雪のカイロ−14



「ただいま」
「よう。遅かったな」
 言うが早いか、森原は水井にベースを差し出した。
「最終確認するぞ」
「ああ。――風野さんは?」
「邪魔になるといけないからって、出ていったよ」
「そっか。しかしさあ……」
 ベースを肩に担ぎながら、水井は口を開いた。
「演奏曲目がビートルズの『LET IT BE』ってのもありがちじゃないか?」
「何を今さら」
 半分呆れたように言って、雨崎は水井の背を軽く叩いた。
「大体この曲を選んだのは、他でもない和樹でしょ?」
「まあ、そうなんだけどさ」
「じゃあ、今さら細かいこと言わない」
「んじゃ、最終確認としゃれ込みますか。――雪谷さん、いい?」
 玲は頷き、一呼吸を置いてから最初の鍵盤を弾き、そして――。
「When I find myself in times of trouble――」
 最初は、ピアノとボーカル。それにドラムが加わり、そしてギターとベース。
 ミスもなく、よく知られた曲の旋律が部屋の中を満たす。
――諦めなければ、伝えられる。
 それが雪谷玲という少女が教えてくれたことだった。
 そして、自分は何を伝えられるのか。水井は自らに問うてみる。
――音楽が好きなこと?
 確かに、そのことは伝えられるだろう。けれど、それだけでいいのだろうか。
――いいはずないよな……。
 ならば、自分は何が伝えたいのだろう。誰に伝えたいのだろう。
「Whisper words of wisdom,let it be……」
 曲が終わり、全員一様に息をつく。そして、森原が言った。
「これで練習は終わり……。本番まであと三時間弱だけど、これからどうする?」
「自由行動でいいんじゃない?」
「そうだな。……じゃあ和樹、これ」
 森原の手から部室の鍵が投げられ、水井の手の上に着地する。
「何で俺に?」
「お前がこの部屋を最後に出るからだ。俺たちはもう行くからな」
「じゃ、またあとでね」
 幼なじみが部屋から出、厚い扉が閉じると同時に水井は苦笑いを浮かべた。
「あからさまな気遣いだな……。なあ、れ――」
 呼びかけをさえぎるように、ピアノの音色が鳴り響く。少しだけそれに耳を傾けてから、水井が口を開いた。
「玲」
 少女の頭に手を置く。演奏を中断させ水井を見上げた玲の瞳には、ほんの少しの焦燥があった。
「色々見て回らないか?」
 水井とピアノを何度か交互に見ると、玲は少し照れくさそうな笑顔を浮かべた。
『私でいいの?』
「何を今さら」
 優しく言って、水井は玲の前髪をかき上げ、その手を途中で止めると彼女と視線の高さを合わせた。
「玲じゃなきゃ嫌だぞ、俺は」
 うんっ。
「じゃ、決まりだな」
 ピアノの蓋を閉じ、立ち上がった玲は水井の頬を指でつついた。
「どうした?」
『顔、赤いよ』
「……しょうがないだろ」
『しょうがないよね』
 玲は楽しそうに同意すると、左手にスケッチブック、右手に水井の腕を抱いた。
「行くか。最初は……食べ物だな、やっぱり」
 うんっ。
「じゃ、何食べる?」
 部室に鍵をかけている間、水井から離れていた玲はスケッチブックにオーダーを書き込んだ。
『たこ焼き』
「たこ焼きだったら俺のクラスで売ってたな、確か。それでいい?」
 うん。
「それじゃ、行くか。――玲はさ、どうして音楽を選んだの?」
 クエスチョンマークを顔に張り付け、玲は首を傾げた。
「分からない?」
 ううん。
 大きくかぶりを振って、玲は水井の腕から離れ、スケッチブックに言葉を書き込む。
『分からなくはないけど、上手く説明できない』
「最初は? 最初はどうして音楽を?」
 少し考え込んだ玲は、不意に表情を明るくすると、いつもより少し急いでスケッチブックにその理由を書き込んだ。
『一番近くにあったから』
「じゃあもし、最初にそばにあったのが絵とか文章だったら……」
『きっと違ってたと思う』
「じゃあ、今は? 今もし、音楽以外の『言葉』を目の前に置かれたら、玲はどうする?」
『使ってみるよ。伝える方法がたくさんあるのは、いいことだから』
 と、玲はそのあとに「でも」と付け加えて、ページを変える。
『音楽が一番かな。好きだから』
「そっか……」
 水井は素っ気ない相槌を返す。興味がないからではない。玲のあまりにも純粋な気持ちに応じられるような台詞を知らなかったからだ。
「俺は……何を伝えられるかな」
『何だって伝えられるよ。諦めなければ』
「……だよな」
 内心で水井は苦笑いを浮かべていた。自分の問いかけは、玲がどう答えるか分かっていて口にしたものだからだ。
 少しだけ、背中を押してもらいたかったから。
――結局、弱いんだよな……。
 自嘲ではなく、受容として心の中で呟き、水井は息をついた。
「さて、ここのはず……だよな?」
 水井は自分の教室の前に着くと同時に、目を丸くした。
「……たこ焼きってそんなに人気あったっけ?」
 自分の教室は、予想以上の人であふれていた。廊下に行列ができているほどだ。
「こりゃ無理かな……。どうする?」
『別のもので構わないよ』
「そうだな。それじゃ――」
「あ、水井君!」
 雑踏の中の喧噪を割って、風野の声が響く。
「こっち、こっち!」
 声に招かれるまま、二人は教室の中に入る。人をかき分け、やっと視界が開けた場所には、エプロン姿の風野を初めとして何人かのクラスメートがせわしなく動いていた。
「よう。……手伝う?」
「ううん、いいよ」
 答えながらも、風野の手は止まらない。改めて部屋の中を見渡した水井は、小さい困惑の表情で言った。
「盛況だな」
「本当にね」
「材料、足りるのか?」
「ああ、それは大丈夫だ」
 男子の一人が、たこ焼きをパックに詰めながら答える。
「こうなることを予想して、かなり多く用意してあるからな」
「予想して?」
「ああ。ところでお前、買わないのか?」
「あ、買うよ。それじゃ二つ」
「……ったく。彼女連れじゃなきゃお前も手伝わせてるんだがな」
「彼女連れ、って……」
「違うのか?」
「……ノーコメント」
 溜息をつきながら二つ分の代金を渡し、たこ焼きのパックをもらうと水井は辺りを見回した。
「どこに座る?」
 玲も周りに視線を巡らせる。と、ある場所にそれが留まった。
「ん? どうした?」
『祐也さん』
「……ああ、一人だな。じゃ、そうするか」
 水井は寂しげにたこ焼きを口に運んでいる森原の肩に、背中から手を置いた。
「背中に哀愁が漂ってるぞ」
「……ああ、和樹か」
『どうしたの?』
「……ちょっと、ね」
「待ち人来ず、ってところか」
「……」
「バーカ」
 水井はわざと見下したように言って、森原の後頭部を叩いた。
「な、何するんだよ!」
「まだ終わったわけじゃないだろうが」
「……」
「森原祐也はそんなに諦めのいい人間だったのか?」
「けど……」
「泣き言だったらはっきりと結論が出たあとにいくらでも聞いてやるよ。でも、まだ何の答えも出てない現時点じゃ、後ろ向きな台詞は一切聞かないからな」
「……早く食わないと冷めるぞ」
「ああ」
 森原と向かい合う位置に二人は座ると、パックを開けたこ焼きを口に運んだ。
「お、上手くできてるな」
「……なあ、和樹」
「ん?」
「お前の率直な意見を聞かせて欲しいんだけどな……。彼女、来ると思うか?」
「……その『彼女』のことを知らない俺に聞くなんて、相当追いつめられてるな」
「俺もそう思う……」
 大きく溜息をつく男二人。一方の玲は、水井の横で口に入ったたこ焼きを咀嚼していた。
「とにかく俺には分からない。玲は?」
 玲はたこ焼きを飲み込むと、スケッチブックにペンを走らせた。
『私も分からないよ』
「と、いうわけだ」
「だろうな……」
「まあ、何時間後かには分かってるさ」
 水井は軽く言うと、たこ焼きを口の中に放り込んだ。
「まあ、それは忘れるとするか。演奏に集中したいしな」
「ああ。ところでさ、何でこんなに人がいるんだ?」
「風野さん目当てだよ」
「……この学校にそんなにナンパ好きな人間が多いとは知らなかった」
「違うって。ほら、黒井の馬鹿を蹴り倒しただろ? だからだよ」
「嫌われ者に制裁を加えたヒーローを見に来たってわけか」
「そういうことだ」
 と、森原は最後の一つを食べると、空になったパックを握りつぶし立ち上がった。
「行くのか?」
「ああ。――邪魔者は消えるよ」
 森原は悪戯っぽく笑うと、小さくなったプラスチックの箱を捨て、教室の外へと出ていった。
「邪魔者、ね……」
『勘違いされてるね』
「勘違いって言えば勘違いだし、そうじゃないって言えばそうじゃないし」
『そうなの?』
「少なくとも俺はそう思ってるよ」
 そう言いながら、水井は最後の一個を口の中に入れる。ふと玲の方を見ると、箱の中には二つたこ焼きが残っていた。
「どうした?」
『お腹いっぱい』
「じゃ、もらっていい?」
 うん。
「それじゃ、いただきます」
 一つたこ焼きを食べると同時に、玲が水井の服の袖を引っ張った。
「ん?」
『次はどこ行くの?』
「そうだなあ……。適当に色々回って……」
 玲が水井の制服を強くつかみ、声を途切れさせる。うつむいている少女をしばらく見つめ、水井はその頭に手を置いた。
「少し、二人で話でもするか?」
 うんっ。
「じゃ、さっさと食べて……と。さて、行こうか」
 玲は先に教室を出、水井はパックをゴミ袋の中に放り込んでから廊下に出た。
「じゃ……部室にでも行くか。他の二人もいないだろうから」
『その前に、これ』
 と、玲が差し出した手の中には、何枚かの貨幣があった。
「これは?」
『たこ焼き代』
「ああ、いいよ。俺のおごりだから」
 少し慌てた顔でスケッチブックを開いた玲の手を、水井は苦笑いと共に止めた。
「安いんだし、おごらせてくれ」
 迷い顔の玲に微笑みかけて、
「そんなに大したことじゃないんだしさ」
 と、水井は小銭を玲のポケットの中に返した。
「それに、こんな小さいことで気を遣われるのは格好悪いし」
『そうなの?』
「そうなの」
 水井は小さく笑って、
「少しぐらいは格好つけさせてくれ――って、そんな大げさなことでもないけど。でも、元が格好悪い人間だから」
 と、おどけて肩をすくめた。
『そんなことないと思うよ』
 少し困惑した顔でスケッチブックを見せた玲に、水井は微笑を向けた。
「ありがとう」
 頭を軽く撫でると、不意に水井は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「当日になって言うことでもないけど……ごめんな。ソロ演奏なんか頼んで……」
 ううん。
『感謝してるよ』
 小さくかぶりを振ったあとに開かれたスケッチブックには、そう記してあった。
『目標ができたから』
「目標?」
『みんなを楽しませること』
「伝えることじゃなくて?」
『みんなが楽しんでくれた時点で、何かは伝わってると思うから』
「……そっか。そうだよな」
 水井の呟きに呼応するように玲は頷き、そして付け加えた。
『私もまだ、何が伝えられるのか分からないから』
「玲でも?」
『もしかしたら、ずっと分からないことなのかも』
 真剣な顔で玲は言った。
『伝えることって、そんなに簡単じゃないから』
「そう……だな」
『でも、諦めるつもりはないよ』
「伝えたいこと、たくさんあるから……だろ?」
 うんっ。
 水井の言葉を大きく肯定して、玲は自分の手に視線を落とした。
「玲は……喋りたいって思ったこと、ある?」
 少しの躊躇が、二人の間の空気に生まれる。そして、少女がゆっくりと頷いた。
「……そりゃ、そうだよなあ……」
 重い息を吐きながら、水井は部室の扉に鍵を差し込んだ。
「俺は逆に……話せなくなりたいって思うときがあるよ……。こんなこと言うと、玲に怒られそうだけど」
 と、苦笑いを浮かべながら水井は机の上に腰掛けた。
「喋れると……嘘が簡単につけるから。嘘を言って自分が嫌になると、話せなくなればいいって思う……」
 一瞬だけの、自嘲。次の瞬間には、穏やかな表情が水井の顔に浮かんでいた。
「嘘をつくかどうかなんて、話せる話せないとは関係ないのにさ」
 机から下り、窓際へと移動する。ガラスに映る自分の顔を通して眼下に広がる風景の中には、明らかに普段より多くの人間がいた。
「嘘って……何のためにあるんだろうな」
 呟き、少年は少女の方に振り返る。その視線を受け、玲はゆるくかぶりを振った。
『私にも分からないよ。ただ、必要があるから存在するんだと思う』
「だろうなあ……」
 小さく息をつき、水井は窓に寄りかかる。と、玲がその隣に来て彼の腕に抱きついた。
「どうした?」
 玲は小さく首を横に振り、水井の手のひらに指でなぞる。
「な……ん……と……な……く。……なるほど」
 水井は芝居のような感じで大げさに溜息をつき、天井を仰ぎながら呟いた。
「いちいち理由なんて必要ないもんな……」
 うんっ。
 玲は相変わらずの無邪気な笑顔で頷いて、水井を見上げる。彼は少女に曖昧な笑みを返し、不意に壁掛け時計に視線を向けた。
「二時間後、か……」
 そう言うと同時に、玲が水井の腕から離れた。そして、スケッチブックにペンを走らせる。
『和樹さんのせいだよ』
「……何が?」
『私が話したいって思うようになったこと』
「ど、どうして?」
 水井は意外さのあまり、うわずった声で反応した。玲はおかしそうな表情を見せ、それから大人びている悪戯の顔を浮かべた。
『伝えたいこと、たくさんあるから』
 と、両腕をできる限り広げ、満面の笑顔を浮かべる。
『毎日、増えていくんだよ。私の周りの出来事、できるだけ多く和樹さんに伝えたいから』
「じゃあ、俺は玲のそばにいなきゃね。話、聞きたいから」
 そう言って、水井はピアノの前に座った。
「さて、何かリクエスト、ある?」
 玲は少し考えてから、言った。
『和樹さんの弾きたい曲でいいよ』
「そっか。んじゃ……」
 水井は息を吐き出し、一音だけを弾いた。その音が途切れ、演奏者の声が短く、穏やかに室内に広がっていく。
「大切な曲……」
 そして始まったのは、水井の――いや、彼の母親の生み出した曲。優しく、暖かかった女性が音という形で遺した、彼女の面影。
 ずっと、家族と一緒にいられると思っていた幼き時間。けれど、それは水井の目前で、一瞬にして奪われた。
 その事実は、あまりにも水井には辛いものだった。だから、捨てようとした。
 家族で生み出した、時間と、思い出と、ぬくもりを。
 けれど、何一つ捨てることも、忘れることもできなかった。
――当たり前だよな、そんなの。
 水井和樹は、時間と、思い出と、ぬくもりを積み重ねて生きているのだから。
 今までも、これからも、ずっと。
 水井に遺されたもの――それはつまり、糧。
 全て、過去に存するものはその姿を決して変えない。けれど、それらを基礎としなければ次に進むことはできない。
 だから誰しも自ら望んで過去を忘れることはできず、同時に忘れてもならない。
 水井はそれを知っていた。だからこそ、彼はそれを卑怯なことだと知りつつも、自分の過去を封じたのだ。
 それから十年以上の時間が経った。
『諦めなければ、伝えられるよ』
 少年が自らに施した封印は、その一言と、ただ一人の少女によっていとも簡単に解かれた。
――きっとそれが、俺の望んでいたことだったから。
 目を逸らすことは、水井の望まざる行動だった。それでも彼が自分の記憶に封をしていたのは、その鍵を開けるのに必要な、少しの勇気を持っていなかったからだ。
 だが、それは過去のことだ。水井の心の扉は開かれ、彼はようやく歩き出した。無数の、伝えたい気持ちと共に。
 ピアノの音色が、優しい余韻を残して終演を迎える。水井は息をついて、照れ笑いを玲に対して見せた。
「ちょっとだけ、正直なこと言うと……」
 窓を開けると同時に、秋風が水井の頬に触れる。その心地よさが、素直になることを容易にしてくれた。
「俺が持ってるたくさんの『大切なこと』――最初に伝えたいのは、玲だよ」
 束の間の静寂。そして、少年が声の糸を紡ぎ、思いを形に成していく。
「その『大切なこと』がどんな形をしてるか、輪郭くらいしか分からないけど……でも、玲や腐れ縁の二人、今まで出会った人にこれから出会う人。その人たちに伝えたいことは、確かに俺の中にあるから。俺は伝えること下手だけど、少しずつでも玲に受け取って欲しいから……そばに、いて欲しいんだ」
 玲は、ためらわなかった。満面の笑顔と、少しの嬉し涙を伴って、彼女は頷いた。
「ほら、玲」
 近づき、涙を拭う。それと同時に、風が二人の間を吹き抜けた。
「泣き顔じゃみんなの前に出られないだろ?」
 水井は笑みを浮かべ、時計に視線を向けた。
「あと、一時間……」
 と、玲が水井の服の袖を引っ張る。少年が彼女に視線を戻したときには、スケッチブックに言葉を書き込んでいた。
『約束しようよ』
「約束?」
『演奏が終わったあと、笑顔でいること。約束できる?』
「もちろん。俺の好きな人たちにかけて」
 笑顔を交わし、玲はスケッチブックを閉じる。それと同時に、雨崎と森原も姿を現した。
「やっぱりここにいたか」
「ああ。お前らの予想通りだ」
「さて、残り時間は……どう過ごす?」
「別に、いつも通り世間話でも。普段の俺たちで、いいんだからさ。ただ……後悔だけは、絶対にしない」
「ああ」
「最初から、後悔なんて言葉はないよ」
 幼なじみの言葉を聞いた水井は机に腰掛け、いつもと全く変わらない口調で話し始めた。
「それより、二人はどこ回ってたんだ?」
 と。