雪のカイロ−10



「いやいや、お待たせしました」
 部屋に入ると同時に、いかにもヒステリックそうな中年の女性が立ち上がった。高田が軽く礼をする。
「それで、処分は決まったんですか?」
「ええ、決まりましたよ」
 高田はあくまで温和な笑顔を浮かべていた。だが、目の前にいる中年女性に媚びるような雰囲気はない。
「……誰、あの人?」
「黒井の母親」
 何となく納得できた。華美な化粧、いかにも「高級です」と言わんばかりの洋服、高いトーンの声と吊り上がった目。子も子なら親も親、という感じである。
「言いにくいのですが……あなたにはPTAの会長を辞めてもらいます」
「……何をおっしゃってるんです?」
「この前の日曜に、緊急のPTA役員会議を開きましてね。満場一致で決まったことなんですよ」
「どうして私が!? 私は被害者ですよ!?」
「ええ。だが話を聞いた限りでは、一方的な被害者でもなさそうですね」
「な……私の息子は、歯が二本も折れてたんですよ!?」
「……俺、風野さんだけは怒らせないようにしよう……」
 冗談を言う水井とは対照的に、黒井の母親の怒りは当然収まることはない。その矛先は、自然に水井たちへと向けられる。
「貴明をあんな目に遭わせた犯人を、連れてきて下さい!」
「ああ、あなたの言う『犯人』ならすぐ後ろにいますよ」
 振り向く中年女性の眉間には、深いしわが刻まれていた。だが、その表情には威圧感がないどころか、どこか滑稽だった。
「あんたたち……」
「黒井さん、あなたの話し相手は私ですよ?」
「どうしてあの子たちがここにいるんですか! 即刻退学にすべきです!」
「私はその必要はないと思いますがね?」
「あんな連中を野放しにしておくから、世の中は悪くなるんです! それともこの学校は、暴力を容認するんですか!」
「いえ、そんなことはありませんよ。ただ、世の中が悪くなるのはあんたみたいな愚かな大人と、あんたの息子さんみたいな人がいるからだとは思いますけどね」
「な、な……」
 高田が浮かべるのはあくまでも笑み。それに対して顔を真っ赤にする黒井の母親は、装飾過剰の蛸のようだった。
「あなたの息子さんは、ずいぶんと好き勝手やっているようですね。色々と被害報告も聞いてますよ」
「あ……あなた。名誉毀損で訴えますよ!」
「どうぞ御自由に。その場合、あなたの息子さんの悪行も世間で広く知られることとなりますが。一例を挙げましょうか?」
「け……結構です! こんな侮辱は初めてです!」
「侮辱……ですか。それはあなたの息子さんの得意技ですね」
 高田の顔から笑いが消え、わめき散らす女性を正面からにらみつけた。
「私の学校じゃ、頑張ってる人間を馬鹿にするような生徒はいらないんですよ! あなたがあくまで息子さんを擁護するのなら、あなたのことを愚者と言うしかないですね!」
「こ……後悔しますよ! 私の夫が誰か……」
「ええ、知ってますよ。政財界に大きな影響力を持つ、黒井グループの会長さんですよね」
 そう言うと、高田はまた笑った。今度は皮肉めいた表情だった。
「こんな学校、どうにでもできるんですよ! それが嫌なら、即刻退学にして下さい!」
「あなたの御子息をですか?」
 高田はテーブルの上に置いてあったテレビのリモコンを手に取ると、そのスイッチを入れた。大きな画面から、切羽詰まった口調でアナウンサーがニュースを伝える。
「正午ごろ、黒井グループの会長、黒井泰治容疑者が贈賄及び収賄の容疑で逮捕されました! 泰治容疑者の妻で黒井不動産代表取締役の康子氏にも、横領の疑いで逮捕状が出ている模様です! 繰り返しお伝え――」
 テレビの電源を落とし、放心状態の康子に問いかける。
「知らなかったんですか? まあ、私もついさっき知ったんですけど」
 パトカーのサイレン音が鳴り響く。くずおれる康子に背を向け、高田は冷たく言い放った。
「先生方、外に連れていって下さい。何の関係もない生徒を巻き込みたくはないのでね」
 何人かの教師が元PTA会長を強制的に連れ出し、校門の前に待機するパトカーに乗せる。
「まあ、これからしばらくは少し騒がしくなると思うけど、それもすぐ収まるから」
「あの……高田さん、何ですか、今の?」
 自分の頬をつねりながら、水井が分かりきったことを尋ねる。当然だが、痛みはあった。
「現実だよ。聞いた話だと、息子さんも犯罪に関わってたらしいから、この学校にはいられなくなるだろうね」
「あの、それよりも風野さんのことは……」
 黒井一家のことは、芸能人のゴシップとともにワイドショーでも見ればいい。それよりも重要なのは、水井と玲に共通な友人のこれからだった。
「まずは、風野さんの意志ですね。本当に学校を辞めたいんですか?」
 否定。言うまでもなく、それが風野の答えだった。
「分かりました。それじゃ、順序立てて進めましょう。まず、黒井君が差別的な発言をした。そうですね?」
「はい」
「それから、風野さんが黒井君の顔を蹴った」
「それで黒井の奴は歯が二本折れた」
「そんなに強く蹴ったつもりはなかったんだけど……」
「まあそれも、いい薬でしょう。ともかく、今回のことで問題になるのはそこですね。とりあえず、黒井君の発言は許されるものじゃない。だが、さっきも言ったようにどんな理由があろうとも暴力的な行為を容認するわけにもいかないんです」
「はい……」
 風野の表情は、裁判の判決を待つ被疑者のようだった。だが、裁判官の役目を果たす高田は、彼女の情状を考慮に入れていた。
「ですから、一週間ほどの停学ということでどうでしょうか? 異存ありますか?」
「俺はないです。もちろん、玲もないよね?」
 うんっ。
「本人は?」
「いえ……ないです」
「それなら、決まりですね。あ、そうそう。今日、午後の授業はないから。ほら、一応PTAの会長が捕まったわけだから、これからのことを協議しないといけないんだ」
「大変ですね」
「まあ、これも仕事のうちだよ」
 高田は肩をすくめながら、苦笑を浮かべた。
「さて、私はそろそろ会議に加わらないといけないので、この場は解散にしましょうか。それじゃ和樹君、あとのことよろしくお願いするよ」
「あ、はい。風野さん、玲、行こうか。失礼します」
 慇懃に頭を下げ、理事長室の扉を閉めると、水井は大きく息をついた。
「さすがにお咎めなしってわけにはいかなかったか」
「水井君……本当にありがとう……」
「礼を言うのは俺じゃないよ。うちのクラスの連中、誰一人としてあの雨の日のこと話題にしてなかったろう? あれ、風野さんが休んだときに根回ししといたんだ。下手に刺激したくはなかったからね」
「嘘……。私、てっきり……」
「クラスメートが薄情だと思ってた? 全くの逆だよ、逆」
 風野の瞳から、感情がしずくとなって生み出される。流れ落ち始めた気持ちは、一向に止まる気配を見せなかった。
「ごめん……。私……」
 風野の目元に、玲が自分のハンカチをそっと当てた。はっとして顔を上げる先輩に、少女が見せたのは優しい微笑みだった。
「玲、ちゃん……。私、ひどいこと言ったのに……」
 ゆるく頭を振って、玲は言った。
『本当の気持ちじゃないって、分かってるから』
「ごめんね……」
 水井は暗くなった雰囲気を吹き飛ばすかのように風野の背中を軽く叩くと、おどけた調子の言葉で彼女の元気を取り戻すことを後押しした。
「風野さんは泣いてるのなんて似合わないって。うるさいぐらいがちょうどいいんだから」
「うん……って、ちょっと待って。それじゃ私、騒いでるのが普通みたいじゃない」
「何か間違いでも?」
「ううん、当たってるけど。でも、わざわざ面と向かって言うことないんじゃない?」
「当たってるから面と向かって言えるんだよ。大体、風野さんも過去に同じようなこと何回もやってるし」
「そうだっけ? 私、記憶にないんだけど」
「じゃあ聞くけど、玲の家に行ったときに俺のことを単純って言ったのは、どこのどなたでしたっけ?」
 もちろん水井の口調は質問相手を責めるものではなく、それに答える風野も冗談の色を多分に出していた。
「ここの私」
「だから、お互い様ってわけ」
 そして、微笑。それは何も欠けていない毎日を、これからも変わらず送れることに対する表情だった。
「話したいことたくさんあるから、屋上にでも行こうか。天気もいいことだし」


「それじゃ、まずは――」
「高田さんのこと。水井君とどういう関係?」
「俺の父親の親友だったんだ、あの人」
「水井君のお父さんって……事故で亡くなった?」
「そう」
 尋ねた風野が、申し訳なさそうな顔をする。だが、それ以上に玲が複雑な表情をしていることに、女性の上級生は気付かなかった。
「大体、俺がどうやって生活してるかって不思議に思わなかった? 毎日遅くまで部活してて、バイトもやってないのにどうして学費の高い私立高校に通えるかって」
「そのお金を出してるのが、高田さん?」
「そういうこと。もっともあの人が独身だからできる所業だろうけど」
 突然、玲が風野の袖を引っ張って注意を自分のスケッチブックに向かせた。
「どうしたの?」
『何か、変だと思う』
「変って、何が?」
『理事長さんが和樹さんの面倒を見てることが』
「そうかなあ……」
「普通は、親戚なりが引き取るからね。玲が言いたいのは、そういうことだろ?」
 うん。
「うちの両親、駆け落ちの末に結婚してるんだ。だから親戚連中は、誰も俺のことを引き取ろうとしなかった」
 もっともこれは、水井が中学生になってから知ったことである。妙な話だが、体面ばかりを気にする親類一同が嫌いだった水井は、両親の結婚のいきさつに感謝していた。
「でも、それだったら施設とかに引き取られるんじゃない?」
 風野の言葉に水井は何故か表情を曇らせ、女性陣に対して背を向けた。
「……これ、風野さんと玲だから言うんだけど……」
 溜息をつく。空が皮肉とも思えるほど澄んでいた。
「俺の家族が事故に遭った日、出かけたのは高田さんに誘われたからなんだ。あの人は、そのことを責任に感じて……」
「せめてもの罪滅ぼしに、水井君の親代わりをしてる……?」
「……もちろん、俺が親友の息子だからってのもあるんだろうけど。でもやっぱり……そっちの意味の方が大きいだろうな……」
 当然、高田に感謝はしている。だが、その動機が誰のためにもならない自責であるのは、水井が少しも望んでいないことだった。
「俺は高田さんのせいだなんて思ってない。交通事故なんて、偶然の産物でしかないのに……」
「さっきの私と同じね……」
「風野さんはまだいいよ。すぐにそれが間違いだって気付いたからね。でも、高田さんは……」
「気付いてるんじゃない? 子供じゃないんだし」
 水井の途切れた声に続けるようにして風野が言った言葉は、少年から発せられるはずだった台詞を全て奪うには充分すぎるものだった。
「え……」
「たぶん、そうすることでしかできなかった。自分のせいじゃないって分かってて、それでも、そう思って自分を許すことが怖かった。そして何より、自分を責め続けることが親友の死を風化させないための唯一の手段だった……」
「……」
「もしそうなら、やっぱり悲しいことだけど……私たちには否定できないよ」
 水井は無言で事故防止のフェンスにもたれかかり、大きな溜息をついた。
「責め続けることで……か」
「普通なら時間が忘れさせてくれる。だけど、高田さんはあえてそれを拒んだ……」
 一呼吸置いて、水井は後輩の方に視線を向ける。悲しみと、優しさと、痛みが深い場所で交錯している瞳だった。
「……玲はどう思う?」
『私は二人と違うの』
「違う?」
 水井から少しでも、後ろ向きな感情を取り除きたかった。だが、玲はその有効な方法を知らなかったから、今の自分にできること――自分の本心を記すことを選んだ。
『高田さん、自分を責めてるわけじゃないと思う』
「でもそれじゃ、俺の面倒を見てる理由がなくなる」
『最初は確かに、償いだったんだよ』
「最初は?」
『でも途中から、和樹さんのことを本当の子供みたいに思うようになった』
「だから俺を育ててくれた?」
 玲は頷いて、一言付け加えた。
『都合のいい考え方だけど』
 水井は頷き、悪戯めいた笑みを浮かべ、それから本当の笑顔を見せた。
「だけど、物事は前向きに考えた方がいい。どうせ三人とも推測なんだから、俺はその意見に乗るよ」
「あ、もちろん私も」
 何となく、安心できた。たとえ真実がどうであれ、一つの前向きな考え方は不安を消去するには充分なものなのだ。
『話題、変えようよ』
「暗くなっちゃったもんね。じゃあ、どんなこと話す?」
『テストのこと』
「それ、だめ。私の場合もっと暗くなるから」
 冗談めいた風野の台詞。もっとも、それには真実が多分に含まれているのだが。
「もっと別なことないの?」
「祐也との関係は?」
「何、それ?」
 水井は人伝いに聞いた二人の「デート」の詳細を、全て風野に話した。苦笑いを少女が見せる。
「ただの友達。だって森原君、好きな人いるって言ってたよ」
「……それ、本当?」
「嘘ついてどうするの」
「そりゃそうだけど」
「心当たり、ない?」
「相手に?」
 水井は腕組みをし、しばらく考え込んだ。上空を飛行機が通り過ぎていく。
「分からない。まさか真琴でもないだろうし……」
『里美さんじゃない?』
「あいつの性格から考えて、それはない。祐也は本人の前で『好きな人がいる』って言えるような奴じゃないよ」
「それじゃ、誰?」
「こっちが聞きた……」
 水井の言葉が止まる。その瞳は、何もない薄い水色の虚空を見つめていた。
「どうしたの?」
「もしかしたら――」
「誰かいたの?」
 水井は一瞬頷きかけ、そうすることをためらい首を横に振った。
「今は言えない。だけど――」
「だけど?」
「たぶん、あと二週間ぐらいで分かるはずだ。文化祭の日にね」
「文化祭で……?」
「まあ、俺の予想が正しければだけど」
 だが、言葉とは裏腹に水井には確信があった。無論それに根拠はない。しかし、幼いころから共有してきた多くの季節が、彼に充分な自信を持たせていた。
「さて、それじゃそろそろ帰りますか。風も冷たくなってきたし」
 そう言って歩き出した水井の右手首を、玲がしっかりとつかんだ。
「何?」
 スケッチブックに書き込んでいく玲は一度顔を上げ、一瞬水井の瞳を見つめた。何故か迷っているようにも思える視線だった。
『今日は練習しないの?』
「練習って……部活の? 今日はできないって」
『でも私、曲ができてないよ』
「大丈夫だって。まだ十日ちょっともあるんだから」
 不安げな少女の頭に手を置き、水井はその表情を少し和らげさせた。しかし、すぐにそれも元に戻ってしまう。
『不安』
 書かれた文字はたった二つだったが、それは一ページ全てを埋めていた。
「玲……」
 うつむく玲の顔は、何かに怯えていた。自分の中に存在するにも関わらず、本人ですらその正体が分からない、漠然とした影のようなものに。
「玲ちゃん……?」
 下からのぞき込もうとする風野を避けるように、玲は背中を向けた。小さく揺れる少女の肩が、二人の上級生の動きを停止させる。
「……何が原因なの?」
 風野の小声の質問に、水井はポケットに手を突っ込んで空を見上げながら答えた。
「今度の文化祭で、ピアノのソロ演奏するんだよ。そのプレッシャーだと思う……」
「それ、やめることは?」
「もちろんできる。だけど……それで一番納得しないのは、他ならぬ玲自身なんだよ……」
 溜息をつく水井の背中をわざと強く叩いて、風野はためらうことなく言った。
「大丈夫よ、きっと」
「根拠は?」
「優勝した空手大会の決勝前日の私。それと同じだから」
 風野は足早に玲に近づくと、彼女を背後から優しく抱きしめた。
「安心できるでしょ? これ、大会の前日に親友に教えてもらったことなの。私は玲ちゃんの親友じゃないけど……」
 風が頬をなでていく。今まで感じたことのない、 暖かい秋風だった。
「私は玲ちゃんの友達だから、少しは落ち着けるよね。……本当は照れくさいんだよ」
 風野から離れ、玲は先輩と向かい合った。少女の瞳に残る涙を指で拭ってから、再び声を失った後輩を抱きしめる。
「玲ちゃんにとって音楽が大切なものだっていうのは分かるよ。だけど、そんなに思い詰めなくてもいいんじゃないかな」
 続けたい言葉。不器用な風野にとっては、簡単な単語を紡ぐことぐらいしか伝えることを知らなかった。
「みんな、いるよ。私は音楽なんて全然知らないし、楽器も弾けないし、具体的なアドバイスなんて何一つとしてできないけど、辛いことを聞くぐらいはできるから――」
 玲を包み込んでいる腕に、微かに力が込められる。懸命に日々を送っている友人と演じるラブシーンは、風野を優しくしてくれた。
「何でも話していいよ。私だけじゃなくて、みんなに」
 うんっ。
 玲がいつもの少女に戻ったのを確認すると、風野は自分の腕から彼女を解放して軽く背中を押した。二、三歩、無声の後輩が水井に近づく。
「やっぱり、玲ちゃんは私よりも水井君のそばにいる方が似合ってるよ」
 振り向いた玲の瞳の中には、戸惑いの色が存在していた。風野がその柔らかい手を取り、水井の隣に立たせてから、自分の指で作った四角いフレームでカップルを囲み、微笑む。
「うん、似合ってる。この場にカメラがないのが残念なくらい」
「あの……風野さん? どうか……した?」
「ううん、ただ私はこういうのが好きなだけ」
 風野は嬉しそうに目を細めていたから、不審に思いながらも水井はその表情から目に見える以上の情報を見つけることはできなかった。
 だが、玲は違っていた。彼女は先輩の台詞の奥に、無理に押し殺された感情があることに気づいていた。
 それは恐らく――自分と共通している心だった。