プロローグ 始まりは、どこにでもある。ただ、それを見逃すことが多いだけ。 それは降り積もる雪のように儚いもの。それが、悲劇をもたらすこともある。 だが、始まらなければ壊れない。原因がなければ結果は生まれない。終わりがあるからこそ、永遠が存在しないからこそ、始まりはそれと判別できる。 「あなたが好きです」 初めて言われたのはいつだったろうか。最初に口にしたのはどのくらい前のことか。あるいは、まだ言いも言われもしていないだろうか。 「さよなら」 別離は出会いの裏返し。誰かに出会うからこそ別れられる。どんな形であれ、それは必ず訪れる瞬間。 原因があるから、結果がある。結果が出るからこそ、次に進める。人は中途半端でいられない。 「メビウスの輪」 ねじれたリングは、永遠の象徴。そこには何も存在できない。時間でさえも。 「ここ、どこ……?」 迷子になる子供。その子たちにとっての始まりは、たわいのない興味。終わりは、親心。 「それでもやっぱり、君のそばにいたいよ……」 愛情。時間とともに薄れていく感情の一つ。それの永遠を願う人は多い。本当に永遠になれば、何の価値もなくなってしまうことも知らずに。 喜び、怒り、哀れみ、楽しむ。恒久的に続かないからこそ、全ての感情は識別ができる。 「ラブレター」 伝えられなかった心。 「初恋」 実らなかった胸の痛み。 「告白」 若かった季節の、未熟だった自分の思い出と言ってしまえばそれまでだろう。だが、過去と未来は全て、今の積み重ね。そして、現実は今にしか存在しない。 そして、始まりと終わりは現実の中にしかいない。 「誰かを好きになるのが怖かった」 傷つけ、傷つけられる。それが他人と関わるということ。 「だから、始められなかった」 でも、それは雪の冷たさを恐れるようなもの。 「終わりを迎えたくなかった」 永遠を夢見た時代。 「でも――好きな人ができた」 全てには、始まりと終わりがある。 「本当に大切なこと」 それは、二つの間にあるちっぽけなこと。 「だから――」 誰かを、好きになる。 第一章 少女の言葉 「じゃあ、転校生を紹介するぞ」 担任の教師が言った台詞は、少なからず教室を沸き立たせた。だが、その喧騒の中でたった一人、窓の外を何の目的もなく見つめる人物がいた。 水井和樹。それが彼の名前だった。 「風野里美です。よろしくお願いします」 クラスの、特に男子連中が一斉に色めき立つ。どうせこのあとは、恒例の質問大会でも始まるのだろう。 「じゃあ風野の席だが――水井の隣が空いてるな。じゃ、そこに机持ってきといてくれ」 担任が教室を立ち去ったあと、水井は息をつきながら立ち上がると、無言で廊下へと向かった。彼はそこにある机と椅子を一度に持ち上げ、窓側から二列目の一番後ろ――自分の席の隣にそれを置いた。 「あ、持ってきてくれたんだ。ありがとう」 傍らから聞こえた声は、転校生のものだった。見ると、男子が騒ぐのも無理はないだろう、かなりかわいい顔立ちをしている。 水井は適当に相槌を打つと、風野の周りに集まってくるクラスメートを避けるように廊下へと出た。 「はあ……」 つまらなそうに溜息をつき、窓の外を何の意識もなしに眺める。と、背中を叩かれる音とともに視界が小さく揺らいだ。 「よう」 振り向いた視線の先にいたのは、幼なじみの森原祐也だった。水井は彼の表情から言わんとしていることを察知して、問われるより先に答えを返す。 「転校生の名前は、風野里美。お近づきになりたいんなら、今は無理じゃないかな。ほら、あの人だかりだから」 と、水井が指さす場所には、彼以外の全ての男子が集中していた。 「まあ、容姿の方はあの人の集まり方から想像できるだろ? ちなみに、何の因果か席は俺の隣。だから、多少の根回しはできるけど」 「……和樹。俺、まだ何も言ってないだろ」 「じゃあ、違う? 祐也が聞きたいこと」 「いや、寸分も違ってないけど」 「だろ?」 こういうことも、幼稚園のころからの腐れ縁だからこそできる所業である。表情を見れば、相手が言いたいことの大抵は分かってしまうのだ。 「まあ、例によって俺は興味ないから。頑張れ、お前に期待してるんだからさ」 「……和樹さ、まだ自分のことそんな風に思ってんの? お前を好きになってくれる人は、きっといるって」 と、溜息混じりの森原。水井は彼の肩に手を置いて、本心からその言葉を口にした。 「サンキュ。でも、自分のことは自分が一番よく知ってるから」 「お前なあ……」 森原が口を開きかけたとき、一時間目の開始時間を知らせるチャイムが鳴り出した。水井が幼なじみの手にある教科書を指さしながら尋ねる。 「ほら、お前一時間目は教室移動じゃないの? 急がないと遅れるぞ」 「そ、そうだった! じゃ、またあとでな!」 慌てて廊下を走り出す森原の後ろ姿に、水井は苦笑を浮かべながら呟いた。 「全く、あいつの抜けてる性格もどうにかならんかね」 自分も席に戻り、机から教科書を取り出す。そこでふと、隣の転校生が目に入った。彼女は何故か、慌てた顔をしている。 「どうかした?」 水井が話しかけると、動揺を含んだ視線を彼に向けてくる。 「何か、忘れ物でもした?」 風野は頷いた。 「ペンケース、家に忘れたみたいなの」 水井はシャープペンの一本と余分に持ってきていた消しゴムをつかむと、それを風野に向かって差し出した。 「え?」 「貸すよ」 素っ気なく言う水井とは対照的に、風野はその申し出に心の底から安堵の表情を見せた。 「ありがとう」 風野が水井の手から筆記具を受け取ると同時に、教科担当の教師が教室に入ってきて、騒然とした教室を静めた。 「……」 退屈な授業。しかし、今日は違っていた。原因は分かっている。 風野里美。 十月という秋の季節に現れた、転校生。 クラスの興味は――特に男子連中の――そこに集まっていた。 ――早く授業を終わらせてくれ。 そんな声なき言葉が、教室の中を支配しているようだった。 「……」 そんな空気が大半を支配している場所にあって、それでも水井は普段と変わらず黙々と黒板を写していた。 彼にとっては何も変わっていないのだ。誰かが転校してこようが、たとえその人物の席が自分の隣になろうが、それが女性である限りは。 やがていつも通りにチャイムが鳴り、当番が号令をかけ授業が終わる。水井は人の流れに逆らうように廊下へと出、溜息をついた。 それが、毎時間繰り返された。そして、昼休み。 水井はクラスの連中が集まってくる前に鞄から昼食のパンを取り出すと、やはり教室を抜け出した。ただ、今回はそこには留まらず、屋上へと足を向けた。 階段を上り、屋上へと続く鉄製のドアの前に立った。ノブに手をかけ、そのままそれを押し開ける。外から吹き込んでくる空気はちょうど心地よかった。 何気なく、水井は空を見上げる。晴れ上がった秋の空は少し寂しげで、けれど他の季節にはない情趣があった。 彼はいつものように、フェンスにもたれかかるように腰を下ろす。そして、パンの袋を開けようとしたとき――。 「いた!」 鉄の扉が乱暴に開けられ、彼の幼なじみが姿を現した。 「十月なのに何で屋上なんかにいるの?」 少女の目は呆れていた。彼女の問いに、水井はあっさりと答えを返す。 「好きだからね、ここ。それに今日、意外と暖かいし」 「あ、本当だ」 学校で一番高い場所を吹き抜ける風を感じた少女――雨崎真琴は、心地よさそうな顔を見せた。 「それより今日のお昼ご飯、例によってそれだけ?」 「見ての通り」 「だと思った。はい、これ」 雨崎の手には、見慣れたランチボックスがあった。水井は照れた様子を特に見せることもなく、それを受け取る。 「毎度毎度、ありがと」 「いいの、別に。一人分も二人分も大して変わらないから」 先に断っておくと、二人は恋人同士ではないし、またお互いの心の中にも恋愛感情は一切ない。雨崎が水井の昼食を作ってくるのは、パンが多い彼のことを純粋に心配しているからなのだ。雨崎にとって水井は、家族のような存在なのである。 「あの、それよりも――」 隣に座り込んでランチボックスを開けている雨崎の言葉を、水井が引き継ぐように言った。 「転校生のこと?」 「うん。どんな人?」 「風野里美、女性。見た目がかわいいから、休み時間ごとに男子が集まってきてさ、こっちはいい迷惑だよ。席、隣だから」 「へえ。で、和樹はいつも通り興味なし、と」 「ま、そういうこと。もっとも相方は、大いに関心があるみたいだけど」 相方とは森原のことである。子供のころからずっと一緒なので、友達と呼ぶよりこちらの方が自然なのだ。 「全く、あの男は……」 と、深く溜息をつく雨崎。水井も肩をすくめている。 「いつものことだよ。第一祐也って、あれで特定の恋人ができたことは一度もないんだから」 「あの性格じゃ、無理もないよ」 「それを言ったら身も蓋もないって」 「まあ、そうなんだけど」 不意に、雨崎が空を見上げる。見慣れた街の、見慣れた秋空。 「空、高くなったね」 「そして、真琴は肥える、と」 「私は馬か」 「冗談だよ、冗談」 また、雨崎が深く溜息をついた。 「でも、和樹さ」 「ん?」 「私と一緒にお弁当食べてて、いいの?」 「どういうこと?」 「気にする人、いるんじゃない?」 水井は答えずに、右手に持った箸で雨崎の顔を指すと、 「その言葉、そっくりそのまま真琴に返すよ」 と、言った。 「だって、お前は俺の隣で食べてるだけじゃなくて、わざわざ作ってきてるんだから。誤解されるんなら、俺より先に真琴じゃない?」 「私と和樹はそんな関係じゃないでしょ」 「それは俺の方にも言えること。大体お前、ファンは多いんだからさ」 「興味ない」 「じゃ、人のこと言えないね」 「それはそうなんだけど」 昼食を全て食べ終えた雨崎は箸を置き、そばのビニール袋から缶の緑茶を取り出すとその一本を水井に勧めた。 「サンキュ」 彼はホットの緑茶を一口すすり、息を吐く。目の前の空気が薄白く染まった。 「屋上で食べられるのも、あと少しだな」 「もうそろそろ、寒くなるもんね」 「ああ。――なあ、真琴」 「何?」 「お前、好きな男とかいないの?」 「何を唐突に」 「だってお前、もったいないと思うよ。恋人でも何でもない奴に弁当作ってきたり、わざわざ飲み物買ってくる甲斐性があるんだから。男からすれば、理想の女性だと思うけど」 雨崎はお茶を飲み干すと、立ち上がってフェンスの外に視線を向けた。彼らが長年住み、いくつもの思い出を作ってきた街並み。たくさんの笑い顔、たくさんの涙。一つ一つが、かけがえのないものだった。 「冗談。私が? 理想の女性?」 「いや、ちょっと大げさに言ってはいるけど」 「でしょ?」 「でも、悪くはないよ。ファンがたくさんいるってことからも、証明されてると思うけどな」 「そうかなあ……」 「そうだって」 雨崎は振り向いて、念を押す水井に向かって悪戯っぽく微笑んだ。一陣の秋風が、彼女の髪に浮力を与える。それを抑えながら、少女は言った。 「じゃあさ、私たち付き合わない? 気が合うよ、きっと」 「あのなあ……」 呆れ果てた表情で、水井が返す。 「今さらそういう関係に発展する間柄じゃないって、俺たちは。第一、恋愛に興味ない人間が付き合い出して、それを恋愛って言う?」 「たぶん言わない」 「じゃ、そういうこと。大体、俺がお前の冗談を見抜けないとでも思う?」 「全然」 「だろ? それに、俺がもし真剣に承諾したら、どうするつもりだったわけ?」 「あ、それ、困るね」 水井は疲れたようにうなだれると、 「考えてなかったのか……」 と、呟くように言った。 「だって、絶対嘘だって分かってると思ったから」 「まあ、分かってたけど」 「だったら問題なし。それよりも、和樹の方はどうなの?」 「絶対ないよ」 「和樹の場合、子供のころからだもんね」 水井は頷いて、神妙な面持ちを見せる。 ――子供のころから、か。 「どうしたの?」 黙り込んだ水井の顔をのぞき込みながら、不思議そうに問いかける。 「いや、別に。それよりも真琴、今日は部活どうするつもり?」 「行くよ、もちろん。和樹も来るんでしょ?」 「そのつもりだけど」 二人は音楽部に所属している。もっとも、そのほとんどが幽霊部員という状態なので、まともな活動は全くと言っていいほどやっていないのだが。 「また二人だけかな?」 「そうだろうね。まあ、それならそれでいいんじゃない?」 「そうだね。それじゃ、そろそろ戻ろうよ」 校内に戻り、階段を降りているときに、雨崎が少し寂しそうに口を開いた。 「もうそろそろ、屋上も寒くなるから、和樹と一緒にお弁当も食べられなくなるね」 水井は顔のクエスチョンマークを貼り付けて、 「どうして?」 と、尋ねた。 「だって、場所がないでしょ?」 「教室は?」 「誤解されるよ?」 「俺は誤解されても構わないけど?」 その言葉を聞いた雨崎は、心配そうな顔を見せながら言った。 「和樹、熱でもあるの?」 「ごく平熱だけど」 「じゃあ、私のお弁当の中に何か変なものでも入ってた?」 「いや、いつもと同じでおいしかったよ」 「えっと……じゃあ……」 まだ何かを考え込む雨崎に、幼なじみは大きく溜息をついた。 「別に誤解されたって実際がそうじゃないんだから、気にする必要ないと思うけどね」 「それもそうだね。じゃ、またあとで」 水井は雨崎と別れると、自分の席の方に視線を向けた。相も変わらずの人だかりで、とても座れそうにない。 「授業が始まるまで待つしかないか……」 ――しかし、毎時間あんなに質問責めにあって疲れないのかな……。 「俺だったら、耐えられないな」 やがて昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴り、人だかりがそれぞれ自分の席へと戻っていく。風野はクラスメートに笑顔を見せていたが、その裏にある感情を唯一水井だけは見落としていなかった。 「お疲れさま」 「え?」 隣席の男子にかけられた言葉に、風野は戸惑いの色を隠せなかった。 「大変だよね、転校生ってのも。みんなから色々聞かれてさ」 「ううん、そんなことないよ。みんな、楽しい人だから」 と、微笑む風野。水井は曖昧に頷いて、言葉を続ける。 「でも、疲れてるなら少しは断った方がいいよ。無理すると、あとにしわ寄せがくるから」 水井が言い終わると同時に担当の教師が入ってきたことで、騒然としていた室内が一気に静かになった。 「……」 退屈で、しかも睡魔が遠慮なしに襲ってくる午後の授業。水井は眠らないために――もっとも、授業の内容は聞き流していたが――、窓の外に目を向ける。 風に揺れる木々と、雲一つない高い空。いつでも見上げればそこにある景色だった。だが、その空は昨日と、あるいは秋風は去年と同じものではない。 全ては常に動いている。ある一点に留まっているものなど、まずほとんどない。時間の中に万物が存在する以上、変化を伴わないものなどないのだ。見上げている空にしても、毎年訪れる季節の移ろいにしても、同じものは一つとしてない。ただその変化が、他のものに比べて分かりにくいだけなのである。 「――じゃあ、今日はここまで」 教師の言葉を合図に、水井は教科書を閉じて背伸びをした。と、不意に横から肩を叩かれる。 「これ、ありがと」 風野だった。彼女の手には、シャープペンと消しゴムが乗っている。 「ああ、貸したこと忘れてた」 そう言いながら、水井は筆記具を受け取りペンケースの中にしまう。 「これからどうするの?」 「俺は部活。まあ、真面目に活動やってる部じゃないけど。風野さんは?」 「図書室。ちょっと用事あるから」 「大変だね。じゃ、また明日」 と、水井は席を立つ。それと入れ替わるように何人かの男子が風野を取り囲んだが、用事があるということを聞いたのだろう、すぐに離れていった。 |