雪のカイロ−11



 ゆっくりと紡ぎ出されていた包み込むような音色が、何の前触れもなく失われる。演奏者である少女は、無機質な天井に向けて大きく息を吐き出した。
――あと一週間……。
 玲がピアノの演奏を自分の言葉として披露する日が、七日後に迫っていた。楽曲は完全に完成していなかったが、不思議とプレッシャーはなかった。
「私、聴きに行くよ。玲がかわいい服を着てるとこ、見たいから」
 恵理が言ってくれたのは、冗談混じりの彼女らしい励ましだった。だから、玲は笑って応じられた。
『かわいい服なんて別に着ないよ。制服だから』
「制服なの? せっかくの晴れ舞台なのに」
『学校の文化祭なんだよ』
「だからこそ着るんじゃない」
『恥ずかしいよ』
「それは分かるけど」
 恵理は一旦言葉を切ると、親友の瞳をじっと見つめた。その真剣な眼差しに玲が軽い困惑を見せると同時に、恵理がその表情を崩す。
「かわいくなって、アピールしたら? 好きな人いるんだったら」
 玲の顔が赤く染め上がるまでは、一瞬だった。そうなってからなお、ほとんど無駄としか思えない否定の意志を激しく頭を振ることで示す。
「そんなことないの? でも、私はまだ玲の一番の親友で、玲のこと一番よく知ってるって自信はあるよ」
 いまだ続いている玲の否定運動をその頭に手を乗せることで止めると、脳震盪を起こしかけている少女に苦笑を浮かべ、恵理は続けた。
「ただでさえ玲は分かりやすいんだから、好きな人――玲に言わせれば『大切な人』だよね――ができたら分からないわけないでしょ?」
 玲は意識的に「好きな人」という言葉を使っていなかった。「好き」であることは薄れ、いつかは消滅してしまう。だが、「大切」という思いは自分次第でずっと――それこそ一生でも――内在させることができるからだ。
「それで、どんな人なの? その人って」
 尋ねる恵理に、親友をからかおうとする意図はなかった。
 三坂恵理という少女は、玲の真剣な感情を茶化すことはなく、いつでも真摯に向き合っていた。それは小さな体で懸命に日々を過ごしている彼女に対しての敬意でもあったし、またそれは親友としての自分にできる数少ないことの一つでもあった。
『その人はね――』
 結局そのとき、玲は「大切な人」の名前を出さなかった。理由はある。だがそれを表に出すことはなく、恵理も追求してはこなかった。
――私なんか……。
「玲、お客さんよ。お友達」
 心の声を途切れさせてくれたのは、母親だった。玲は振り向く。
「こんにちは、玲ちゃん」
 風野だった。玲は曖昧に頭を下げ、先輩とは対照的に心の行き場を失ったような複雑な表情を、誰にも見えないように浮かべた。
「あのね、話があるんだけど……」
 風野はその先をなかなか口にできなかった。胸中にある小さな葛藤がその原因なのだが、それを知ってか知らずか、風野が話を再開する前に玲がその主題を提示した。
『和樹さんのことだよね』
「え……。あ、うん、そう」
 風野の肯定を確認すると、玲は何故か微笑んだ。深い優しさと、大きな寂しさが同居している笑みだった。
 恵理に「大切な人」の名前を言えなかった理由。それが目の前にいる風野だった。
「玲ちゃん、私……」
『和樹さんのこと、好きなんだよね』
「え……」
 気付いたのは、風野に停学の処分が言い渡された、あの日だった。あのときの屋上で二人を見る風野の目は、どうしようもなく楽しそうで、そして、どうしようもなく悲しかった。
――好きなんだ、和樹さんのことが。
 だから、言えなかった。風野の気持ちを知ると同時に、自分のそれも逃れようがないほどはっきりと認識させられてしまったから。
『大切な人――水井和樹さん』
 そうスケッチブックに記すことは、不可能だった。
――私じゃ、釣り合わない。
 身を引こう。そう思った。
『応援するよ』
 だから、それが玲の答えだった。
「でも、玲ちゃんも水井君のこと……」
 うんっ。
 ためらうことなく頷いて、玲は続ける。
『それと同じくらい、里美さんのことも好きだから』
「玲ちゃん……ありがとう。だけど、私の話も同じことなの。水井君と、付き合って」
 玲は軽く首を横に振って、
『できないよ』
 無邪気な表情で、そう返した。
「どうして?」
『里美さんがいるから』
「私のことは……気にしなくていいよ」
『気になるよ』
 首を横に振りながら、玲はそう言った。
『それに、絶対に里美さんの方が似合うと思うの』
 今度はそれを、風野が否定する番だった。
「ううん、そんなことないよ。それに――」
 言葉を切った風野が浮かべていたのは、あのときの屋上で見せたのと同質の色を含んでいる瞳だった。
「水井君は玲ちゃんのことが好きだから」
 風野はそのあとに「たぶんだけどね」と付加したが、それが玲の耳に届いていたかどうかは大いに疑問の残るところである。表記するまでもないとは思うが、脳震盪を起こさんばかりにかぶりを振っていた。
「玲ちゃん、落ち着いて」
 と、少女の頭に風野が手を置いた途端に、まるでスイッチがそこにでもあるかのようにその動きが止まる。風野は当然、苦笑するしかなかった。
「あのね、玲ちゃん。別に水井君本人がそう言ったわけじゃないんだよ」
『それでも、そんなことありえないよ』
「どうして?」
 風野の表情が唐突に厳しいものに変わる。玲はそれに一瞬だけたじろいだが、すぐに冷静さを取り戻して反問した。
『そもそも、里美さんはどうしてそう思うの?』
「根拠はないよ。だけど……二人が持ってる空気みたいなものが、そんな感じがしたから」
 自ら曖昧な理由だということは充分すぎるほど自覚していた。だが、それしか言いようがないのだ。玲を納得させるにはあまりにも不足な台詞だということは分かっていても、風野は自分の感じている雰囲気を表現できる語彙をそれ以外に所持していなかった。
「玲ちゃんは、何でそうまで否定するの?」
『和樹さんにとって私は、妹だから』
「『妹』って……亡くなった水井君の妹さんと重ねてるってこと?」
……うん。
「それはないんじゃないかなあ……。玲ちゃんは玲ちゃんでしょ?」
『だとしても、私は妹』
 頑とした否定。それは玲にとって、自分の存在を水井の後輩、あるいは年下の友人から引き上げないための唯一の手段だった。
「……玲ちゃんの気持ちは?」
――え?
 数秒の戸惑い。さらなる追い打ちをかけるように、風野が言葉を続ける。
「今言ったのは全部水井君の気持ちでしょ? だったら、玲ちゃんは? それで――『妹』でいいの?」
 頭をほんの少し縦に振れば、それで全て終わるはずだった。玲はそうするつもりだったし、それは今の自分が望むところのはずだった。
 だが。
 息をするくらい単純で、簡単なはずのその動作が、できなかった。
――和樹さんと里美さんが恋人……。
 それを映像として自分の中に描いてみる。それは何度も繰り返したことだから、結論は分かっていた。
 他の誰かが並ぶことが想像できない二人。変わらないし、変わるはずもない。
 しかし玲は、その未来を肯定できなかった。
「だったら、結論はもう出てる」
――結論って何?
「玲ちゃんは水井君に気持ちを伝えればいいよ」
――どうなるんだろう……。
「私のことは気にしなくていいから」
――もし私の気持ちが受け入れられたら……里美さんは今までと同じように和樹さんと接する?
「だから――」
――ううん、そうはならない。今までと、変わっちゃう……。
 否定した。風野の言葉の先も、これまでの水井との思い出も、そして自分自身のことも。
 激しくかぶりを振ることで、全てを消し去ろうとした。
「玲ちゃん……?」
――変わって欲しくなんかない!
 今が続けばそれでいい。
 今日と同じ明日の関係。
 明日と同じ明後日の関係。
 今と同じ先の関係。
 何も望まない。
 何も求めない。
 だから、変わらないで。
 玲はピアノの前に座り、そして語り始めた。
 何を考えるわけでもない。指が勝手に自分の気持ちを教えてくれる。
 寂しい音色。
 悲しい音色。
 儚い音色。
 そして――美しい音色。
 演奏を終えた玲はたった一人のメッセージの対象者に、深々と頭を下げた。
「……玲ちゃん」
 玲は笑顔を見せた。とても無邪気で、今にも壊れてしまいそうな笑顔を。
「すごく、よかったよ……。でも、私は受け入れられない」
『どうして?』
「玲ちゃんにとって水井君は、すごく大切で、そばにいたい人だから」
……うん。
『でも、それは里美さんも同じ』
「……」
『どうして里美さんは、和樹さんに気持ちを伝えようとしないの?』
「玲ちゃんがいるから」
『でも、それは私も同じだよ』
 N極同士の磁石のようなものだった。二人の性格にあまりにも共通項が多すぎ、話は平行線を辿っていた。
「……怖くないの? 振られることが」
 ううん。
『でも、それで和樹さんがいなくなるわけじゃないから』
「私は……だめ。どうしようもなく、怖い」
 吐き出された風野の本心。その直後、彼女は自嘲の表情を浮かべる。
「ずるいよね。だから、玲ちゃんが先に告白してくれればいいなんて……」
『そんなことないよ』
 風野のやろうとしていることは、確かにフェアではない。しかし、それを理由に誰が彼女を責められるだろうか。
『誰かを好きになるのって、すごく大変なことだから』
「……優しすぎるよ、玲ちゃんは。私、ライバルなのよ?」
 うん。
『勝ち目はないけどね』
「あはは、勝ち目がないのは私の方だってば。玲ちゃんほど強くないから、私は」
 そう言うと風野は無声の少女の頭に手を置いて、それまでで最も優しい微笑みを見せた。
「私はいいよ。やっぱり玲ちゃんこそ、水井君の一番そばにいるべき人なんだよ」
『でも、里美さんの気持ちは?』
「……恋敵が他の人だったらね、どんなことしてでも水井君のこと私の方に向かせる。だけど、玲ちゃんだからね。水井君のことすごく大切にしてくれるだろうし、きっと水井君もすごく好きになってくれるだろうから」
『でも、里美さんは辛くないの?』
「全然辛くないって言ったら、それは嘘。だから玲ちゃん、約束して。水井君と、これからたくさん楽しい思い出を重ねていくって」
 玲は少し迷ったあと、スケッチブックに拒絶の意志を示した。
『できないよ。全部が変わっちゃうから』
「変わらないよ」
 風野は自分の一言に確信を持っていた。何も変化しない。自分も今までと変わらず、その中に身を置いていられる。
「私が一番好きなのは、今の日常。玲ちゃんがいて、水井君がいて、雨崎さんや森原君がいる、そんな毎日が好きだから、私は自分の居場所を変えないよ」
 何日かは辛くもなるだろう。だが、それもきっと、友人たちの優しさが消し去ってくれるはず。だから――。
「私は、みんなと一緒にいるよ」
『強いんだよ、里美さんも』
 玲は微笑んだ。風野も笑顔を返し、そして続ける。
「じゃ、頑張ってね」
 一瞬の空白。そして。
 うんっ!
 玲の強さは、周りの人たちがいるからこそ。数多くの人と関わり、そこに発生する出来事と向き合ってきたからこそ、今の彼女がいる。
「玲はね、ずっと玲のままでいなくちゃだめなんだよ」
 過去に恵理が口にした台詞。そのときは意味が分からなかったが、今の玲にはその言葉の真意が実感として存在した。
『私、みんなが大好き。友達でいてくれる、みんなが』
 風野に自分の偽らざる心を見せた玲は、少し照れくさそうにしていた。
 

「ねえ、祐也」
「ん?」
 部活を終え、すっかり夜の色に包まれた街並み。街頭の下にさしかかったとき、雨崎が幼なじみに声をかけた。
「好きな人いるんだって? 聞いたよ、風野さんから」
 オレンジ色の灯りに照らし出された祐也の顔は、驚きを通り越して呆然としていた。楽しげな少女の笑い声が、思考を停止した森原の耳へと入ってくる。
「分かりやすいよ。祐也って」
「……」
「で、誰なの? 正直に白状しなさい」
 雨崎の顔は被疑者に詰め寄る検察官のものになっていた。しかも、一方の森原は誰も弁護人がいないという非常に不利な状態にある。となれば、少年にできる法廷戦術は一つしかなかった。
「ノーコメント」
「黙秘する気?」
「黙秘じゃない、完全黙秘だ」
「同じことでしょ。……で、どうしても話す気はないの?」
「ああ、ない」
「分かった、だったら聞かない。どうせいくら聞いても答えないだろうしね」
「お前こそ、好きな奴とかいないのか?」
「いないよ」
「相変わらず寂しいな」
「しょうがないでしょ。祐也に言われるまでは作る気すらなかったんだから」
「まあ、そりゃそうだけど」
「それよりも、間に合うと思う? 文化祭に」
「間に合うも何も、もう完成してるだろ?」
「私たちじゃなくて、玲ちゃんのこと」
「ああ、雪谷さんね……」
 森原は腕組みをし、星空を見上げる。空気が澄んでいるのだろう、いつもよりも星を多く見ることができた。
「和樹次第だな」
「え? どういうこと?」
「あいつがどれだけ雪谷さんのこと支えられるかにかかってる、ってことだよ」
「じゃあ、大丈夫ってこと?」
「そういうこと。何たって和樹にとって雪谷さんは『初めて』の存在だからな。初めて――」
「好きになった人」
「もっとも、本人は否定するだろうけど。あれだけあからさまなのにも関わらず、さ」
「はあ……」
 雨崎が唐突に白い溜息をつく。幼なじみは怪訝そうな顔で、その吐息の意味を尋ねた。
「どうした?」
「どうして私の幼なじみって、単純なのばっかりなんだろうって思って……。もう少し繊細な幼なじみがいてくれたらなあ……」
「真琴」
「何?」
「お前に贈る言葉がある。類は友を呼ぶ」
 雨崎はあからさまに不服そうな顔をして発言者をにらみつけたが、それが本気でないことは彼女との過去で充分に分かっていたので、少年は軽くその視線を受け流した。
「それに、単純だからいいんだろ、俺ら三人は。やたら複雑な精神構造してる真琴や和樹、それに俺自身なんて見たくない」
「それはそうだけど……」
 まだ何か言いたげな雨崎を無視し、森原は話題を元に戻した。
「それはそうと、大丈夫かな」
「何が? 和樹?」
「それはさっき大丈夫だって言っただろ……。じゃなくて、支えられる方だよ」
「玲ちゃん? 何が心配なの?」
「あの雨の日、だよ」
「え?」
 風が吹く。少し強めの風が落ち葉を舞い上がらせ、その冷たさが二人に漠然とした不安を与えた。
「言ってただろ? 和樹が。雪谷さんは優しすぎる性格がマイナスに働く人だって」
「あ……」
 言葉を失う、雨崎。いくらかの間を置いたあと、幾分動揺した声で森原の言葉の意味するところを確認してみる。
「それって、つまり、玲ちゃんが支えられることを拒絶するってこと?」
「ああ。もっと言えば、和樹のそばにいることをな」
「でも、それだったら――」
 雨崎の言葉を遮るように、森原が少女の台詞に自分の声をかぶせた。
「そういう立場にいなければいい、か? 同じことだよ。雪谷さんが怖がってるのは、和樹に迷惑をかけることなんだから」
「でも……それっておかしい。和樹がそんなこと気にするわけないんだから」
「和樹は、な。でも雪谷さんは気にしてる」
「それは、そうなんだろうけど……。でも、それで自分の気持ちを拒絶する?」
「今は大丈夫だ。そんなにすぐには自分の気持ちから逃げないとは思うよ。けど、何か起こったときが……その答えが、あの日の雪谷さんの行動だよ」
 誰も傷つけないために、自分だけが傷つくために、一人の顔も見ずに強くなっていく雨の中を駆けた少女。この場にはいない幼なじみが連れて戻ってきたときの、苦しそうな表情が雨崎の脳裏に鮮明に浮かぶ。
「……」
 雨崎はどう言えばいいか分からなくなった。だが、沈痛な表情でうつむく少女の背中を、森原はいつも以上に明るく叩く。
「大丈夫だって」
「大丈夫って……だって……」
「恋愛は一人でするんじゃないんだよ。一組の男女がいて成立するんだ。だから、心配する必要なんてない。あの二人なんだからな」
 あの二人、という言葉を聞いて、まるで手品のように雨崎の瞳が笑みに移り変わった。
「うん、そうだよね。あの二人なんだから、余計な心配だよね」
「相変わらず現金な性格してるな、お前は……」
 森原が呆れたような声を出す。だがそれは、彼女が元気になったことに胸をなで下ろしている自分をごまかすための照れ隠しだった。
「さて、と」
 帰り道の途中、いつもは通らない道の方を向いてから森原は少しの間、空を見上げた。
「俺はこっちだから」
「あれ? 用事?」
「ああ。デート」
「デ……デートぉ?」
 雨崎があからさまに怪訝そうな声をあげる。それに対して少年は不服そうな顔をし、自分をまじまじと見つめている女性に今回は本心を含んだ抗議の意志を見せた。
「デートしちゃ悪いのか、俺が」
「そんなことは言ってないけど……」
「じゃ、どんなこと言ってるんだ」
「相手がいるの? ってこと」
「いなきゃデートはできないだろ」
「それはそうだけど……相手って、誰?」
「さて、誰でしょうね?」
「……さっき言ってた『好きな人』でしょ?」
「ああ、そうだよ。そこまで分かってるんなら別にいいだろ?」
「だから、それが誰なのよ?」
 じれったそうな雨崎に、森原は含み笑いとともに返した。
「お前の知らない人だよ」
「でも祐也、彼女いないんでしょ?」
「いないよ。それが?」
「じゃあ、デートって言わないんじゃないの?」
「まあ……な。俺の方が一方的に言ってるだけだよ」
「それって、何か悲しくない?」
 森原はそれに直接答えず、しばらくの無言のあと、自嘲的な口調の台詞を吐き出した。
「……本当言うとな、今日もプレゼントを買うのに付き合うんだ」
「プレゼント? 誰に」
「その人の好きな奴」
「それって……」
「ああ、俺じゃないよ」
「ちょ……ちょっと待ってよ。祐也……馬鹿じゃないの?」
「ああ……馬鹿だと思うよ、自分でも……」
 そう自らを評価している幼なじみの顔が自分を嘲ったあまりにも悲痛なものだったので、雨崎はその後に用意していた台詞を全て捨てるしかなかった。
「馬鹿……だよな。やっぱり」
「え……そ、そんなことないよ」
「いいよ……気を遣ってくれなくても……。俺だって分かってるから……」
 と、森原は大きな溜息をついてから、また無理矢理な笑顔を作って、
「でもな、それでもいいんだ。俺は彼女のこと、好きだから」
「……」
「あ、俺そろそろ行かないと。遅れちゃ悪いからな」
「それじゃ、また明日ね……」
「ああ。じゃあな」
 そう言うのと同時に、森原は腕時計に視線を落としながら走り出した。途中、街灯に照らされている段差につまずく姿を見て、複雑な心中の隙間を抜けて雨崎の顔に笑みが漏れる。
「私も大人にならなきゃね……」
 雨崎はそう呟いて、自分の家の方に足を向けた。
 秋の星は、いつもより優しかった。