耳に入ってくるのは、幕の向こうにいる観客のざわめき声。否応なしに、緊張感が各人に浸食してくる。
「さすがに平常心……ってわけにはいかないか」 と、呟いたのは森原。その台詞に応えるように、他の三人が苦笑いを浮かべる。 「このプレッシャーをどこまで自分の力にできるか、だ」 「口で言うのは簡単だけど、さ」 と、水井は肩をすくめる。 「でも、やるしかないところまで来てるんだよなあ……」 ベースのチューニングを確認しながら、水井は大きく息を吐き出した。 「自分の精一杯を出せば、後悔なんてしない……そうじゃない?」 悪戯めいた表情で、雨崎はウインクしてみせる。男性陣は顔を見合わせ、そして笑った。 「玲」 ピアノの前に座り、ずっと目を閉じている後輩に、水井が声をかける。まぶたを開いた玲は、屈託のない顔を見せた。 「その顔が、玲には一番似合ってるよ」 と、水井が頭を撫でると、顔を赤らめ、目を細めながら微笑んだ。 「お熱いですねえ」 「本当にね」 森原の冷やかしに続いて、雨崎が手で扇ぐ仕草を見せた。 「あのな……」 振り返った水井の服の裾を、玲が軽く引っ張る。 「どうした?」 玲は制服のポケットからカセットテープを取り出し、水井に差し出した。 「もういいの?」 うん。 「何のテープ?」 雨崎が不思議そうに問う。水井と玲は顔を見合わせ、そして言った。 『秘密だよ』 「そう、秘密。少なくとも俺たちの晴れ舞台が終わるまではね」 と、テープを軽く放り投げ、キャッチする。 「大切な曲、だよ」 水井はそれだけ言うと、自分の定位置に立って他の三人の顔を見渡した。 「じゃ、始めますか」 確認するように言って、水井は舞台袖の係に合図する。程なくして演目の案内が流され、開始を知らせるブザーが鳴り始めた。 ある意味で、この一ヶ月の集約。別の意味では通過点でしかない時間。 その幕が上がっていくのを、玲は自分でも驚くほど静かな気持ちで見つめていた。 ――ありがとうって、いくら言っても足りないから……。 だからそれは、どんな辞書にも載っていない、彼女なりの感謝の言葉。音に姿を変えた、心。 幕が完全に上がり、玲は目を閉じる。深呼吸を一つして、彼女は鍵盤を弾き始めた。 「When I find myself in times of trouble――」 原曲とは異なり、女性ボーカルの英語曲。彼女の歌声が、ざわめきを消さない空間を満たす。 ずっと一緒だった、幼なじみ。雪谷玲という少女に出会い、彼は確かに変わった。 そして、彼女もまた。 ――とりあえず、お節介がひどくなったかな。 内心で苦笑いを浮かべながら、雨崎は自分のパートをこなしていく。 いつも冗談を言い合っていた、二人の親友。いつまでも変わらないと思っていた、二人。 けれど、彼らは変わっていた。いや、正確に言えば成長していた。 「Whisper words of wisdom,let it be……」 ――私も、早く追いつかなきゃね。 この文化祭が終わったときに、そのヒントは見つかるような気がしていた。 あるいは、一つの答えが。 「……」 これを見ている人の中に、「彼女」がいるのかどうか――そのことはむしろ、森原の頭を全くかすめなかった。 ただ、今この瞬間が楽しかった。かけがえのない幼なじみと、大切なことを教えてくれた後輩と時間を共有している「今」が。 だから、後悔だけはしたくなかった。最高の思い出を、作りたいだけだった。 「And when the night is cloudy there is still a light――」 ――もし、玲と出会ってなかったら……。 そう心の中で呟いたのは、水井。出会いは、ほんの一月前だった。 けれど、今ではもう玲がいる日常が当たり前になっていた。 『諦めなければ、伝えられるよ』 もう何度聞いたか分からない言葉。自分に伝えたいことがあると、気付かせてくれた言葉。 『私もまだ、何が伝えられるのか分からないから』 それが分かる人間など、いるのだろうか。ずっとぼやけたまま、それでも様々な心を抱えたまま生きていくからこそ、人は「言葉」を持っているのではないだろうか。 ――伝えたいことがはっきりしてたら、俺は玲のそばにいるだろうか? 自らに問うてみる。だが、それもまた明確な答えは出ない。 そばにいるかも知れないし、距離を置いているかも知れない。ただ、いずれにしろ今の立ち位置と違う場所にいることだけは確かだろう。 「There will be an answer,let it be……」 伝えたかったこと、伝えられること、伝えようとすること。それらは常にかけらのようで、つかもうとすればするほど抜け出ていこうとするもの。 ――言葉、か。 誰かにとっては、声。別の誰かにとっては、表情。あるいは、文章。絵、音楽。 無数にある「道具」のどれを選ぼうと、使用者がその使い方を知らなければ、それに込められる「内容」がなければ、何の意味も持たない。 『そばに、いて欲しいんだ』 素直にそう思えた人。 目の前で家族を失って以来、他人に踏み込むのが怖かった。幼なじみの二人に対してすら、どこかで線を引いていた。 『大したことできないけど、それでも俺にできること、何かないかな……?』 他人を抱きしめたのは、あの雨の日が初めてだった。そのぬくもりが、少年の中にあった漠然とした恐怖を溶かしてくれた。 「Whisper words of wisdom,let it be……」 曲が終わりに近づく。ふと水井が玲の方に視線を送ると、彼女と目があった。 「ふう……」 誰にも聞こえないように、水井が小さく息をつく。それと同時に訪れる、静寂。そして拍手。 それが鳴りやんだころ、会場の照明が一旦落とされ、四人は舞台袖へと下がる。 「さて、と……。ここから先は、玲の一人舞台か」 うん……。 不安そうに頷いて、玲は大きく息を吸い、吐き出した。 「何が伝えられるか……答えは、玲次第だから」 天井を仰ぎ、水井は強く目を閉じる。そして、数々の記憶と共に導かれた、伝言。 「みんな信じてる、玲のこと。だから、大丈夫」 うんっ。 「あの、そろそろ……」 下級生らしい生徒が、水井に声をかける。 「あ、はい」 「何?」 「玲の紹介さ、俺にやらせて欲しいって頼んだんだ」 と、水井は微笑んで玲の頭に手を置く。 「――」 玲の耳元で少年が何事かをささやいた次の瞬間、少女の顔色が驚きに変わった。 「言っておくけど、本気だぞ」 うんっ。 「じゃ、脇役でもこなしてきますか」 冗談めかした台詞を残し、水井は舞台の一角に立つ。スポットライトで照らされる中、彼は淡々と話を始めた。 「さて、これからお聴かせするのは、ある少女のピアノの独奏です。演奏するのは、二曲。どちらも彼女のオリジナルの曲です」 水井は一旦言葉を切り、息を小さく吐いた。 「――彼女は、一切話すことができません。あるいはその噂を、耳にしたことがある人もいるのではないでしょうか?」 ざわつき始める会場。だが水井がそれを気に留めることはない。 「言葉、というものは声だけではありません。様々な言葉が、今はあります」 左手を、ブレザーのポケットに入れる。それもまた言葉の一つである、カセットテープに触れた。 「彼女は、音楽が自分の言葉だ、と言いました。また、音楽が好きだとも。――彼女の好きなものを、聴いて下さい。『雪のカイロ』、そして『たいせつな、バラッド』です。演奏者は――」 視界の端で、雨崎が少女の背中を軽く押すのが見えた。水井はいつもと同じように、いつもより少し緊張しながら、その名を口に出す。 「雪谷玲さんです」 スポットライトが、水井からステージの中央にある玲へと移る。舞台下の放送部員にマイクを渡し、水井は幼なじみのいる舞台袖へと下がった。 「よう、名司会」 「思うことを言っただけだよ、俺は」 「それが言えたからこそ名司会なんじゃないか」 少しのざわめきの中、玲がピアノの前に座る。袖から見える彼女の横顔は目を閉じ、何かを待っているようだった。 「始まる……」 雨崎の呟きに合わせるように、鍵盤から音が生まれ始めた。いつもと、何ら変わらない音色。 ――音楽が好きだから。 玲と初めて会った日に、彼女は照れくさそうに笑いながら言った。 それが、たった一月前。 重ねた時間は少ないけれど、少女にとって何が大切かはもう知っていた。 「……」 ふと気付けば、誰しもが無言だった。水井たちはもちろん、舞台の下にいる聴衆までもが。 時に傷つけ、時に癒すことができる――それが「言葉」。その力の強さを知っているからこそ、人は自らの「言葉」を見つけようとする。 では、「無言」とは何なのだろうか。言葉をなくすこと――いや、言葉はなくなりはしない。自身が、それを放棄しなければ。 知らないのだ。聴衆も、水井たちも。 玲の言葉を受け取り、確かに生まれたものは存在している。だが、それの表し方が分からない。 そのときに、人は言葉を失う。だが、それでいいのだと思う。 沈黙も場合によっては、一つの言葉なのだから。 「……」 優しく、だがどこか寂しく。楽しいかと思えば、悲しくなり。 ――玲自身なんだな、この曲は。 伝えたいことが何であろうと、誰に対しての言葉であろうと、ただ一つ、全ての言葉に共通していることがある。 全ての言葉を生み出し、伝えようとするのは自分だということ。自分の中にないものは、どんなことをしても伝えられず、逆に確かに自分が持っているものならば、どんな拙い言葉でも、諦めなければ必ず伝わるということ。 だからこそ、玲は「自分自身」を伝えようと思ったのだ。 そして。 一曲目の、最後の一音が弾かれる。数秒の沈黙のあと、惜しみない拍手が場を支配していた。 「ねえ、和樹?」 「ん?」 「次の曲、聴いたことある?」 「いや」 二曲目として水井が口にした曲名は、これまで一度も聞いたことのないタイトルだった。練習でも、玲のオリジナルは一曲目しか聴いたことがない。 「秘密の曲?」 「さあ……。あ、始まるぞ」 拍手が鳴りやみ、玲は鍵盤の上に手を置く。その表情は先程とは違い、微かに笑っているように見えた。 そして、少女の二つ目の言葉が始まった。 「あ、やっぱり初めて聴く曲」 「ああ。こっちもいい曲だな」 という感想は雨崎と森原。だが、水井だけは違っていた。 「なるほど、な……」 そう呟いたかと思うと、水井は床に大の字に倒れ込んだ。 「和樹? どうしたの?」 「……俺、嘘つきだ」 「え?」 「しかし玲も……なかなかの策士だな」 と、水井は半身を起こし小さく笑った。 「俺、この曲、聴いたことある」 「え?」 「しかもこれ、玲のオリジナルじゃないんだ。だから、嘘つきだって。二曲とも玲のオリジナルって、冒頭で言ったからさ」 「どういうこと?」 「これだよ」 と、水井は制服のポケットからカセットテープを取り出した。 「このテープの中に入ってるのが、今玲が弾いてる曲なんだよ。俺の母親が、作曲したんだ」 「和樹のお母さん、って……」 「ああ。今天国にいる人だよ。俺が小さいころに作った曲で、結局形見になった曲……。だから、元々曲名なんてものはないんだ」 「じゃあ、さっきのタイトルは……」 「玲が考えたんだろうな」 水井は立ち上がり、玲に視線を向ける。穏やかな表情でピアノに向かう少女は、何故か幸福そうに見えた。 「で、その曲をここで弾いてるってことは……」 「二つ目の言葉は『大切な人』――和樹に向けてのものってことでしょ」 「……」 「演奏が終わったあと、笑顔でいられるように」 不意に森原が呟いた台詞に、水井はひっくり返った声を出した。 「え?」 「約束したんでしょ、玲ちゃんと」 「な……。何でお前ら、それ……」 「いや、部室に入ろうとしたらちょうどいい雰囲気だったからな。邪魔しちゃ悪いと思って」 「……どこから聞いてた?」 「『ちょっとだけ、正直なこと言うと……』って辺りかな?」 「……重要なところ、ほぼ全てか……」 大きくうなだれる水井の肩に、森原が手を置いて言った。 「別に気にすることないだろ?」 「あるって……。これでまたしばらく、お前らにからかわれるネタが――」 「いや、今度ばかりは茶化さない、さすがに」 「嘘つけ」 「本当だ」 「真剣だからね、和樹」 「え……?」 「子供のころからの付き合いなんだぞ。一応これでも、お前が本気で真剣になってるときの顔ぐらい知ってる」 「……」 「本当に大切なんでしょ、玲ちゃんのこと」 「……ああ」 水井はポケットに両手を突っ込み、素っ気なく言った。 「大切に思ってるよ」 「だから、からかわないことにしたの」 「そういうことだ。ところで和樹、さっき雪谷さんに何て言ったんだ?」 「さっき?」 「お前が雪谷さんの紹介に出ていく直前。何か言ってただろ?」 「ああ……」 水井は曖昧な相槌を返して、天井を仰いだ。 「玲、少し緊張してたからさ……」 「から?」 「『来週の日曜、デートしよう』って言ったんだ」 「……は?」 「それだけだ」 「……緊張してるから、デートに誘うのか?」 「何だってよかったんだよ、かける言葉は。ただ、玲はあのとき、演奏のことで頭がいっぱいだったから。別のこと言って、演奏以外のところに少し気を向かせたかったんだよ」 「でも、それで気が散って、演奏に悪影響が……」 水井は森原の視線を玲の方に促して、 「出てると思う?」 「いや……」 「それで、和樹」 「ん?」 「そのデートのお誘い、この場だけってことは……」 「あるわけない。……来週の日曜、玲の誕生日だしさ」 「あ、そうなんだ」 と、雨崎はにやついた表情で水井を見る。彼は肩をすくめて、諦めたように言った。 「何とでも思ってくれ」 そして、水井は玲の方に視線を向ける。曲はすでに終盤だった。 「『たいせつな、バラッド』……。俺にとっても、玲にとっても……」 そして、曲が終わる。空間を支配したのは、割れんばかりの拍手と多くの歓声だった。 「届いたかな、俺の大切な人の言葉……」 と、見上げた水井の目が見ていたものは天井より、空よりもっと先の、彼の両親がいる場所だった。 「まあ、言いたいことはたくさんあるけど……」
エピローグ 『おいしい』 FIN |