第三章 今年の冬 「真っ赤なお鼻のトナカイさんは――」 十二月二十四日。クリスマスイブ。本来はキリストの誕生日の前日なのだが、日本国内ではほとんどその本来の意味合いが忘れ去られてしまっていることは、もはや言う間でもないだろう。 「ケーキだよー」 新津の声が聞こえると同時に、絵里の歌声が止まる。 「わーい、いちごだー」 新津はケーキをテーブルの上に置くと、はしゃぐ絵里の頭をなでながら言った。 「慌てなくたって大丈夫だよ。ケーキは逃げないから。それよりも手、洗った?」 「あ」 小走りに洗面所へ向かう絵里の姿に、新津は無意識に小さく笑った。 「無邪気ですね」 「うん」 絵里に絵をあげたあの日から、彼女は「夢の森」をたびたび訪れ、新津と何度も会っていた。そして、子供特有の疑うことのない瞳で、彼と仲良くなっていた。 「あの子のお父さんから頼まれたんです。せっかくのクリスマスなのに、一人でいさせるのはかわいそうだから、って。お父さん、仕事らしいんですよ。ついでに言うと、俺の両親もなんですけど」 「洗ってきたよー」 「じゃ、食べようか」 「いただきまーす」 正直、今日ここに絵里が来ると知ったとき、美弥子は少し拍子抜けした。だが今、こうして無邪気にケーキを食べる少女の笑顔を見ていると、そんなふうに感じた自分が恥ずかしくなった。 「ねえ、トモちゃん?」 「何?」 「今日、サンタクロースさん来るかなあ?」 「絵里ちゃんが、いい子にしてれば来るよ」 「ほんと?」 「本当だよ」 「じゃあ、お母さんからのお手紙、読めるんだ」 一瞬の沈黙。そして、新津が尋ねた。 「お母さんからの手紙って?」 「お父さんが言ってたの。今夜サンタクロースさんが、お母さんが書いた手紙を届けてくれるって!」 何も疑うことのない、その瞳。そう言えば、誰かが言っていたような気がする。サンタクロースがくれるのは、「欲しいもの」ではなく「夢」なのだと。 「俺、ジュースでも持ってきますね……」 「あ、うん」 絵里はその場の空気を感じ取ることもなく、指についたクリームをなめている。やがて全てなめ終えると、そばに置いてあったおしぼりで手を拭きながら、美弥子に向かって話しかけた。 「お姉ちゃん、ごめんね」 「え? 何が?」 「だってお姉ちゃん、トモちゃんのこと好きなんでしょ?」 「え、えっと、それは……」 絵里のあまりにも突然すぎる言葉に、美弥子は動揺を隠せなかった。 「お父さんがね、前に言ってたの。クリスマスは、大切な人と一緒にいる日なんだよって。だから……」 「そんなことないよ」 美弥子は少女の頭に手を置くと、優しく微笑んだ。 「お姉ちゃん、お母さんに似てる……」 「え?」 「いい匂い……」 と、絵里は美弥子に抱きついた。 七歳の女の子。彼女がその年齢故に母親が死んだということを知らず、いくらその性格が明るくとも、母親がそばにいないことは彼女にとって紛れもない寂しさなのだ。 「はいジュース……って、あれ? どうしたんですか?」 「うん、ちょっと。ほら絵里ちゃん、ジュースだって」 そう言うと、すぐに絵里の興味は飲み物の方へ移ってしまう。美弥子は苦笑いを浮かべずにはいられなかったが、それが子供のよさなのだろう。 「あ、それ飲んだらちょっとついてきて。プレゼントがあるから」 プレゼントという単語に、絵里の瞳が輝き出す。 「はい、飲んだよ! 何くれるの?」 「こっちだよ」 やがて着いたのは、新津の部屋の前だった。 「じゃあ、入って」 「何、くれるのー?」 「えっとね……あ、そうだ。その前に、これ返すね」 絵里に手渡されたのは、一枚の写真だった。 「これ、何?」 不思議そうな表情で、美弥子が後ろからのぞき込む。 「お母さんと、絵里で撮った写真なんだよ! ほら、この人が絵里のお母さん!」 「どうして、これ借りてたの?」 返答は、軽い笑みだった。 「絵里ちゃん、これがプレゼント」 と、新津は白い布のかけられたキャンバスの横に立った。 「……絵?」 そう呟くように言ったのは、美弥子だった。 「そういうこと」 その言葉と同時に、白い布が取り外される。そこに描かれているのは、幸せそうな母親と娘だった。 「これ、って……」 「お母さんだ!」 絵里が、その絵に駆け寄った。 「もう一人の女の子は、絵里ちゃんだよ」 絵里は、その絵の前に立ち尽くしていた。言葉も出さず身動きもせず、まるで時間が止まったかのように。 「絵里……ちゃん?」 「お母さんだ……お母さん……」 その様子を訝しげに思った新津が声をかけると同時に、絵里が口を開いた。 「お母さん……会いたいよ……」 少女の瞳から涙が流れ落ちる。それがきっかけだった。 「お母さん……会いたい、よ……」 少女の言葉が次第に途切れ途切れになり、やがて泣きじゃくる声に変わっていた。 「お、母さん、会い、たいよ、早く、帰って、きて……」 「絵里ちゃん……」 美弥子は無意識に、絵里のことを抱き締めていた。大きくなる、少女の嗚咽。 「大丈夫……きっと、会えるから……」 しばらく続き、やがて小さくなる絵里の泣き声。いつかそれは、完全に聞こえなくなっていた。 「絵里ちゃん?」 眠っていた。美弥子の腕の中で、何の不安もないかのように。 「お母さん……」 二人は同時に、苦笑を浮かべた。 「この絵を描いたのは、間違いだったんですかね……」 と、新津は小脇に抱えた絵に視線を落とす。 「ううん、そんなことないと思うよ。もしも絵里ちゃんがずっと泣かなかったら、きっと変になってたと思う……」 「お母さんの背中、あったかい……」 「杜松さんのこと、母親と勘違いしてるんですかね?」 と、新津は苦笑を浮かべるが、美弥子は真顔のままだった。 「そうかも知れない。絵里ちゃん、ぼくのことお母さんに似てるって言ってたから……」 「そうなんですか……」 「今年は雪、たくさん降るかな……。また雪だるま作ろうね……」 「――降るといいですね、雪」 絵里の言葉に応えるように、新津は呟いた。そしてそれに、空も応えた。 「あ、雪……」 「ホワイトクリスマス、ですね。あ、ここですよ。絵里ちゃんの家」 インターホンを押す。程なく、タートルネックのセーターを着た父親が現れ、頭を下げる。 「今日は、何と言っていいか……」 「いえ、いいんですよ。それよりも絵里ちゃん、早く家に入れてあげないと」 「あ……本当にすいません」 父親はその腕に絵里を抱きかかえると、もう一度頭を下げた。 「それとこれは僕から。絵里ちゃんと、……お母さんを描いた絵です。余計なことかとは思ったんですが……」 「いえ、そんなことありません。恥ずかしい話ですが、私には何もできませんから……。あの、せっかくですから中にでも」 「いえ、時間も遅いですから。それじゃ、またの機会に」 「今日は本当に、ありがとうございました……」 新津はマフラーを巻き直すと、一度大きく息をついた。 「送っていきますよ。時間も遅いですし。――積もると思いますか?」 「雪? さあ、どうかなあ……」 「積もるといいですよね」 「うん」 空を仰ぐ。当然星は見えないが、今日ばかりはそれでもいいと思っていた。 「ところで、どうして絵里ちゃんのこと断らなかったの?」 「杜松さんとせっかく二人っきりになれるチャンスだったのに――ですか? そのことを理由にこの子の寂しさを無視できる人間になるくらいだったら、俺、自殺しますよ」 新津の表情は真剣だった。 「俺があの子に対してできることって、あのくらいしかないですから。絵里ちゃんの寂しさを俺にどうこうできるはずないけど、何もできないからって何もしないのは間違ってるって思うんですよね」 と、新津は両手に息を吐き、すぐにコートのポケットに突っ込んだ。 「やっぱりちょっと冷えますね」 「あれ? 手袋は?」 「してこなかったんですよ。まさか、雪が降るとは思ってなかったんで……」 「ねえ、手、出して」 「え?」 「いいから!」 強い語調に気おされ、新津はゆっくりと両手をポケットから出した。 「それで、手を重ねて」 「えっと、こうですか?」 「そう」 頷くと同時に、美弥子の表情は満面の笑顔へと変化した。 「え……?」 美弥子の両手が、冷たい空気にさらされた新津の手を包み込んでいた。 「あったかい?」 新津の体が、思考が、感情が硬直する。ただ一つ変化があったのは、その顔が一秒足らずで耳まで赤く染まったことだった。 「えへへ……」 照れくさそうにしながらも、しっかりと新津の手を暖める。今日の手袋はどうやら、手だけでなく心にも暖かさを与えてくれるらしかった。 「新津君、何か言ってよ」 「え、その、あの、えっと……」 「あったかい?」 再度の質問。 「え、あ、はい」 「どのくらい?」 ちょっとした、子供っぽい悪戯心。新津が困ることは分かっている。だからこそ、聞いてみたのだ。 「どのくらいって……えっと……」 「ちょっと?」 思い切り、首を横に振る。 「じゃ、普通ぐらい?」 否定。 「じゃあ、すごく?」 頷く新津。優しい人は手が冷たい、と言われる。だが、それは間違いだった。 「俺、雪って好きなんですよ」 空を仰いで、息を吐く。目の前の闇が少しの時間、白く染まった。 「何となく、気持ちが優しくなるんです。雪を見てると」 両手をコートのポケットの中に、いつものように入れる。だが、それは冷たさから逃れるためではなく、照れた心をこれ以上増やさないためだった。 「帰りましょうか」 再びゆっくりと歩き出す二人。何でもない会話。どこにでもある風景だったが、それは思い出になる「何でもないこと」だった。 「新津君、ぼくのことどう思ってる?」 微笑みとともに、美弥子が尋ねた。 「もちろん、好きですよ」 何度となく言った単語。だが新津は、その言葉を口にすることにまだ慣れていなかった。 「どうかしたんですか? 急にそんなこと聞くなんて」 「その顔が見たかった、って言ったら怒る?」 「え?」 「あの、新津君の照れた顔、見たかったから……」 長く一緒にいることによって、薄れていく感情。何度も口にすることによって、弱くなっていく言葉の意味。好意という心ににいつまでも照れるのは子供だと言われるが、きっと子供のままでいいのだと思う。その気持ちも、また思い出になるものの一つだから。 「新津君は、ぼくのどんなところがいいの?」 「俺は……」 言葉に詰まる。単純に、その先を言うのが恥ずかしかったからだ。 「笑った顔、ですね」 そう言ってから、少し慌てたように、 「あ、もちろんそれだけじゃありませんけど」 「新津君……」 美弥子は俯いていた。 「何ですか?」 「ありがとう」 と、美弥子は微笑み、そして新津も照れながらも、笑顔でそれに応える。 ――その夜は、優しい雪が降り積もった。 その三日後――。 「すいません。こんな忙しい時期に、呼び出したりして……」 と、新津は頭を下げる。 「ううん。そんなことないけど」 この言葉は、嘘ではなかった。美弥子の家族が気を回して、年末の大掃除を何一つ彼女に割り当てなかったのである。 「それで、どこ行くの?」 「『夢の森』ですよ」 「夢の森?」 「ええ」 そんな何でもない会話を交わしているうちに、いつの間にか目的地のこじんまりとした建物の前にたどり着いていた。 「こんにちはー」 「やあ。寒かったでしょう? 紅茶でも、ごちそうしますよ」 「ここは、年末年始は休んだりしないんですか?」 新津の質問に、前田は静かな笑みのまま答えた。 「休んでたら、かわいい孫たちに会えなくなりますので」 「お孫さん? ここをやってないと会えないって?」 「ここに来てくれる君たちが、わしにとっては孫ですから。わしの子供は二人いたんですが、どっちも子を作らんうちに逝ってしまいまして」 「あ……すいません」 「いやいや。それよりも、今日は何か?」 「えっと……」 話しにくそうな新津の態度に、前田は何かに気付いて、 「ああ、もしかしてあの日ですか?」 「ええ、まあ……そういうことです」 「え? 何?」 一人だけ、要領を得ない美弥子。 「今日は、何の日ですか?」 「何の日って……あ」 「駄目ですよ、自分の誕生日忘れちゃ」 「へへ……」 それには理由があった。部活が忙しかったのだ。 「で、まあ何て言うか……プレゼントがあるんですよ。前に少し言ったと思うんですけど」 「プレゼントって?」 新津は遠回しに、しかしここに来たことを考えればもっと早くに気付いてもおかしくない答えを言った。 「ここの地下、アトリエになってるんですよ」 「え?」 「じゃ、行きましょうか」 と、新津は美弥子の腕をつかんだ。ただそれだけのことなのに、少し照れくさかった。 「本当はもっと、例えばアクセサリーとかの方がいいと思うんですけど――」 階段を降りながら、新津がゆっくりと話し出した。 「俺、やっぱり馬鹿なんですね。こういうものしか、思いつかないんですから」 アトリエの鍵が開く。 「空気、あんまりいいところじゃないですけど……」 蛍光灯がつけられる。新津が目的としているものは、その部屋の中央で多くの色に着色された布をかけられていた。 「白い布、なかったもんで……」 と、新津は苦笑いを見せながら、その布を取り去った。 背景は、星空だった。無数の星屑が夜の闇に光り、そしてその中を雪が降っている。 「あり得ない風景ですけどね。キャンバスに描くのは、必ずしも現実とは限りませんから」 だが、それらはあくまでバックだった。絵の中心にいるのは、あどけない笑顔を見せる一人の少女。いや、少女と呼ぶのはふさわしくないだろうか。そこに描かれた女性のモデルは、今日で十八歳を迎えるのだから。 「ちょっと、表情が子供っぽいですかね。でも、俺はこういう顔のときって、好きですから」 きっとそれは、彼でなければ描けないであろう絵。そう、モデルとなった人物のことが本当に好きで、心から彼女のことを大切に思っている新津でなければ。 「これ……ぼく?」 「似てませんか?」 美弥子は、微かに頷いた。 「うん。だって……こんなにかわいくないと思う」 「そんなことないですよ!」 思わず強く言ってから、新津は顔を真っ赤にする。 「そんなこと……ないですよ……」 「あの……、ありがとう」 何となく、言葉がぎこちなかった。だが、気持ちは素直だった。 「でも、もしかして絵里ちゃんのと一緒に描いてたの?」 「ええ。時間的に結構辛かったんですけど、何とか間に合いましたね」 「頑張ってるんだね」 「夢、ですから」 と、新津はアトリエの天井を見上げた。 「そう言えば、杜松さんの夢って何ですか?」 「あの……南十字星を見ること、なんだけど……」 「南十字星?」 「あの……あれって、基本的には南半球でしか見られないらしいの」 「オーストラリアとかですか? なかなか、大変ですね」 「うん。でも、日本でも一つだけ見られるところあるらしくて……。確か、沖縄の波照間島ってところらしいんだけど……」 「波照間島ってどこかで……あ、日本最南端の空港があるところですね」 「え、そうなの? それじゃ、飛行機で行けるの?」 「そうですね。オーストラリアに行くよりは、よっぽど楽ですよ」 「そうだね。でも……」 と、美弥子は急に小声になった。 「友達とかに言うと、絶対子供っぽいって言われちゃうの。新津君も、そう思う?」 「まあ、大人びてはいませんよね。でも、それでいいんじゃないですか? 無理に『大人』を演じる必要なんて、ないと思いますよ」 「じゃあ、新津君は、子供っぽい女の子って、どう思う?」 「まあ、一概には言えませんよね。子供っぽくていいときもあるし、悪いときもあると思いますから。でも、どうしてそんなこと聞くんですか?」 「あの、友達から『あんまり子供っぽいと、嫌われるよ』って言われて……」 新津は思わず苦笑を浮かべた。 「嫌われるって、誰に?」 「誰に、って……」 「俺に、ですか? それなら大丈夫ですよ。俺は、杜松さんの素直なとこ、好きですから。だから、心配しないで下さい」 「……本当?」 「嘘なんか言いませんよ。自分の気持ちには、もう嘘はつかないって決めたんです」 「前は、嘘ついてたの?」 新津は少しためらってから、 「以前、告白したこと迷惑なんじゃないかって言ったことありましたよね。あれ、本当は……」 「本当は、迷惑でも気にしてて欲しかった?」 美弥子が引き継いだ言葉に、新津は小さく頷いた。 「ええ。たとえ迷惑でも、気にかけててもらいたかったっていうのが本音で、それが、俺の一番ずるい部分だとも思うんですけど……」 「ずるくてもいいと思うけど」 「え?」 「誰にだって、やりたいことはあると思うよ。たまには、わがまま言ってもいいと思うけど」 「そう、ですね。わがままに振る舞ったおかげで、こうして杜松さんと一緒にいられるんですから。――そろそろここ、出ましょうか」 「あけまして、おめでとうございます」 一九九六年、元旦。一年が終わり、新しい年が始まる。多くの人があふれる神社、吐息を白くする空気の冷たさ、一年でこの時期しか使われない挨拶。毎年変わることのない、ありふれた新年の一場面。 「おめでとう。今年もよろしくね」 けれど、隣に大切な人がいる。ただそれだけで、全ての風景は特別な意味を持っていた。 「よく、許してもらえましたね。男と一緒に初詣に来るなんてこと。嘘でもついたんですか?」 現在、時間は深夜の二時。だがそれでも、神社は多くの人で埋め尽くされていた。 「ううん、本当のこと言ったけど。そういうのうるさくないから」 「信用されてるんですね」 美弥子は軽く笑いながら、 「この歳になると、あんまり細かく言わなくなるっていうのが本当のところだと思うけど」 「そう言えば、俺より年上ですもんね。普段、あんまり気にしないですけど」 「それって、子供っぽいから?」 「杜松さんは、子供っぽいんじゃなくて純粋なんですよ」 「そう……なのかなあ。自分じゃよく分からないけど」 「そうですよ」 と、新津は周りを見回す。 「どうしたの?」 「知り合いでも、いるんじゃないかと思って。こんなとこ見られたら、誤解されますしね。もちろんそれが嫌ってわけじゃないんですけど」 「誤解?」 美弥子が少し不思議そうに、その単語を呟く。だが新津はそれが聞こえていなかったかのように、辺りを見回していた。そして往々にして、こういうときの予感というものはよく当たるものである。今回も、その例外ではなかった。 「もしもーし」 「……何か、すごく嫌な予感がする」 恐る恐る、新津は後ろを振り返る。そこには、よく見知った少女の顔があった。 「やっほ」 「……さ、行きましょうか、杜松さん」 「ちょっと、無視するんじゃない!」 と、少女は新津の襟を捕まえる。 「相も変わらず……って、あれ? その人は?」 「ああ、杜松美弥子さん。あの、こいつは――」 「私、宮村亜紀(みやむら あき)。ま、智幸の幼なじみ兼腐れ縁です」 「は、はあ。どうも……」 「まあ、見たままのキャラなんで、あんまり気にしない方がいいですよ」 「だから、人をおざなりに扱うなってば……って、え? 敬語?」 「年上だからね、杜松さん」 「ふうん」 亜紀はそう相槌を打ちながら、二人を交互に見渡して、 「でも、本当にそれだけなのかな?」 と、自分にしか聞こえない小声で呟いた。 「ねえ智幸。コーヒー買ってきて」 「はい? 自販機、どこにあるか知ってて言ってる?」 「もちろん」 「……この人混みをかき分けて、下まで降りてこいって言うのか」 「そうだけど?」 新津は何かを諦めたように溜息をつき、 「分かったよ。あ、杜松さんは何か飲みます?」 「え? あ、じゃあぼくもコーヒー」 亜紀は新津の姿が人混みに紛れたのを確認すると、美弥子の方を向き直った。 「さて、美弥子さんだったっけ」 「あ……はい」 「心配することないからね」 「え?」 「ほら、ドラマとかだとよくあるじゃない。実は、幼なじみの女は好意を持ってて、とか。でも私と智幸は、全然そんなことないってこと。第一、三流の恋愛小説じゃないんだから、長く付き合ってればおのずと好きになる――なんてことは、そうそうないよ」 と、亜紀は美弥子を興味深そうに眺めた。 「智幸が言ってた通りだね」 「あの……」 「智幸がね、あなたのことよく話すのよ。あなたのこと、大切な人だって言ってたよ」 美弥子は、顔を赤くして俯いた。 「それにね、智幸って好きになった人のことは、絶対名字でしか呼べないの。あと、話し言葉に敬語が混じったりとかね」 「あ……」 「智幸は恋愛に対して不器用だから。色々と大変でしょ? あんなのと付き合ってると」 「誰があんなのだ、誰が」 いつの間にか、缶コーヒーを抱えた新津が後ろに立っていた。 「あ、智幸。早かったね」 「まあな。一体、杜松さんに何話してた。余計なこと、言ったんじゃないだろうな」 「さあて、ね。邪魔者はそろそろ退散しますか。あ、このコーヒー、智幸のおごりでしょ?」 「まあ、別にいいけど」 「まったねー」 新津は亜紀の背中を見送ると、ばつが悪そうに美弥子の方を向いた。 「あの……亜紀のやつ、何か変なこと言ってませんでした?」 「ううん、変なことは言ってないけど、ただ――」 「ただ?」 美弥子は悪戯っぽく微笑んで、 「やっぱり、秘密!」 「秘密って……」 新津を困らせたかった。そうすることで、いつもは見られない彼の表情が見たかったのだ。 「本当に、心配するようなことじゃないよ」 「そうなんですか? 亜紀のことだから、また何か俺の悪口でも……」 「ううん、それとは逆のこと」 「逆? 本当ですか?」 新津は、驚いた顔つきで美弥子を見つめる。 「うん。何て言うか……新津君の気持ちが、よく分かること」 「俺の……気持ち?」 「そう。分からない?」 「ちょっと……」 美弥子は満面の笑みとともに、 「新津君がね、ぼくのこと本当に大切に思ってくれてる、っていうこと」 「な……」 顔から火が吹き出すという比喩表現は、きっと今の新津に使うのだろうと思わせるほど、その顔は一瞬にして赤くなった。 「えっと……まあ……確かに、そうなんですけど……。そういうこと、他人に言われるのって恥ずかしいですね」 と、いつも通りのぎこちない表情。 「かわいいね、新津君って」 美弥子はくすくすと笑いながら言った。 「か……かわいい……?」 「新津君のそういうところ、いいと思うよ。それとも男の子って、かわいいって言われるのって嫌なことなの?」 「いえ、そんなことないですよ。ちょっと照れますけどね。きっと――」 新津は言葉を切り、空を見上げる。見渡す限りの星屑たち。 「きっと、何?」 「きっと、お賽銭を十円しか投げなくても、おみくじで凶が出ても、今年はいい年になるんだろうな、ってそう思ってたんですよ」 「どういうこと?」 「この先、あんまり詳しく説明したくないんですけどね。恥ずかしいですから」 「恥ずかしいの?」 「恥ずかしいですよ。その理由が、『好きな人がそばにいてくれるから』なんですから」 「あ……」 美弥子は言葉を失いながらも、新津を見つめていた。 「あの、えっと……寒いですね」 「そう? ぼくは、あったかいけど」 と、美弥子は子供のようにあどけない表情を見せていた。まるで、初めて星空を見上げたときのように。 「そうですか?」 「うん」 そして、また新しい一年が始まった。きっといつか、宝物となる一年が。 |