第三章 ノン・ワード 「――はい、そこまで。後ろから集めてきて」 一日目のテストが終わった瞬間、クラス中から一斉に安堵の溜息が漏れる。 「ふい〜」 それは水井にしても同じことである。いくら文化祭という大きな問題を抱えていても、とりあえず目の前の壁を越えなければ話にならない。 「お疲れさま。どうだった?」 机にへばりついている水井に、風野がおかしそうに声をかける。 「まあまあ……かな。風野さんは?」 「私は全然。元々スポーツの人だから」 「ああ、そういえば噂になってるな。体育の時間、大活躍なんだって?」 風野は謙遜するかのように、照れ笑いを浮かべた。 「そんなことないよ。雨崎さんの方が活躍してるよ」 「あいつは、勉強以外の目的で学校に来てる奴だから。それはそうと、あいつ何か変なこと言ってなかった?」 「別に。あ、ただ――」 「ただ?」 「『森原って名字には気をつけろ』って言ってたけど……」 水井は大きく溜息をついた。森原ではなく、雨崎に対してである。 「どうしたの?」 「その森原って、俺の幼なじみの森原祐也。この学校にいるんだけど……」 「どうしてその人に『気をつけろ』?」 「いや、別に気をつける必要もないと思うんだけど……。まあ要は、『喧嘩するほど仲がいい』関係なんだ、あの二人って」 「うらやましいなあ、それって」 「第三者からすればそうなんだろうけど、間にいる俺からすれば大変だよ、本当に」 そう言って、もう一度息をつく。 「それはそうと、水井君はこれからどうするの?」 「図書室でも行く。風野さんは?」 「私は帰るよ。お互い、頑張ろうね。じゃ、また明日」 水井は教室から出ていく風野を見送ると、自分も机の脇にかかっている鞄を取り、言葉通りに図書室へ向かった。途中、何人かの知り合いと軽く挨拶を交わし、別れる。 図書室の扉を開け、独特の緊張感のある空気を水井は久しぶりに肌で感じる。テスト期間中ということもあり、部屋の中は普段よりも人が多かった。 ――人の数が増えてもうるさくならないってのはここぐらいだな。 水井は図書室が好きだった。学校という勉学の場所で唯一、それを意識しなくていい空間だからだ。だが、最近は部活が忙しくなったのでここに来ることも少なくなっていた。 数多くの生徒が黙々と教科書に向かっている中に、水井は知った顔を見つけた。そっと近づき、その人物の向かいに座る。一瞬水井を見た少女の視線が、すぐに見慣れた笑顔へと変化した。 「やあ、玲」 玲が彼女に一番似合う表情のまま頭を下げる。それが彼女なりの挨拶なのだということを、水井は知っていた。 「何読んでるの? ――料理の本?」 うん。 耳打ちよりも小さい水井の声に、玲はいつも通り頷いた。 「なあ、玲。ここ、出ない? せっかくだから玲と話したいんだけど……。それとも、まだその本読む?」 横に首を振ると、玲はすぐに本を閉じ、それをバッグの中にしまった。椅子を静かに元に戻し、すぐに水井の横に来る。水井は「じゃ、行こうか」という言葉の代わりに微笑むと、少女の歩調に合わせるように普段よりゆっくりと歩き出した。 入ってきたときと同じように静かに図書室から出ると、水井は大きく息をついた。そして、不意に窓の外に目を向ける。 「雨だ。玲、傘持ってる?」 頷いて、玲はバッグの中からピンクの折りたたみ傘を取り出した。何度かそれをさして帰る後輩の姿を水井は見ていたが、それは彼女によく似合うものだった。 『和樹さんは?』 「俺? 教室の方に置いてある。ちょっと待ってて」 水井を待つ間、玲は何気なく空を見上げていた。当然そこには一面に広がる灰色の雲があるのだが、彼女の気分は暗くならなかった。 「お待たせ……って、玲、何か楽しそうだな」 『雨、好き』 「どうして?」 『虹が見られるから』 玲の無邪気な言葉に、水井は小さく苦笑しながら、 「本当に前向きだね、玲は」 と、言った。 「じゃあ、行こうか。そういえば、こうやって玲と明るい校舎内を歩くのって初めてだな。いつも、部活が終わってからだったから」 その言葉を聞いた玲が、残念そうな表情を浮かべる。 『じゃあ今日、和樹さんと一緒に帰れないね』 帰り道が全く正反対の玲と一緒に帰っているのは、彼女を安全に家まで送るためなのだ。学校が午前中に終わる今は、確かに同じ道を歩く理由はない。 「あの……さ。正直に言って欲しいんだけど、俺と帰りたい?」 水井の質問に戸惑った玲だったが、すぐに小さく肯定した。 「じゃあ、今日も一緒に帰ろうか」 心優しき少年の提案に玲は一瞬だけ驚き、激しく首を横に振った。 「何で?」 『和樹さんに迷惑がかかるから』 スケッチブックに記されていたのは、予想した通りの理由だった。玲の申し訳なさそうな表情を打ち消すように微笑んで、水井は彼女の頭に手を置きながら言った。 「迷惑じゃないよ、本当に。それに、家には誰もいないしね」 『仕事?』 「違う違う。俺の小さいころに、家族は死んだんだ」 そう言って水井は笑ってみせたが、その奥には小さな寂しさがあり、そしてそのことに玲は気付いていた。少女は自分より年上の男性の頭を、気遣うようになでた。 「心配してくれてありがとう。けど、もう悲しくなんてないからさ」 子供のように純粋だからこそ、他人の感情を感じ取れた。数多くの辛さや、世間の汚さや、様々な悲しみを知ってなお純粋でいられる玲は、紛れもなく強かった。そんな一人の少女に関わっていられることが、水井は何よりも嬉しかった。 「まあ、それはそうと、一緒に帰ろうよ。せっかく、偶然に会えたんだし」 うんっ。 下駄箱の前まで来ると、玲は小走りに自分のクラスの方へと急いだ。彼女の姿が下駄箱の陰に隠れるのを見てから、水井も靴をはきかえた。 「あれ?」 靴の爪先を床に打ちつけながらふと視線を前方に送ると、見たことのある後ろ姿が立ち尽くしていた。とうに家路に着いたはずその人物に、水井はいつもの調子で声をかける。 「風野さん」 「あ、水井君」 「どうかした? そんなとこに立って」 「傘、忘れちゃって。ねえ、どうしよう?」 「どうしようって言われても――あ、玲」 「え?」 玲は水井の隣に立つ見知らぬ上級生に不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに屈託のない笑顔で頭を下げた。 「えっと、この子……」 「前に話したよね、うちの部に入ってきた声を失った一年生」 「へえ。えっと、私は風野里美。水井君のクラスメートで、最近転校してきたの。確か、雪谷玲ちゃん、だったよね」 玲は嬉しそうに頷きながら、いつも通りに自分のスケッチブックを差し出す。特に迷うこともなくそれを受け取り自分の名前を記すと、風野は少女に笑いかけた。 「よろしくね、玲ちゃん」 「ところでさ、風野さん傘がなくて困ってるんだけど、何とかできない?」 玲は背負っていたバッグを肩から下ろすと、その中から先程とは別の傘を取り出し、風野に差し出した。 「貸してくれるの?」 うん、うん。 「ありがとう。優しいね」 照れる玲と、それを微笑ましく思っている風野の横で、水井は呆気に取られていた。 「いい子だよね、玲ちゃんって……って、おーい」 目の前で手を振られ、水井はようやく我に返った。不思議そうに風野が問いかける。 「どうしたの? ぼーっとして」 「いやその、別に大したことじゃないんだけど……玲が手に持ってるピンクの傘も、あのバッグから出てきたんだよ。なあ玲、その中、教科書とか入ってるよね」 うん。 玲の鞄は決して大きくなかった。それなのに教科書等が入っていてどうして傘が――折りたたみとはいえ――二本も入るのだろうか。 「四次元ポケット……?」 頭を抱える水井の傍らで玲はキョトンとしていた。それは、風野も同様である。 「何かおかしいことでも?」 風野に問われた水井は、溜息混じりに言った。 「風野さんの性格、少しだけ分かったような気がする……」 もっとも、それが的中しているとすれば、転校生のキャラクターは際限なく奥が深いということになるが。 『里美さんの家はどこ?』 「私の家? えっと――」 その方向が自分の家と同じだと知った玲は、嬉しそうに笑顔を見せた。 『一緒に帰れるね』 「さて、じゃあ行くか」 「あれ? 水井君も一緒?」 「本当は逆方向なんだけど、まあ、ちょっと諸事情があってさ。それより、テストどうだった?」 「私はさっきも言った通り。玲ちゃんは?」 玲の返答は、首を横に振ることだった。 「できなかった、ってこと?」 うん、うん。 頷く玲は、あくまでも笑顔だった。水井は溜息混じりに、彼女をたしなめるように言う。 「あのな、玲。……だったら、図書室で料理の本なんて読んでる場合じゃないと思うんだけど」 「玲ちゃん、料理好きなの?」 うん。 風野の質問は、水井の言葉の意図を完全に無視するものだった。もっとも彼にしても、こういう展開はある程度想像していたのでその会話を中断させることはなかった――というより、その必要も特にないが。 「料理できる人って、尊敬しちゃうな。私、そういうのって苦手だから」 「掃除洗濯料理その他諸々の家事一般が?」 「ううん、料理だけ」 「じゃあ、あれだ。結婚相手の第一条件は、料理のできる人になるわけだ」 「そうそう……って、それ、一体何年後の話?」 「案外近いかもよ?」 「相手がいなきゃ無理。ねえ、それはそうと玲ちゃんは、好きな人とかいるの?」 空を切る音が聞こえてきそうなほど、玲は激しくかぶりを振った。 「玲ちゃん、顔真っ赤。本当はいるんじゃないの? 水井君とか」 「実はそうなんだ……って、ちょっと待て。何でそこで俺の名が出てくるのかな?」 「だって、二人って仲よさそうじゃない?」 「確かに仲はいいよ。けど、だからってすぐに恋愛沙汰にはならないだろ」 「そうだけど、その方が面白そうだから」 「風野さんって意外と、無責任な性格だね……」 疲れたように息をつく水井の背中を、風野は遠慮なく叩きながら言った。 「冗談だってば」 「いや、半分本気だったろ。……それはそうと」 「何?」 「風野さんに叩かれた背中、何故かものすごく痛いんですけど」 「気のせいよ、気のせい」 気のせいで痛みが発生したのでは体がいくつあっても足りないだろうと水井は思ったが、それを言ったところでどうにもなるものでもないので、実際に口には出さなかった。 「それはそうと、風野さんは?」 「何が?」 「好きな人」 「ちょっと前まではいた。だけど、振られたからね。じゃあ、水井君は?」 「え、俺? 特にはいないけど」 「雨崎さんは?」 水井は答えず、逆に問い返した。 「……一つ聞いていい? 俺と真琴って、やっぱりそういう関係に見える?」 「うん、見えるよ。あれ? もしかして、違うの?」 「もしかしなくても違うよ。真琴はただの幼なじみだから」 「本当に?」 「本当に。まあ、周りからは誤解されてるらしいんだけどさ」 「それは無理もないと思うよ。ねえ、玲ちゃん?」 うん。 「でも、正直なところ、どうなの?」 「どうって?」 「雨崎さんのこと。どう思ってるの?」 問われた水井は、少し照れくさそうに頭をかきながら口を開いた。 「こんなこと言うと誤解されそうだけどさ、何とも思ってないってことはないんだ、実際」 傘を打つ音が、少しだけ弱くなる。よく涙に例えられるその音の主は、しかし今はたくさんの思い出のかけらに思えた。 「真琴とは、物心がついたときから一緒だから、やっぱり普通の友人ってわけじゃないんだよ。俺にとって、幼なじみの二人は特別だからさ。真琴と祐也は」 もしかしたら、雨の中には本当に思い出が存在していたのかも知れない。何でもない、だが、だからこそかけがえのない過去が。 「今の台詞、ここだけのことにしといて。本人に知られると恥ずかしいから」 「うん。でもこれで、水井君をからかうネタが一つ見つかった」 「だからさあ……」 「冗談だってば。私がそんなことするように見える?」 「見える」 水井は即答した。 「私、そんなに性格悪くないよ」 「性格は悪くないけど、面白いこと大好きじゃない?」 「うん」 「だったら、やると思うね」 結局、この水井の台詞は的中した。もっとも、それを本気で嫌がるはずもないが。 「あ、着いちゃったな、玲の家」 いつも見ているのとは雰囲気の違ったその家が視界に入ってきた水井の口から、そんな言葉がついて出る。彼は、自分が無意識に言った台詞に、残念がっているニュアンスが含まれていることに気付いていなかった。そして、玲は何故かいつもと対照的に嬉しそうな顔で、水井の袖を引っ張っていた。 「何? どうかした?」 「家に来て、ってことじゃない?」 玲は無邪気な笑顔で頷いた。 「俺はいいけど……。風野さんは?」 「私も構わないよ」 その言葉に、玲の顔がそれまで以上に輝いた。 |