雪のカイロ−12



「なあ、玲」
 土曜日――つまり、文化祭の前日。
 呼ばれた少女は、少し見上げるようにして横を歩く先輩を見る。
「今日、練習しなかったな。どうして?」
 玲は少し困惑し、迷いながらスケッチブックにペンを走らせた。
『怖かったから』
「怖かった?」
『練習すると、自分のだめなところが見えてきそうだから』
「だめだって、そんな自信のないことじゃ」
 でも……という顔を玲が見せていると、水井が優しく微笑みかけ、頭に手を置いた。
「だけど、玲の気持ちは分かるよ。完璧と思える演奏なんて、そうできることじゃないもんな」
……うん。
 自分が甘えているとでも思っているのだろうか、玲はためらいがちに小さく頷いた。
「明日、なんだな」
 言って、思い返してみる。
 玲と出会ったのは風野が転校してきた日、少し暖かい秋晴れの日だった。
「あれから、一ヶ月も――いや、一ヶ月しか経ってないのか……」
 その呟きに、玲が当然不思議そうな視線を向ける。
「色々あったなって思ってさ。玲と知り合ってから」
『私もたくさんのこと、あったよ』
 スケッチブックを掲げる少女は何故か嬉しそうだった。
「そりゃそうだろう。俺の『色々』は、ほとんど玲絡みなんだから」
『そうなの?』
「まあ、ほとんどっていうのはちょっと大げさだけど。でも、玲と出会ってから俺自身、変わったことは確かだよ。もちろん、いい方向にさ」
 ほんの一月前までは、雨崎以外の女性と親しげに言葉を交わす自分の姿というものは、心のどこにも存在していなかった。だからこそ、その相手が自分にとって特別な存在である少女であるということが、一段と不思議な気がしてならなかった。
「玲……」
 小さくその名前を呟いてみる。当然少女はいつも通りに水井を見、一方の少年は微笑み、玲の頭をなでた。素直な後輩は少し頬を赤らめ、くすぐったそうにしながらも嬉しそうな瞳を見せる。
「この一ヶ月、楽しかったな」
 うん。
『みんなにたくさん迷惑をかけたけど。和樹さんには特に』
「そうだったっけか。俺、楽しいこと以外はすぐに忘れるから。だから、玲と一緒にいると、すぐに忘れちゃうんだよ」
 玲は「?」を顔に浮かべ、少し戸惑いながらスケッチブックにペンを走らせた。
『今の、何か変だよ』
「何が?」
『今の和樹さんの言ったこと、つながらないと思う」
「『だから』じゃつながらないって? つながるよ。だって――」
 水井は空を仰いだ。太陽が傾き、都合のいいことに赤くなっていた。
「玲と一緒にいるだけで楽しいから」
 オレンジ色に染まっている玲の顔が、さらに赤くなったように思えた。だが、それは水井も同じことである。だからこそ、ごまかしの理由にできる夕日がありがたかった。
『和樹さん、顔が赤いよ』
「夕日でそう見えるだけだよ。そう言う玲だって、赤いぞ」
『私もお日様のせいだよ』
 玲がそう言ったあと、どちらからともなく笑い合った。
「なあ、玲。今日は暗くなるまで、一緒にいようか」
 戸惑った表情を見せる少女。だがそれは、言うまでもなく一瞬だけのことだった。
 うんっ!
「あとちょっとの時間だけど」
 だが、その少しの時間を、夕日が完全に見えなくなるまでの短い間を、水井は玲と過ごしたいと思った。
「きれいだな」
 そう呟いた水井の手に、何かが触れる感触がした。その方向に視線を向けると、自分の手の甲にそれより幾分か小さい手がほんの少しだけ触れていた。
 水井はためらわず、その手を握った。
 玲はそれまでで一番驚いた顔を見せ、うつむいた。
「……暖かい」
 玲は微かに頷いたが、水井もまた玲の顔をまともに見られなかったので、それに気付いたかどうかは定かではない。
「でも、こうやって手をつないでると、スケッチブックに書けないか……?」
 思い切り、首を横に振る。玲の手がそれまでより強く水井の手を握ったことから考えると――。
「それでも構わない、ってこと?」
 うん、うん。
 確かめるように、玲は何度も首を縦に振った。少女の素直な仕草を見ているうちに、それまではなかった気恥ずかしさのような感情が少年の中に生まれる。
「他の人が見たら、俺たちってどう見えるんだろうな?」
 言ってみてから、照れ隠しのための台詞としては不適当だな、と水井は内心で苦笑した。玲はしばらく考え込むような姿を見せ、やがて困ったような顔を見せる。
「スケッチブック、持つよ」
 水井は玲の手からそれを受け取ると、白いページを開いた。普段より書きづらそうにしながらも、玲はゆっくりと二文字を記した。
『兄妹』
「兄妹、か……」
 どことなくがっかりしたような先輩の口調に、玲がその顔をのぞき込む。水井は少女の「どうしたの?」という表情に、複雑な視線を投げかけ、尋ねた。
「玲はそれで満足できる?」
 それの意味するところを捉えかねている女性に、水井は言い方を変え、再び聞いた。
「周りから、兄妹以外の関係として見られたくないか、ってことだよ。たとえば――恋人とか」
 自覚できるほど、心臓が高鳴っていた。玲は足元に視線を落としているので、その様子は分からない。実際のところ、水井は彼女の答えを期待していなかった。
 だが。
 玲は顔を上げた。その表情は水井だけでなく、彼女が関わってきた全ての人物に見せたよりも、過去のどんなものよりも、無邪気で、屈託がなくて、そして。
 うんっ!
 玲らしい、笑顔だった。
「もうすぐ、日も暮れるな……」
 話を逸らすという単純な方法で、水井は気恥ずかしさを隠そうとする。だが、それで本当に自分の気持ちが隠れているかは、かなり怪しいところだった。
「……」
 無言の時間が訪れる。だがそれは重苦しいものではなく、むしろつないだ手の温度が安らぎを与えてくれた。
 幾分か幻想的で、それでも見慣れているはずのオレンジ色の街並み。だが、水井の目に映るそれには、彼が感じたことのない新鮮さがあった。
 不意に、玲の指が水井の目の下を触る。いつの間にか流れ出ていた涙を、少女が拭ったのだ。
「一人は、嫌だな……」
 初めてそう感じた。心配そうにのぞき見る少女を、半ば自分の体に押しつけるようにして抱きしめる。本来なら短く声でもあげるのだろうが、それを失っている少女は水井の体を自分から離そうとすることでその代わりとした。
「ごめん、玲……」
 人通りはなかった。完全に日の落ちた静寂の街並みで、少女は水井の腕の中、何度もかぶりを振った。
「いつも近くには真琴や祐也がいてくれて……それなりにたくさんの友人がいてくれて……だから広い家に一人でも、寂しくないと思ってたよ。実際、寂しくなんかなかった。けど……今日、たった今、一人は嫌だって感じた。生まれて初めて、誰もいないあの広い空間に帰りたくないと思った……」
 軽く溜息をつき、少女の体を離す。それから、笑顔を作って。
「ごめんな、玲」
 ううん。
 首を横に振って、玲は言った。
『きっと和樹さんは、一人でいることが当たり前じゃなくなったんだよ』
 ページを変え、続ける。
『誰かといることが、和樹さんの普通になったからだよ』
「玲といることが、な。でも、玲のせいじゃないよ」
 深く息を吸い込み、吐き出してみる。目の前の空間が、一瞬だけ薄白く変色した。
「誰だって、一人であることに――孤独に慣れちゃいけないんだ。もちろん俺には、みんながいてくれた。だから、厳密な意味で一人じゃないんだろうけど、少なくとも、あの家にいるときは一人なんだ。それに、慣れちゃいけなかった。玲はそれを気付かせてくれたんであって、二人でいることで寂しさが生み出されたわけじゃない。だからこそ俺は……乗り越えなきゃいけないんだ」
 と、玲の頭に軽く手を置いて。
「玲のためにも、な」
 完全に辺りの風景は、夜に取って代わられていた。少女の言葉もこうなっては、知ることができないだろう。
「日が暮れるまでって約束だからな。帰るか」
 握っている少女の手。その小柄な体に似合わない無数の気持ちを抱え、不器用ながらも懸命に伝えようとする玲の言葉。
 彼女はその小さな手で、細い指先で、何を伝えようとしているのか。
 どれだけの人に、それは理解してもらえるのか。
 考えてみれば、水井は玲のことをそんなに知っているわけではなかった。
 意外にも、料理が上手なこと。
 勉強があまり得意ではないこと。
 伝えるための道具を持たない玲に神が与えたかのような、ピアノの才能。
 言葉が話せないというハンデの大きさにも関わらず、前向きで、無邪気で、明るくて、そして誰よりも強く、傷つきやすい少女だということ。
――俺の知ってることって、それぐらいなんだな……。
 その事実が、水井には悔しかった。あるいは一ヶ月という時間でそれだけ知れば充分なのかも知れないが、玲がただの後輩以上の存在となっている少年にとっては、自分の持っている情報量はあまりにも少なかった。
「なあ、玲。玲の誕生日って、いつだっけ?」
『――』
 玲はスケッチブックにペンを走らせたが、闇に包まれている中では当然それは見えなかった。水井は手を取り、街灯の下まで連れていく。
『十一月三十日』
「ってことは、来週の日曜? それだったら、教えてくれればよかったのに」
 だが、玲は難しい顔をしていた。まるで、知られたくなかったことを知られてしまったときのような表情だ。
「俺には教えたくなかった、とか?」
 水井は冗談めかして言ったが、玲はあくまでも真剣な顔で応じた。
……うん。
「玲……」
 水井は困惑の表情を嘘で一瞬だけ作り、すぐにそれを切り替えた。
「そういうのは優しさとは言わないぞ」
 たおやかに微笑みながら、無声の少女の頭に手を置いた。いつもならすぐに外すその手を、今は髪の毛の感触を確かめられるままの状態で言葉を紡ぎ続ける。
「俺に迷惑がかかる、と思ってるんだろ? 俺が玲の誕生日を知ったら、気を遣うから、って」
 微かに、玲の頭が揺れた。肯定の方向の揺れだった。
「玲の気持ちは分からないでもないけど、少しぐらい気を遣わせてくれ――って、あれ?」
 水井は少女の矛盾に気付き、眉をひそめた。
「ちょっと待て。だったら、何で俺に教えたんだ?」
 それは……という感じで、玲は足元に視線を落とした。
「玲の場合、口を滑らせるってこともないだろうし……」
『ペンだって、たまには滑るよ』
「で、書き損じるって?」
 うん、うん。
「へえ、そうなんだ……って、おい。そういうことじゃないだろ」
 またもうつむいて、玲は白紙のページをじっと見つめる。答えは明らかであるにも関わらず、書きあぐねているようだった。
「いいよ」
 不意に、玲の頭上から優しい声が降ってきた。聞き慣れた声音だった。
「言いたくないんだったら、無理に言う必要ないよ」
 ううん。
 そう言ってくることは予想がついていたので、玲はすかさずかぶりを振った。そして、自分の決意を大げさに見せるため、わざと大きく息を吸い込んでから、これまでも自分の思いを書き込んできた紙の上で正直な気持ちを見せた。
『知っておいて欲しかったから』
「……」
 水井は居心地が悪そうに頭をかいて、少女から視線を逸らすように月の浮かぶ空を見上げた。
「月、きれいだな……」
 そう言うと水井は口をつぐんでしまったので、当然会話がなくなる。月明かりと、規則的に並んだ街灯だけが沈黙の男女を照らしていた。
 充実していた一ヶ月だった。それまで高校で積み重ねてきた時間の意味を軽く越えるほど、玲がいた日々は価値のある日常だった。
「明日……楽しい演奏ができればいいな」
『きっとできるよ』
「そうだな」
 ふと、水井は空を見上げる。月が、玲によく似ていた。
「玲はさ……好きな人とか、いる?」
 玲は抗議するように、スケッチブックで和樹の頭を叩いた。
『意地悪』
「はは……ごめんな」
 水井は玲の頭に手を置いて、少女に微笑みかける。彼女は少し首をすくめながらも、嬉しそうな視線を少年に向けていた。
「で……到着、っと」
『着いちゃったね』
「ああ、着いたな……」
 呟いて、水井は軽く玲の背中を押す。だが少女は、その場から動こうとしなかった。
「玲?」
 一瞬の、空白。そして少女は微かにうつむき、大きく息を吐き出して。
 水井の胸に、飛び込んだ。
「れ……玲?」
 水井は戸惑いながらも、自分にしっかりと抱きついている玲の表情を観察する。少なくともそこから、負の色は感じられなかった。
「不安……とかってわけじゃないな」
 玲は首を縦に振り、笑顔で水井を見上げる。その表情に今さらながらの気恥ずかしさが生まれてきた少年は、目を逸らし誰に言うのでもないような声音で聞いた。
「で……どうした?」
 玲は水井の手を取り、手のひらに指で文字を書き連ねていく。少しくすぐったくて冷たいその感触が、ゆっくりと「言葉」を紡いでいった。
「な……ん……と……なく……何となく?」
 玲が大きく頷いて、水井から離れる。そして、今度はスケッチブックに気持ちを書いた。
『ちょっとした、悪戯』
「悪戯?」
『和樹さん、緊張してたみたいだから』
「あ……」
 言われて初めて、水井は自分の心が高ぶっていることに気付いた。何もかもを分かっているように、玲が柔らかく笑う。
「ありがとうな、玲」
 と、水井は深呼吸を数回してから、感謝の意を宿した瞳を後輩に向けた。
『明日は、楽しもうね』
「ああ、楽しく演奏しような」
 二人は、笑顔を交わす。それは嘘でもごまかしでもない、明日を本当に心待ちにしている表情だった。
「じゃ、また明日」
 うんっ。
 手を振りながら家へと戻っていった玲を見送って、水井も歩き出した。
「明日は、きっと今日よりいい日だよな」
 月が、笑っていた。少年の言葉を肯定するように。
「見ててくれよ……父さん、母さん」
 星が二つ、静かに瞬いた。誰にも気付かれることのない、けれどそこには必要な、優しい瞬きだった。