第四章 君が笑うとき君の胸が痛まないように ――彗星というものがあります。過去、それがどういうものかが学問的に定義されるまでは、彗星は天変地異の前触れ、あるいは不吉の前兆として恐れられてきました。例えば、日本において最も有名であろう、ハレー彗星。七十六年の周期で地球に姿を現すこの星は、長大な尾を引いているが故に様々なエピソードを残してきました。無論、彗星はそれだけではありません。数多くの巨大な流れ星が地球のそばを通り、そのたびに人々の興味を惹きつけました。 ところで、彗星の名前にはその星の発見者の名前が付けられます。つまり、その人の名は星の名前として永遠に残るのです。当然、発見者は一躍有名となり、現代ならばマスコミなどから取材を受けることになります。 ――果たしてこれは、本当に手放しで喜べることなのでしょうか? 星空は、人の心を映し出す鏡だと誰かが言っていました。たぶんこれは、当たっているのではないかと思います。そして「鏡」である以上、映し出すものは選ばないのです。 人の心は、きれいな部分ばかりではないのです……。 いつも通りのはずだった。見慣れた三月の星座たち、のぞき慣れた天体望遠鏡、何も変わらない春の柔らかい風。何も変わらず、ただ星が好きで見上げているだけだった。 「あれ?」 美弥子は望遠鏡の中に広がる風景に、思わず不思議そうな声をもらした。 「何だろ?」 何か、普段はないものが見えた。どうやら、気のせいではないらしい。 「……彗星?」 美弥子が自分の目を疑ったのも、無理はない。それだけ、意外すぎるものなのだ。 「彗星群じゃ、なさそうだし……」 その年は、彗星群が見られることが話題になっていた。だが、それにはまだ時期が早い。 「じゃ、新しい彗星……?」 そう呟いてから、美弥子は思わず苦笑いを浮かべる。そんなこと、あるはずない。 「きっと、彗星が近づいてるの、知らないだけだよね」 美弥子はいわゆる、天文マニアではない。月食や皆既日食を見に、わざわざ遠くの都市に出かけたりはしない。ただ、夜空を見上げるのが好きなのだ。 「そう、だよね……」 だがそのあと天文台に電話をかけたのは、あの星が何なのかという純粋な興味からだった。 ――そう、それは単なる趣味のはずだった。 その夜までは。 「杜松彗星、か……」 新津は天文雑誌を複雑な表情で閉じると、街頭のテレビに視線を向けた。ブラウン管の向こうにいるのは、自分が好意を持っている人。見慣れたはずのその顔が、何故かひどく遠い存在に思えた。 美弥子が見つけたのは、新しい彗星だった。それまでの慣例通り星には彼女の名が付けられ、マスコミなどでたびたび目にするようになった。そして、やはりこれも今まで通りに、世間では一過性の天文ブームが起こった。 「杜松さん……」 新津は種々のマスメディアのおかげで、これまでよりもはるかに美弥子のことを知った。だが新津はそんな形で彼女のことを知りたかったのではないし、マスメディアが教えてくれた情報の中には一つとして大切なことはなかった。 どんなに好きだとしても、その人に対して何かをできるわけではない。しかし、何もできないから何もしないのは間違っている。それは分かっていた。分かっていたからこそ、悔しかった。 「ブラウン管の、内と外じゃな……」 テレビに映っている、美弥子の屈託のない笑顔。だがその表情は、心なしか普段より寂しそうだった。 「さて、行くとするか」 新津は一つ息をつくと、ゆっくりと歩き出す。その場から離れたい気持ちと、美弥子のことをあと少し見ていたい気持ち。二つの感情が、彼を速く歩かせなかった。 「本当に、何やってんだろ……」 頭の中を巡るのは、今までの美弥子との記憶。その一つ一つが大切なものであるからこそ、今こうして思い出しているのが辛かった。 「まだ、思い出になんかしたくないのにな……」 思い出とは、過去の積み重ね。だが新津の中では、美弥子に対する気持ちは当然まだ過去のものではなかった。 「はあ……」 重く溜息をつきながら、新津は「夢の森」のドアを開けた。 「いらっしゃい……おや、新津さん」 「こんにちは……」 「あー、トモちゃんだー」 絵里が、いつも通りに自分に駆け寄ってくる。新津は無理に笑顔を作り、それに応じた。 「やあ、絵里ちゃん」 「どうしたの? 元気ないね」 「そんなことないよ。気のせいじゃない?」 「そうかなあ……」 「そうだよ」 新津は絵里の頭を優しくなでながら、椅子にゆっくりと座り込んだ。 「はい、コーヒー」 「ありがとうございます……」 「ねえ、トモちゃん」 「何?」 「新しいお星さま見つけたのって、トモちゃんの好きな人でしょ?」 「そうだよ」 「あのお姉ちゃん、すごい人だったんだね」 新津はコーヒーカップをテーブルの上に置きながら、ゆっくりとかぶりを振った。 「そんなことないよ。杜松さんは普通の女の子だよ」 「じゃあ、絵里もテレビに出られるの?」 「それは分かんないな。テレビ、出たいの?」 絵里は首を横に振った。 「ううん、あんまり……」 「どうして?」 新津は不思議に思った。この子の性格ならば、当然頷くだろうと予想していたからだ。 「だって、友達と会えなくなっちゃうもん。テレビに出ると、みんなと遊ぶ時間がなくなっちゃうんでしょ?」 「そうかもね」 「絵里、そんなのやだ。学校のみんなといっぱいお喋りしたいし、いっぱい遊びたいし、それにおじいちゃんにだって会いたいし、それに……」 おじいちゃんというのは、前田のことである。絵里の実の祖父は、二人とも彼女が生まれるより前に亡くなっていた。 「トモちゃんにだって、会えなくなっちゃうんでしょ? そんなの、絶対にやだ」 「そうだね」 と、新津は絵里の頭をなでた。嬉しそうに笑う少女。 「それに、お姉ちゃんにも会いたいもん。絵里、お姉ちゃんのこと好きだから」 「お母さんに似てるから?」 「うん。でもね、お母さんにはもう会えないんだ……」 「どうして? 遠いところにいたって、きっと会えるよ」 優しい嘘をついた新津だったが、少女は真実を知っていた。 「お母さん、死んじゃったんだって」 新津は二の句が継げなかった。絵里は、微かに寂しそうな表情を浮かべながら言葉を続ける。 「だからね、もうお母さんの笑った顔、見られないんだ」 「……そうなんだ」 「でもね、絵里、寂しくないよ。だって、みんながいるもん。絵里、みんな大好きだよ!」 と、絵里はあどけない笑顔を見せた。それは、心の中に空いた穴を埋めるための無理な表情ではなく、ごく自然で素直な、ごまかしのない顔だった。 「トモちゃん、聞いてもいい?」 「何?」 「お姉ちゃん、どうしてあんなに寂しそうなの?」 「どうして、って……」 「だって、お姉ちゃん好きな人いるんでしょ? それなのにどうして?」 新津は苦笑しながら、 「好きな人がいても、寂しいときはあるんだよ」 と言ったが、絵里は納得しなかった。 「でも、おかしいよ」 「何で?」 「お姉ちゃんの好きな人って、トモちゃんなんでしょ?」 「違うよ。それ、杜松さんが言ってたの?」 「ううん。でも、トモちゃんはお姉ちゃんのこと、好きなんでしょ?」 「そうだよ。でも、だからって杜松さんが僕のこと好きになるとは限らないから」 「そうなの? でも、絵里が好きな人はみんな、絵里のこと好きって言ってくれるよ」 新津は絵里に視線の高さを合わせて、 「それはね、絵里ちゃんがいい子だからだよ」 と、その頭に手を置いた。 「僕はね、絵里ちゃんほどみんなから好かれてないんだ。杜松さんだって、僕のこと単なる友達って思ってるだけなんだよ。でもどうして、杜松さんが僕のこと好きだって思ったの?」 「だって、トモちゃんと一緒にいるときのお姉ちゃん、すごく楽しそうだったよ」 「それは友達だからだよ」 自分の感情が変化したわけではない。だからこそ、友達でも構わないと思っていられるのだ。 「新津さん、彗星が発見されてから彼女に会いましたか?」 不意に、前田が尋ねた。 「いえ。何せ彼女、忙しいですから」 「成程。それで、あの表情……」 「え? あ、だからそれは……」 前田は、新津の言葉に自分の声をかぶせた。 「確かに、新津さんに会えないことだけが原因ではないでしょうな。しかし、その一端になっているとは考えられませんか?」 「俺は、友達ですから」 「友達と会えないことも、寂しさを生み出すものの一つとは思わないですか?」 「それほどの意味を持ってる友人じゃないですから、俺は」 「しかし、それでは彼女の絵を描いた意味が……」 新津は微笑を浮かべて、 「絵って、自分のために描いてるものですから。絵を描くことそのものが、俺にとっては『夢』って意味なんです」 と言った。 「まあ、そんなことどうでもいいじゃないですか。それよりも、アトリエ借りていいですか?」 「え、ええ」 「じゃ、ちょっと借りますね」 やがて地下へと消えていく新津の背中を、前田は複雑な思いで見つめながら呟いた。 「彼は、優しすぎるんでしょうな……。そのために、自分の気持ちを後回しにしてしまうんでしょう……。ですが、本当にそれでいいんですか……?」 その幾日かあとの、日曜日。 「はあ……」 夜景を見つめながら、新津は小さく溜息をつく。窓の外に見えるのは、無数の星屑たちと優しい月だった。 新津は今日、何もしなかった。せっかくの休日にも関わらず、ただこうして部屋の中にいたのである。 「智幸、いる?」 亜紀がノックもせずに部屋に入ってくる。いつも通りのことなので、新津も特に気にする様子もない。 「どうかしたのか? こんな時間に来るなんて、珍しいな」 「智幸。今日どこか、出かけた?」 「いいや。それが何か?」 「今日、本屋で偶然美弥子さんと会ったよ。彼女、今日は何の取材もなかったんだって」 「そうだよ」 新津の相槌に、亜紀の表情が一瞬にして険しくなる。 「そうだよって、知ってたの!?」 「知ってたけど?」 「じゃあどうして、美弥子さんに会いに行かなかったのよ!」 「だって杜松さん、きっと疲れてるだろうから」 「本人に聞いたんだけど、彼女が今度スケジュール空くのって、二週間後までないって言ってたよ」 「そうなんだ」 そのあまりにも素っ気ない態度に、亜紀の中に怒りがこみ上げてくる。 「そうなんだって、下手するとあと二週間、ずっと会えないかも知れないんだよ!?」 「しょうがないだろ。彼女、忙しいんだから」 「しょうがないじゃない! 美弥子さんが寂しい思いを感じてること、智幸だって気付いてるんでしょ!? 会いに行ってあげてよ!」 「ずいぶんと、杜松さんのこと気にするんだな」 「見てるとかわいそうなのよ! あれだけ辛そうなのが! 智幸だって、同じでしょ!?」 「で、何で俺が会いに行くんだ?」 「……いいかげんにしなさいよ。智幸以外、誰がいるの!」 「亜紀、お前分かってないな。俺は、杜松さんに何とも思われてない人なんだよ」 「……誰が、美弥子さんに何とも思われてないって?」 「俺が」 亜紀は大きな溜息で応えた。 「それ、智幸の悪い癖だよ」 「何が」 「何かあるとすぐに悪い方に自己完結させちゃうこと。美弥子さんが智幸のこと何とも思ってないって言ったわけじゃないんでしょ?」 「言わなくたって、態度で分かるよ」 「は?」 「言葉に出されなくたって、色々なものを総合的に見れば――」 亜紀は幼なじみの言葉をさえぎるように、言った。 「智幸って、馬鹿?」 「何だよ、そりゃ」 「じゃ、節穴みたいな目の持ち主?」 「どっちでもないって」 「……あのねえ、智幸。一体どこをどう見れば何とも思ってないように見えるわけ?」 「それじゃまるで、俺が思いっ切り思い違いでもしてるみたいじゃないか」 「してるでしょ、実際! どこの世界に何とも思ってない人と夜中の二時に初詣に出かける人がいるの!?」 「別に、いるんじゃない? ほら、あの時間帯って暇になるし――」 亜紀は無言で新津に歩み寄ると、全ての力を込めて彼の頬を張った。 「な、何するんだよ!」 「何でされたか、分かんない!?」 「……」 「分からないわけじゃないんでしょ!? 誰かを好きになることが、その好きな人を大切に思うことがどんな気持ちかってこと!」 「でも、彼女は女性で……」 「だから、女心は分からない? 三流のテレビドラマじゃないんだから、そんな子供みたいな台詞、言うんじゃない!」 新津はたじろいだ。とても、下手なことは言えそうにない。 「人を好きになるのに、男も女もあると思ってんの!? その台詞を言う人はね、結局相手の気持ちが分かってないだけ! ごまかしなの、その言葉は! それに、何でわざわざ早く帰れるときに美術室に来て、智幸の部活が終わるまで待ってたのか、考えてみなさいよ!」 「ちょ、ちょっと待て! どうしてお前がそのこと知ってるんだよ!?」 新津は基本的に、美弥子との間にあった出来事は、「誤解」を招く可能性の少ないものしか他人に話していなかった。それは、十年以上の付き合いの亜紀も例外ではない。だが、彼女は何故か知っていて、そして悪戯っぽい笑みとともに言った。 「智幸の高校に友達がいたっておかしくないでしょ?」 「だからって、あのとき美術室には他に誰もいなかった……」 「六時すぎに、二人が校内を一緒に歩いてるのを見たら、それで充分だと思うけど?」 「あ……」 「分かった?」 「でも……」 まだ何か言おうとする新津に、溜息をつきながら亜紀は聞いた。 「ねえ、智幸は何で美弥子さんに告白したの?」 「何で、って……」 「美弥子さんに好きになってもらいたいからでも、一緒にいたいからでもないでしょ? ただ単に、美弥子さんのこと好きだから告白したんだよね」 「そうだけど……」 「だったら、それ以上の理由なんていらないじゃない。それにね、智幸はもうちょっと自分のこと大切にした方がいいよ。多少、わがままになってでも」 「俺の気持ちは大した問題じゃないよ。大切なのは、杜松さんを傷つけないこと。だから――」 亜紀は新津の言葉を制するように首を横に振りながら、 「本当に、何も分かってないね。いい? 自分を大切にするってことは、自分が好きなもの、大事に思ってるものを大切にするってことも含まれてるんだよ」 そう指摘された新津は、最初のうちは呆然とし、やがて小さく笑った。 「何がおかしいの?」 「いやね、亜紀の台詞って、俺も友人に言ったことあるんだよ」 「でも、忘れてた。どうかしてるんじゃない?」 「全くだ。一番大切で基本的なことが、抜けてるなんてさ」 と、新津は立ち上がり、思い切り背伸びをした。 「亜紀、ありがとな」 「ちゃんと、美弥子さんのこと笑わせてあげてね」 「保証はできないな。でも――」 新津は窓の外の夜空に視線を向けた。 「何もできないから何もしないのは、間違ってるからな」 「やっと、いつもの智幸に戻ったね」 「冗談抜きでどうかしてたよ。杜松さんは杜松さんでしかないってこと分かってたはずなのに、いつの間にか俺の方が距離を置いてるんだもんな」 「そうだよ。大切な人は、ちゃんと守らなきゃね」 新津は、笑顔でその言葉に応えた。 いつもの時間、いつもの公園、何一つ変わらない星空。けれど、そこで美弥子がしていることは普段と違っていた。 「……」 彼女はうずくまっていた。頭上には、いつにも増して星たちが輝いているのにである。 「ぼく……」 誰にも聞こえない言葉。誰にも届かない声。誰にも吐き出せない心。誰にも……。 美弥子は、孤独だった。周りに誰もいないわけではない。たくさんの人がいるからこそ、その寂しさがより浮き彫りにされてしまうのだ。 「……」 辛かった。泣きたかった。だが、泣けなかった。自分の涙を受け止めてくれる人が、誰もいなかったからだ。 「やだよ……」 甘えていると言われるかも知れない。だが彼女は、そんなに強くはないのだ。 「もう、こんなの……」 弱いからこそ、人は誰かに守られたいと思う。弱いからこそ、誰かを守り、その人に笑っていて欲しいと願う。だからこそ――。 「風邪、引きますよ。今夜は寒いですから」 新津も、美弥子のことを守りたいと思ったのだろう。彼もまた、強くはないのだから。 「新津、君……」 「あ、そうだ。コーヒー、飲みます?」 と、新津は普段と変わらない笑顔を見せる。 「うん!」 泣き出しそうな気持ちも、たくさんの吐き出したいことも、全てどこかに消え去っていた。たった一つだけ残ったのは、笑顔だった。 「どうして、ここに?」 新津から受け取ったコーヒーを飲みながら、美弥子は尋ねた。 「たぶん、ここにいるんじゃないかと思って。前に、話してくれましたよね。ここに来て、よく星を見てるって」 「覚えててくれたの?」 「正確に言えば、ふっと思い出したんです。もしかしたら、って」 と、新津は美弥子の隣に座り込む。 「きれいですね、ここから見る星空って。彗星を見つけたのも、ここなんですか?」 「あ、うん……」 「――何も、変わりませんよね」 「え?」 「新しい彗星を見つけたって、杜松さんは杜松さんですよね?」 「あ……」 美弥子は一瞬言葉を失い、そして嬉しそうに頷いた。 「うん」 「ですよね? でも、辛いこともたくさんあるんじゃないですか?」 その言葉に、美弥子は少し寂しそうな表情で、 「みんな、変わっちゃった……」 「自分を見る目が変化したんですね。まるで、杜松さんが特別な人みたいな感じに」 「分かるの?」 「大方の想像はつきますよ。でもきっと、大丈夫ですよ」 と、新津は宝石箱のような夜空を仰ぐ。 「杜松さん、星を見るの嫌いになりましたか?」 「ううん、そんなことない」 その言葉に、新津は笑いかけながら、 「なら、大丈夫だと思いますよ。だって、杜松さんにとって大切なものは何も変わってないじゃないですか」 「でも……」 「大丈夫。杜松さんにとって大切なものが変わらないように、杜松さんのこと大切に思ってくれる人だって何も変わらないんです。そういう人は、杜松さんがどんな人物なのか、ちゃんと分かってますから」 「それって、新津君も?」 新津は少し顔を赤くしながら、言う間でもなく肯定の言葉を口にした。 「ええ。ただ、まだ杜松さんのことそんなに知ってるわけじゃないですけど」 「でも、大切に思ってくれてるんだよね?」 念を押すように、もう一度。そして返ってくる答えを、何度でも聞きたかった。 「そうですよ。ただ――」 「ただ?」 「杜松さんが、迷惑なんじゃないかなあって。もしそうなら――」 「そんなこと、ないよ!」 本心からの否定。それは、理由のいらない言葉だった。 「ぼく、子供の頃病気で入院してたんだ。結構長かったからたくさん人が死ぬところ見たりもしたの。仲良かった子が死んじゃったりもして、悲しかったの覚えてる」 と、美弥子は空を見上げる。 ――病院の窓から見る星は、今よりもっと高かったっけ。 「でも、あの頃は子供だったから、死がどういうことかなんて分からなかった。ただ、仲良くなった人たちと話せなくなるのが、別れるのがすごく悲しかったの。それは、今だって同じだよ。だから、そんなこと言わないで」 「ごめん。でも、嬉しいですね」 そう言って、新津は優しく微笑んだ。 「あ、流れ星」 新津は目を閉じ、手を合わせる。だが、美弥子はそうしなかった。 「何、お願いしたの?」 「これからも、何も変わりませんようにって。杜松さんは?」 「何も、お願いしなかったよ」 「どうしてですか?」 「もう、願い事は叶ったから」 「え?」 不思議そうな表情の新津に、美弥子は悪戯っぽい笑顔で、 「ねえ、今日、新津君が来るのずっと待ってたって言ったら、どうする?」 と言った。当然、大きく動揺する新津。 「じょ、冗談はやめて下さいよ」 「冗談なんかじゃないよ。それがぼくの、願い事だったんだから」 「え、えっと、その……」 「そんなお願いじゃ、駄目?」 「だ、駄目じゃないですよ!」 思い切り首を横に振る新津に、美弥子は満足そうな表情を差し向けた。 「あ、あの、それで……また明日から、忙しくなるみたいですね」 「うん。でも、頑張れると思うよ。大切なもの、たくさん持ってるから」 「そうですね。杜松さんだったら、きっと大丈夫ですよ」 「新津君も、いるしね」 「俺も、ですか?」 「もちろんそうだよ。どうしてそんなに驚くの?」 と、逆に美弥子の方が不思議そうな表情を見せる。 「俺、杜松さんにとっては単なる友達だと思ってたんですよね。だから――」 「友達なんかじゃないよ!」 思わず叫んでしまってから、恥ずかしそうに俯く。 「友達なんかじゃ……ないから……」 「え、えっと……あ、星が、きれいですね……」 ぎこちなく笑う新津に、美弥子は呟くように言った。 「あんまり、話題そらして欲しくないな……」 「あ……その……」 「せっかく、久しぶりに会えたんだから」 ――それに、他人を傷つけないわがままもあるって分かったんだから……。 「新津君は、どうしてぼくに会いに来たの?」 「杜松さんが辛そうだったから。あんな顔、見ていたくなかったから」 「それだけ?」 「――一番は、杜松さんに会いたかったから。だから、会いに来たんです」 それが、美弥子の求める答えだった。 「どうして、そんなこと聞くんですか?」 「何となく、聞きたくなったの。おかしい?」 そう言う美弥子の微笑に、新津は何も声にできなかった。 「どうしたの?」 「い、いえ、その、ただ……」 「ただ?」 「その……何でもないです」 こういう態度をされると、何としても聞き出したくなってしまうのが美弥子の性格である。増して相手が新津とあっては、どうしてもその口を割らせたくなってくる。 「言ってくれないの? それとも言えないの?」 「それは……その……」 「いいもん。言ってくれなくたって」 と、美弥子はすねた表情を浮かべる。新津は慌てて、 「そ、そういうことじゃないんです。俺は――」 「何?」 美弥子はすでに笑っていた。新津は自分が見事にはめられたことに気付くが、もちろんそれで怒りが生まれるはずもなかった。 「その……えっと……、杜松さんが……かわいかったから、だから何も言えなくなったんです」 「それって、お世辞?」 無論、照れ隠しの台詞。だが心拍数が上がっているせいか、新津はそれにも真剣に反応する。 「そ、そんなことありませんよ!」 「分かってるよ。新津君は、そういうことじゃ嘘は言わないから。ありがとう」 と、美弥子は笑いかける。その笑みが新津を再び沈黙させる効果を有していたことは言う間でもないだろう。 「新津君」 「な、何ですか?」 「あの、ぼく、できるだけたくさん、新津君のそばにいたいんだけど……迷惑?」 「迷惑なんかじゃありませんよ。そう言ってもらえて、すごく嬉しいです」 「ぼくも嬉しいよ」 二人は顔を見合わせ、笑い合った。お互いに、暖かかった。 「それじゃ、そろそろ帰りましょうか。時間ももう遅いし――」 立ち上がる新津の服の袖をつかみながら、美弥子は首を横に振っていた。 「明日は、取材があるの午後からだから……もう少し……」 新津は優しい微笑みを浮かべて、もう一度美弥子と同じ視線になると、 「何、話しましょうか?」 と、腕時計を外し、そして空を見上げた。 きっと、星屑たちは二人を見守るだろう。何故ならば、そうすることで星空もまた、もっと優しい存在へとなるのだから。 エピローグ 君は誰と幸せなあくびをしますか。 ――この話は、まだ終わっていません。しかし、これから先は私の語るところではないでしょう。あの二人が現在どうなっているのか、私は当然分かりません。しかし、それでいいのです。人がいれば、その数だけ物語があります。それぞれの心、それぞれの言葉、それぞれの意思。私はあくまで案内人であり、その全てを知ることも、また伝えることも不可能です。でも、物語は続きます。何故ならば、彼らは生きているからです。これをお読みになったあなたの中で、またはこれを記した私の中で。 ところで、私がこの物語を語った理由の一つに、この物語が優しかったから、というものがあります。 あなたにとって、この物語は優しかったですか? 暖かかったですか? もしこの質問に対する答えが肯定であるならば、私にとってそれは幸せなことです。 大切なことは、すぐ近くに全て落ちています。けれど、それを見つけるのは難しいものです。この物語が大切なことを見つけることの手がかりの一端となることを願いながら、幕を閉じたいと思います。それでは、最後に。 『あなたを大切に思ってくれる誰かは、ありのままのあなたを大切にしてくれる人ですか?』 FIN |