雪のカイロ−6



『料理、作るね』
「そういえば、そんな時間か」
 ちょうど正午を指している自分の腕時計に視線を落としてから、水井は何となしに部屋の中を見渡す。彼の家の雰囲気とは違い、そこには暖かい空気が存在していた。
「私たち、ここにいていいのかな?」
「どういうこと? ……本当は迷惑だとか?」
 不意の風野の言葉に対する水井の問いかけを、彼女は苦笑混じりに否定した。
「ううん、そうじゃなくて、テスト中なのにここにいていいのかな、って……」
「別に問題ないって。テストなんて、えてして何とかなるしさ」
 水井は無責任に答えると、せわしなく動き回っている玲に声をかけた。
「何か手伝うよ」
『和樹さんはお客さん』
 そう言ってスケッチブックをテーブルの上に置くと、水井を台所から押し出した。
「締め出されたね」
 微苦笑する風野に向かって肩をすくめると、水井も彼女と同じ表情を見せた。
「あれで玲、結構頑固なとことかあるからなあ」
「いいんじゃない? だからいろんなこと頑張れるんでしょ」
「本当によく頑張ってるよ、玲は」
「大変なことも少なくないはずなのにね」
「ああ。けど、それを周りに感じさせないってことがすごいよ」
 と、水井はエプロン姿の玲に視線を向ける。昼食を作っている彼女の姿は、まるで砂遊びに興じる子供のように楽しげだった。
「どうしてあんな顔、できるんだろうね」
 何気なく呟く風野に、不思議そうな声を水井は返した。
「風野さん、知ってるんじゃなかったっけ?」
 風野はゆっくりと首を横に振り、寂しそうな表情を見せた。
「確かにそういう友達はいるけど、だからって理由が分かるわけじゃないもの。彼女が笑顔になれる理由、私には分からない」
 風野の言葉には自嘲の色が含まれていた。幼なじみとして何年も近くにいたのにも関わらず、少女の心を理解できていないことがその感情を生み出しているのだろう。
「情けないね、私って。一番の友達のはずなのに……」
「だからこそ、じゃないかな。笑顔の理由が分からないのは」
「え?」
 呆気に取られている風野に優しく微笑んで、水井は続けた。
「同じだと思うんだよ、玲もその人も。たぶん風野さんの幼なじみにも、何か好きなものがあるんじゃない?」
「うん。絵を描くことが……。でも、それが理由なの?」
「正確に言えば、理由の一端。それだけじゃ、笑うことなんてできないよ」
 水井はそう言うと、風野の顔を指さした。
「風野さんがいたからだよ。もちろん、風野さん一人だけじゃないだろうけどね。たくさんの友人、大人――その人が怖がらずにいろんな人と関わったことが理由なんだよ。事実、玲だって人見知りするようには見えないだろ? だから、自分のこと情けないなんて言っちゃいけないって」
「うん……。ありがとう」
 風野の瞳には涙が浮かんでいた。それを指先で拭いながら、少女は弁解するように苦笑いを見せる。
「ずっと心配だったから……。何か、水井君の言葉を聞いたら安心した。本当にありがとう」
「いや、俺は別に……いて!?」
 後頭部に感じた軽い痛みに振り返ると、玲が非難するような顔でスケッチブックを持って立っていた。突きつけるようにそれを水井に対して示す。
『泣かせた』
「い、いや玲、それは誤解だって」
 水井の釈明にも、玲の視線に含まれた感情は変わらなかった。慌てふためく少年の様子に小さな笑みをこぼしながら、風野は彼に助け船を出す。
「本当に誤解だよ、玲ちゃん。第一水井君って、女の子を泣かすような人には見えないでしょ?」
「み、見えないだろ?」
 玲は振り上げていたスケッチブックを止めると、風野の顔をじっと見て、
『でも、泣いてる』
「だから、それは悲しくて泣いてるわけじゃないんだって」
「そうだよ」
 玲は二人の顔を交互に見ると、水井に対して頭を下げた。当然、何度も繰り返して。
「別に怒ってないよ。だからさ、顔上げて」
 水井はいつも通りに頭に手を置くと、まだ申し訳なさそうにしている玲に言った。
「スケッチブックで叩かれたのだって、そんなに痛くなかったし。それより料理は? できた?」
 玲は大きく頷いて、台所へと戻っていった。その表情は無論、笑顔である。
「あの切り替えの速さが玲のいいところなんだろうな」
「――ねえ、水井君」
「何?」
「玲ちゃんと水井君って、兄妹みたいね」
「まあ、確かにそういう感じはあると思うよ。俺の妹も、生きてりゃあんな感じにはなってたんだろうけど」
「え?」
 意味を了解していない風野に対して水井は一瞬だけ不思議そうな顔をし、すぐに手を打った。
「あ、そうか。――俺の家族、俺が小さいころに交通事故でみんな他界してるんだ。俺は家で留守番してたおかげで無事で、今は一人暮らしってわけ」
「その中に、妹さんも……?」
「……ああ。生まれたばかりだったよ」
「そう……」
 水井は一つ溜息をつくと、重苦しくなった空気を吹き飛ばすために、いつもより高いトーンの声を出した。
「まあ、それも今は昔だよ。過去のことでいつまでも暗くなったってどうにもならないからね」
「うん。でも――玲ちゃんは、妹じゃないよ」
「それはそうだけど……でも、それが何か?」
「ううん、別に」
「……?」
 風野の相槌によって、水井には何故か違和感が生まれていた。だが、それを追求する間もなく玲が料理を運んでくる。
「あ、おいしそう。いただきます」
 とりとめのない話をしながら、三人は昼食の皿を空にしていく。それも終盤に差し掛かったころ、風野があまりにも脈絡のない台詞を口にした。
「それはそうと、水井君と玲ちゃんって似合ってるよね」
 スープに口をつけていた水井は、その言葉を引き金として思い切りむせた。
「な、何だよ、それ……」
「あれ? その反応からすると分かってるんじゃないの?」
「う……」
「玲ちゃんはどう思う?」
 話を振られた玲は戸惑いの表情で、たった一言を返した。
『何が?』
「な……何がって……」
「作戦失敗みたいだね」
 逆に困惑する風野に対して、水井はさも愉快そうに笑った。
「あ……あのねえ……」
「あんまり人をからかうようなこと言うからだって。そんなことばっかり言ってると、自分に恋人ができなくなるよ」
「からかうって……だからさあ……」
「からかってなかったとでも?」
「それは違うけど……でも私、嘘ついたわけじゃないんだから」
「え?」
 コップの水を少し口にしてから、風野は意外そうな水井の顔を指さした。
「からかってたけど、水井君と玲ちゃんが似合ってると思ったのは本心だよ」
 唐突に、玲が水井の制服の袖を引っ張った。たまりかねたような顔つきで、いまだ理解していない上級生の会話の意味を尋ねる。
『何が似合ってるの?』
「え、えっと、だから……ほら、制服がだね……」
「何でそんな話しなきゃいけないの?」
 風野のあまりにも冷静な横やりに、水井は黙り込むことしかできなかった。
「あのね、私が言ってたのは二人がまるで兄妹みたいだってこと」
 そう言われて、玲は嬉しそうに微笑んだ。つまりは裏を返せば、彼女には風野の言葉に含意されていたような感情はないということだ。
「そういえば、玲ちゃんって一人っ子なんだっけ?」
 うん。
「じゃ、水井君は玲ちゃんにとってお兄さんなんだ」
 玲は複雑な表情を見せて、
『ちょっと違うような気がする』
「ちょっと違う?」
 そう聞いたのは、風野ではなく当の水井本人だった。
『和樹さんはどう思ってるの? 私は、和樹さんにとって妹?』
「近い、とは思う。けど、玲の気持ちと同じで……どこか違和感があるんだ」
「それはやっぱり、お互いが他人だから?」
「まあ、そうなんだろうね」
「じゃあ、恋愛に発展する可能性は?」
 風野の直接的な問いに、今度はさすがの玲も顔を赤く染めた。一方の水井は、呆れ果てたように溜息をつく。
「まだからかう? よく飽きないねえ……」
「今度は本気のつもりなんだけど。言っておくけど、『面倒だからそれはない』って答えは却下するからね。また森原君に怒られたくないでしょ?」
 風野の悪戯の色を含んだ口調に、水井はしばらく黙り込んだ。様々な思考を巡らせたあと、短く問う。
「それ、誰から?」
「雨崎さん」
「自分の恥をわざわざさらすか、普通……」
「というわけで、答えは?」
 水井は自分の横顔に、後輩の視線を痛いほど感じていた。顔を見なくても、そこに複数の感情が絡み合っているのが分かる。
「可能性はあると思うよ、正直言って。俺自身、玲のことは嫌いじゃないし……けど、今の時点じゃそれこそ真琴だって風野さんだって、いくらかのパーセンテージは存在してる」
「つまり、この先どうなるか全く分からないってこと?」
「まあ、そういうことだね」
「じゃあ、玲ちゃんの方は?」
『あると思うよ』
 玲が平然と答えたことが、水井にとっては意外だった。彼が知っている少女から考えると、真っ赤になって「分からない」と言うだろうと思っていたからだ。
『私の場合、他の人よりはちょっと高いよ』
「えっと……それって……」
 戸惑う水井に、風野が淡々と注釈を入れた。
「玲ちゃんの中じゃ、水井君が一番恋人になる確率は高いってこと。まあ、だからってすぐに好きとか嫌いとかって問題じゃないと思うけどね」
「でも、どうして俺?」
「これ、推測なんだけど……玲ちゃんって男の子とあんまり話さないんじゃない?」
 うん。
「そう言われると、俺と祐也以外じゃ確かに話してるの見たことないけど……どうして?」
『別に特別な理由があるんじゃなくて、きっかけがつかめないの』
「きっかけ? ――そうか、玲の場合すぐに話の輪に入っていくって難しいもんな。初めて会ったときは俺と真琴の二人しか部室にいなかったから大丈夫だったのか」
 玲は肯定し、さらに続けた。
『でも、本当はあのときも少し怖かった』
「怖かった? 俺が?」
『今は平気だけど』
「もしかして玲ちゃん、男の子って苦手なの?」
『少し』
「男の子って何考えてるか分からないもんね」
「……それは俺に対する嫌がらせですか?」
 女性二人に対して男一人という構図である。自分の置かれている立場があまりにも不利すぎる水井には、反論などできるはずもなく苦し紛れに問い返すのが精一杯だった。
「ううん、単なる一般論。水井君には当てはまらないけどね」
「それ、ほめてる?」
「私はそのつもりだけど……。それ以外にどんな意味に聞こえるの?」
「単純っていう風にも取れるんだけど」
「水井君、結構単純だと思うよ。ねえ、玲ちゃん?」
 話を振られた玲は、困惑した表情を浮かべた。それを目にした水井が、淡々と彼女に尋ねる。
「で、何で玲は答えに困るわけ?」
「玲ちゃんもそう思ってるってことでしょ?」
 慌てて玲は首を横に振る。彼女なりの精一杯のいいわけは、しかし実際には全く必要のないものだった。
「だから、玲をからかうなって」
 水井はいつものように後輩の頭の上に手を置くと、気にしていないことを示すために微笑んだ。
「でも、確かに複雑な人間じゃないな、俺」
「でしょ?」
 風野に悪びれる様子は少しもない。もっともそれは、非常に彼女らしいリアクションでもあるのだが。
「だから、水井君の恋人になる人って楽そうよね」
「ああ、かもな。――って、そんなことどうでもいいんだよ。話の本題は玲のことだろ」
「うん。でも思うんだけど、玲ちゃんみたいにかわいかったら男の子の方から仲良くしようとするんじゃない?」
『そんなことないよ。私と付き合ったって、つまらないから』
「どうして?」
『だって、話せないから』
「そんなこと――」
「そんなことないって!」
 風野の否定に重なるように発された水井の声は、自分自身でも驚くほど大きかった。女性二人の視線が彼の顔で交わる。
「ごめん、急に大声出して。でも、喋れないから楽しくないなんてこと、本当にないと思う。俺も風野さんも、今こうして玲と一緒にいて、充分に楽しいよ」
『でも前に実際、男の子に言われた』
「……言われた?」
「何それ……」
 呆然とする二人。現実として、そういう人間がいるのは認識している。だが、その事実に対して納得顔を見せられるはずはなかった。
『そんな人ばっかりじゃないって分かってるよ。でも、実際にそんな人もいるから』
「苦手になるのも無理ないか……」
 複雑な感情に駆られていた水井は、溜息混じりにそう対応することしかできなかった。
「そろそろ片づけようよ」
 風野はその場の雰囲気を変えるために、ごく日常的な台詞を口にした。その意図を汲み取って水井は頷き、立ち上がった。
「今度は締め出したりするなよ、玲。俺たちだって何かしないと逆に申し訳ないんだから」
 だが少女は、水井の腕をしっかりとつかんでいた。
「だからな、玲――」
 水井の声をさえぎるように、玲は何も書かれていないスケッチブックを彼の目前に示した。それは彼女特有の、伝えたいことがある相手をその場に待機させるためのメッセージだった。
 玲がスケッチブックに書き込んでいる間、水井は彼女がつかんでいた手首に視線を落としていた。不思議とそこには心地よいぬくもりがあった。
 不意に水井の視界の中に、表紙の閉じられたスケッチブックが現れる。顔を上げると、無邪気な笑みで自分の言葉の一つを差し出している玲がいた。それを受け取り、玲の一番新しい言葉を知るためにページを繰っていく。程なく見つけたその内容に、水井はいい意味で一言を返すのがやっとだった。
「ありがとう、玲」
 スケッチブックを手渡された玲は、少し照れたような目をしていた。それは水井の心に、心地いい違和感を生み出す瞳だった。
「じゃ、片づけるよ」
 水井が食器を持って台所へ移動したのを確認すると、玲はそっとスケッチブックを開き、微笑みを浮かべた。
 嬉しかったのだ。自分の気持ちに、素直になれたことが。
『和樹さんのことは信じてるよ。信じてもいい人だって、見てれば分かるから』