雪のカイロ−3



第二章 音楽が好きだから

「なあ、和樹」
 昼食を食べ終えたあと、自分の机で何の目的もなく窓の外を見ていた水井は、斜め上からの声に面倒そうに視線を向けた。
「何だ、祐也か……」
「ちょっと話があるんだけど」
「何……」
「とりあえず、廊下に出ろ。ここだと、お前寝るから」
 そう言うと、本人の承諾を特に得ることもなく、森原は水井を教室の外に連れ出した。
「で、何?」
「お前の部活のことなんだけどさ……」
「部活……?」
 欠伸をする水井。だがそれは、幼なじみの次の言葉によって中断することになった。
「新しい人、入ったんだって? ほら、話せない一年生」
「……それが何か?」
「いやね、会ってみたいと思ってさ」
「どうして」
「どうしてって……そりゃ、興味があるからな」
「興味……?」
「ああ……って、和樹、お前どうしたんだ? そんな怖い顔して……」
 水井の普段にない厳しい表情に気付いた森原は、怪訝そうに言った。
「……何でもない。それよりも、興味って?」
「ん? ああ、真琴が言ってたんだよ。その子のピアノ、お前より上手いって。だから、聴いてみたいんだよ」
「それだけ……?」
「他に何がある」
 水井はそこでようやく表情をゆるませて、
「だったらいいけど。またお前、好奇心で言ってるんじゃないかと思ってさ」
「好奇心?」
「だから……話せない子が音楽やってるから、見てみたいとか」
「あのな、和樹」
 森原は溜息混じりに、言葉を続けた。
「俺のこと、あんまり見くびらないでくれ。そんなこと、考えるわけないだろ?」
「悪い……」
「まあ、お前の気持ちも分かるけど。往々にして、少数の側にいる人を好奇の目で見る人間はいるもんだ」
「まあ、ね……。で、いつ来る?」
「今日はだめか?」
「いいけど、お前の方の部活は?」
「さぼる」
「……」
「ん? 何か悪いこと言ったか?」
 水井の呆れた表情に、森原は不思議そうに言葉を返した。
「いや……」
「じゃ、決まりな」
「ああ。それじゃ、放課後に」
 森原と別れた水井は、まっすぐに自分の席に戻ると、今度は空に向かって視線を向けた。
「少数の側にいる人間、か……。意識してなかったな……」
「水井君」
 不意の声。振り向くと、風野が不思議そうな顔で水井を見つめていた。
「どうしたの? 難しい顔して」
「ん、いや……。風野さんは、障害を持ってる人って、どう思う?」
「別にどうも思わないよ。だって、普通の人でしょ?」
「それはそうなんだけど……」
「その質問って、水井君の部に新しく入った一年生と何か関係あるの?」
 風野は玲のことを、雨崎伝いに知っていた。体育の授業が一緒だったのがきっかけで知り合ったのだ。
「ある……ような、ないような……」
 小さく溜息をついて、水井は無機質な教室の天井を見上げた。
「時々、どう接していいか分からなくなるんだ。もちろん、普通にしてればいいんだろうけど……。でもそれだと、余計なことまで言っちゃいそうでさ……」
「大丈夫なんじゃない? そういうのって、案外本人は気にしてないらしいから」
「そうかも知れないけど……って、あれ?」
 風野の言葉に違和感を覚えた水井が、不思議そうな表情を見せる。それは、言った本人が予想していた通りの展開だった。
「何か、見てきたみたいな言い方だ、って言いたいんでしょ? 私の幼なじみの女の子が、それだから」
「それって……障害があるってこと?」
「うん。って言っても、別に日常生活に支障があるほどじゃなかったけど。だからかな、私自身その子がそういう状況にあるって意識すること、ほとんどなかった。もちろん、一年生の女の子の場合は意識しないってわけにもいかないだろうけどね。――喋れないんでしょ? その子」
 水井が頷いたのを確認して、風野は言葉を続けた。
「でも、私の幼なじみはは自分が障害者だってこと、気にしてなかった。その子の障害は生まれつきのものだから、だから周りにかわいそうって言われても、ピンと来ないって言ってた。私は、生まれたときからずっとこうだったから、今の状況が、自分にとって普通だからって」
「玲も、そう思ってるのかな……?」
「それは分からないけどね。でも、そんなに気を遣う必要はないんじゃないかな。でもさ、優しいんだね、水井君って」
「そうかなあ……。俺の周りじゃ、これが普通だけど」
「じゃ、水井君の周り、みんな優しいんだよ」
「まあ、俺の知り合いはいい人ばっかだけど……」
 水井は言葉を切って、小さく溜息をついた。
「俺が『優しい人』になる世の中って、悲しいと思わない? 俺とか風野さんの考え方は、人として当然のものだと思うんだけど……」
「……そうだね。でも、それが現実なんだよね……」
 水井は答えなかった。その言葉を肯定してしまうことは――たとえそれが、否定しきれない事実の一つだと分かっていても――、あまりにも悲愁に満ちていたからだ。
――雪谷玲、か……。
 たった一つの名前。それによって、午後の授業は結局全くの空白の時間となってしまった。


「……で」
 たった一文字を言ったあと、雨崎は腕時計に目を落とした。そして、きっちり六十秒を無言で経過させたあと。
「祐也が来るって、どういうこと!?」
「どういうことも何も言った通りだけど……。納得……してないね……」
「当たり前でしょ! どうして部活のときまで、この馬鹿と一緒にいなきゃいけないの!」
 雨崎の激しい剣幕に、水井はただ苦笑を浮かべるしかなかった。彼には肯定も否定もできない理由があったからだ。
「祐也もひどく言われたな……。しかも、目の前で」
「あの……、俺、そろそろ会話に参加してもよろしいでしょうか?」
 と、森原は挙手をした。
「……ノーコメント。しかし祐也、お前また真琴に何かした?」
 普段、この二人はそんなに仲が悪いわけではない。それどころか、本来の森原に対する雨崎の態度は、水井に対してのそれと同様のはずなのだ。それが今のようになってしまうときには、大抵森原に理由があった。
「え? いや、別に……」
 雨崎の拳が森原の頬に深くめり込んでいた。
「……質問、変える。何か、言った?」
「あ、そういえばこの間、『その凶暴な性格を直して、ちょっとは女らしくなれ』って……」
 水井は溜息混じりに、ある意味かなり無責任な台詞を吐いた。
「……真琴。そいつ、もう一発殴っていいよ。俺が許可する」
 水井が言い終わるころには、森原が自分の顔面に幼なじみのパンチを受けた状態で硬直していた。
「言っとくが、それは祐也、お前が全面的に悪いって」
「な、何でだよ」
 問い返す森原の頬には、はっきりと殴られた跡がついていた。
「基本的に真琴はな、優しい奴だよ。事実、俺が真琴に殴られたことなんて一度もない」
「そりゃお前が真琴の本性を知らないから……」
 森原は途中で言葉を切った。雨崎が、瞳以外は満面の笑顔で立っていたからだ。
「で、続きは?」
「……前言撤回、します」
「それにしても玲、遅いな」
 二人がコントをやっている横で、水井が独り言のように呟いた。
「今日、来ないのかな」
「そ、そりゃ困る。来てくれないと、俺が死ぬ……」
 森原は慌てて口を噤んだが、遅かった。雨崎の瞳が怪しく光る。
「じゃ俺、外に出てるから、終わったら呼んで」
「はーい」
 雨崎の明るい返事を聞きながら、水井は部室の外へと脱出した。廊下で後ろ手にドアを閉める直前に、森原の悲鳴が聞こえたような気がしたが、それはたぶん空耳だろう。
「我関せず、っと」
 そんな台詞を呟きながら他の部の喧騒に耳を傾ける。活気のある声、音、空気。
「うちの部もこうなったらいいんだけどな……。はあ……って!?」
 水井は右腕を急に誰かに引っ張られたことで、バランスを崩しその力の方に転びそうになる。だが、彼は寸前で体勢を持ち直し、代わりにもう一人の人物の方が派手に転んでしまった。
「だ、大丈夫!?」
 水井は転んだ人物の方へ視線を向ける。少年は、それが誰なのかを確認すると黙り込んだ。
「……」
 玲だった。今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめている。
「立てる?」
 差し伸べられた水井の手を、玲はしっかりと握る。小柄な少女の手は目で見ている印象よりもさらに小さかったが、柔らかく暖かかった。
「怪我は?」
 水井の心配そうな顔つきに、玲は自分の制服を軽く払ってから、いつも以上の笑顔で応じた。
「ならよかった」
 安堵の表情を浮かべる水井に、玲はもう一度笑みを見せた。
「でもな、玲。今度から袖を引っ張るときは、気をつけた方がいいよ。今日みたいに転びそうになるかも知れないし」
 うん。
 頷いてすぐ、玲は袖を引っ張った。水井は苦笑いを見せながら口を開く。
「すぐやることないって」
 だが、玲はそれでも水井の制服をつかんでいた。どうやら本当に、何か用があるらしい。
「どうしたの?」
 玲は部室の扉を指さしていた。どうして入らないの、ということだろう。
「ああ、今ちょっと中で、事務的処理をやってるから」
 玲が当然、不思議そうな表情を浮かべる。水井は曖昧な微笑みで彼女に返した。
「まあとにかく、今は入れないから。ちょっと待ってて」
 要領を得ない顔で、玲はそれでもとりあえず頷いた。
「あ、そうだ。今日、玲のピアノを聴きたいって奴が来てるんだ。ほら、俺と真琴のもう一人の幼なじみ。……まあ、ろくでもない男だけど」
 と、水井が溜息をつくと同時に、音楽部の重く、厚い扉がゆっくりと開いた。玲の姿を見つけた雨崎が、微笑みながら声をかける。
「あ、玲ちゃん。こんにちは」
『こんにちは』
「で、終わった?」
「うん」
「あいつ、生きてる?」
「一応」
「一応……ね」
 部室の中央には、少年が一人、机に突っ伏していた。生存確認のため、水井は彼の名を呼んでみる。
「祐也」
 少年は顔を上げる。だが、目の焦点がどこか合っていない。
「……いい加減にした方がいいと思う」
 しかし、それもいつもの森原なりの冗談なのである。彼の視線が、すぐにしっかりと幼なじみの顔を捉える。
「何だか、遠い場所に行ってたよ、俺」
「はいはい、分かったから自己紹介」
 森原の言葉を適度に無視して、水井はさっさと話を先に進める。ふと玲の方に視線を向けると、彼女はまだ戸惑っているようだった。
「大丈夫だよ。別に玲のこと食料として見てるわけじゃないから。一応、こいつ人間だし」
「俺はどこから見ても人間だって……」
「まあ、猿に限りなく近いけどね」
 と、身も蓋もない台詞をのたまったのは雨崎。幼なじみだからできる所業である。
「お前ら、人を何だと思ってるんだ」
「今言った通り。ほら、それはいいから自己紹介」
「……俺は森原祐也。何かさんざん言われてるけど、ごく普通の男だから」
「普通?」
「普通……か?」
「いちいちそこで引っかかるな!」
「だって、ねえ?」
「まあね」
 お互いに肩をすくめている二人に聞こえるように、森原は深く息をついた。
「……俺の自己紹介、この辺で終わり。続けると、何を言われるか分かったもんじゃない……」
 えっと、という顔で玲はスケッチブックを広げて、自分の名前を大きく書いた。それを見せたあと、玲は自分の言葉の一つを森原に手渡す。
「……えっと」
「祐也の名前、書くんだよ。ほら、字が分からないと全部ひらがなで書くことになっちゃうだろ、その子の場合。それじゃ格好つかないから」
「ああ、なるほどね」
 森原は納得すると、少女のスケッチブックに自分の名前を書き込んだ。玲がそれを見て、嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「何か、想像してたのと違うな」
「何が?」
「いや、もっとこう……物静かで、暗い人かと思ってたんだけど……」
「祐也……。それは偏見だって……」
 呆れて溜息も出ない水井。それを見たせいなのか、あるいは自分の浅はかさを悟ったのか、森原の瞳に申し訳なさそうな色が浮かぶ。
「自分でも情けないと思う……」
「まあ、それはいいからさ、お二人さん」
 男性陣の肩を軽く叩きながら、雨崎は二人の視線を別方向に促す。彼女の示した場所では、玲がすでにピアノに向かって座っていた。
「いいよ、玲ちゃん」
 数秒の静寂。そして始まる、少女の言葉。
『何かを伝えることができるから』
 玲と初めて出会った日、彼女はそう言った。そして、その顔は無邪気だった。
 水井は少女のことを、心の底から強いと思った。そして、うらやましかった。彼女が声や文字以外でも言葉になると気付いたこと、そしてそれを実践していることがである。
 言う間でもなく、そこに至るまでは多くの苦痛があっただろう。差別、蔑み、疎外、嘲笑……。
 けれど、玲は言った。
『音楽が好きだから』
 たった一言の台詞と、子供のような屈託のない笑顔。偽らざる心が根底にあるからこそ見せられる、その顔。
 逃げ場所として、居場所として選択したのでなく、単純に好きだから――だから音楽が、玲のそばにある。ただ、それだけのことなのだ。
――俺とは、違う……。
「……なあ、和樹」
 溜息混じりに、森原が口を開く。物思いに沈んでいた水井はその声で我に返り、そして玲の演奏が終わっていることに気付いた。
「その……さ。どう言えばいいんだろうな。音楽で、感動した場合……」
「それだけで充分に分かるよ」
 頭を下げる玲に社交辞令ではない拍手を送りながら、水井は半ば放心している幼なじみに微笑みかけた。
 演奏者である少女も、照れくさそうに笑っていた。