プロローグ 素直 人は、太古の時代から星に魅せられてきました。太陽が出ている間は見ることのできないその景色にあるときは物語を作り、またあるときはまだ見ぬ他の惑星の生命に思いを馳せました。またそれが占いや詩や絵画など、様々な方面に用いられていることは言うまでもありません。そこにどんな魅力があるのかを語るのは難しいことですが、それが多くの――それこそ星の数ほどの――人々を惹きつけてきたのは紛れもない事実です。 そしてこの物語の主人公である少女も、そんな夜空に浮かぶ無数の光に魅了された一人なのです……。 少しずつ形を変えながら、ゆっくりと流れる雲。休みの間の太陽とは違う、柔らかい日射し。夏と秋の間を吹く、季節の移ろいを知らせる心地よい風。杜松美弥子(ねず みやこ)はそんな、一年でも少ししか見ることができない風景が好きだった。そして彼女は、そんな自然を感じ取るために屋上に出ていた。 「眠い……」 暖かな空気と部活の疲れが重なったせいだろうか、軽い眠気が美弥子を襲った。 「ふぁ……」 自然と出るあくびは、より一層睡魔の存在を美弥子に自覚させた。もしそのままだったらあるいは、彼女は本当に眠っていたかも知れない。 だが、そうはならなかった。誰かの短い声が聞こえてきたのである。 「あ」 「え? あ……」 美弥子もその声の主と同じように、短く声を返す。 「ぐ、偶然ですね……」 その声の主――新津智幸(にいつ ともゆき)は、ぎこちなくそう言った。彼は過去に一度だけ、美弥子と言葉を交わしたことがあった。正確に言えば、新津の方が一方的に、しかもたった一つの言葉を口にしただけなので、会話としては成立していないが。 「えっと、あの……付き合って、もらえませんか?」 それが、新津の唯一の台詞だった。そのときはあまりの突然さに、その単純な単語の意味が分からずにいた美弥子だったが、時間が経つにつれその意味は彼女に染み込み、やがてその心を大きく揺らすに至った。 そして、現在である。 「……」 美弥子は何の相槌も打てずにいた。何しろ人見知りするというその性格に加え、自分に告白した張本人が相手なのだ。しかも二人きりなのである。美弥子の胸の中でどれだけ複雑に感情が絡み合っているか、容易に想像できるだろう。 「えっと、あの……この間は、ごめんなさい。急に、変なこと言っちゃって……」 「え……あの……」 「告白の答え、嫌だったら言わなくていいですから」 と言って、その場から立ち去ろうとする新津の背中に、無意識に美弥子は声をかけていた。 「あ、あの、どうしてここに来たの?」 「何となく、来てみたくなったんです。まさか、杜松さんがいるとは思いませんでしたけど」 新津は先輩に対する話し方をしながら、軽く笑った。 「それで……えっと……」 美弥子はそれに応えようとするが、言葉が出てこない。それを察したのか、先に口を開いたのは新津の方だった。 「あの……杜松さん、疲れてるんじゃないですか?」 「どうして?」 「だって、眠そうだから……」 「え……」 自分ではそんな素振りは見せていないつもりだった美弥子は、少し驚いた表情を見せた。 「部活、大変なんじゃないですか? あんまり、無理しない方がいいですよ」 「……うん。ありがとう」 自然と、そんな言葉が口をついて出る。 「気持ちいいですね」 「え?」 「あ、天気のことです、天気の。でも、こんな心地いいんだったら眠くもなりますよね」 無論それは皮肉などではなく、素直な感想だった。そして、鳴り出す予鈴。 「俺、戻りますね。次、実験なんですよ。それじゃ」 と、新津は少し急ぎ気味に立ち去っていった。去り際に見せた優しい笑顔は、彼の性格を充分すぎるほど物語っていた。 小さな風がまた一つ、美弥子の長い髪を軽くなびかせながら吹き抜けていった。それは、美弥子の心に小さな暖かさを運んでくる風だった。 第一章 君に会いに行く 「すっかり遅くなっちゃったな……」 すでに七時すぎを指してる腕時計に視線を落としながら、美弥子はそう呟いた。 「部活、最近きついなあ……」 二学期に入ってから、六時前に家路についたことは一度もなかった。自分で選んだのだから愚痴を言ってもしょうがないのは分かっていたが、気持ちでいくら頑張ろうと思っても体がついていかないことが時々あった。 「疲れた……」 そう呟きながら校門を出ようとしたときに、訝しげに自分の名を呼ぶ声が背後から聞こえてきた。 「……杜松さん?」 振り返るとそこには、自分に好意を持っている年下の二年生の顔があった。 美弥子は春に、高校生になったばかりである。だが、その年齢は十七歳で、今年の誕生日――十二月二十七日――で十八歳となる。 もちろん、彼女が遅れて高校生になったのには理由がある。小学生の頃に大病を患い、二年もの闘病生活を送っていたのだ。 そして、その事実を美弥子自身も、彼女の周りの人間も気にしていない。新津に至っては、その理由に全く興味を持っていなかった。言うまでもなくそれは、美弥子が自分の過去を気にしていないからに他ならない。 「部活、終わったんですか?」 「うん」 「あの、それで……家ってどっちですか?」 「ぼくの? あっちの方だけど……どうして?」 新津はしばらく黙って俯いていたが、やがて意を決したように顔を上げた。 「あの、俺の家も同じ方向なんです。……えっと、あの、それで……」 先を言い淀む新津に、美弥子は微笑みながら、 「せっかくだから、一緒に帰らない?」 「え……」 「それとも嫌?」 新津は激しくかぶりを振り、そして照れ笑いを見せながら答えた、 「そんなこと、全然ありません」 「じゃ、帰ろうよ」 歩き出す二人。時間が速く流れ出す。 「……えっと、あの……月、きれいですね」 どうしても話題が見つからない新津は、夜空にそれを求めた。 「うん」 「……」 どうしても、話を先につなげられない。頭の中で、いくつもの言葉がシャボン玉のように弾ける。何も声にできなかった。 「つまんない、ですよね」 「え?」 「何も話せなくて。その……何話せばいいのか、分からなくて……。こういう状況、慣れてないんです」 と、新津は苦笑いを見せるが、その表情に自嘲の色は含まれていなかった。 「そういえば杜松さん、自分のこと『ぼく』って言うんですね」 「うん。変だと、思う?」 「まあ、『ぼく』って一人称を使う女の人が少ないのは確かですよね。でも、別に変だとは思いませんけど」 新津は素直な気持ちでそう答えて、話題を転換した。 「えっと、あの……部活、大変ですか?」 「うん」 「ソフト部でしたっけ? 大変ですよね、運動部は」 「うん。楽しいけどね」 「でも、無理はしない方がいいですよ。杜松さん、疲れてるみたいですし」 「うん。ありがとう」 と、美弥子は笑いかけた。それは、意識することなく出た笑みだった。 「新津君って、部活なんだっけ?」 「俺ですか? これですよ」 と、新津は街灯に自分の右手を照らした。彼の手には、様々な色の絵の具がついていた。 「美術部?」 「ええ。美術展、近いんですよ」 「それで、こんな時間に? あ、もしかして」 噂で聞いたことがある。あまり目立った活動をしないことで有名な美術部において、熱心に絵を描いている先輩がいると。 「ああ、たぶん俺ですね、それ。何か周りからすると、俺って変わり者らしいんですけど。まあ、うちの部って別名帰宅部って呼ばれてるぐらいですからね。ちゃんと部活やってるのって、俺を含めて片手の指で足りるくらいしかいないんですよ。部員は二十人以上いるんですけど」 「大変だね」 いつの間にか、美弥子はごく普通に話すようになっていた。あまりよく知らない人間とはほとんど話せない性格は、どこかに消え去ってしまっていた。そしてその自分自身の変化に、彼女は気付いていなかった。 「まあ、他の人はどうだろうと、こっちは好きでやってることですから。絵を描くのって、楽しいですし」 そう話す新津の表情は子供のようにあどけなく、純粋だった。 「絵って、当たり前ですけどどんなシーンでも描けるんですよ。例えばこの夜空にオーロラがあるようにする、とか紅葉の中に雪を降らせる、とか。そんなあり得ない場面を想像するのが、とにかく楽しいんですよ。もちろん、それを実際にキャンバスの上に描くのは大変なんですけど、それでも頭の中の風景が実際に絵としてできあがったのを見ると、嬉しくて――」 新津はそこで、美弥子が自分の顔をじっと見つめていることに気付き、 「あ……すいません。つまんないですよね。こんな話されても」 美弥子は首を横に振りながら、 「ううん。本当に絵が好きなんだね、新津君って」 「下手の横好きってやつですね、きっと。それに、夢ですから」 「夢?」 「画家になりたいんですよ、俺。絵を描くのが好きだからっていう、ただそれだけの理由で」 そう言って、新津は笑顔を見せた。 「現実が見えてないって、よく言われるんですけどね。たとえどんなに叶う可能性が低くても、夢は夢ですから。しょうがないんですよね」 と、新津は何かを諦めたような表情を浮かべる。だがその顔つきすら、どこか楽しげだった。 「じゃあ、大学は美術系の?」 「まだ分かりません。一年以上も先のことですからね」 「あ、そっか」 「それに今は、将来のこと考えるより――」 新津は言葉を切り、一つ息をついた。そこから先を口にするべきかどうか、迷っていた。 「美術展のこと気にしないと」 結局、新津が本当に言おうとしていた台詞は、吐き出されることなく彼の記憶の中に閉じこめられた。 「今描いてるのは、これなんですけど」 と、新津はバッグから一枚の写真を取り出す。 「子供と雪だるま?」 「それ、今年の二月に親戚の家に行ったときに撮ったんですよ。絵のモチーフの参考に、写真をよく撮るんです。まあ単純に、趣味の一つでもあるんですけど」 それは降り積もった雪の上で、小さな女の子が雪だるまと並んで笑っている写真だった。 「いい写真だと思うよ、これ。だから、絵に描こうって思ったんでしょ?」 そう言いながら、新津に写真を手渡す。 「うん。ただ、この雰囲気をキャンバスに伝えるのは難しいですね。だからこそ、やりがいもあるんですけど」 いつの間にか、二人の帰路の分岐点である交差点に来ていた。時間が、元の速さに戻る。 「あ、杜松さんそっちですか? 俺、こっちですから。それじゃ」 「あ、うん」 そう頷いたあと、少し経ってから小さくなった新津の背中に声をかけた。 「新津君」 「ん?」 「頑張ってね」 新津は、笑顔でそれに応じた。 「ぼくも、頑張らないとね」 見上げた星空は、いつにも増して優しかった。そしてそれは、新津が本当に言いたかった言葉を知っていた。 『それに今は、将来のこと考えるより――杜松さんと一緒にいられることが、大切なんです』 傾きかけた夕日が照らされる校舎の中を、美弥子は何となしに歩いていた。と言っても、全く理由がないわけではない。だが――。 「邪魔しちゃ、悪いかな……」 何故、部活が休みになった今日に、わざわざ学校に残ることを選んだのだろうか。家に帰るのが嫌なわけではない。ただ単に、見たかったのかも知れない。新津が絵を描く姿を。 「あ」 あてどなく歩いていたはずの足が、いつの間にか美弥子の体を美術室の前に連れてきていた。 「えっと……」 とりあえず、恐る恐るドアを開ける。その音に気付いた新津が、筆を止めこちらを見ていた。 「こんにちは……」 ぎこちない一言。いつも口にしているその単語が、大きな意味を持っているように思えた。 「杜松さん? どうしたんですか?」 「えっと、あの……あ、頑張ってるかなって思って……」 新津の不思議そうな表情は、すぐに微笑へと変化した。 「今日は、部活は?」 「あ、今日は休み。一人?」 と、後ろ手にゆっくりとドアを閉めながら、その教室の中を見渡す。 「見ての通りです。まあ、珍しくない光景ですから」 と、新津はキャンバスの前を離れて、窓を開け始めた。聞こえてくるいくつかの運動部の声。 「大丈夫ですか? 絵の具、臭いと思うんですけど……」 「あ……ごめん」 「え? 何がですか?」 「絵を描くの、中断させちゃって……」 新津は首を横に振って、 「いえ。ちょうど一休みしようって思ってたところでしたから」 と、申し訳なさそうな美弥子に笑いかけた。 「それよりも、ここから見る夕日ってきれいなんですよ。ほら」 その太陽は、全てのしがらみを包み込んでくれるような柔らかさを持っていた。 「俺の、気に入ってる風景の一つなんです」 「この夕日、描いてみたら?」 「描けませんよ。この夕日、毎日微妙に違うんです。俺、常に変化するものを描ける技量は持ってませんから。それに――」 「それに?」 「この風景は絵に描くより、心に焼き付けておきたいんですよね」 と言って、新津は照れ笑いを浮かべる。 「新津君って、詩人なんだね」 「国語の成績、あんまりよくないんですけどね」 気恥ずかしさをごまかすように、新津は冗談めいた台詞を口にした。 「ねえ、新津君の絵、見てもいい?」 「いいですけど、まだ途中ですよ」 美弥子にとって、完成しているかどうかは問題ではなかった。ただ、純粋な興味としてそれを見たかった。 「――これ?」 「まだ、人様に見せられるレベルじゃないんですけどね。まあ、出品するだけならただですし」 「そんなことないと思うよ。絵とか詳しいわけじゃないけど、でも、上手だと思う」 「ありがとう。――さて、続きでもやりますか」 と、新津は思い切り背伸びをした。 「それじゃ、邪魔になる?」 「杜松さんが? そんなこと絶対にありませんよ」 「じゃあ、ここにいていい?」 「構いませんけど、つまらないと思いますよ」 その言葉はある意味において本心で、別の面から見れば自分の気持ちと全くの逆だった。 ――本当は、そばにいて欲しい。 そう言えたらどんなにいいだろう。だが、それは言えなかった。断られることが怖いからでも、勇気がないからでもない。美弥子に無駄な時間を与えたくなかったのである。 「それに杜松さん、疲れてるみたいだから早く帰って休んだ方がいいんじゃないですか?」 「それでも、ここにいたいって言ったら?」 美弥子は微笑んでいた。少し悪戯っぽい笑みも含まれてはいたが、その表情は真剣だった。 「もちろん、断る理由なんかありませんよ」 そう話しながらも、新津は何故美弥子がここにいたがるのかを考えていた。 ――まず考えられるのは……。 新津は内心で、すぐにその自分にとって都合のよすぎる理由を否定した。そんなことは、あるはずがない。 「全く、俺も何を考えてるんだろうな……」 美弥子に聞こえないように口の中で呟き、意識を目の前のキャンバスに集中させる。それからの新津の瞳には、余計なことは何一つ見えなくなった。今の彼の世界にあるのは絵を完成に近づけようという意志と、雪だるまとともに笑う未完の少女だけだった。 「……」 日は傾き、教室の中が赤から蛍光灯の色へと変化する。少女の笑顔が少しずつ形作られ、やがてそれは新津に向かって微笑みかけるようになった。 「……ふう」 筆を置き、一つ息をつく。それは新津が、緊迫した空気から脱するための動作だった。 「あと少しだな。さて、今日のところはこれで……」 そのとき、新津は自分が何か重要なことを忘れていることに気付いた。 「あ、杜松さん」 慌てて、視線を美弥子の方に向ける。気持ちよさそうに眠っていた彼女に新津は苦笑を浮かべ、起こすことなく片づけに取りかかった。 「疲れてるんだろうな……」 新津は最後に手を洗い終えると、優しく美弥子の体を揺さぶった。 「杜松さん、起きて下さい」 「え……え? あ……」 「おはようございます」 美弥子は、顔を真っ赤にしていた。そんな少女に、新津が微笑みながら言う。 「疲れてるんですね、きっと」 「あ、あの……絵は?」 照れ隠しのために、美弥子は話を逸らすような質問をした。もっともそんなことをしなくても、新津が彼女の寝姿についての話を続けるはずもなかったが。 「今日はもう終わりです。あとは帰るだけですよ」 「そ、そう……。あ、あの」 美弥子は俯きながら、 「寝てるとき、変じゃなかった?」 と言い、新津はその言葉に小さな笑みを見せた。 「絵を描くのに集中してたんで分からないですけど、でもさっき見たときは心地よさそうな顔してましたよ。普段、寝相でも悪いんですか?」 「そ、そうじゃないんだけど……」 「大丈夫ですよ。心配しなくても」 そう言うと新津は自分のバッグを背負い、戸締まりのチェックをし始める。やがてそれが終わると、困惑した表情を美弥子に向けた。 「どうしたの?」 「雨、降り出してきたんですよ。でも俺、傘持ってなくて……」 「あの、ぼく持ってるけど」 一瞬の沈黙のあと、新津は聞こえなかったふりをして、 「……何か、すぐやみそうにないですね」 「あの、ぼく……」 「久々に走ることになりそうですね。まあ、暑いからちょうど――」 美弥子は独り言のように喋り続ける新津の耳元に歩み寄って、 「傘、持ってるけど!」 と、ほとんど叫ぶような感じで言った。 「は、はい……」 「どうして、無視するの?」 「いや、それは……」 「一緒に帰るの、嫌なの?」 新津は当然、激しくかぶりを振る。 「じゃ、どうして?」 「照れくさいじゃないですか。その……」 「一本の傘に、二人で入るなんて?」 「そういうこと、です……。それに、杜松さんの――」 「迷惑じゃないよ、ぼくは」 美弥子は、新津の言葉に対する答えを、先回りして口にした。 「でも、あの……」 「でも、何?」 「そんなに強く降ってるわけじゃありませんし……」 その瞬間、雨音が大きくなる。唖然とした表情で窓の外を見つめる新津。 「三流のコメディじゃないんだから……」 「強くなっちゃったね」 「そ、そうですね……」 「どうするの?」 「えっと、あの……あ、ブレザーでも頭からかぶって帰れば何とかなりますね、きっと」 と、新津はぎこちない笑い顔を見せる。だがその態度はむしろ、あまりいい効果は持っていなかったらしい。 「……新津君」 「何ですか?」 「ぼくと帰るの、そんなに嫌なの?」 その声に、怒気が混ざっていることに気付いた新津は慌てて、 「い、いえ、そういうわけじゃなくて……」 「じゃあ、どういうわけ!?」 ――あれ? 何で、怒ってるんだろ? 意識のどこかでは、そう思っていた。だが出てくる言葉は、その意思に反していた。 「別にいいんだから! 勝手に、雨にでも濡れてれば!?」 「あの、その……」 ――そんなこと、言いたくないのに……。もっと、違うこと話したいのに……。もっと、楽しいこと喋りたいのに……。 「俺は――」 新津は意を決した。視線は足元に落ちていたが、心は美弥子の方を向いていた。 「俺は、杜松さんのこと好きだから……だから、一緒の傘で帰るのが照れくさいんです。でも、だからこそ一緒にいると楽しいし、笑ってくれるのが嬉しいし……だから、その……」 美弥子が自分のそばに来る。新津は、恐る恐る顔を上げる。彼女は、照れながら笑っていた。 「一緒に、帰ろう」 新津の真っ赤に染まった顔が、優しく微笑んだ。 そして、その数分後。 「雨、少し弱くなりましたね」 「じゃ、走って帰る?」 「まさか」 美弥子の冗談めいた台詞を、新津は大げさに否定した。 「ねえ、新津君」 「何ですか?」 「さっきのぼく、どう思った?」 「さっきのって?」 「美術室で、怒ってたときのことなんだけど……」 「ああ。どう思うって、あれは俺が全面的に悪いんですから。どうもこうも――」 「ううん、そんなことないと思う。だって、よく考えたらあそこでぼくが怒るのって、おかしいわけだし……」 ――それに、どうして怒ってたんだろう。別に、新津君がぼくのこと好きなだけなのに……。 「いえ。せっかく一緒に帰ろうって言ってくれてるのに、それを断るようなことを言ったんですから。『ブレザーでもかぶって』ってのはないですよね、いくら何でも」 と、新津は苦笑いを見せ、言葉を続ける。 「でも、本当に照れくさかったんですよ、あのとき。もちろん、今もなんですけど。だって、帰ろうと思ったらいきなり雨が降り出して、それで杜松さんと一緒の傘で帰ることになって――なんて、三流の恋愛小説じゃないんですから」 「そういう恋愛小説って、嫌い?」 「いえ。ありがちな展開の小説って、結構好きなんで」 新津はおどけてそう言い、美弥子を笑わせた。 「それはそうと、どうして今日美術室に来たんですか?」 新津は、美弥子は自分のことなど何とも思っていないと考えていた。それだけに、今こうして彼女と並んで歩いていることが不思議だった。 「あの、どんな絵を描くのかなって思って……」 「俺がですか? でもそしたら、何ですぐに帰らないで美術室にいたんですか?」 「あ……やっぱり、邪魔だった?」 新津は力を込めて否定した。 「そんなこと絶対にありませんよ。ただ、不思議だったから。どうして、俺一人しかいないところにいたかったんですか?」 普通の思考の持ち主ならば、すぐにたどり着く結論が一つある。だが新津は、そんなことは絶対にあり得ないことだと信じ込んでいた。もし万が一にその理由が正解なのだとしたら、それこそ本当に三流のラブストーリーになってしまう。 「まあ、最後までいたのは寝たからだとしても――」 「そんなことないよ」 「え?」 「寝なくても、終わるまで待ってるつもりだったんだけど」 「ど、どうして、ですか?」 そう尋ねられ、美弥子は奇妙なことに気付いた。確かに、新津のことを終わるまで待っていようと思っていた。だが、こうして改めてその理由を聞かれてみると、分からないのだ。 「どうしてだろ」 「理由、ないんですか?」 「ううん、ないんじゃなくて、分からないんだと思う。変だね、自分の気持ちなのに」 「そんなことないです。俺だって、分からなくなることありますから。――正直に言うと、杜松さんのことをどうして好きになったのかも、よく分からないんです。あ、でも大して好きじゃないってことじゃありませんよ。もしかしたら――」 新津は言葉を紡ぐことを中断した。この先に自分が言おうとした台詞が、自分の心拍数を引き上げるものだったからだ。 「もしかしたら?」 「いえ、何でも……」 ないとは言えなかった。美弥子が自分をじっと見つめていたのだ。 「前に、誰かが言ってたんですよ。本当に好きなものはどんなところが好きなのか、どうして好きになったのか説明できないものなんだって」 「それが、ぼく?」 新津は少し寂しそうに笑いながら、 「もっとも、迷惑だと思うんですけど」 「迷惑って、どうして?」 「俺って顔はそんなにいいわけじゃないし、背だってそんなに高くないし、運動も大してできるわけじゃないし、その……全然いいところないと思うんですよね。だから、そんなやつに好きって言われても、うっとうしいだけですよね」 「そんなこと……」 「それに、自分の短所だったらすぐにいくつでも思いつくんですけど、長所っていうのは思い浮かばないんです。だから女の子を好きになる資格、俺にはないと思うんです」 「そんなことない!」 美弥子の予想外の強い否定の言葉に、新津は狼狽の表情を見せる。 「杜松……さん?」 「人を好きになるのに、資格なんていらない! 新津君にはいいところ、たくさんあるよ! まだ自分で気付いてないだけ!」 美弥子はそう叫ぶように言ったあともしばらくは軽い興奮状態だったが、やがて我に返るとうなだれ、先程までとはまるで逆の消え入りそうな声で謝った。 「ごめんなさい……」 「いえ……、謝んなきゃいけないのは俺の方です。自分勝手なことばっかり言ってしまって、本当にすみません。それと……その、辛そうにしてるよりも笑顔の方が、杜松さんは……かわいいですよ。俺は……」 言いたいことは数多くあった。だが、その全てを上手く言葉にすることはできなかった。 「だから……えっと……」 新津は足元に視線を落とし、必死に言葉を探していた。 「ありがとう。かわいいなんて言ってくれて」 何となく、分かったような気がした。美術室に残ろうと思ったのも、新津に対して怒ったりするのも全ては――。 「あ、じゃあ俺ここで」 その言葉に、美弥子は今自分がいる場所が分岐点であることに気付いた。 「ここでって、まだ雨やんでないよ?」 「大丈夫です。ここからそんなに遠いわけじゃありませんから」 それを聞いた美弥子は、その声に少し悪戯っぽいニュアンスを含ませて、 「ふうん、遠くないんだ。だったら、送っていくけど」 「そんな、悪いですよ。それにもう、時間だって……」 新津の反論は、簡単にさえぎられた。 「いつもは、これよりもうちょっと遅いの。それに新津君が風邪なんか引いちゃったら、美術展に間に合わなくなっちゃうでしょ?」 「それはまあ、そうですけど……」 絵のことを言われてしまうと、新津にはどうにも反論のしようがなかった。 「だから、ね?」 ――本当は、違うんだけどね。 ただ、少しでも長く一緒にいたかった。そんな自分の気持ちに、戸惑いはなかった。 それは、大切な心だった。 |