雪のカイロ−2



「さて、と」
 水井が向かった先は、無論部室である。別に活動自体が休止状態なので、部活に出なくても誰かに咎められることはないのだが、彼は楽器を演奏すること自体が好きなのでよく顔を出していた。
「真琴、来てるかな……」
 防音のための厚い扉を開け、中に入る。元々は音楽室として授業でも使われていた部屋なのだが、数年前、校舎を改築したときに新しい音楽室を作ったので無用の長物となり、音楽部専用の部屋として引き継がれたのだ。
「あ、ようやく来た」
 雨崎はすでに椅子に座り、窓の外を何気なしに眺めていた。
「ようやくって……真琴が早すぎるんだよ。それにお前、今週掃除当番じゃなかったっけ?」
「えっと……それは、その……」
 ばつの悪そうな真琴の表情は、下手な言葉よりよっぽど分かりやすく答えを呈していた。溜息混じりに、半ば無駄なことと知りつつも彼女をたしなめる。
「掃除さぼるな」
「はい」
 雨崎は素直に頷くと、特に悪びれた様子もなく言った。
「それよりさ、リクエストしていい?」
「何?」
「『別れの曲』、弾いて」
「真琴さ、本当に好きだよな、あの曲」
「だっていい曲だもん」
「まあ、分かるけど」
 実のところ、それは水井も気に入っている曲だった。雨崎にリクエストされるという形で週に一度は弾いているが、恐らくそれがなくても同じようなペースで弾いていただろう。
 水井はピアノの前に座ると、大きく息を吸ってから演奏を始めた。少年の指先によって、その空間に音楽が満たされていく。それは雨崎にとって、心地のいい場所の一つだった。
「ふう……」
 演奏を終えた水井は、一つ息をついて立ち上がり、背伸びをした。幼なじみが拍手で、彼の音に讃辞を送る。
「ありがとう。それよりも――」
 水井の視線は雨崎の方を向いてはいたが、それが見ているのは彼女のいる場所よりもさらに奥だった。
「君、誰?」
 雨崎は一瞬呆気に取られ、すぐに水井の見ている場所に気付いて後ろを振り向いた。その表情が驚きに変わる。
 いつの間にか、二人しかいない部室の中にもう一人、小柄な少女が増えていた。
「だ、誰……?」
 二人の視線に、むしろ少女の方が戸惑いの表情を浮かべる。放っておけば、そう長く経たないうちに泣き出してしまいそうな顔だった。
「えっと……制服を着てるってことは、少なくともうちの学校の生徒……だよね」
 少女は小さく頷く。そのとき水井は、少女がスケッチブックを胸に抱いていることに気付いた。
「美術部だったら、ここじゃないけど」
 首を横に振る少女。
「ここで間違いない?」
 確認を取るように念を押す水井の言葉を、少女は笑顔で肯定した。
「じゃあ……入部希望?」
 うん。
「一年生?」
 うん。
「えっと……名前は?」
 少女は答えずに、スケッチブックを開くとそこにペンを走らせ、それを二人に示した。
『雪谷玲』
 そして、水井が「どうして?」と聞くより早く、玲は次の言葉を記した。
『話せないの』
「話せ……ない?」
 うん、と彼女は言葉を続ける。
『だから、このスケッチブックが言葉』
 噂で聞いたことがある。一年生に、声を失った少女がいると。
「それじゃ、その……」
 水井の言わんとしていることを理解して、玲は頷いた。
 彼女の瞳は笑っていた。その笑顔を見ていると、自分が沈痛な表情をしていることが大きな間違いのように思えてくる。
「じゃあまず、自己紹介。俺は水井和樹。で、こっちが雨崎真琴。二人とも二年生」
 だから、水井は笑った。
「よろしくね」
 雨崎もまた、迷いなく微笑んでいた。それは彼女が、水井と同じ結論に辿り着いたことを証明していた。
「それじゃ、どう呼べばいいのかな。雪谷さん?」
『玲でいいよ』
「じゃ、俺は和樹でいいや」
「私も真琴でいいよ」
 うん。
『字、どう書くの?』
 二人はスケッチブックに自分の名前を書き込んだ。
「これで自己紹介も終わり。で、活動なんだけど……見ての通りの状態だからなあ……」
 と、溜息混じりに水井は三人以外誰もいない部屋を見渡した。
『部員、いないの?』
「いや、いるにはいるんだけどみんな幽霊部員でさ……。今は真琴と俺がここに来て、好き勝手に楽器を演奏してるだけ。どうして予算が出るんだか、自分でも不思議だよ」
「こんなところでいいの?」
 うんっ。
 雨崎の不安そうな言葉に、玲は屈託なく頷いた。
「でも、どうして音楽なの?」
 雨崎の問いに、少女は答えた。
 音楽は、声がいらないから。話せなくても、言葉になるから。今はまだ無理だけど、みんなに何かを伝えることができるから。
 何より、音楽が好きだから。
 最後に「歌は歌えないけど」と付け加えて、玲はここにいる理由を締め括った。
 言葉が出なかった。玲の強さを目の当たりにした二人は、自分の知っている単語では何も返せなかった。
『どうしたの?』
 玲にそう尋ねられた水井は、我に返って答えた。
「何でもないよ。それよりも、弾ける楽器はある?」
 玲はピアノを指さし、そして言った。
『あんまり上手くないけど』
「それでもいいよ。せっかくだから、何か聞かせてくれる?」
 玲は頷き、ピアノの前に座った。


 演奏を終えた少女は、二人の観客に向かって深々と頭を下げた。
「……はあ」
 溜息をつく雨崎。それは、失望の意味ではない。水井に至っては、息すら出ない。
 玲のピアノは、本当に言葉だった。彼女の台詞に反して、それは充分に聴く人間の心を動かしていた。
「何かさ、言葉が……ないね」
「……ああ。自分の下手さ、思い知らされた」
 そう言って肩を落とす水井に対して、玲は首を横に振った。
『ううん。和樹さんのピアノ、すごく上手かったよ』
「そんなことないと思うけど」
 玲は小さな頭を精一杯横に振った。子供っぽいその動作は、彼女にとっては心からの否定だった。
「分かった。分かったからさ、頭振るのやめた方がいいと思うよ」
 しかし、すでに遅かった。あまりにもかぶりを振りすぎた玲は、フラフラで今にも倒れそうだった。
「大丈夫?」
 う、うん。
 今度は必死になって縦に首を振る玲に、二人はただ苦笑するしかなかった。
「――あのさ、玲」
 少女が落ち着いたのを見計らって、水井はずっと感じていた疑問を口にした。
「さっきの曲、誰の? 一度も聴いたことないんだけど……」
 玲は自分を指さし、そしてはにかんだ笑みを見せた。
「玲ちゃん……の?」
 うん。
「作ったってこと? 自分で?」
 うん。
「……」
「……」
 天才。
 二人の頭に浮かんできたのは、そんなあまりにも陳腐な単語だった。けれど、目の前で不思議そうに小首をかしげているのは、紛れもなく一人の少女なのである。彼女をそう呼ぶのは、あまりにもふさわしくないような気がする。
『どうしたの?』
「いや、何でもないよ。それよりさっきの曲、いつ作ったの?」
『一年くらい前』
「他にも自分で作った曲ってある?」
 うん。
『あんまりたくさんはないけど』
 顔を見合わせる二人の上級生の様子に、玲はキョトンとした表情を見せる。「どうしたの?」とその顔が言っていた。
「俺、自分のピアノが嫌になった……」
「気持ちは分かるけど――」
 雨崎が視線で促した先には、また懸命に首を振っている玲の姿があった。
「あんまり自分を卑下しない方がいいんじゃない? 玲ちゃん、そのたびに脳震盪起こすことになるよ」
「そうだね」
 水井は苦笑混じりに、玲の頭に手を置いた。
「俺のピアノ、好き?」
 うんっ。
 元気よく頷いてから、少女はスケッチブックに何かを書き込んだ。
『真琴さんは、何か弾けるの?』
「え? わ、私?」
 急に話の矛先を向けられた雨崎は、戸惑い顔で自分の胸に手を当てた。
「真琴はね、ギターが弾けるよ」
「ちょっ、ちょっと和樹……」
「あれ? 違ったっけ?」
「当たってるけど、あんなの他人に聴かせられるレベルじゃないで……」
 慌てる雨崎の言葉をさえぎるように、水井は白々しい態度で言った。
「ギターが真琴の一番好きな楽器じゃなかったっけ、確か」
「そうだけど、それが何か……」
「玲が聴きたがってるのはさ、上手い演奏とかじゃなくて楽しい音だと思うんだ。そうだよね?」
 自分に向けられた視線に、玲は大きく頷いた。
「だったら、真琴が演奏してて一番楽しいものをやるべきなんじゃないの?」
 雨崎にはもはや断れなかった。水井の言葉が正論であるのに加え、玲があまりにも無邪気な瞳で自分を見つめていたからだ。
「ギター、取って」
「ほら」
 雨崎は自分の最も好きな楽器を受け取ると、笑顔を浮かべた。
「リクエスト、ある?」
「えっとね――」
「和樹じゃなくて、玲ちゃん」
『真琴さんの一番好きな曲でいいよ』
「じゃあ、スタンド・バイ・ミー」
「古いって……」
『知ってるよ』
「……本当に?」
 うん。
「じゃあ、いいよね」
 その言葉を皮切りに、演奏が始まった。アコースティック・ギターだけで演奏できるようにアレンジされたその曲と、雨崎の歌声が部屋の中に満たされていく。
――上手いよ、真琴のギターは。
 水井は素直にそう感じていた。もっとも、それを言葉にしたところで幼なじみは否定するのだが。
 やがて、演奏が終わる。たった二人の小さな、けれど惜しみない拍手。
「何か、恥ずかしいなあ……」
「よかったよ」
 うん。
 水井の言葉に呼応するように、玲が頷いた。
「あ、ありがとう……」
 と、うつむいてしまう雨崎。不思議そうな表情で、玲は水井の顔を見上げた。
「ああ、真琴はほめられることに慣れてなくてさ、すぐに赤くなるんだ」
『和樹さん、真琴さんのことよく知ってるの?』
「幼なじみだからね」
 玲は二人の顔を交互に何度も見てから、おもむろに言った。
『恋人同士?』
「違うよ」
 即答したのは雨崎だった。
「よく言われるんだけどね。お互い、そんな気持ちは全然ないから」
「右に同じ。まあ、一部には誤解してる連中もいるらしいんだけど」
「やっぱり、お弁当作ってきてるせいかな?」
「それもあるだろうし、何だかんだ言っても一緒にいる時間が長いからね、俺と真琴。もっとも祐也――もう一人の幼なじみなんだ――に言わせると、『自分が女に縁がないから、妬んでるだけだろ』ってことらしいけど……」
「祐也らしい身も蓋もない言い方ね……」
 二人同時に溜息をつく。一方の森原はそのとき、大きなくしゃみをしていた。
「で、今日はこれからどうするの? もう終わり?」
「そうだなあ……」
 水井が考え込んでいると、その袖を玲が引っ張ってきた。
『ピアノ、教えて』
「俺が?」
 うん。
「玲は俺より上手だと思うよ。それに、さすがに他人に教えられるほどの腕はないから」
『でも、教えて欲しい曲があるから』
「何の曲?」
 玲が挙げたのは、比較的有名なタイトルだった。
「弾けるよ。それじゃね、えっと……」


「覚えるのが早いなあ……」
 玲の飲み込みのよさに、水井は感心したような声を上げた。
「それじゃ、今日はこのくらいにしとこうか。もう、すっかり暗くなっちゃったし」
 窓の外は、完全に日が落ち暗闇に包まれていた。
「暗くなるの、早くなったね。ねえ玲ちゃん、一つ聞いてもいい?」
 うん。
「どうして、今ごろ入部してきたの?」
 えっと、という声が聞こえてきそうな顔をしてから、玲はスケッチブックにその理由を書き込んだ。
『帰りが遅くなるから、反対されてたの』
「やっぱり」
「やっぱりって、気付いてたの?」
「簡単に想像つくだろ、そのくらい」
「まあ、そうかも知れないけど……」
 そう言うと、水井はもう一度外に目を向ける。雨が降り出していた。
「それで、どうするの? 玲ちゃんのこと」
「俺が送っていくよ。真琴はどうする?」
「私も一緒に行く。玲ちゃんの家、知っておいた方がいいと思うから」
「これから、こういうこと何度もあるだろうからね。じゃ、行こう」
 人の気配のなくなった校内。雨の音と、水井たちの小さな足音が交錯して、まるでそこが非日常であるかのような空気を生み出していた。
「そういえば、七不思議があったよね」
「おい」
「雨の降る日、人気のなくなった校内で誰かに見られてる気配がして――」
「こら、待て」
「振り向くと、そこには――」
「こらーっ!」
 水井に叩かれたことで、ようやく雨崎の話が止まる。恨めしい顔をする少女に、幼なじみは溜息をついた。
「やめろっての……。一体どういうつもりだよ」
「どういうつもりって、思い出したから言っただけでしょ!? それでどうして叩かれなきゃいけないの!?」
「……これ見ても?」
 水井の視線の先には、玲がいた。今にも泣き出しそうに、瞳に涙をためている。
「あ……」
「想像つくと思うけどな。この子が怪談とか嫌いだってことくらい……」
「ご、ごめんね」
『気にしてないよ』
「優しいね、玲ちゃん」
 そう言われた玲は、恥ずかしそうに視線を足元に落とした。そんな少女のことを、雨崎は微笑ましく思った。
「ほら真琴」
 先に下駄箱に着いた水井は、雨崎の靴を取り出し渡した。
「あ、ありがと」
 水井は靴をはく雨崎を横目に見ながら、黒い傘を広げた。
「雨、どう?」
「そんなに強くない」
 答える水井の横で、赤い傘が開く。程なくして、玲が二人のところに小走りに駆け寄ってきた。
「かわいいね、その傘」
 玲の傘を見た雨崎が微笑みながら言った。持ち主は嬉しそうに二人のものより少し小さい、薄いピンクの折りたたみ傘を開く。
「じゃ、行こう」
「行こうって……玲の家、どこにあるか分かってる?」
 後ろからの水井の声に、すでに歩き出していた雨崎の足が止まった。少しの時間のあと、ゆっくりと振り返った彼女の顔には苦笑いが浮かんでいた。
「玲ちゃん、とりあえずどっち?」
 玲が指したのは、二人の家とは別の方向だった。
 とりとめのない話をしながら、玲の家へと向かう三人。道が分かれているところに差し掛かるたび、玲が自宅への道を指さし、残りの二人がそれに従う。その繰り返しで、何気ない時間は積み重なっていった。
「――ん?」
 制服の袖を引っ張られ、水井はそこで足を止めた。見ると少し残念そうな顔で、玲が一軒の家を指さしている。
「ここ?」
 うん。
 玲がさらに水井の制服を引っ張り、二人を玄関先まで連れていく。灯りのともった玄関先に立つと、小さな傘をたたみ自分の鞄からスケッチブックを取り出した。
「どうしたの?」
「何か言いたいことがあるみたいなんだけど……」
 少し戸惑う二人に示されたスケッチブックには、目一杯の大きさの字で一言だけ書いてあった。
『楽しかったよ』
 そしてそのすぐあとに、深々とおじぎ。ありがとう――玲の笑顔は、そう言っていた。声がなくても、その気持ちは話せる人間以上に二人には伝わった。
「こっちも、楽しかったよ」
 そして、それに応じる二人も、当然笑みに満たされていた。それは何年ぶりかの、心からの素直な表情だった。
 家に入る玲を見送ったあと、水井は不意に空を見上げた。雨がやんでいた。
「――不思議な子だね」
 傘を閉じながら、雨崎が呟くように言った。
「見てて飽きない人ではあるね。それと、元気にさせられる」
「でも――」
 雨崎は一旦言葉を切り、苦笑を浮かべた。
「同時に、自分が情けなくなるけどね」
「それは言うなって……」
「だけど、できれば玲ちゃんみたいになりたいよね」
「それは、無理だと思うよ」
「どうして? 私たちは、話せ……」
 雨崎は慌てて口を噤み、自責するようにうつむいた。
「こんなこと、言っちゃいけないよね……」
「いや、真琴に悪気はないって分かってるから。――それは、関係ないと思う。あの子が……たとえ今みたいな状況になかったとしても、やっぱり今と同じになったんじゃないかな。根拠はないけど、そんな気がする」
 そこにあるのが、人としての「強さ」かどうかなのかは分からない。ただ一つだけ言えるのは、玲の表情や言動には、偽りのものは一つもないということだった。
「あの子は、俺たちと違って純粋だから。俺や真琴が玲みたいになるのは無理なんじゃないかな。別に真琴が純粋じゃないって言ってるわけじゃないけど、やっぱりあの子とはどっか違うんじゃない?」
「相当違うよ」
「まあ、『相当』かどうかは分からないけど……。でも真琴は、あの子の『先輩』なわけだから、やっぱりあの子になろうとするのは違うと思うよ」
「そうだね」
 もう一度、水井が夜空を見上げる。少しずつ動く雲を見つめながら、少年は呟いた。
「――月」
「え? 出てないよ、どこにも」
「そうじゃなくてさ、玲のイメージ。何か、『月』って感じがするんだ」
「そうかなあ。どっちかって言うと『太陽』って気がするんだけど」
「まあ、言動とかあの元気のよさとかはそうなんだけどさ。でも、太陽みたいに激しく自己主張してるってイメージじゃないから。だから、月」
 でも、と水井は口の中で言ってみる。
 月は太陽に照らされ、光る。しかし、玲は自分自身で光を発していた。「輝く」というほど明るくはなかったが、一度それを目にすれば決して忘れない、そんな不思議な光だった。
「――何かさ」
「ん?」
「明日からの部活、楽しみになってきたね」
 その夜、雲が流されたあとに見えた月は、いつもと変わらず穏やかに微笑んでいた。