雪のカイロ−13



第五章 文化祭

「ふぁ……」
 緩やかな風が吹く、青天の朝だった。
「よう」
「あ、祐也」
「眠そうだな」
「眠いよ……」
 雨崎はもう一度あくびをして、小さく溜息をついた。
「眠れなかった、って顔だな」
「祐也とは違うもの……」
「俺だって眠れなかったさ。ただ、顔に出てないだけ」
 少年は苦笑いを浮かべて、カーブミラーに映る自分の姿を見上げる。いくら顔に出ないとはいえ、やはりその瞳にはいくらかの疲れの色が見て取れた。
「和樹は、どうだと思う?」
「寝てない方に昼飯」
「じゃ、私は寝てる方に」
「真琴……正気か?」
 と、森原が怪訝そうな顔をするのも無理はないだろう。何しろ、幼なじみ三人組の中でイベントの前日に眠れなくなるタイプの筆頭が水井なのだ。
「根拠があるもの」
「根拠?」
「そう。――本人に聞いてみたら?」
 雨崎がそう言うと同時に、二人の間に和樹が割り込んだ。
「俺が何だって?」
「お前……寝てない顔じゃないな」
「ああ。ぐっすり寝たけど?」
「お昼、ごちそうさま」
 軽く舌打ちをする森原と、意地悪い笑顔を浮かべている雨崎を見て事情を理解した水井は、とりあえず二人の頭を叩いた。
「人をだしにして賭をするな」
「はーい」
「で……どうしたんだ?」
「何で俺が眠れたのか? さあ、どうしてだろうな」
「玲ちゃん、でしょ?」
「……真琴さあ」
 と、水井は盛大な溜息をつき、
「誤解される言い方は、やめろ」
 真琴の頭を、再度小突いた。
「うう……」
「まあ、実際そうなんだけどさ」
 呻いている雨崎を意に介する様子もなく、水井は肩をすくめた。
「だ……だったら叩くことないじゃない」
「成り行きだ」
「あのね……」
「まあ、それはそれとしてさ」
 仲の良さの裏返しである口論が始まる寸前に、森原が二人の間に割って入った。
「問題は、今日の演奏だろ?」
「まあな」
 水井は素っ気なく頷いて、小さく息をついた。白く染まった目の前の空間に向かって水井は手を伸ばし、それをつかむように手を握った。
「ここまで来たらやるしかない……。だろ?」
「そうだな」
「同感」
 三人は同時に頷いて、笑い合った。
「さて……お姫様は大丈夫……だよな」
「お姫様、って?」
 その言葉の意味するところを理解できなかった水井は、真顔で森原に尋ねた。と、からかうような表情で少年は答えた。
「雪谷さん、だよ。お前のお姫様……だろ?」
「お姫様って形容が使えるキャラじゃないだろ、玲は」
「そうか?」
「ああ」
「じゃあ、もっとストレートに、彼女か?」
「……どうしてそうなる」
「一瞬、間があったぞ」
「あまりのことに呆れてただけだ」
「そうなの? 私はてっきり、図星なのかと思ってたけど」
 水井は大きく息をついて、 
「……ったく、うちの幼なじみ二人組は……」
「あれ? 知らなかった?」
「……重々承知してるよ……。お前らの性格くらい……」
「じゃあ、問題なし」
「真琴に同じ」
「お前らの問題は、俺が二人の性格を知ってるかどうかなのか?」
「他に何が?」
 問い返された水井は深くうなだれると、疲れ切った声で呟いた。
「……何も……ないな……」
「だろ? でさ、和樹」
「うん?」
「実際のところ、どうなんだ? 雪谷さんとは」
「……そんなに殴られたいのなら手加減はしないぞ、祐也」
「冗談抜きで聞いてるんだ、俺は」
「……さあ? どうなってるのかなんて、俺にも分からないよ」
 と、水井は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「あのなあ、和樹……」
「……決めたくないんだよ」
「え?」
「俺と玲の関係。『恋人』だとか『友人』だとか……そんなふうに決まりきったものにしたくないんだよ」
「……分かる気はする。でもそれって……ずるいことでもあるんじゃない?」
「だろうな。……ただ、玲のこと大切に思ってはいる。それは、事実だよ。玲のそばにいたいと思ってるし、そういう意味じゃ『好き』なんだと――恋愛的な意味で、さ――思う。ただ、玲の『恋人』になりたいと思ってるわけじゃ……必ずしも、ないんだ」
「大切な人……でしょ?」
「ああ。ニュアンスじゃそれが一番近いよ。もっとも、他の表現は見つからないけど」
「どっちにしても、和樹もずいぶん変わったよな」
「そうか?」
「うん、そうだよ」
 雨崎は頷くと、嬉しそうな表情を見せた。
「今までで一番いい顔してるよ、今の和樹」
「俺も同意見だな。雪谷さんのおかげだろ?」
「ああ」
「いいよな、そういうの……」
 気持ちを込めた呟きの後に、自嘲。水井は幼なじみの言動の意味するところに、すぐに気付いた。
「……まだ叶わない恋、してるのか?」
「叶わない、はひどいな。せめて望み薄と言ってくれ」
 と、森原は微かな自嘲の表情を見せた。
「そんな辛い恋しなくたって……他の人でもいいんじゃないの?」
「……そうしようとしたさ。何度も、数え切れないくらい……」
「だったら……!」
「でもな、やっぱり好きなんだよ。彼女のこと」
「……」
「和樹は、分かるだろ?」
「……残念だけど、多少な。だけど……」
「馬鹿だって言うんだろ? 自覚してるよ、そのくらい」
「……そっか。なら、何も言わない」
「和樹!」
「俺らが言ったところでどうにかなることじゃないだろ」
「そうだけど……」
 水井に改めて指摘された雨崎は、勢いを削がれたのか小さく呟くと、そのまま視線を足元に落とした。
「でも……」
「……ありがとうな、真琴」
 顔を上げた雨崎に、森原は優しく微笑む。それにつられるように、少女の顔にも笑みがこぼれた。
「そんな顔、祐也には似合わないよ」
「その言葉、そっくりそのままお前に返すよ」
「あはは……それもそうだね」
 雨崎の顔に明るさが戻ると同時に、森原が自らの中に溜まっていた重い気持ちを吐き出すように大きく息をついた。
「まあ、俺もさ……このままじゃいけないと思ってるよ。だから今日、はっきりさせる」
「はっきりさせる、って?」
「今日の文化祭に誘ったんだ、その人のこと。来なかったら論外、来ても……振られる確率が九割ってところだな」
「……そっか」
「まあ、今日のメインはそれじゃなくて、演奏だろ? 俺の方は、なるようにしかならないさ」
 悟ったように言って、森原は手を打ち合わせた。
「後悔だけはしないように……な」
 

「おは……」
「静かに」
 部室の扉を開けた瞬間、挨拶は小声の風野によってさえぎられた。室内を満たすピアノの音が、何よりもその理由を物語っていた。
「……集中してるな」
「あんな玲ちゃん、初めて見た……」
 玲の周りの空気は、何者にも入り込めないのではないかと思えるほど張りつめていた。まるで、緊張や不安から彼女を守るように。
「ソロ演奏するんだから、無理ないよ……」
「ああ……」
 やがて、演奏が終わる。拍手をする先輩たちに今気付いたのか、玲は一瞬驚いた表情を浮かべ、すぐに笑顔に変わった。
「頑張ってるな」
 うん……。
 頷いた玲は、不安をその瞳に浮かべていた。その頭に手を置き、優しく撫でる。
「昨日の玲はどこ行った?」
 上目遣いに見る玲に微笑みかけて、水井は言葉を紡いだ。
「上手く伝えようなんて、思うなよ。たとえぎこちなくても、諦めなきゃ伝えられるって教えてくれたのは、他でもない玲だろ?」
 微かに頷いた玲は、水井の手を取り指で文字を書き始めた。
「あ……り……が……と……う」
 と、玲は笑った。そしてバッグからスケッチブックを取り出すと、それを胸に抱き水井の腕を引っ張った。
「え? 出かけるって? 今から?」
『時間、まだあるよね』
「時間?」
 水井は反射的に時計に視線を向け、それから同級生の方を向いて困惑の表情を浮かべた。
「どのくらい、時間かかるの?」
『そんなにかからないと思うよ』
「じゃ、行ってきたら?」
「でも……」
「いいからさ。どうせ最後の練習なんて確認する程度だから」
「……それじゃ、少し出てくる」
「おう、そうしてこい」
「じゃ、行くか」
 うんっ!
 玲は強く頷いて、先を急ぐように水井の腕を引っ張った。
「そんなに急ぐなって」
 苦笑いをしながらたしなめるが、少女はその言葉を意に介していないように先へと足を進める。
「と、止まれって」
 水井が足を止めると、勢いのあまり玲が倒れそうになる。それを支えると、泣き出しそうな少女の頭に手を置いて、苦笑いを浮かべた。
「時間は、まだあるんだからさ。それより、何でそんなに急ぐんだ?」
『会わせたい人がいるから』
「会わせたい人? もしかして……男か?」
 言い終わると同時に、水井の頭がスケッチブックで遠慮なしに叩かれた。
「……ちょっと痛い」
『和樹さんが変なこと言うから』
「ごめんな。それよりも、会わせたい人って?」
『女の子。私の親友』
「へえ……」
 感心したような声を上げる水井の腕に、玲はスケッチブックを閉じてから抱きついた。
「は、離れろっ」
 玲は大きくかぶりを振って、一層腕に力を加える。それは紛れもなく、水井の言葉に対する拒絶の意志の表れだった。
「……分かったよ。で、その友達っていうのはどこで待ってるんだ?」
『ついてきて』
 そう水井の手のひらに書くと、彼をエスコートするように玲は歩き出した。
 いくつもの刺さるような視線に耐えながら、水井はひたすらに足を動かす。一方の玲は、この上なく嬉しそうだった。
「……はあ」
 溜息をつき、玲を見下ろす。笑みをたたえている少女に曖昧な微笑を返し、水井は天井を仰いだ。
「玲は、正直だよな……」
 不思議そうな表情を最初こそ浮かべていた玲だったが、かぶりを振ると立ち止まり少年の手を取った。
『そんなことないよ』
「でも、嘘なんてつかないだろ?」
『好きじゃないけど、言うときもあるよ』
「……何か、意外だな」
『嘘を言わない人なんていないよ』
「そりゃそうだけど」
『でも』
「ん?」
『和樹さんには嘘、言いたくない』
「俺もだよ」
 と、水井は玲の頭に手を置き、そして再び少女に腕を差し出した。それに抱きつき、玲は辺りを見回す。
「ここにいるのか?」
 様々な服装の人間でごった返す玄関前に視線を巡らせながら、玲は水井の言葉に頷いた。
「その人、身長どのくらいだ?」
『私と同じくらい』
「……ってことは、一五〇ちょっとなのか?」
 うん。
「……はあ」
 水井は大きく息をつくと、背伸びをして雑踏に視線を走らせた。
「とりあえず、立ち止まってる人間でも探すか……」
 そう思ってはみたものの、水井の背丈も一七〇を少し上回るほどなので、視線は人にさえぎられるばかりだ。
「……どうしたもんかな」
 と、困惑顔の水井の腕を、玲がまた引っ張り出した。
「ん?」
『見つけた』
「本当に?」
 頷いて、玲は歩き出した。人の間をすり抜け、二人は玄関先へと辿り着く。
「で、どの人?」
 玲はしばらく辺りを見回していたが、やがて目的の人物を見つけると大きく手を振った。
「あ、玲!」
 少女が嬉しそうに玲に駆け寄り、その手を取って大きく振った。
「約束通り、来たよ」
 玲は二度頷いて、満面の笑顔を浮かべた。お互いの間に交わされる表情だけで、二人が本当に親友なのだと分かる。
「で、この人が玲の恋人?」
 少女の目は、水井の方を向いていた。それを受けた水井は、そのまま視線を玲に向ける。
「……俺のこと、何て話してるんだ?」
 困惑した表情を浮かべ、二人を見比べていた玲は、少女の方を向くと軽くスケッチブックで頭を叩いた。
「あはは、冗談だってば」
 少女は楽しそうに笑って、そのままの表情を水井に差し向けた。
「えっと……水井、和樹さんですよね。私、三坂恵理って言います。初めまして」
「初めまして、三坂さん」
「玲から話は色々と聞いてます。大変じゃないですか? 玲、結構抜けてるから」
「いや、色々あって楽しいよ」
 と、楽しげに笑い合う二人を、玲は不満げな顔で交互に見ていた。
「それよりも、今日だよね」
 うん。
「玲は……大丈夫?」
『不安は、あるよ』
「それはそうだろうね」
『だけど、きっと大丈夫だよ』
「水井さんがいるから?」
 恵理の顔は、あくまでも真剣だった。だから、答える玲にも冗談はない。
『それもあるよ』
「おい、玲……」
 何かを言いかけた水井だったが、玲の笑顔によってそれは封じられた。
『それに、今まで練習してきたから』
「積み重ね、あるもんね」
「それに関しちゃ俺が保証するよ」
「そういえば、玲の練習にいつも付き合ってたんですよね」
「まあ、同じ部活だしね。それに玲、一人で帰らせるわけにもいかないから」
 そう答えた水井の顔をのぞき込むと、恵理は何故か嬉しそうな笑顔を見せた。
「玲の言葉通りだね」
「……何が?」
 不安に駆られた水井は、その感情を隠しもせずに尋ねた。
「優しい人だっていうのが」
「……君は友人に何を話してるのかな、玲さん?」
『本当のことだよ』
「あのなあ……」
「玲が優しいって言ってるんだから、きっと優しいんですよ」
 恵理は小さく笑って、さらに言葉を続ける。
「あ、玲。ちょっと水井さんと話したいことあるから、外しててくれる?」
『それじゃ、先に戻ってるね』
「ああ。それじゃ、また後で」
 制服の雑踏の中に消えていった玲を見送ると、水井は先程知り合ったばかりの後輩に視線を向けた。
「で、話って?」
「……単刀直入に聞きます。水井さんは、玲のことどう思ってるんですか?」
「ど、どうって?」
「好きかどうか、ってことです」
 恵理の真剣な視線と思いが、水井を見据える。それは玲も持っていた、軽い心では決して応じられない「強さ」だった。
「どうなんですか?」
「……今朝、幼なじみにも同じようなこと聞かれたよ」
「何て答えたんですか?」
「大切には思ってるし、玲のそばにいたいとは思う。その意味じゃ、玲のこと好きなんだろうけど――『恋人』っていう枠にはめたくはないんだ、俺たちの関係を。玲は俺にとって、『好きな人』である前に『大切な人』だから」
「玲も同じことを言いますよ、きっと」
 と、恵理は嬉しそうな表情を浮かべた。
「玲のこと、よろしくお願いします」
「あ、うん。けど、やっぱり心配?」
「玲、何だか危なっかしくて……。しっかりしてるところもあるんですけどね」
「それ、分かるな」
「……何かしたんですか?」
「いや、何となくだよ」
 水井は小さく笑って、軽く首を横に振った。
「心配しすぎちゃいけないって思ってはいるんですけど……。何か玲のこと信じてないみたいで、嫌なんですけどね」
「友人のこと心配するのは当然だよ。それが親友となればなおさらね」
 水井は実感を込めて言葉を紡ぐと、
「三坂さんのおかげで今の玲がいるんだね」
 と、続けた。
「玲が玲でいられるのは、強いからですよ」
「玲が強くなれたのは、廻りにたくさんの人がいたからだと思うよ。もちろん三坂さんも含めて。だから、ありがとう」
「……何がですか?」
「今の玲に出会えたことに」
「私に言ったって、しょうがないですよ?」
「でも、誰かに言いたかったんだ」
「それは、玲に言わないと」
「まあ、そうなんだけどさ」
 水井は苦笑いを浮かべると、腕時計に視線を落として、
「それじゃ俺も戻るから」
「あ、はい。演奏、頑張って下さい」
「ありがとう」
 手を振りながら雑踏の中へと溶け込んでいった水井を見送ると、恵理は秋空を仰ぎながら大きく息を吐き出した。
「きっと受け取るよ、玲の言葉」