雨が自分の望まない感情を消し去ってくれる存在ならば、少女はきっと楽になれただろう。その冷たさが心の痛みをごまかしてくれるものだったら、彼女は雨雲に感謝しただろう。 しかし、雨は何も流してはくれない。どんなものも隠したりはしない。残酷なまでにはっきりと、現実を浮き彫りにするだけなのだ。 少女にとっての現実。流されるままに時間を過ごすことができない彼女にとって、それは決して気楽なものではないはずだ。だからこそ彼女は生きることの辛さを、十代とは思えないほど多く知っているのである。 少数の側にいる人間が排除されるのが今の社会の現実。明らかにそれは狂っているが、ほとんどの人間はそれを受け入れている。大多数であれば流されるような怠惰な日常を享受し、常に自分が正当であるかのような仮初めの平穏の中に身を置くことができるからだ。 「玲」 そんな馬鹿げた場所にいない人の名を、水井はドア越しに呼んでみる。届いているはずの彼の声にも、玲が反応を示すことはない。全てが停止したようなその空間において、やまない雨音だけが時間の経過を証明していた。 「入るよ」 ゆっくりとドアを開け、後ろ手に閉める。近づいてくる水井に対して背中を向けている玲は、彼が背後に立っても特に動こうとしなかった。 「少しは落ち着いた?」 まだほとんど乾いていない玲の頭をタオルで拭きながら、水井は普段と変わらないトーンで尋ねる。少しの間を置いたあと、玲が微かに頷いた。 「話、できる?」 ……うん。 『ごめんなさい』 先に切り出したのは玲だった。差し出されたスケッチブックに、普段より揺らいだ文字でそう記してあった。 「俺だったら平気。玲の方こそ大丈夫? 黒井――風野さんが蹴り倒した奴――がひどいこと言ってたけど……」 『別にあれは気にしてないよ。それよりも、みんなに迷惑かけちゃったことが気になるの』 「あんな騒ぎになったことが?」 タオル越しに、弱々しい肯定。いつもの水井ならそれを否定するところだが、今回はただの慰めにしかならない言動はうかつにできなかった。 「気にするな……って言っても無理か」 『和樹さんにも迷惑かけたし……』 「そんなことないよ。俺が玲を追いかけたのは、体が勝手に動いたから。嘘と思われるかも知れないけど、本当だぞ」 『でも、私があそこから動かなかったら追いかけなくてすんだのに……』 「そりゃまあ、そうかも知れないけど……。でも、玲があの場所にいられなくなったのは当然だと思う。俺は楽な立場にあるから玲の気持ちが分かるなんて言えないけど、もし俺があの場所にいたら玲と同じようにしてたよ、きっと」 言葉とともに、タオルから伝わってくる水井の暖かさ。それを受け止めた少女の瞳から、膝の上で握っていた小さな自分の手へと、自然と涙がこぼれ落ちる。 「自分のしたこと、後悔してる?」 ……うん。 返答を確認した水井は、それ以上は何もしなかった。肩を震わせて泣いている玲から視線を外し、所在がなくなった自分を持て余しているだけだった。 何かを悔やむこと、それはつまり、自分の行動を間違いだったと思い、反省することなのだ。客観的に見たときの正否は問題ではない。後悔の理由は、最低限のルールを根底とした主観でなければならないのである。だからこそ、水井は玲の涙を肯定も否定もしなかったのだ。 「玲」 少女の涙が止まったのを見計らって、水井は小さく呼びかけてみる。空白の時間のあと、玲はジャージの袖で残っている感情のしずくを拭い、静かに立ち上がると深々と頭を下げた。 『心配かけて、ごめんなさい』 玲の顔には謝罪の色がありありと浮かんでいたが、そこに悲壮感はなかった。水井は胸を撫で下ろしながらも、先輩としてのポーズを一応見せる。 「本当だぞ。俺、雨の中を走る趣味なんてないんだからな」 言い終わると同時に、大きなくしゃみがついて出た。 「風邪でもひいたかな……」 水井は自分の額に手を当て、体温を普段と比較してみる。いつもより高くなっているように感じたが、顔をのぞき込んでくる玲に対しては何事もないような笑顔を見せた。 「大丈夫。何ともないよ」 だが、玲は納得していないようだった。不安と疑念が交差している表情で、なおも水井を見つめてくる。 「本当に、何とも……」 否定の声を全ては聞かず、玲は自分の手を水井の額に当てた。水井は狼狽しながらも、それを精一杯隠しながら自分の体調を尋ねてみる。 「どう? 熱、あると思う?」 玲はゆるく首を横に振った。 『とりあえず、今はないよ』 「とりあえず?」 『これから出てくるかも』 「まあ、可能性はあるだろうけど……」 正直なところを思わず口に出してしまってから、水井は内心で慌てた。玲の性格からすれば、否定しなければ余計な気を遣わせることになってしまうからだ。 「あのな、玲――」 『和樹さんは風邪をひいたときとか、どうしてるの?』 だが、実際の玲は予想外に冷静だった。水井の考えもしていなかった、しかし話の流れからすれば問われてもおかしくない質問に、一瞬言葉に詰まる。 「え、えっと、いつも一人で静かに寝てる。そうすれば風邪なんて治るから」 『看病してくれる人とかいないの?』 「家族がいないとね。友人とか呼びつけて看病させるわけにもいかないし」 『私』 「玲がどうしたの?」 要領を得ていない水井の鼻先に、言葉を書き加えたスケッチブックを示し、玲は自分の意志を表した。 『私が看病しに行ってもいい?』 「玲が?」 思いがけない玲の提案に、水井はキーの高い声を上げた。少女が真剣な表情で頷く。 「いや……それはその……問題があると思うんだけど……」 曖昧な態度の水井を、不思議そうに見つめる玲。その瞳はまっすぐで、疑いの色などひとかけらとして見えなかった。 「だから、俺は男で玲は女だろ? つまりは……そういうことだよ」 『変なことするの?』 「しないよ。玲が傷つくようなこと、できるわけない」 『だったら、いいよね』 「まあ、断る理由はないけど一つ大きな問題がある。玲が看病しに来るには、まず俺が病気にならないと」 冗談混じりに言うと、玲の頭に手を置いて微笑んだ。 「ありがとう、心配してくれて。その気持ちだけで充分だよ」 その言葉を受け取った玲は、無邪気な子供のように嬉しさを顔に出していた。それは水井の心を特別な理由を必要とせずに暖めてくれた。 「じゃ、そろそろ帰ろうか。雨もやんだみたいだし」 誘われるように窓の外に視線を向けた玲に、それまで以上の笑顔が浮かぶ。雲がなくなった遠くの空に、虹が見えていた。 「三十八度……」 直前まで自分の脇に挟まっていた体温計に表示されたデジタルの数字に、水井はぼやけた意識の中で溜息をついた。 「風邪……だよな。どう考えても……」 ふらつく足取りで、つい先程抜け出したばかりのベッドに向かう。まだぬくもりが残っているその場所に倒れ込み、瞳を閉じた。 窓の外から聞こえてくる、小学生ぐらいの子供の声。時折通り過ぎる車のエンジン音。流れる雲と、高くなった空のさらに上から射し込んでくる日の光。 「……いい天気だな」 穏やかな日常。その中に病人として身を置く自分はどことなく滑稽で、柔らかな日射しは何の面白味もない皮肉のように思えた。 ――看病してくれる人、か。 無機質な天井を見つめながら、心の中でそんな言葉を呟いてみる。結局それが似合わないことを改めて確認し、苦笑を浮かべただけだった。 いつのころからか、水井は一人に慣れてしまっていた。どんな状況にあっても孤独を感じることがなくなり、それに納得している自分がいるのだ。 「……」 寝返りを打ち、布団を耳の当たりまで引き上げる。現実から逃れているようにも見えるその動作は、風邪をひき時間を持て余すと物思いに沈む癖がある自分に対しての逃避でもあった。すでに知っている自身の弱さから目を背けたい少年にとっては、何もできない空白の時間はもはや恐怖の対象でしかなかったのである。 「情けないな、俺って……」 自分を嘲るように小さく笑ってみる。くぐもった声は決して自分の弱さを正当化してくれないことなど分かっていた。それでも弱々しく笑い続けるしかなかった水井を止めてくれたのは、「音」だった。 「……?」 布団の中から頭だけを出し、息を潜めて「音」を待ってみる。やがて耳に届いたそれの正体は、聞き間違えようのない自分の家のインターホンだった。 だるい体を無理をして起こし、玄関へと向かう。途中、冷水で顔を洗い意識をはっきりさせてから自宅の出入り口の前へと立ち、ドアを開けた。 「……」 訪問者の顔を見た瞬間、水井は脱力感に襲われた。と言っても、それは失望からではなく、そこにいたのがよく見知った人物だったので、張りつめていた気持ちが一気に切れたのだ。 『こんにちは』 スケッチブックを胸の前で広げている少女は、その表情から察するに水井が風邪をひいているとは思っていないようだ。もっとも、水井も突然の来客に備えて普段着だったので、それも原因の一端ではあるが。 「ああ、こんにちは……」 水井は応じながらも、横の壁にもたれかかった。その顔色が悪いのに気付き心配そうに見つめる玲に、無理矢理な笑顔を見せる。 「見事に風邪ひいたみたいなんだな、俺……」 礼の手が水井の額に触る。秋風にさらされてきたせいだろう、冷たい少女の手のひらが逆に心地よかった。 『寝てなきゃだめだよ!』 水井の体調を感じ取った玲は、大きめの文字で記した言葉を彼に突きつける。特に力を込められたエクスクラメーションマークが、その意志の強さを充分に知らせてくれた。 「分かってるよ」 水井は体を壁から離し、軽く頭を振った。額に手の甲を当てながら歩くその背中に、少女がゆっくりとついていく。 「ごめんな、玲……」 ベッドに横たわった自分に布団をかけ、頭に冷たいタオルを乗せてくれた少女に、水井は力のない声で謝罪した。横に首を振り、玲は彼の額にもう一度手を当てる。 『熱、どれぐらいあるの?』 「三十八度。一応、薬は飲んでおいたから大丈夫だと思う。それよりも、せっかく来てくれたのに――」 玲は水井の口を自分の手でふさいで、その声をさえぎった。 『気にしてないよ。そんなことより、少し寝た方がいいと思うよ』 水井は無言で小さく頷き、静かに目を閉じた。玲がいることで何かが変わるわけもなかったが、それでも一人のときよりは心が安らいでいた。 玲は布団の外に出ている水井の手に、自分の手を重ねた。彼女はそれ以外に、自分にできることを知らなかった。無力感にさいなまれる少女の心を見透かしたように、水井は小さな玲の手を握り返す。 ――和樹さん? 玲はそのとき初めて、自分が喋れないことをもどかしいと思った。心を伝えられないことが、何よりも悔しかった。だからこそ、やがて水井の静かな寝息が聞こえてくるようになっても、玲は彼の手を離さなかった。 話せないことなんて気にしないと、水井はそう言ってくれた。それは偽りのない本心だろう。だが、話せないことを最も気にしていたのは、他でもない玲自身だった。 『俺にできること、何かないかな……?』 水井はそう言ってくれもした。嬉しかった。けれど痛かった。彼に何をしてもらいたいのか、自分自身が分からなかった。 ――私は強くなんかないよ。 そんな気持ちをスケッチブックに記したら、水井は何と言うだろうか。笑いながら否定してくれるだろうか。それとも、受け入れてくれるだろうか。自分はその二択の、どちらの答えを望んでいるのだろうか。 玲はいつも誰かに甘えたいと思っていた。だが、同時にそれが歓迎されないことだという事実も知っていた。だから少女は、できる限り頑張っていた。他人ではなく、自分自身が雪谷玲という一個人を認められるように、いつでも懸命だった。その過程で、いくつかの大切な存在を見つけもした。友人、夢、恋、それに音楽という言葉。あるいは、それらに依存することもできただろう。しかし彼女はそれを選ばなかった。いや、選べなかったと言う方が正確かも知れない。誰かに甘え、その人に迷惑をかけるのが怖かったのだ。 ――だけど。 水井に抱きしめられて、ようやく気付いた。自分はあの暖かさを望んでいたということに。 恋愛感情という気持ちとは明らかに異なるその心は、あえて相手に伝える必要はなかった。自分の中でそれを大切に思っていれば、成立するものなのだ。 自分が他人と違うことに気付いたのは、いつごろだったろう。玲は不意にそんなことを思い、子供時代を振り返ってみる。 始めに友達になったのは、三坂恵理という名の子だった。玲が喋れないことを知って、彼女は言った。 「私、恵理。これから仲良くしてね、雪谷玲ちゃん」 それは何の変哲もない言葉だった。だから、玲は素直な笑顔で応じられた。考えてみれば、それが今の玲の始まりなのだ。 「話せないって、やっぱり大変なことだよね。歌が歌えないから」 いつだったか、恵理は冗談めかしてそう言ったことがある。話せないことは言葉を持たないことと違う意味だと気付いたのは、それがきっかけだった。 「これからも私と友達でいてね」 中学の卒業式の日、恵理は泣き笑いの顔でそう言ってくれた。式が終わったあと、女二人で制服のボタンを交換した。 「本当なら、好きな男の子のをもらうんだろうけど。でも、私は玲のこと好きだから、いいよね」 恵理は少し照れくさそうだった。だから、彼女は高校が違った今でも玲の親友である。 その親友に「好き」と言われたときの気持ちと、水井に抱きしめられたときの暖かさがよく似ていた。それで、気付くことができた。 ――和樹さんは私にとって大切な人なんだよ。 告白する必要はなかった。何故なら玲は、水井の恋人になることを望んでいるわけではないのだから。 ――でも今は、和樹さんのそばにいさせてね。 表に出すことのできない感情。しかしそれは、握った手を通してきっと水井に伝わっていた。 |