第二章 さみしいきもち 学校の帰り道、最初に話を切り出したのは新津だった。 「杜松さんって、誕生日いつですか?」 「十二月二十七日だけど……」 「二ヶ月弱か……」 何かを考え込む新津に、美弥子は不思議そうな表情で、 「それが何か?」 「ちょっと興味あったから。それよりも、その日だとクリスマスと一緒にされるんじゃないですか?」 「うん。お父さんとかは『その分高いもの買ってあげるから』って言うんだけど、実際はそんなに高いものじゃなかったと思う」 「まあ、それが普通ですよね。でも、プレゼントって額に関係なく嬉しいですけどね」 「あ、もしかして」 と、何かに気付いたような表情で、美弥子は新津の方に向き直った。 「プレゼント、くれるつもり?」 新津は少し照れながら、 「うん。もっとも、金はあんまりないから、つまらないものになると思いますけど」 「そんなに無理しなくても……」 「無理はしませんよ。ただ、無謀なことはしますけど」 「無謀なこと?」 美弥子の心配そうな表情を打ち消すように新津は微笑んで、 「別に、危険なことをするとかいうわけじゃないんです。ただ、今の自分には難しいことをするだけで」 「難しいこと……って?」 「これ以上は、秘密ですよ。あとはそのときまでのお楽しみってことで」 「じゃあ、楽しみにしてる」 「でも、本当につまらないものだから、あんまり期待されすぎるのも困るんですけど」 「じゃあ、適当に楽しみにしてれば……いいの?」 「そうですね。適当に楽しみにしてて下さい」 と、新津は冗談めかして言い、軽い笑みを見せた。 「それはそうと、テストもうすぐですよね」 「あんまり言わないで」 と、美弥子は耳を塞ぐ仕草をする。 「それさえなければ、学校も楽しいんだけど……」 「しょうがないですよ。文句言ってもどうにもなりませんし。それに、悪いことばっかりでもないと思いますよ」 「どういうこと?」 「テストで部活が停止になって、こうして杜松さんと一緒に帰ることができるんですから」 そう言って、新津はすぐに顔を赤く染める。 「俺、子供みたいですね」 「純粋なんだよ、きっと。それにぼくも、新津君と一緒に帰れて楽しいよ」 「え……」 一瞬驚きの表情を見せた新津だったが、すぐにそれは微笑みへと変化した。 「お世辞でもそう言ってくれて、嬉しいです」 「お世辞なんかじゃないってば」 と、美弥子は真剣に否定をする。 「今のは、本心なの」 「そうなんですか?」 「そうなの!」 新津は照れなかった。一緒に帰るのが楽しいと感じるのは、別に恋愛的な意味での好意を持っていなくてもいいからだ。そう、例えば単なる友人でも。 「杜松さんは、男女間の友情って成立すると思いますか?」 「すると思うよ。新津君は?」 「俺も、成り立つと思います。じゃなきゃおかしいですから」 ――そうじゃなきゃ、杜松さんが俺の隣で歩いてる理由がなくなるから……。 「それじゃ、片方は相手のこと好きなんですけど、もう片方は何とも思ってないってときは?」 「……それでも、一応は成り立つんじゃないかなあ。でも、それって好意を持ってる人にとっては、すごく辛いと思うけど」 「ですよね。――俺の友人に、そういう状態のやつがいるんですよ。まあ、本人はそれでもいいって言ってるんですけどね」 そう話しながら、新津は内心で苦笑を浮かべた。自分でも分かるほど嘘が上手くなっていることに。 「新津君は?」 「え?」 「もし好きな人に、何とも思われてなかったらどうするの?」 「友人と同じですよ。何もないって顔して、笑ってますね。これで結構、強いんですよ。まあ、弱い部分も多々あるんですけど」 「弱い部分なんて、あるの?」 「ありますよ。そうですね、例えば――」 新津は一旦言葉を切ってから、 「自分の居場所……って分かります?」 と、言った。 「ううん。ちょっと……」 「自分の心の置き場所みたいなものが、俺にはないんですよ」 「心の置き場所?」 「自分が自分でいられる場所――自分自身に対して、嘘をつかなくていい場所です」 美弥子はその意味を捉えるのに、多くの時間は要さなかった。彼女には、それがあったのだ。星空という、自分の場所が。 「俺はいつも、自分を演じてきました。今だって、そうです。今の俺の台詞は、どこか芝居みたいですからね」 そう言い、新津は苦笑いを見せる。美弥子は一瞬、その表情までが演技なのかと疑いかけ、すぐにそれを否定した。 「結局、本当の自分がどんな人間なのか分からないんです」 「居場所は、絵を描くことじゃないの?」 「今の時点じゃ、単なる趣味にすぎませんから」 「じゃあ、友達とか……好きな人、とか……」 「それは違います。他人に自分の場所を見いだしちゃいけないんです」 「どうして?」 「だって、他人の中に自分の場所があるんだったら、俺、その人なしに生きていけないってことになるじゃないですか」 新津は一旦言葉を切り、息をつく。目の前の空気が、薄白い色に変わった。 「まあ、それはどうでもいいとして。テストが終わったら、どこか遊びに行きませんか?」 「それって、デートってこと?」 「まあ……そうです。もし、嫌だったら――」 「ううん、嫌じゃないよ」 美弥子は首を横に振り、微笑んだ。 「それじゃ、どこに行きたいですか?」 「えっとね、プラネタリウム」 新津は意外そうな表情で、 「プラネタリウム、ですか?」 と、聞き返した。 「そう。……嫌?」 新津の顔を心配そうにのぞき込んで、美弥子はその心中を探った。言うまでもなく、それは杞憂なのだが。 「そんなことないですよ。星とか好きなんですか?」 「うん。でも、最近はあんまり見えないけど」 「ネオンとか、多くなりましたからね」 「本当は、本物の方がずっときれいなんだけど……」 そう言って、美弥子は思わず空を見上げる。無論そこに星はなく、赤く染まった雲がただ浮かんでいた。 「人工物ですからね、所詮は」 その台詞は、美弥子も大いに同意するところだった。 「うん。プラネタリウムじゃ、いつ見たって同じだから」 「同じ……ですか」 新津の表情は、何故か寂しげだった。 「どうしたの?」 「その……誰かと一緒に行っても同じなのかなあ、って……」 「あ……」 「すいません。こんなの、単なる揚げ足取りですよね」 「……」 「そのうち、杜松さんにも見つかるんでしょうね。一緒にいるだけで、楽しいって人が」 と、美弥子に微笑みかける。その表情に照れという名のごまかしはなく、本当に心からそんな人物が見つかることを願っている笑顔だった。 「じゃ、今度の日曜でいいですか?」 いつの間にか、二人が別れる交差点に来ていた。ある種の猜疑心にとらわれていた美弥子は、一瞬遅れて言葉を返す。 「え? あ、うん」 「じゃ、また明日」 やがて、新津の姿が見えなくなると同時に、信号が青に変わる。だが、美弥子はその場に立ち尽くしていた。 ――どうして? 歩行者用信号が点滅を始める。横断歩道の中ほどにいた何人かは急ぎ出すが、美弥子は渡り始めようとすらしなかった。 『一緒にいるだけで楽しいって人が、きっと見つかる』 ――どうして、あんなことが言えるんだろう……。 答えは出ていた。 「あれが、新津君らしさだから……」 美弥子の言葉は雑踏に溶け込み、彼女以外には誰にも聞こえなかった。 そして――。 「――もしかして、待った?」 美弥子の申し訳なさそうな言葉に、新津は首を横に振った。 「いえ、そんなことないですよ。俺も今来たところですから」 そう言ってはいるものの、新津が来る途中に買った文庫本は、すでに三分の一ほどが読み終えられていた。と言っても、美弥子が待ち合わせに遅れたわけではない。 「でも、その本……」 自分の手元を指差された新津は、思わず苦笑いを見せた。 「本当のこと言うと、少し早く来すぎたんですよ。こういうのって初めてなんで、だから、杜松さんを待たしちゃ悪いな、って思って」 「どのくらい待ってたの?」 「三十分くらい。俺、結構読むの速いんですよ」 と、新津は腕時計に視線を落としながら言った。 「謝ったりしないで下さいよ。俺が好きでやったことなんですから」 そう言われ、美弥子は喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。 「じゃ、行きましょうか」 「あ、うん」 それから少し、二人は黙った。話題がなかったわけでも、気まずかったわけでもない。しいて言えば、その場の空気がそうさせていた。 「あの……」 口を開いたのは、美弥子だった。 「テスト、どうだった?」 美弥子は自分が嫌になった。自分が言葉にしたいのは、そんな意味のない質問ではなかったからである。 ――もっと他に言いたいこと、たくさんあるはずなのに……。 「まあまあですかね。杜松さんは?」 「ちょっと、あんまり……」 「まあ、今日はテストのことなんかは忘れましょうよ。せっかくの休みなんですから」 最初から、美弥子の頭にテストなんて三文字は存在していなかった。自分の意思とはどこか別の場所で、唇が勝手に紡いだ台詞だった。 「ラコニアの鍵、って知ってます?」 突然、新津が尋ねた。 「カシオペヤ座のギリシア古名? でも、どうして知ってるの?」 新津は背中のバッグから、先程の文庫本を取り出した。 「星の、本?」 「せっかくプラネタリウムに行くんだから、少し予備知識をと思って。それと今度、星空の絵を描くからっていうのもありますけど。絵のタイトルに、何か使える言葉はないかって」 「それで、ラコニアの鍵? じゃ、カシオペヤ座の絵?」 「うん。でも、それがメインの絵じゃありませんから。星空は、あくまで背景ですね」 「色々と考えてるんだね」 新津は苦笑混じりに、首を横に振った。 「何も考えてませんよ。ただ、描きたいもの描いてるだけなんですから」 「徒然草みたいに?」 「『心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば』ですか? 近いものはありますね」 二人は笑い、そして美弥子はその楽しい気持ちにそのまま身を委ねた。言いたいことは数多くあり、それを口にできない自分は確かに嫌だった。だが、それを忘れるときがあってもいいような気もしていた。 ――自分のために。 新津のためではなく、自分自身のために今という時間を楽しもうと、自覚することなく思っていた。 「あれ?」 唐突に、新津が不思議そうな声をあげる。 「どうしたの?」 「プラネタリウム、やってないみたいですよ?」 「え? ……臨時、休館?」 出入り口のドアにかかっていたプレートに、美弥子は呆然とするしかなかった。 「しょうがないですよ。こういうときもありますよ」 「うん。でも、やることなくなっちゃったけど……」 「俺は、それでも構いませんよ……って、杜松さんはそれじゃ嫌ですよね」 「ううん、そんなことないよ」 美弥子は慌てたようにかぶりを振ったが、新津は軽く笑いかけて、 「いいですよ、気を遣わなくても。それに、せっかくこうしてるんですから、どこにも行かないっていうのも損ですし。どこか、行きたい場所あります?」 「別に、どこでも……」 ――問題は、場所じゃないの。そう言いたかった。だが、それが声にはならなかった。 「じゃ、ちょっと行きたいところがあるんですよ。いいですか?」 「いいけど、そこに行くまでに聞きたいこと、あるの」 「何ですか?」 美弥子は少しの間だけ黙り、そしてためらいがちに話し出した。 「この前、『一緒にいるだけで楽しいって思える人が、きっと見つかりますよ』って言ったよね」 「それが何か?」 「どうして、あんなこと言えるの?」 新津は不思議そうに、 「どうしてって、そう思ってるからですけど?」 「嘘」 「え?」 「嘘だよ、そんなの。だってあの言葉が本心だったら、一緒にいるだけで楽しい人って、新津君以外の人になっちゃうじゃない」 「そうですけど、それが何か?」 あまりにも素っ気なく聞き返す新津の態度に、美弥子は一瞬言葉に詰まった。 「それが何か、って……自分が、一緒にいるだけで楽しい人になりたいって思わないの?」 「俺にはなれませんから。そんなに魅力ある人じゃないですし」 「そういうのって、自分じゃなくて相手が決めることじゃないの?」 「俺の場合、誰かに決めてもらうまでもありませんから」 「ぼくは、そうは思わないけど」 「そうですか?」 「そうだよ」 新津は軽い照れ笑いを浮かべて、 「ありがとう」 ――お世辞でも、嬉しいです。 「あ、着きましたよ」 「『夢の森』? 画廊?」 美弥子は目の前にある建物の、ドアの文字を見つめながら言った。 「そんな高尚なところじゃないですけどね。嫌ですか?」 「あ……ううん、そんなことないけど……ただ、ここにこういうものがあるって知らなかったから……」 「静かなところにいたいっていう、オーナーの考えなんですよ。じゃ、入りましょうか」 扉の先は、全く別の空気が存在していた。窓から差し込む光と、それによって生まれた日溜まり。そして、小さく何かが弾けるような、暖炉の火の音。そこに流れる時間の全てが、懐かしく暖かかった。 「いらっしゃい……って、新津さん。今日は、何の用かね?」 そして、二人を出迎えた老人もまた、その雰囲気にふさわしかった。長い時間と様々な経験を重ねてきた人間にしかできない、静かな笑顔。その表情は、こんなふうに歳を取りたいと思わせるに充分なものだった。 「おや、その子は?」 「あ、えっと、杜松美弥子さん。俺の、友達です」 「わしは、前田洋治(まえだ ようじ)という老いぼれ。それよりも、外は寒かったろう。コーヒーでもごちそうしますよ」 「あ……いえ、結構です」 美弥子の断りの言葉に、前田は微笑みながら、 「遠慮せんで下さい。これも年寄りの楽しみの一つなので」 と、言った。 「あの人が、ここのオーナー」 「あの……ここって絵がないみたいだけど?」 と、美弥子が辺りを見回しながら尋ねた。 「それは二階。ここだと絵が日光に焼けるから。上は窓とかなくしてあるんですよ」 「ふうん」 「はいコーヒー。熱いから、気をつけるんだよ」 「ありがとうございます」 と、二人同時にコーヒーに口をつける。その温もりは体だけでなく、心まで暖めてくれるような気がした。 「かわいい子じゃないですか」 「え?」 「新津さんの恋人。君にお似合いですよ」 思わずコーヒーカップを取り落としそうになる新津。その顔の色からは、ついさっきまで吐息が白くなるような空気の中を歩いていたとは想像できないだろう。 「な……何言ってるんですか。友達だって……」 「いいじゃないですか。恋なんて、わしのような年寄りにはできんことですよ」 と、前田は小さく笑い声を立てる。その声音に嫌味さは全くなかった。 「あの……新津君って、ここにはよく来るの?」 突然、美弥子が聞いた。 「あ、うん。でも、それだけじゃないんです」 新津の言葉を前田が引き継ぐ。 「ここに、新津さんの絵を飾らせてもらっていましてね」 「え?」 ――画廊に……新津君の、絵? 「ああそうだ。新津さん、君の絵を買いたいって人がいましたよ」 「本当ですか!?」 「ああ。確か、今日ここに来ると……あ、あの子ですよ」 「あの子?」 後ろを振り返ると、そこには小学生くらいの女の子が立っていた。 「こんにちはー」 「よく来たね。まあ、とりあえず座って」 少女は前田の隣に座り、そして美弥子と新津のことを不思議そうな顔で見つめた。 「この人たち、誰? おじいちゃんの友達?」 「ああ、そうだよ。それで、こっちの人は絵里ちゃんが買いたいって言った絵、描いた人だよ」 「ほんと?」 少女――野村絵里(のむら えり)の純真な瞳が、新津に向けられる。 「だから、この人とよく話してみなさい。さて、杜松さん……でしたか。わしらは上に行きますか」 「あ……はい」 美弥子は立ち上がり、一度新津の方に視線を向ける。見ると絵里は、もうすでに何かを話し始めていた。 「ここはほとんど、わしの道楽でやっているところなんですよ」 階段を上がりながら、前田が話し始めた。 「ここにあるのはみんな、プロでも何でもない人たちの絵でして……あ、どうぞ」 扉の先は薄暗かった。けれど、そこでは何か別のものが輝いていた。 「画家というのは、とかく食えない職業なんです。何せチャンスがない。それを目指す人は多いのに……」 と、前田は溜息をついた。 「さて、そこに『妹』という絵がありますが、それを見てどう思いますか?」 それは、鮮やかな緑の葉をつけた木のそばで、その胸に麦わら帽子を抱きながら、気持ちよさそうに眠る少女の絵だった。 「上手く言えませんけど……いいと思います。この人、本当に幸せそうだし、この絵の中の場所もきっと、風なんか吹いてて気持ちいいんだろうな、って思えるし……あの、言いたいこと、分かりますか?」 「ええ、分かります。わしも、この絵は好きです。いや、この絵だけじゃありません。ここに飾ってある絵、みんな好きなんです。でも……」 前田は悔しそうな表情を浮かべて、先を続けた。 「美術評論家ってやつは、こういうのを好みません。連中が気に入るのと言えば、わけの分からん絵――前衛美術と言うんですか――ああいうのばかりで……。例えばあなた、ピカソの絵のどこがいいか分かりますか?」 美弥子は首を横に振った。 「わしにも、分かりません。わしはあんなのより、ここにある絵の方が素晴らしいと思っています。だが連中は、わけの分からん作品ばかりを評価する。そしてそんな連中に評価されなければ、チャンスすらも与えられない……。それでは、かわいそうな人が多すぎると思いまして」 「だから、ここを?」 「もっとも、わしにできることなど何もありませんが。……わし自身、若い頃は画家になりたかったんです。しかし、叶いませんで……それもあるのかも知れませんですね」 と、前田は笑った。 「あ、これ……」 「新津さんの作品ですね。彼の作品は、わしも特に好きなんです」 それは、何でもない絵だった。恐らくは学校の帰り道だろう、ランドセルを背負った三人の子供たちが、ただ笑っていた。何でもない、どこにでもあるシーンを描いただけのはずなのに、その子供たちは本当に目の前にいるようだった。今にもあどけない、何にも汚れていない笑い声が聞こえてきそうだった。 「絵を最後に完成させるのは、見る者だと彼は言っていました。ちょっと、こちらへ」 と、前田は美弥子を手招いた。 「この絵も新津さんの描いたものです。絵里ちゃんが買いたいと言ったのが、この絵です」 「『母子』?」 「それで、『おやこ』って読むんだそうです」 やはりそれも、何の変哲もない絵と言ってしまえばそれまでなのだろう。雨の中、黄色い長靴をはいた五、六歳の女の子と、その母親が赤い傘の下で楽しそうに話している絵。だがしかし、本当の意味で「何の変哲もない」絵などあるのだろうか。どんな絵にも描いた人間の思いが込められているだろうし、それを見た者も何らかの思いを抱く。その時点でそれは、描いた人間にとっても、またそれを目にした人間にとっても「特別な意味」を持つものになるとは言えないだろうか。 「あの子は、この絵に特別な意味を見いだした子なんですよ」 「え?」 「あの子の母親は、亡くなったんです……」 少しだけ、前の時間。 「――杜松さん……でしたか。わしらは上に行きますか」 「あ……はい」 美弥子と前田の二人が立ち上がる。新津は一言声をかけようとしたが、それよりも前に絵里が喋り出した。 「お兄ちゃん、あの絵、描いた人なのー?」 「あ、うん。新津智幸って言うんだ。よろしくね」 「じゃあ、トモちゃんだね!」 「ト……トモちゃん?」 狼狽する新津など意にも介さず、元気そのものといった感じで絵里は話し続ける。 「絵里はね、野村絵里って言うの!」 「んと、じゃあ、絵里ちゃん。歳いくつ?」 「七歳! 小学校、一年生だよ!」 新津は思わず苦笑いを浮かべた。と言っても、七歳の女の子が絵を買いたいと言っていることにではなく、そのあまりの元気のよさにである。 「それで、俺……僕の、どの絵を買いたいの?」 「えっとね、黄色い長靴はいた女の子が描いてある絵!」 「『母子』かあ」 「おやこ?」 と、絵里が不思議そうな表情で新津を見つめる。 「ああ、あの絵のタイトル。こういう字、書いてあったでしょ?」 と、新津は手近にあったメモ用紙に、大きく「母子」と書いた。 「うん、それ!」 「あのね、本当はこう書いて『おやこ』って読まないんだよ」 「ふうん」 絵里は床まで届かない両足を振っていた。椅子に座っているというよりも、乗っているという感じだ。 「それで絵里ちゃんは、あの絵のどんなとこが好きなの?」 「あの絵の女の人、お母さんに似てるの」 「え?」 「お母さん、遠くに行っちゃったんだ。お父さんは、お空の上にあるきれいなところにいるよ、って言ってるんだけど……」 「あ……」 新津は、何も言えなかった。 「でもお父さん、意地悪なんだよ。お母さんがいつ帰ってくるのか、教えてくれないんだよ!」 と、絵里は頬を膨らませる。いつもなら微笑ましいその行動も、今だけはひどく残酷な仕草に見えた。 「あの、それでさ……絵里ちゃんは、寂しくないの?」 「ううん、寂しいよ。だけど……」 「だけど?」 「絵里が寂しそうにすると、お父さんが悲しそうな顔するの。だから、寂しそうにしないようにしてるの」 「そう、なんだ……」 「でもね、やっぱり寂しくなっちゃうときもあるんだ。でもあの絵を見てると、お母さんが一緒にいてくれるみたいで安心するの」 そう言えば、あの絵に描いてある子供の方も、何となくこの子に似ていた。「母子」は、今年の梅雨頃に、新津が近所で見た親子を元に描いたものだった。だとすれば、その可能性もあるということだ。 「お母さんが、遠くに行っちゃったのって、いつ?」 「夏休みになってから」 「そう……」 「あの、でもね……」 唐突に、絵里の声から元気がなくなる。 「ああいう絵って、高いんでしょ? 何万もするんだって、お父さんが言ってた」 「そんなことないよ」 と、新津は優しく笑いかける。一瞬その表情に明るさが戻るが、すぐにそれは翳りを帯びた顔になった。 「でも、絵里ね、これしか持ってないんだ……」 絵里が服のポケットから差し出したのは、きれいに折りたたまれた一枚の千円札だった。 「これ、どこから? お父さんがくれたの?」 「ううん。お母さんが病院のベッドの上で、くれたの」 その言葉と開いた千円札に、新津の目は大きく見開いた。 「駄目だよね、それだけじゃ。だってトモちゃん、あの絵、すごく頑張って描いたんでしょ?」 「どうして、そう思うの?」 千円札を折りたたみながら、新津が尋ねる。その声は、微かに震えていた。 「だってあの絵、すごく上手だもん。ううん、あの絵だけじゃないよ。他の絵だって、すっごくすっごく、上手だもん」 と、絵里は何も知らない笑顔を見せる。何も知らないからこそできるその表情は、きっといつかは見られなくなってしまうのだろう。だからこそ、こんな表情ができる時間が少しでも長く続いて欲しいと、新津は願わずにはいられなかった。 「ありがとう。――はい、これ」 と、絵里の小さな手に、折りたたんだ千円札を握らせた。 「お金は、いらないよ。あの絵、ただであげる。ただ、僕と一つだけ約束して」 「どんなー?」 「その千円札、絶対に使わないで大切に持ってること。なくしたりしても駄目だよ。いい?」 「うん!」 「じゃ……あの絵、大きくて絵里ちゃんじゃ持ってけないね。あとで、僕が持ってくよ」 「うん、分かった! えっと、絵里の家の場所はね――」 新津はたどたどしく家の場所が説明された紙を受け取ると、できる限りの笑顔で手を振った。 「じゃ、気をつけてね。バイバイ」 「トモちゃん、バイバーイ」 やがて絵里が走って帰っていくのを見届けると、新津も上に向かった。 「あ、新津さん」 「新津君……」 「その絵、売ることにしましたよ」 「そうですか。で、いくらで?」 「ただ、ですよ」 「やはり、あんな子供じゃお金は持って……」 新津は、前田の言葉をさえぎった。 「いえ、持ってました。千円札一枚ですけど。……でも、あのお金は僕には受け取れません」 「あのくらいの子じゃ、千円って大金だから?」 美弥子の言葉に、新津は弱々しい笑みを浮かべながら言った。 「それもありますけど。でも、あの子が二十歳だったとしても……あのお金は……千円札は、受け取れません……」 そう言って、新津は床に座り込む。 「新津……君?」 「書いてあったんですよ……あの千円札には……」 「書いてあった、って……?」 顔に手を当て、瞳を閉じながら新津は言った。彼の脳裏には、先程見た文字が鮮明に浮かんでいた。 「隅の方に、書いてあったんですよ……。女性の字で……『一九九二年、八月十日。絵里へ』って。あれ、たぶん……絵里ちゃんの、お母さんの字、でしょうね……」 抑えられなかった。他人のことなのに、感情が次々に表に出てこようとしていた。自分に起こったわけでもないのに、悲しいわけでもないのに――。 「……あれ? 俺、何で泣いてるんだろ……」 拭っても拭っても、瞳から流れ落ちるものは止まらなかった。笑顔だって作れる。冗談の一つも、きっと言えるだろう。それなのに、泣いていた。 心が痛かった。そして新津は、優しすぎた。それが理由だった。 |