず、偽りだと知っている笑顔を受け入れるしかないという現実は、滑稽以外の何物でもなかった。 「あの子は……強いんだな」 「随分と悪趣味な冗談だな。弱いんだよ、シーラは。他の連中がそれよりも弱くて、おまけに馬鹿だから強く見えるだけだ」 シーラと出会ったのは、彼女の両親が死んだ翌日のことだ。彼女はそのとき確かに生きる意志を示しはした。けれど、その前日の夜までは彼女は死ぬつもりだったのだ。 死に恐怖を抱いたという彼女の言葉が真実だとしても、それは必ずしも生きる理由にはならない。それならば、今彼女を生かしているものは何なのだろうか。死に怯えながら、闇の中で何を考えたのだろう。 セムは答えの出ない思索を止めるようにかぶりを振る。だが、袋小路に迷い込むことを分かっていながら思惟を中断することはできなかった。 仮にシーラが何らかの理由を支えとして生きているのだとすれば、その理由が失われたときに彼女はどうするのだろう。別の生きる意味を見出すのか、あるいは……。 『私のせいなの』 何故、何も言えなかったのか。どんな綺麗事だろうと、それが石の欠片ほども価値を持たない空理だったとしても、その一言に抗うべきではなかったのか。 何も知らなかったことなど、言い訳でしかない。あのとき、シーラの言葉を肯定できない自分が間違いなく存在していた。それならばどうして、自分の本心にのみ従うことができなかったのだろう。 不用意な言葉で彼女を傷つけたくなかった。心に土足で踏み込みたくなかった。耳障りのいい台詞なら、いくらでも並べ立てられる。けれど結局は、自分が傷つきたくなかったというのが真実だ。そんな自分が、どうして彼女を救えるだろう。 「嫌になるな……」 セムは呟き、立ち上がった。 「それでも、あの子が頼りにしているのは――」 「皆まで言われなくても分かってる。……強くなってやるよ」 答えは何一つとして見つかっていない。けれど、時は平等に過ぎ去っていく。 だからこそ、人は足掻き続ける。 |