演奏が終わったあとの部室には、いまだ独特の余韻があった。 「ところでさ、転校生のことなんだけど――」 そんな中でこの場に似つかわしくない話題を切り出した森原に、水井は怪訝そうな表情を浮かべる。 「あのなあ、今話すことじゃないだろ。そんなに心配しなくても、ちゃんと紹介するから……」 「違う違う。そうじゃなくて、風野里美って名前、どっかで聞いたことないか?」 「……祐也。その手でナンパするのは、もう古いって」 「だから、違うって……。何か引っかかるんだよ、あの名前」 「気のせいじゃ?」 「いや……。まあいいか。それよりも知ってるか?」 「うん?」 「来年から、文化祭で何らかの成果を示せなかった部活は部費が出ないって話」 「な……」 水井は言葉を失った。それは、雨崎にしても同じことだ。 「どうせまた、あの馬鹿の差し金だろうな」 「黒井貴明……か」 黒井貴明――この学校のPTA会長の息子にして、学校一の嫌われ者である。多分に漏れず親の権力を振りかざして、好き放題やっているのがその原因だ。 「どうするよ? 誰から見たってここの部――正確に言えば、和樹への当てつけだろ?」 「たぶん。でも、言ってること自体は筋が通ってないわけでもないからね」 「ああ。そこが厄介なんだよな……」 溜息をつく三人。重い空気の中、玲だけはいつもと変わらない表情で、腕組みをしている水井の制服を引っ張る。 「ああ、そうか。詳しい説明は、真琴に聞いて」 急に話を振られた雨崎は、露骨に嫌悪感を表した。 「ええ? 何でよ」 「俺、あの馬鹿の話なんてしたくない」 「私だって同じよ、そんなの」 「でも、全ての原因は真琴だよ」 「あ、心外。和樹にだって責任の一端はあるでしょ」 「そうだけど、責任がより大きいのは――」 一向に終わりそうにない口論にも苦笑を浮かべると、森原は手を叩いて二人を制した。 「はいはい、二人がそんなに嫌なら俺から説明するから。えっと、要はその黒井って奴が真琴に惚れてるわけよ」 「やめてよ、そんな言い方」 「他にどういう言い方しろと?」 雨崎の生理的嫌悪感を露わにした刺々しい抗議を、森原は軽く受け流した。 「その黒井って男はまあ顔はいいんだけど、とにかく性格が最悪でさ。自己中心的でわがまま、おまけにナルシストなんだよ。で、そのタイプって真琴の一番嫌いな人間なんだけど、黒井の奴、勘違いしてるんだよな、これが。で、その原因が――そこの人、他人事みたいな顔で空なんか見てるなよ」 我関せずの表情で赤く染まり始めた空を見つめる水井の首を、雨崎が無理矢理正面に向ける。抗議しようとした水井だったが、それは幼なじみの少女の意味深な笑顔によって黙殺された。 「和樹ってわけ。和樹と真琴って、傍目から見ると仲いいだろ? まるで恋人同士みたいにさ」 「そう見える?」 水井の意外そうな問いかけに、玲は少しためらいがちに頷いた。 「そういえば、最初に会ったときに玲ちゃんにも聞かれたね……」 「で、黒井が誤解してるわけよ。和樹がいるせいで、自分は真琴を落とせないんだ――ってね。だからな、お二人さん」 森原は複雑な表情をしている二人の顔を指さしながら、 「自分らが周りからどう思われてるか、少しは意識しろ。俺みたいに昔からお前らのこと知ってるんならともかく、一般的には黒井みたいな見方が普通なんだからな」 「でもさ、実際にはそんなこと――」 「ないってのは分かってる。だけど、お前らを客観的に見るとそう思う方が難しいんだよ。大体、弁当作ってきてる時点で怪しまれて当然とは思わないのか?」 「だって、一人分も二人分も大して変わらないんだし……」 「だから、世間はそうは思わないんだよ。それにな和樹、お前も充分に悪い」 「どうして」 「真琴以外の女と親しくしないからだ。それが『疑惑』を増長させてる」 「けど、それならお前だって……」 森原は溜息混じりの苦笑で水井の言葉をさえぎった。 「俺は去年、さんざん真琴との漫才を披露したからな。俺らが恋愛関係にならないってことは、完璧に証明されてるよ」 「まあ、そりゃそうだけど……」 「そういうことだから、お前ら、責任は半々だ。第一、周囲の気持ちって考えたことあるか?」 「え?」 「お前らのこと、真剣に好きな人間の気持ちだよ」 「そんな奴……」 水井の言葉を、森原は真剣な眼差しでさえぎった。 「いないって、どうして言える? 根拠はあるのか?」 「それは……ないけど……」 「ちょっと待って。それじゃ、私たちのこと好きな人がいるの?」 「知らないさ、そんなの」 「でしょ? だったら問題ないじゃない」 森原は答えず、玲のスケッチブックに二人の視線を促した。 『可能性の問題だと思うの』 「可能性の問題?」 「……一つ言っておこう。少なくとも恋愛に関しちゃ、お前らより雪谷さんの方が大人だ」 森原は溜息混じりに言うと、本題を続けた。 「確かに、俺は知らないよ。けど、だからってお前らに好意を持ってる人がいないってことじゃないだろうが。そういう人がいる可能性だって、充分にあるだろ」 「それはそうだけど……。でも、私たちが恋愛に興味ないって、祐也も知ってるでしょ?」 「知ってるけど?」 「だから、いてもいなくても、どっちにしても同じだよ」 「……和樹は?」 「真琴に同意見」 溜息をつく気すら起きなかった。森原が手近の椅子に座ると同時に、玲が新たな言葉を示す。 『同じじゃないよ』 「どうして?」 『できなくなるから』 「何が」 少しいらだったような雨崎の声に、森原は怒気混じりに返した。 「お前は怒れる立場じゃないぞ、真琴。じれったいのは、お前らの方だ」 「じゃあ、何ができなくなるって言うんだよ」 答えたのは玲だった。彼女のスケッチブックには、たった二文字が一ページ全てを使って大きく書かれていた。 『告白』 「そういうことだよ。雪谷さん、ありがとう」 謙遜するように首を横に振る玲に微笑んでから、森原は幼なじみの二人に対してそれまでにないほどの厳しい視線を向けた。 「お前らが恋愛に興味がないのはしょうがないことさ。無理に自分の意に反して、いるかも知れないその『誰か』と交際しろとも言わない」 「だったら……」 「お前ら、勘違いしてないか? 問題は二人が親しすぎる、周りから恋人同士だって思われてることなんだぞ」 「分かってるよ。だから、何が言いたいんだ?」 『恋人がいる人に告白するって、すごく勇気のいることだと思うの』 「そういうことだよ。お前らは分からないだろうけどな、人を好きになるって簡単なことじゃないんだよ。その気持ちを相手に伝えるとなりゃ、なおさらだ」 「そうは言うけど、祐也だって告白なんてしたことないじゃない」 「……それが、あるんだな。お前らは、知らないだろうけど」 「え……」 言葉を失う二人を見て薄く笑うと、森原は自分の中での最も苦い思い出を口にした。 「中二のころだけどさ、好きな人が同級生にいたんだよ。まあ、初恋だな。言っとくが、それ以来人を好きになったことないよ」 「女の子の友達、たくさんいたじゃない」 「友達は友達だろ?」 雨崎の言葉を逆に疑問形で返すと、森原は溜息をついた。 「本当に好きだったんだ。けど、その子には別に好きな人がいた。それでも俺、告白したんだ」 「結果は?」 「もちろん振られたよ。まあ、それが縁で今じゃいい友達だけど。で、告白する前、ずいぶん悩んだんだよ、これでも。受け入れられないことは目に見えてたからな」 「じゃあ、どうして告白なんかしたの? 振られて傷つくことが分かってるんなら、しなければいいじゃない」 「人を好きになったことのない人の台詞だな、やっぱり」 憮然とする雨崎に、森原は悪戯めいた笑顔を浮かべた。彼女のことを小馬鹿にしてるようにも見える表情だった。 「告白しなきゃ、そこで終わるからだよ。振られるかどうかなんて問題じゃない。気持ちを中途半端で終わらせることが、負けなんだよ。――だから、お前らはっきり言って気に入らない。二人のやってることは、お前らを好きだって人に余計な労力をかけさせてるからな」 「でも今、振られるかどうかなんて問題じゃないって言ったよな」 「……和樹。言ったのがお前じゃなきゃ、間違いなく殴ってるぞ」 事実、森原の右の拳は堅く握られていた。そのことが充分すぎるほど、彼の台詞が真実だということを証明していた。 「確かに言った。だけど、告白自体大変なことなんだ。まして、その相手が別の人を好きだったらな。その大変さを、個人個人の性格を無視して押しつけるつもりはないよ。中途半端で終わることは確かに負けだけど、だから気持ちを伝えりゃいいなんて簡単なことじゃないんだよ」 森原が好きになった少女は、優しかった。だから、彼の気持ちを断るときに本当に申し訳なさそうな顔をしていた。少年にとっては、それが一番辛かった。振られたことより、彼女に心苦しさを感じさせたことが痛かった。そして、そのことが少年にとっての、告白の難しさだった。 「誰かを好きになるのも、告白するのも、相手がいるから辛いし、苦しいんだ。でも、自分が好きになったのが他の誰でもない『その人』であるからこそ、それに価値がある。だから、他に好きな人がいて、振られても納得できるんだよ。でも、お前らははっきり言って……許せない。実際に真琴と和樹が恋人同士だとか、あるいは恋愛感情が少なくとも一人にあるってんなら、別にいい。けど、お前ら実際はそうじゃないだろ。それなのに、誤解を特に解こうともしないってのは、気に入らない。その誤解のせいで、苦しんでる人がいるかも知れないってのにな!」 言葉がなかった。いつも一緒で、同じ時間の中に育ってきた三人は、けれど等しくはなかった。それは無論、個人差という問題ではない。 「誤解、解け。お前ら、誰かのこと好きになればいいんだ。はっきり言って、お前ら人を好きになるのが怖いんだろ?」 「そんなことないよ。私はただ、興味がないだけ」 そう答える雨崎の肩を、玲が軽く叩いた。横を向いたと同時に入ってきた文字に、その上級生が絶句する。 『あるよ』 申し訳なさそうな表情で、それでも玲はスケッチブックに自分の考えを記した。 『恋愛は、興味がないとか面倒だとか、そんなの関係ないよ。だって、気持ちなんだから』 「そういうことだ。――雪谷さんは、いい恋愛してきてるんだね」 玲は顔を赤くして、頭をいつものように振った。 『そんなことないよ。振られたことしかないから』 森原は下級生に微笑んでから、幼なじみたちに視線を向けた。 「それでも、こいつらよりはましさ。自分自身に嘘ついてる人間よりは」 そう吐き捨てるように言って、森原は話題を終わらせた。彼は黒板の前に立ち、文化祭の日付を大きく書き殴った。 「それよりも、テストを挟んで文化祭まで約一ヶ月弱。どうするんだ?」 「どうにかする……しかないね」 「でも、どうするの? 三人じゃどうしようもないんじゃない?」 不安げな雨崎の言葉を、水井は呆れた表情で一蹴した。 「音楽は人数でやるもんじゃないよ。たった一人の少女のピアノで、心が動くことだってある。それはお前ら、もう知ってるはずだろ?」 「それは、そうだけど……」 「俺たちも玲と同じ言葉を手に入れればいい。それだけのことだよ」 「そんなの、私には無理。だって私は――」 「『玲ちゃんじゃないから』か? それは違うね」 そう言って立ち上がると、水井は顔を真っ赤にして小さくかぶりを振り続けている玲の頭に手を置いた。 「玲の音楽は、もう言葉になってるよ。もちろん全てを伝えられるわけじゃないし、まだまだ足りないところもあると思うけど――」 水井は言葉を切り、玲から手を離した。 「それでも玲にとって音楽は、言葉になってるんだよ。俺は、そう思う」 「でもそれは、玲ちゃんだからでしょ?」 「だから、それは違う。音楽が言葉になったのは、玲に才能があったからでも、話せなかったからでもないよ。音楽が好きだから、それを言葉にできたんだ。それは他の分野でも、同じことだと思う」 「でも……」 「俺も和樹に賛成だな」 何か言いたそうな雨崎をさえぎるように、森原は口を開いた。 「言葉ってのはさ、結局何かを伝えるための道具だと思うんだよ。真琴も和樹も、音楽が好きだからここにいるんだろ? だったら雪谷さんみたいに多くを伝えられなくても、少なくとも一つは音楽って言葉に乗せられるんじゃないか?」 「音楽が……好き?」 「御名答。少なくとも、それはギターなりピアノなりに乗っけられるだろ? だったらそれは、その時点で言葉として成立するんじゃないのか?」 そう言われた雨崎は、不満そうな顔で頬を膨らませた。 「まだ納得いかないか?」 「そりゃあね。まさか祐也に言いくるめられるなんて思ってなかったから」 「あ、なるほど……っておい!」 「確かに正論だね、そりゃ」 「だからお前らは俺のことを……」 何かを言いかけた森原だったが、しかしそれを実際に声には出さなかった。それは、もうどうでもいいことだったからだ。 「で、実は黒井の奴、余裕かましてるみたいでさ、他の部活に所属する生徒を借りてもいい、みたいなこと言ってるんだよ」 「……ってことは」 「そういうことだな」 頷き合っている男性陣の横で、雨崎が困惑の声を上げる。 「ちょっと待ってよ。まさか……あれやるの? あれって、軽音楽じゃないの?」 「ここの部はジャンルを限定しないって、お前も知ってるだろ? 大体この前『スタンド・バイ・ミー』歌ったのはどこの誰だっけ?」 「そりゃ私だけど……。でも、中学のころに三人で組んでたバンドの再結成なんて……」 「……真琴」 唐突なトーンの落ちた水井の声に、雨崎は少し高い声で応じた。 「はい?」 「いくら玲がいるからって、その説明的台詞はやめろって……」 「あ、ばれてた?」 「そりゃね。で、今回、歌はなし。楽器演奏だけで、パートはあのころと同じ。だから真琴がギターで、祐也がドラムで、俺がベース」 「じゃあ、玲ちゃんは?」 「ピアノとして参加してもらうよ。曲はまあ、何かのコピーでもやるとして……玲、今から新しい曲、作れる? ピアノ――じゃなくてもいいんだけど、ソロの演奏、やってくれないかな? 玲のオリジナル曲の独奏をさ」 「和樹、それはいくら何でも無茶すぎるんじゃない?」 「だから、無理強いはしないよ。玲が嫌だったら、それでもいいから」 しかし、玲は迷わなかった。彼女のスケッチブックに記されたのは、彼女自身にとって最も大切な言葉だった。 『やる。音楽は、言葉だから。伝えること、怖がっちゃいけないから』 そして、目標は設定された。 |