雪のカイロ−9



第四章 カウント

「大体、あと二週間か……」
 その日に赤い丸がつけられたカレンダーを見ながら、水井は何気なく呟いた。
「玲の方はどう? ソロの曲、できてる?」
 申し訳なさそうに、玲がゆっくりとかぶりを振った。
「そっか……」
 頭を下げる少女。慌てて水井がフォローに入る。
「いや、いいんだって。まだ二週間あるんだから。それよりも、この前はごめんな。風邪の看病なんてさせちゃって……」
 玲は首を横に振ると、屈託のない笑顔で言った。
『和樹さん、治ってよかった』
「きっと、玲の看護がよかったんだよ。――他の二人がいたらできなかっただろうな、こんな話」
 と、水井は部室の中を見渡す。この部屋で玲と二人きりになったことは何度かあったが、こうして改めて見ると自分のいる空間の広さに一種の違和感のようなものを覚えた。
「別に誤解されるのが嫌とかじゃなくてさ、あの二人に知られたらさんざんからかわれると思うんだよ、きっと」
『それって、嫌なことなの?』
「そうじゃなくて、いちいち応じるのが面倒だから。それはそうと、玲にはお礼しないとね」
 反射的に玲は、「いらないよ」という意志を大きな首振りで表した。
「玲はよくても、それじゃ俺の気が済まないよ。何かさせてくれ」
 玲は腕組みし、考え込んだ。水井の申し出は言うまでもなく嬉しいものだ。だが、それを受けてしまうと迷惑になるのではないかという思いもあった。
『でも、和樹さんに迷惑かけたくないよ』
「あのな、玲。世間一般では、自分の望むことを迷惑とは言わないんだよ」
 それでもまだ頷くことをためらう玲に、できれば胸の内にしまっておきたかった本心を、水井は溜息混じりに吐き出した。
「……本当のこと言うと、『お礼』ってのは口実なんだ。実際はそれにかこつけて、玲に……何かしてあげたいと思ってるんだけど、それでもだめかな……?」
 反応がなかった。その間に、突然吹いた風が窓を小さく揺らして通り過ぎていく。
「い、いや、その……だからさ、そんなに重苦しく考えなくてもいいんだ。別に俺も、ダイヤモンドをプレゼントしようとかってつもりじゃないんだし」
 玲がスケッチブックを手にして、言葉を書き込む。それが終わると、うつむいたまま水井に見せた。
『面白くない』
「そ……そうか?」
 うん。
「厳しいな、玲は」
 苦笑する水井。だがそれもすぐに、照れを含んだ笑顔へと変わった。
「とりあえず――って言ったら変だけど、ありがとう。それだけは、言いたかったんだ」
 水井の顔は、知らず知らずのうちに薄赤くなっていた。小学校の卒業式で、担任の教師に言ったときと同じ照れくささだった。
「で、これからもよろしく。俺の方こそ、玲にたくさん迷惑かけるかも知れないけど……」
 玲は嬉しそうに頷いて、言った。
『お礼、急ぐ必要ないよね。これからがあるんだから』
「それもそうか。じゃあとりあえず、それは文化祭が終わってからでいいけど……」
『里美さんのこと?』
 水井の表情が突然複雑なものに変わったことに、玲はすぐに反応できた。彼女自身の胸中にも、同じ気持ちが存在していたからだ。
「うん……。今日、学校に来てなかったんだ」
『里美さん、これからどうするつもりなの?』
「分からない」
『もしかして、辞めるつもり?』
「気持ちとしては……あるだろうな」
 足元に視線を落とす玲。うつむいている少女の頭に手を置きながら、水井は続ける。
「自分のせいだと思っちゃだめだ。――大丈夫、絶対辞めさせたりなんかしない。風野さんは俺や真琴や祐也、それに玲の友達なんだから」
 顔を上げる少女。水井は優しく微笑みかけ、彼女の頭をなでる。
「ちゃんと手だって打ってあるよ。PTA会長程度だったら、何とでもなるさ」
『何とでもって?』
「こっちには隠し玉があるんだよ。みんなが驚くような最高級の隠し玉がね。あ、それよりも知ってる? 祐也と風野さんが、結構仲がいいって」
『知らなかった』
「きっかけはほら、あの雨の日。で、俺が風邪で寝込んでた日に、二人が一緒にいたのを見かけたって知り合いが言ってた」
『あの日からいろんなことが起こってるね』
「本当だ。そう考えれば、雨の中の鬼ごっこだって悪いもんじゃないよ」
『じゃあ、もう一回やる?』
「それは遠慮しとく」
 その何気ない冗談のやりとりは、玲の強さの証明だった。自分にとって否定したくなるような辛い出来事であっても、そこから逃げ出さずに事実を受け入れ、何でもないことのように会話の一場面で引き出せることが「玲らしさ」だった。
「でも、あのとき玲を追いかけてよかったと思ってるよ」
『私のこと、抱きしめられたから?』
 尋ねる玲は、あくまで無邪気だった。だが一方の水井は、そのときのことを思い出したせいで普段とは少し顔の色が違っていた。
「ま、まあ、それもないとは言わないけど……。一番は、玲に少し近づけたから」
 玲が「?」を瞳に貼り付けて上級生を見つめる。その言葉だけで理解できると思っていた水井は、少女の予想外の反応に戸惑った。
「だから……何て言えばいいのかな、玲の心が少し見えたんだ、あのときに。玲がどうしてあんなに頑張って自分の気持ちを周りに伝えようとしてるのか、それが分かったような気がする。だから――玲にも俺のこと、もうちょっと知ってもらいたいんだ」
 言って、水井はピアノの前に座った。
 深呼吸をしてから、鍵盤を弾き始める。聴いたことのない、けれど優しい曲だった。
「ふう……」
 演奏が終わり玲の方を向いたのと同時に、水井の目から涙がこぼれ落ちた。慌てて拭い去るが、玲はそれをしっかりと捉えていた。
「見られちゃったか……。みっともないな」
 恥ずかしそうに苦笑している水井の目には、遠くを見ているような物悲しさがあった。そこに潜んでいる心の色を、玲は知っていた。
――家族のこと、思い出してるときの……。
「……何から話そうか?」
 玲は無理に笑顔を作って応じた。その話題を避けるために。
『もう遅いから別の日でいいよ。今日は帰ろう』
「……悪い、玲。俺の話、付き合ってくれ」
 玲は頷くのをためらった。その一瞬に二人の視線が交錯し、そして、
……うん。
 それからまた、無言の時間が訪れた。水井が弾いた曲の余韻と、それの弾き手が持っている寂しさが混在し、その場の空気には奇妙な穏やかさがあった。
「まずは……俺が弾いた曲のことだけど、あれは俺の母親が作ったものなんだ」
 本当は、話を今すぐにでも止めてしまいたかった。けれど玲には、ただ頷いて話を先に進ませることしかできなかった。水井の淡々とした口調が、少女に対して他のどんな反応も許していなかったからだ。
「俺にとって、あの曲は子守歌代わりだった。母さんの優しさを、象徴してた。だから、俺にとって大切なものであると同時に、怖いものでもあったんだ」
 それは、玲と音楽の関係に似ていた。自分にとっての言葉であると同時に、音楽と正面から対峙するときの畏怖にも近い感情。水井にとって母親は――いや、失った家族全員がそんな存在であるのだ。
「すごくいい曲だから、みんなに聴かせたかった。だから俺は、ピアノを始めた。弾けるようになったら、まず初めに家族に聴かせようって思ってて――あのころの俺の夢だった。だけど、今からちょうど十年前、俺が小学校に上がったばっかりのころに事故に遭って、その夢は永遠に叶わぬものになった」
 溜息をつき、天井を見上げる。だが、水井の意識は無機質な建造物の一部ではなく、もっとその先にあった。
「なあ玲、神様っていると思うか?」
 唐突な質問に玲は戸惑ったが、とりあえず自分の正直な気持ちに従って首を横に振った。
「俺も、いないと思うよ。じゃなきゃ……」
 再び、視線を自分の頭の方に向ける。水井がにらみつけるようにして天井を見ていることに、玲は気付かなかった。
「前にちょっと、事故のこと話したよな。家で留守番してたおかげで、俺だけ生き残ったって。嘘なんだ、あれ。……俺も、事故現場にいたんだよ」
 玲は驚きを隠さなかった。それを見て、水井は自嘲にも思える弱々しい笑みを浮かべる。
「嘘みたいだろ? 家族三人が死んで、俺一人だけ生き残ったって。……神様って、せこいと思うよ。俺だけ生かしとくんだから。まあそれでも、みんな死ぬよりはましなんだろうけど」
『どうして、嘘なんか言ったの?』
 至極当然な質問。わざわざ問いかけなくともやがて答えが分かるであろうことをあえて尋ねたのは、ただ聞いていることを続ければきっとどこかで話の重さに耐えられなくなり、話の聞き手としての自分を否定してしまうからだった。
「認めるのが怖かった。あの事故の現場に、自分がいたってことを。俺がこの目で、両親と幼い妹の死を直視したってことを」
 少年という呼び方すらふさわしくないほど子供だった水井にとって、その異様な光景はどう映ったのだろうか。死という概念を理解しきっていない彼が、目の前にそれを突きつけられたときどう対処したのだろうか。
「……泣けなかったよ、俺は。わけが分からなかった」
 逃避ではない。水井は本当に自分の状況を認識できなかったのだ。事実、彼は中学のころに自分の状況を理由として泣いていた。
「死も、一人になったことも、認めないわけにいかない。だから俺は、子供時代の楽しかった思い出や両親の暖かさ、妹が生まれたときの嬉しさや夢を封じ込めることにした。だから、この曲も二度と弾くことがないって思ってた。だけど演奏したのは……玲のせいだぞ」
 慌てふためく玲に、水井は笑顔を差し向けた。それは先程と全く逆のもので、相手の感情を素直に受け取る少女を安心させた。
「玲のこと見てて、分かったんだ。このままじゃいけないって。確かに家族はいなくなったけど、あのころの思い出やそこにあった気持ちは絶対に消え去るものじゃない。だから、少しずつそれを認めていこうって思ったんだよ」
『それであの曲を弾いたの?』
「あれが結局、思い出が一番あるものだから。だけど実は、あの曲を演奏するの今回が初めてだったんだ。まあ、本人は上手く弾けたと思ってるけど」
 うんっ。
 大きく頷く玲。スケッチブックで気持ちを伝えるのがもどかしかった彼女は、何度も首を縦に振った。
「けど、笑っちゃうよな。録音したテープはあるけど、十年以上も聴いてなかったんだ。しかも初めてなのに弾けるってことは、結局封印なんかしてなかったんだよ。いつでも心の中にあって、誰かに聴かせたいって思ってたんだ」
『でも、どうしてその最初が私なの?』
「そりゃ玲が、俺にとってそういう存在だからだよ」
 平然と言ってのけると、水井は背伸びをした。伸ばした腕に巻き付いている時計が目に入る。
「もう七時過ぎ!? ごめん、玲!」
 水井は顔の前で手を合わせた。その手首を取って、少女が寄り添うように腕にしがみつく。
「わっ……!?」
 驚いている水井を意にも介さず、玲はあらかじめペンを走らせておいたスケッチブックを先輩に見せた。
『帰りが遅くなった罰』
「こういうの、罰って言うのか……?」
 うん、うん。
 さすがに玲も恥ずかしそうだったが、離れようとはしなかった。そして水井もそんな後輩に苦笑してはいたが、彼女を引き離そうとは考えもしなかった。
「じゃ、帰るか」
 うんっ。
 言うまでもないだろうが、玲は家に着くまでずっと水井の腕に組みついていた。
 そういうのも、悪くなかった。


 昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴り、自習だったクラスの中のざわつきが、それをきっかけに一層大きくなった。普段ならその騒ぎに参加している少女が、今の時間からいなくなった隣席を見て立ち上がる。
「……なくなってないよね」
 その少女――風野が、ブレザーの中に押し込んでおいた封筒を確認して、歩き出した。楽しそうに昼食を食べているクラスメート。そんな風景を見るのも、今日で最後かと思うと悲しかった。
 職員室へと向かう足が重い。未練なんてないはずなのに。
 クラスメートは、誰一人としてあの雨の日のことを話題にしていなかった。結局、彼らにとってはそれだけのことなのだ。
 だから、迷いはないはずだった。
「意外と思い詰めた顔してるな」
 職員室のドアのすぐ横に、水井が立っていた。
「水井君……」
「俺だけだと思う?」
 その背後から出てきたのは、もう一人の当事者である玲だった。悲しそうな瞳で、それでも普段の挨拶と同じように頭を下げる。
「……何の用」
「言う必要あるか?」
「だったら、余計なことしないで」
 まるで空手の対戦相手に見せるような厳しい視線を向けながら、風野は水井の横を通り抜けようとした。彼女の前に立ちはだかる形で、玲がそれを阻止する。
「……止めるの?」
「ああ。退学願を持った人を、職員室に行かせるわけにはいかないんでね」
「何の権利があって、そんなことするわけ? 学校を辞めるかどうかなんて、私の自由じゃない」
「風野さんは俺のクラスメートで、隣の席で、友達だから」
 風野の顔に、あからさまな嫌悪が浮かぶ。そして、溜息。
「あのねえ……。私と水井君、まだ知り合って一ヶ月ちょっとでしょ? 友達って言っても、ほとんど赤の他人じゃない」
「時間は関係ないと思うけど」
 水井の厚かましいとも思える台詞に、風野の感情が一気に吹き出した。堰を切ったように、言葉が滝のように吐き出される。だがそのほとんどは、自分の胸中にないものだった。
「いい加減にしてよ! 水井君には関係ないんだから、余計なことしないでよ! それに、私のことなんてほとんど何も知らないくせに、友達面しないで!」
 水井は何も反応しなかった。昼休みが始まったばかりで三人以外に誰もいない廊下を、玲を押しのけて先に行こうとする。
「玲ちゃん、どい――」
 風野の言葉をさえぎるように、小気味よい音がした。
「え……」
 玲の目には、大粒の涙があった。その右手が、赤くなっていた。風野は頬に、鈍い痛みを感じていた。それだけで、何が起きたかを把握するには充分だった。
「……風野さん、学校を辞めるのは誰が原因?」
「誰って……それは……」
「黒井?」
「そ、そうよ。あの馬鹿があんなこと言うから……」
「あんなことって?」
「今さら言わなくても、水井君だって知ってる……」
 言うまでもなく水井はそれを知っている。もちろん、玲もである。だからこそ、風野はその先を言葉として紡げなかった。
「ああ、知ってるよ。だから、風野さんが学校を辞めたら誰が一番苦しむのかも分かってる」
 本当は、自分の行為が誰のためにもならないと分かりきっていた。それでも退学を決めたのは、単なる意地でしかなかった。黒井のせいで辞めさせられるのが悔しくて、だから退学を自分で決心したことだと思いたかったのだ。
「あいつに辞めさせられるのが嫌だって気持ちは分かる。けど、小さなプライドを守るために一体どれだけの人を傷つける選択だと思ってるんだ? 玲がどんなに苦しむか、分からないとは言わせない」
「それは……」
「確かに余計なお世話かも知れない。赤の他人って言われれば、反論はできないよ。でも、俺が友達じゃないんだったら、玲はもっと何でもない人ってことになる。……俺はどうだっていい。だけど少なくとも、玲にとって風野さんは先輩で、友達だ。でも――真琴にした問いかけ、またすることになるとは思わなかったよ――、風野さんにとって玲の存在は何の意味もないんだな?」
「そんなこと……ない……」
「だったら」
「でも、結局は辞めさせられちゃうのよ!?」
 水井は軽い自嘲にも見える苦笑いを浮かべながら、
「……俺って、そんな無責任な男に見えるのかなあ。風野さんが学校を辞めなくていい前提もなしに、わざわざこんな話をするような」
 そのとき、水井の横にあるドアが音を立てて開いた。中から現れたのは、見たことのない四十歳くらいの男性だった。
「この人が風野さんが辞めなくていい根拠だよ」
「誰、この人」
 それが誰か分かっていない風野は、当然訝しげに尋ねる。だが、その正体を知っている玲からすれば、それは驚愕に値する人物だった。
「ここの理事長の高田満彦さん。つまりは、最高責任者」
「……え?」
 風野が聞いている話だと、理事長は今年一年アメリカに教育学を学びに行っているのだ。普通に考えれば、ここにいるはずはない。
「わざわざすいません。本当なら、春までこっちに戻ってこないはずなのに」
「いや、君の頼みとあっては、戻ってこないわけにはいかないよ。それはそうと――」
「俺のことはあとで。それより大切なことがありますから」
「ああ、そうだったね。――あなたが風野里美さん?」
「あ、そうですけど……」
 風野は戸惑っている様子だった。高田は少女に、冗談半分に名刺を差し出す。
「一応これでも、この学校のトップなんですよ。よろしくお願いしますね」
「は、はあ……」
「何があったのかは、和樹君から聞いたよ。それと――雪谷玲さんだったね、確か」
 玲は最敬礼でもするかのごとく、深々と頭を下げた。高田が慌ててそれを制する。
「頭を下げなきゃいけないのは、私の方だよ。こんなことが起こる前に、何か手を打つべき立場にあったんだから」
「それで、手は打ったんですよね?」
「ああ、これでも教育者の端くれだからね。さて、理事長室の方に行こうか。そこに出演者はそろってるよ」