LIVE-on the way-3



「ただいま」
「お帰り……おや」
 サイル唯一のバー「ムーン」のマスター、ルーン・ハンティがグラスを拭く手を止め、珍しいものを見つめる目をしながら言った。
「いつの間に人さらいまで始めたんだい?」
「……店ごと燃やすぞ」
「冗談だよ、冗談。それで、一体?」
「シーラ・アミス。ここに住みたいんだと」
「あ、あの……初めまして。これからお世話になります」
 と、シーラは深々と頭を下げる。ルーンは微笑み、仕事を再開した。
「で、この丸っこいのがルーン・ハンティ。この酒場のマスターだ」
「よろしく。さて、仕事が終わった祝いに、何か飲むかい?」
「酒はやめとく。紅茶を」
「そちらのお嬢さん……じゃなかった、アミスさんは?」
「あの、私、お金が……」
「今は営業時間外だからね、私のおごりだよ」
「じゃあ、同じので」
 セムが小さく息をつく。その横顔を、何故か笑みを浮かべているシーラが見つめていた。
「どうした?」
「いいところだなって思ってたの」
「……そうか?」
「うん」
 二人の前にティーカップが置かれる。一口飲んだシーラは、やっと表情からぎこちなさを追い払って言った。
「おいしい」
「どうもありがとう。これ、サービスだよ」
 と、ルーンはテーブルの上に焼きたてのクッキーを置いた。子供のように瞳を輝かせる少女とは対照的に、セムは憮然としていた。
「……随分と気前がいいんだな」
「店の売り上げに貢献してくれれば、お前さんにだって少しは無償奉仕するさ。第一、男は女性に優しいものだって昔から決まってるんだよ」
 二人のやりとりの間で、シーラは困惑顔で硬直していた。セムが溜息をつくと同時に、彼女の金縛りが解ける。
「一緒に食べようよ、一人じゃ多いし」
「……うるさいところだろ」
「ううん、楽しいよ」
 扉が開き、大きな紙袋を抱えた女性が入ってくる。シーラよりも少しだけ年上らしいその女性は、紙袋をカウンターの上に置くと手の甲を押さえた。よく見ると、彼女の肌には血が伝っている。
「傷薬、ありますか? 怪我しちゃって……」
「あの、傷を見せてもらえますか?」
「え? あ、うん」
 シーラの手が女性の傷に触れ、
「もう大丈夫だと思います」
「ほら、傷は……」
「あ、もう大丈夫……みたい……」
 自分の目の前で起こった出来事の意味を了解していない二人の前で、シーラはうつむき加減で立ち尽くしていた。
「礼を言え、礼を」
「……あ、うん、ありがとう……。えっと……あれ、セム君? 帰ってきてたの?」
「ついさっきな。彼女はシーラ・アミス。俺の関係者だ」
「さらってきたの?」
「どうしてそうなる……」
「冗談よ。それで、さっきのは?」
「……どうしてかは分からないけど、私には怪我を治す能力があるんです。それで……」
「ありがとう」
 女性の手がシーラの頭に置かれる。少女は今にも泣き出しそうな表情で、矢継ぎ早に言葉を紡ぎ出す。
「でも、あの、怖くないんですか? 怪我が治せるなんてそんなの普通の人にはできないし、自分でもどうしてこんなことができるか分からないし、それに、それに……」
「結構驚いたけど……でも、怖くはないよ。怪我を治してくれたし、それにセム君がいるから……って、言っちゃいけなかった?」
「いや、もう知ってるから問題ない」
「セム君の能力の方がよっぽど危険だもの。あれに慣れれば大抵のことなんて怖くなくなるよ。あ、自己紹介がまだだったね。私はフィリア・エナス。よろしくね」
 差し出されたフィリアの手を握ると、シーラの体が女性の方へと引き寄せられた。抱きしめられた少女が戸惑い始めると同時に、
「サイルへようこそ……シーラ・アミスさん」
「……お前さんもあれ、やられたっけな」
 ルーンのからかうような小声に、セムは肩をすくめて応じた。
「恥ずかしいんだあれは……」
「それでも、やる相手は選んでるらしいからな。そういう意味じゃ、フィリアはここで一番人を見る目があると思うがね」
「かもな」
 シーラを離すと、フィリアは再び彼女の頭の上に手を置いた。
「びっくりした?」
「え……あ、はい……」
 速まっていた鼓動が少しずつ平静を取り戻していた。年上の女性の無邪気な温もりが、呼吸をするたびに薄れていく。自分の温度と心が平常に戻るのを待ちながら、シーラは父親が繰り返した言葉を思い出していた。
――他人に近づくことを、怖がってはいけないよ。
「あの……よろしくお願いします」
 その能力故に、他人との間に自ら壁を作ることは容易だろう。だが、シーラはそれを拒んだ。
「ねえ、シーラさんの住むところ、決まってるの?」
「……考えてなかった」
「お前さんの家、一人で住むには広くないかね?」
 と、ルーンはセムの肩に手を置いた。
「常識ってものを考えろ。一緒になんて住めるわけないだろう。フィリアのところは?」
「別に私は構わないけど……。シーラさんはどうしたい?」
「その、私は……住まわせてもらえるなら、どこでも……」
「じゃあ、私のところでいい?」
「あ、はい。お世話になります」
 微笑を交わす二人を横目に、セムは天井を仰ぎ見ていた。小さな息を吐き、瞼を閉じる。
「どうした?」
「……ちょっと考え事だ」
 ぬるくなった紅茶を飲み干し、呟く。
「人間ってのは、どこまで上手く嘘がつけるんだろうな……」
「そりゃ、人によるだろう。もう一杯、いるかい?」
 返事を聞かず、ルーンはカップの中に紅茶を注いだ。
「ここに来る人間は、例外なく何か抱えてるものさ。まあ、それを詮索する気はないがね」
「……」
「知らなければよかったと思ってるかい?」
「いや……」
 セムがかぶりを振ったことだけ確認すると、ルーンはグラス拭きを再開した。
「ねえ、セム」
 何かを心配している顔で、シーラが少年に声をかける。彼の感情が、ほんの一瞬だけざわついた。
「どうした?」
「あの……たまに、会いに行ってもいいかな? もし、迷惑なら……」
「そんなこと、考えなくていい。いつだろうと迷惑なわけないだろ。それよりも、紅茶が冷めるぞ」
 カップを傾ける少女を視界の端に見ながら、セムは彼女に出会ってからのことを思い返した。
 両親が帰らぬ人となり、生まれ育った地――それがどこなのかは知らないが――を絶望と共に離れ、死を覚悟し拒絶した山中で自分と出会った。
 それから今に至るまで、彼女は一粒の涙も落としてはいない。あるいは、自分の見ていないときに静かに泣いているのだろうか。
「ごちそうさま。おいしかったです」
「また、いつでもおいで」
 真実は分かるはずもない。だが、いずれにしろ今のシーラの笑顔を受け入れるわけにはいかなかった。
「じゃあ、行こうか? それともセム君とまだ話す?」
「あ、いえ」
 女性二人がいなくなり、バーには少年と中年だけが残される。最後のグラスを吹き終えたルーンが、カウンターの上で組んだ手を見つめるセムに尋ねた。
「よかったのかい?」
「……何が」
「アミスさんと一緒に住まなくて」
「何の冗談だ」
 ティーカップを起点に揺らめく湯気越しに、少年は何を思うのか。その瞳を見たルーンは、何も言わず棚から酒を取り出した。
「住めるわけないだろ……俺だって男だぞ」
「お前さんなら、間違いは起きないと思うがな」
「断言はできないな、残念ながら」
「そうかい? あの子を悲しませるような真似は、絶対しないんじゃないのかい?」
「……そんな顔してたか、俺」
「ああ。初めて見る顔だったよ」
 グラスに透明な液体を注ぎ、セムの前に置く。
「……安いな」
 と、セムは一気にグラスを空にした。
「おごりで出す酒が、高価なわけがないだろう? それに、美味いものを出すとお前さんがいくら飲むか分からないからな」
「……なるほど」
「それに、たまには悪酔いした方がいい。愚痴の一つでも言っておけ」
「いや、それは遠慮しておく……」
「まだ飲むかい?」
 セムは首を横に振り、クッキーに手を伸ばした。
「酒にそれは合わないだろう? それより、本当によかったのかい? 一緒に住まなくて。別に変な意味じゃなく、お前さんと一緒の方が彼女にとっていいんじゃないのかい」
「……俺がシーラと一緒に住まなかった理由は、二つある。一つはさっき言った、常識的な理由。もう一つは……ある程度の距離を置くためだ。もっとも、関わりたくないわけじゃないぞ」
「分かってるよ。関わった人間をそう簡単に放り出しはしないからな、お前さんは」
 セムは席を立った。バーのマスターに背を向け、扉に手をかける。
「……俺が仕事でいないときは、シーラのこと頼むな」
「ああ。何も心配するな」
 セムは小さく息を吐いて、家路を歩き出した。


「驚いた?」
「あ……いえ……」
 フィリアは袋から食べ物を出しながら、窓の外に視線を向けた。何人かの子供が、無邪気に遊んでいた。
「家族のいない子供を引き取って一緒に暮らしてるの。孤児院っていうほど大袈裟なものではないんだけど……」
「一人でですか?」
「ううん、みんな手伝ってくれるから。シーラさん、子供は好き?」
「あ、はい。お手伝い、させてください」
「ありがとう。でも、今日は疲れてるでしょ? ゆっくり休んで、明日からお願いね」
「大丈夫です。手伝います」
 フィリアは声にしようとしていたいくつかの台詞を飲み込み、意を曲げようとしないシーラに提案した。
「ええと……それじゃ、話でもしようか。お互いのこと、少しは知っておかないとね。じゃあまず、年は?」
「十七歳です」
「あ、じゃあセム君と同じだね」
 不意に、細い手がシーラの髪に触れる。少女が困惑を隠さないでいると、フィリアが苦笑いを浮かべた。
「ごめんね、人の髪に触ったりするの好きだから……ほら、シーラさんの髪、綺麗だし」
「お母さんもよく、撫でてくれました。フィリアさん、何となくお母さんに似てます……」
 と、シーラはうつむいてしまう。数回深呼吸をして顔を上げた彼女は、微笑んでいた。
「大丈夫?」
「平気です……何でも、ないですから」
 それは、フィリアがサイルで暮らすようになってから、数え切れないほど見てきた表情だった。悲しみを押し殺し、心配をかけまいと、あるいは本心を隠そうとしている瞳だった。
「何も聞かないけど……もう、一人じゃないよ」
「セムにも、同じようなこと言われました……。だけど、どうしていいか……」
 フィリアは袋の中から果物を一つ取り出し、シーラに手渡した。柑橘系特有の香りが、微かに辺りに広がった。
「何も、しなくていいよ。生きていれば、色々なことは少しずつ変わっていくから」
 数秒の沈黙を経て、シーラは小さく頷いた。フィリアは微笑んで、
「嫌いなもの、ある?」
 と、特に形容詞の必要ない口調で尋ねた。
「特にはないです。何でも食べられますよ」
「よかった。ほら、子供たちはどうしても好き嫌い多いでしょ? 何がいいかって考えるの、一苦労なの。シーラさん、料理は?」
「一応、できます。そんなに上手じゃないですけど……」
「じゃあね――」
 シーラのペースに合わせて、フィリアの質問が重ねられる。他愛のない会話が、セムのそばにいるときとは違う種類の安心感をもたらしていた。
 セムと出会ってから、まだ十日と経ってはいない。それでも、故郷にいた頃の生活がまるで遠い昔のことのように思えた。決して裕福ではなかったが、幸せだった。母親と共に料理を作り、父親の仕事を手伝い、三人で眠りにつく。平凡な毎日だったが、それで充分だった。
 ふと、手のひらに視線を落とす。自分の能力は確かに不思議だったが、それを深く考えたことなどなかった。他人の傷が治せることが、ただ嬉しかった。けれど――。
「……どうしたの?」
 フィリアが心配そうに顔を覗き込んでいた。シーラは慌てて言う。
「何でもないんです。ちょっと、考え事してただけで……」
「やっぱり、疲れてるんじゃないの?」
「いえ、大丈夫です」
 シーラは微笑んだ。
 何故こんな能力を持っているかは分からない。だが、その理由を探さなければならない気がした。
「フィリアさんは、ミルアって人のことは知ってますか?」
「ミルア? ううん、心当たりはないけど……知り合い?」
「いえ……」
 そのヒントを握っているのは、自分と同じ力を持つ女性だろう。もしかしたら、正反対の能力を持つセムと巡り会ったこと自体が何らかの意味を持っているのかも知れない。
「他に、何か聞きたいことは?」
「ええと……じゃあ、フィリアさんはおいくつなんですか?」
「二十三。手なんか荒れちゃってて、そうは見えないけどね」
 と、フィリアは小さく笑う。その表情から、肌荒れをむしろ誇りに思っていることが分かる。生きている顔だった。
「今までずっと一人で、子供たちを?」
「ううん、みんな手伝ってくれるからね。ルーンさんとか、セム君とか……みんな、優しいから。セム君なんか優しいって言われると、嫌そうな顔するんだけどね。ここに来るまで、セム君と一緒だったんでしょ? どんな印象、持ってる?」
 シーラは持っていた果物をテーブルの上に置くと、ゆっくりと言葉を選び始めた。
「その、少し近寄りにくい雰囲気とかもありますけど……でも、優しいのかなって思います。私のこと気遣ってくれてたし……それに、優しくなかったらあんな風にフィリアさんやルーンさんと話せないと思うんですよね」
「セム君の力はどう思う? 怖くない?」
 シーラは首を横に振った。そして、たった一言。
「助けてくれたから」
 フィリアはそれ以上を尋ねようとはしなかった。少女の強さに対して、これ以上の詮索は不要だと思ったからだ。
 だが、だからこそ気にかかることもあった。彼女を見ているときのセムの目――あれは、何なのだろう。彼は確かに優しいが、必要以上に他人の心配をする性格ではなかったはずだ。それなのに、どうしてあんなにも不安そうな瞳をしていたのだろう。
 サイルという街の性質上、他人の過去を聞くことは暗黙のうちに禁止されていた。彼女にしてもここにいる以上、何かを抱えてはいるのだろう。あるいはそのことが、彼の見せた顔色の理由なのかも知れない。
「シーラさん、一つだけ約束して。これからは一緒に住むんだから、あんまり遠慮しすぎないこと。いい?」
 だから、フィリアにできるのはそんな小さな約束を交わすことだった。もっとも、それにしてもどれほどの効果があるのか定かではないが。
「フィリア……あれ?」
 大体フィリアと同じくらいの年齢だろうか、黒い服に身を包み、眼鏡をかけた線の細い男性が姿を現し、シーラを見て動きを止めた。
「……そちらは?」
「シーラ・アミスさん。今日からここに住むことになったの。彼はハイン・シュルト。私の友人」
「初めまして、アミスさん」
 ハインは眼鏡の奥にある細い目をさらに小さくして、軽く頭を下げた。つられるように、シーラも会釈をする。
「それで、何の用?」
「用があるわけじゃないんだけど、暇だったから手伝いにね」
「じゃあ、子供たちの相手してくれる? 私はこれから料理するから。何だったら、ハインもここで食べていく?」
「そうさせてもらうよ」
 と、ハインは手を軽く振りながら台所から出ていった。フィリアは小さく息をつくと、料理の準備を始める。
「手伝います」
「じゃあ、これ細かく切ってくれる?」
「はい」
 手を洗いながら、シーラはふと思ったことを口にした。
「仲、いいんですね」
「誰と?」
「シュルトさんとです。知り合って、長いんですか?」
「サイルに来る前からの付き合いだからね。もう十年くらいになるかな」
 料理の手を止めないまま、フィリアは質問に答える。かまどに火を入れて、小さく切った何種類かの野菜を鍋の中に放り込んだ。
「あの……好きなんですか?」
「ハインのそばにいると、安心はできるし楽しいけど……好き、とは違うかな。やっぱりそういうの、気になる?」
「あ、いえ……ごめんなさい」
「いいの、気にしてないんだから」
 喋りながらも手は止まらない。その手際のよさに、シーラは素直に感心した。
「料理、上手なんですね」
「そんなことないよ。ルーンさんとか、私より上手い人はたくさんいるし。クッキー、おいしかったでしょ?」
 シーラは頷いた。
「元々料理人だから、ルーンさん。今度お店に行ったら、何か作ってもらうといいよ。あ、お皿取ってくれる?」
「あ、はい。……あの、これからよろしくお願いします」
 改めて、シーラは頭を深く下げた。フィリアは料理の手を止め、笑顔で返す。
「こちらこそ」