LIVE-on the way-2



 穏やかな夜が景色を包んでいた。空気は冷えていたが、地を照らす月の光が冷たさをいくらか和らげていた。
「……眠れないか?」
 溜息混じりに寝返りを打ったシーラを気遣うように、セムが声をかけた。
「起きてたの?」
「空が明るすぎるのかもな」
 十六夜の月だった。風はなく、種々の虫の声だけが飛び交っていた。
「セムは運命って信じる?」
「信じてない。シーラは?」
「私も信じてないよ。ただ、セムと出会ったことには何か意味があるような気がするの」
「意味?」
「セムと出会ったことで、私は今生きてる。それはたぶん、私がまだ死んじゃいけなかったからだと思うの」
「死んでもいい人間なんてのは、実際そうはいないさ。まあ、どうしようもない奴もたまにはいるけど。シーラは生きるべき人だよ。これから辛いことは数え切れないほどあるだろうし、俺なんかこんなことを言える立場にないけど、シーラは生きた方がいい」
 そう言うとセムは微笑んで、
「もうシーラは知らない人じゃないから、今死なれたら俺が悲しいよ。話し相手がいてくれた方が、よっぽど気が楽だし」
「気が楽って?」
「今回のような化け物退治の依頼が、最近増えてきてる。……戦う前の日は、いつも怯えてる。情けない話だよ」
 数年前からその目撃情報を聞くようになった生物たちは、特にここ一年ほど凶暴化の傾向を見せていた。それは、セムに持ち込まれる依頼の中で退治の仕事が増える時期とほぼ一致していた。
 化け物――多くの人間はそれを「異形」と呼ぶ――は、元々は凶暴さなど持ち合わせておらず、他のほとんどの生物と同じように、自分の縄張りを侵されなければ他に危害を加えることなどほとんどなかった。
 それでも、少なくない人間はその容姿故に無意味な恐怖を抱き、排除しようと躍起になった。異形が、人に仇なす存在だと決めつけ、殺戮を繰り返した。
「強くなんかないんだよ、俺は……」
「それで、いいんだと思うよ。そんなに強くならなくても、生きていくには充分だよ。私なんか、自分でも嫌になるくらい弱いけど、それでも何とか生きてるし」
「……シーラは、強いよ。笑っていられるんだから」
「泣くことは……」
 一旦言葉を切り、空に向かって息を吐き出す。世界を抱きかかえる闇は、今は不安ではなく平穏を与える役目を果たしていた。
「きっと、いつでもできる……。たぶん、一人になったときにこっそり泣けばいいと思うの。誰かに泣いてるところを見られるのは、嫌だから。セムに迷惑をかけたくもないし、笑ってた方がきっとお父さんとお母さんも安心してくれるだろうから……」
「俺のことは、あんまり気にしなくていい。一人で泣きたいのならそれもいいと思う。でも……限度はあるぞ」
「……うん」
 弱い風が吹いた。シーラは毛布を鼻先まで引き上げ、小さく笑った。
「本当は、まだ実感がなくて……。両親は目の前で死んで、私はここにこうしているのに、本当はこれが夢で、目が覚めたらいつも通りお母さんが朝ご飯を作ってるんじゃないかって、心のどこかでそう思ってる……。おかしいよね」
 と、シーラは自嘲の色を瞳に浮かべる。かぶりを振り、少年は少女の言葉を否定した。
「おかしくなんかない……。でも、きっとこれは夢じゃない。それでも……温かいスープはないけど、俺はシーラのそばにいる。大したことはできないかも知れないけど、それでもシーラに出会ったことは紛れもない事実だから」
「私はきっと、何もできないよ……?」
「怪我、治してくれただろ? それに話し相手にもなってくれてる。何にもできないことは、実際はそんなに簡単じゃない。それに、もう俺はシーラのこと放っておけなくなってるしな」
「たくさん、迷惑かけるのに……?」
「それはそのときになったら考える。今はただ、シーラの辛さが少しでも軽くなればいい。それだけだよ」
 シーラの胸の中で様々な想いが交錯する。その結果として声になったのは、相反する二つの言葉だった。
「ごめん……ありがとう……」
「感謝しなきゃならないのはこっちだよ……信じるって、言ってくれたから」
 シーラは強く首を横に振り、
「私には……信じるくらいしか……」
「信じることは、それ自体が力だよ。誰かを信じることも、信じてもらえることも……。だからシーラに出会えたこと、感謝してる」
「……」
 うつむく少女の髪に、何かが触れた。顔を上げると、いつの間にかセムがそばで笑っていた。
「セムの手、傷だらけだね……」
「何でも屋なんてやってると、どうしても増えるんだ。こういう手は、あんまり好きじゃないよな」
「ううん、そんなことないよ。セムの手、好きだよ」
「綺麗じゃないのに?」
「でも、暖かいよ」
 傷跡だらけの手を握り、シーラは微笑んだ。
「もう、傷は増えない……。私が全部、治すよ」
 夜の冷たさが気にならなくなっていた。時間が止まったかのような静寂の中にあっても、人の温度が寂しささえ追い払っていた。
「怪我はしない方がいいけどね」
「そうだな」
 いつしか、二人は眠ることを忘れていた。この穏やかな時間が続くことだけを、自分でも気付かないほどの心の奥底で願っていた。
「私、これからもセムのそばにいていいのかな?」
「構わない。どうしてそんなこと?」
「セムのこと、知りたくなったの……ゆっくりでいいから、できるだけたくさん」
「俺のことなんか知ったって、面白くないぞ?」
「それでもいいの」
 そして、朝まではまだ遠かった。


 それは、悲しき物語。
 それがいつの頃の話なのか、どこにも記されてはいない。ただ一つ言えるのは、遠い昔の話だということだ。

 キトとルイは、幼なじみだった。他の誰よりも多くを話し、互いを気遣い、喧嘩を重ねるような間柄だった。それは彼と彼女が住む小さな村の中では日常の風景であり、それが失われると思っている人間は誰一人としていなかった。
「……顔、赤いぞ?」
「平気。ちょっと疲れてるだけ……」
「お前が開口一番『平気』って言うときは、大抵何かある」
 黙り込んだルイの額に手を当てて、キトは顔をしかめた。
「やっぱりな……熱がある」
「だから、ほんの少し……」
「それを信じると、次の日には寝込んでるだろうが」
「……」
「帰れ。家まで送っていくから」
「……嫌」
「わがまま言うな」
「だって、あそこには……誰もいないから……」
 熱のせいか、別の理由によるものかは分からなかったが、幼なじみを見つめるルイの瞳は潤んでいた。キトは小さく息をつき、
「分かったよ……ここで寝てろ。ただし騒いだら本当に帰ってもらうぞ」
 と、ルイの頭に手を置いた。
「……ごめん」
「いいよ、そんなに迷惑ってわけじゃないから。一人じゃないんだから、少しくらい甘えたっていいんだよ」
 何も答えずにいたルイに毛布を渡し、今度は笑いながら手を置く。
「たまにはこういうことがないと、喧嘩しかしてない二人になるからさ。それじゃ疲れるだろ?」
 冗談めいた言葉に、ルイが少しだけ表情を緩ませて頷いた。
「そうだね」
 それが、当たり前の日常だった。


「それで、ここに現れる異形というのは?」
「それが……」
 この村の長だという白髪の老人が、探るような顔を隠さずセムの質問に答える。
「その……リスなんです」
「リス? どうしてそれが異形になる?」
「それが……大きさが……」
「『巨大化』か。異形と呼ばれる連中にはいくつかのパターンが存在している。本来あり得ない大きさの生物もその一つだ。それで、被害は?」
「農作物が食われて……このままでは、生活が……」
「他には? 怪我をしたとか、殺されたとか……」
「幸いなことに、作物以外の被害は出ておりません。ですが……」
「ああ、分かった。それだけ聞けば充分だ。余裕はないだろうが、野菜を少し用意してくれ。それと、村の人間は家の外に出ないように言ってくれ」
「分かりました……」
 困惑した表情のまま、長はセムの言葉に頷いた。程なくして彼の前には野菜が積まれる。
「あまり、いいものではありませんが……」
「充分だ。シーラ、いくらか持ってくれるか?」
「うん」
 外はもう闇に彩られていた。田畑から離れた木の根本に座り込み、セムは息をつくその隣で、シーラが何故か嬉しそうに微笑んでいた。
「何やってるんだ」
「何にもしてないよ」
「……危ないぞ」
「戦うときは、ちゃんと離れるよ。……それともやっぱり邪魔?」
「いや……」
 セムは自分の手を見つめる。不快な汗が肌に張りついていた。
「一緒にいてくれた方が……気が紛れる」
「……やっぱり怖いの?」
「怖くなくなったら、その時点で廃業だろうな。恐怖が俺を生かしてくれてるって側面は、否定できない」
 と、セムは目の前の作物に視線を落とし、
「それより、どう思う? この村に現れる異形のこと……」
「どうって?」
「変じゃないか? 狙うのは農作物だけ、人はおろか建物にすら被害がない。まるで……」
「意図的に作物だけ狙ってる?」
「ああ。……正直、あまり気が進まない。畑を荒らせば村人が飢えるから、放っておくわけにはいかないが……」
 小さく溜息をついて、セムは空を仰いだ。
「理由はどうあれ、俺がこの力を使うときは何かを傷つける。……辛くなるときも、少なくない」
「ずっと、一人でその辛さを……?」
「他人に背負わせるものじゃないからな」
「言ったよね……セムの傷は、もう増やさないって」
 二人の手が重なる。冷たいシーラの手のひらが、不安を抱く少年には心地よかった。
「それは、体だけじゃなく心もだから。セムの辛さはきっとほんの少ししか分からないけど、もう一人じゃないよ」
「そんな迷惑、かけられない」
「……今の私じゃ、セムが何も分けてくれないのはしょうがないと思う。でも、少しはセムが頼れるように……強くなるから。楽しいことしか共有できない関係なんて、いらない」
 シーラの声には、強い決意があった。セムが返すべき言葉を見つけられずに口を噤んでいると、少女が沈黙を破るように意志の続きを紡ぎ始めた。
「セムの気持ちも、少しだけど分かるよ。私がセムの立場だったら、同じようなこと言うと思う」
「……」
「私がいつか、邪魔にならない保証もない。でも、私にとってセムはもう知らない人じゃないから」
「俺は……」
 木の葉がざわめく。風が残していった静寂は、少年の声を何物にも遮らせないための自然と偶然の計らいだった。
「癒し方を、知らないんだ……。シーラを俺のせいで傷つけたら、俺にはどうもできない……。だけど……」
「だけど?」
「逃げたくは、ない。シーラがいい加減な気持ちで言ってるんじゃないことは、声を聞いてれば分かる。でも……」
 また迷い始めたセムの傍らで、シーラが小さく笑い始めた。怪訝そうなセムに、微笑みを崩さないまま謝る。
「ごめんね、でも急に可笑しくなっちゃって……。だって、私とセムが会ってまだ何日も経ってないのに、こんなこと話してるなんて変だと思わない? そんなに急いで結論を出す必要なんて、ないはずなのにね」
 と、シーラは屈託のない表情を見せて、
「セムが元気でいてくれれば、それでいいよ。ややこしいことは、ゆっくり考えるから」
「……ありがとう」
「どうしたの?」
「色々と、さ」
「迷惑じゃないの?」
「一人でいるのは好きじゃないって、前も言っただろ。……さて、おいでなさったみたいだ」
 セムが視線を向ける闇の中には、赤く光る二つの目があった。鞘から剣を引き抜き、ゆっくりと呼吸を整える。
「二メートル半ってところか……。確かにリスとしちゃ、でかいな。……さあ、お前の求めるものはここにあるぞ!」
 シーラが物陰に隠れたことを確認すると、少年は得物を地面に突き立て、詠唱を始めた。
「……地に横たわる石達よ、礫となりて彼の獣を脅かせ」
 彼の声に応え、地面に転がる無数の石が浮力を得、異形を襲った。だが獣はひるむことなく、闇の中から姿を現した。セムは剣を持ち直し、言う。
「お前がここを襲う理由も予想がついているし、理解もする。……俺はお前を傷つけたくはない。だが……戦わせてもらうぞ」
 異形の甲高い声が辺りにこだまする。セムは再び大きく息を吐き、
「風よ、塊となりて……」
 跳んだ。
「倒せ!」
 異形がよろける。だが、セムが着地した瞬間に、獣の巨大な前脚が彼を殴りつけていた。
「くっ……」
 体勢を立て直したところを襲った第二撃を寸前で避け、
「……礫!」
 石礫を飛ばし、言葉を続ける。
「数多の風塊よ、彼の獣を撃て!」
 打撃音がいくつも響き、異形は完全に動きを止めた。
「退け! お前を殺す気はない!」
 再度の鳴き声。一瞬気を取られたセムを、獣が体当たりで吹き飛ばした。
「……!」
 木の幹に打ちつけられ、セムの唇の端から血が一筋流れ出す。視界の隅の方に、今にも泣き出しそうなシーラが見えた。
「……ここの村の連中も……お前も……何も変わらない。だからこそ、俺はここの村に味方する。俺は……人間だからな」
 セムは剣を鞘にしまい、獣と視線を合わせた。
「心配してる人もいる……。だから……終わらせる!」
 風が吹いた。
「幻炎よ……」
 セムの拳に炎が宿る。獣が脚を振り上げる。
「我が力となりて……」
 薙ぎ倒された木が、土煙を巻き起こす。少年の姿はすでになかった。
「獣を、鎮めよ!」
 一瞬の静寂。それを破ったのは、異形が地面に倒れ込む音だった。
「……ふう」
 地面に座り込んだセムに、シーラが駆け寄った。
「大丈夫?」
「ああ、俺は平気。それよりも、あっちを」
 セムが示した場所には、何の変哲もない一匹のリスがいた。
「これって……?」
「それがさっきまで戦ってたリスだよ。巨大化した動物は、戦意を失うと同時に元の大きさに戻るんだ。一応手加減はしたつもりだが……シーラの力は、動物にも使えるのか?」
「分からないけど……やってみる」
 シーラがリスの体に触れ、目を閉じる。程なくしてゆっくりと目を開いた小動物は、自分を癒してくれた少女の肩に乗った。
「なつかれたな」
「うん。次はセムだよ」
 頬に触れた少女の手から、暖かさが体中に伝わっていく。彼女の手が離れたときには、体に痛みはほとんど残っていなかった。
「さて、報告に行くか」
 長の家の戸を叩く。恐る恐る顔を出した老人は、セムの表情から終わったことを読み取り、安心した表情を見せた。
「それで、あの……」
「異形か? そこで寝てるよ」
 と、シーラの肩の上で丸くなっているリスを指差し、意地の悪い笑みを見せた。
「もう何もしないさ。こいつはどこにでもいる、ただのリスだ」
「は、はあ……。しかし……」
「異形がどんな理由で生まれるのか、誰も分からない。だが、こいつがこの村を……しかも、ご丁寧に作物だけを狙った理由ははっきりしている」
「……餌……ですか?」
「ああ。あの大きさだからな、それまでと比べものにならないほどの餌が必要になったことは容易に想像がつく。きっと自分の住処だけじゃ足りなくなって、この村を仕方なく襲ったんだろう。そういう意味じゃ、こいつもこの村も変わりはない。もちろん、生きるためにこの村の田畑を荒らしていいなんて道理はないが。……さて、それよりも問題はだ」
 と、シーラの肩で眠っている生命に再び視線を向け、
「こいつは、どうする? それを決める権利は、俺にはない」
 躊躇を見せることもなく、老人は言った。
「農作物を荒らしたのは、人よりも身の丈のある『異形』です。そこの娘さんの肩で眠っている、どこにでもいるようなリスではありません」
「……それでいいのか?」
「私は、娘さんが悲しむようなことは、あまり好きではありませんので」
 長は、静かに笑っていた。