空蝉



 髪の毛が揺れている。まっすぐで、どこも痛んでいない黒髪。緑色の液体で満たされた透明なカプセル。子宮と呼ぶにはあまりも人工的な物体の中で、その本人も気付かないほど小さく、彼女の心の声が言った。
「私は……誰?」


 白い、無機質な壁に囲まれた部屋。「研究所」の総責任者たる人物に与えられた空間に、その主となる白髪混じりの男性と、彼の半分ほどの時間を生きた青年がいた。
「ラストチェック、オールクリアです」
 白衣の青年が書類と共に持ってきた報告は、もうすぐ還暦を迎えようかという男にとって、本来嬉しいはずのものだった。だが、その眉間に刻まれた皺は一層深さを増し、表情は曇るばかりだった。
「……皮肉だな」
「は?」
「彼女のプロジェクトネームだよ。『ウツセミ』――それの意味するところは、知っているだろう?」
「『人間』……ですか」
「偽善だな」
 男は吐き捨てるように言い放ち、書類を机の上に乱雑に置いた。
「生まれてきたその時点で成人だと? 子供時代を経ないで大人になった人間など、歴史上たとえ一人でもいたのかね」
「しかし……」
「人は滅ぶぞ。そう遠くない未来に」
 男は深く溜息をつくと、無機質な天井を睨みつけ、目を閉じた。


 研究所、別室。
 複数の白衣姿の人間に囲まれたカプセルの中で、彼女は胎動を始める。今日に生命活動を開始したのにもかかわらず、既に二十年分の記憶を所持している女性。初めて聞くのは、複数の人間の歓声とどよめきと、そして自らの心音。時の流れをはっきりと感じた瞬間、彼女はまぶたを開いた。


「現時点で名前もなければ戸籍もない、それなのに今までを生きてきた記憶だけは存在する。そんな状態で生まれてくることが幸せかね」
「それは……」
「科学は万能じゃなかったのだよ」
 男の声に含まれていた感情の色は、失望だった。それに反論するかのように、青年は言う。
「それでも、私達は彼女を生んだじゃないですか」
「生んだ?」
 自嘲をその瞳に浮かべながら、男は吐き捨てた。
「違うな。『造った』のだよ。本来造るべきでなかったものを」


 服を着せられる。白衣を着た人間達が自分を取り囲んでいる。矢継早の質問にも、淀みなく答える。小学校時代に世話になった先生の話、中学時代の部活動、高校で好きだった先輩の話……。その内容自体は他愛のない、世間話と呼んで差し支えないものだ。けれど何なのだろう、この違和感は。
いくつもの質問に答えているのは自分自身のはずだ。過去の記憶を話しているだけのはずだ。それなのに何故、自らの声が遠くに存在しているような錯覚を覚えるのだろうか。そもそも、この感覚は錯覚なのか?
 ふと、自分の手のひらに視線を落としてみる。何ら変わったところのない手。血が通い、過度に高くも低くもない体温。その肌の色、感触。全ては自分のもののはずだ。だが……。
「あの、一つ訪ねてもいいでしょうか?」
 女性が初めて、自ら問う。その瞬間、自分を取り囲む人間達から表情が消えた気がした。
「私は……誰ですか?」


「そもそも人間とは何だね?」
 男が問うた。青年は答えに窮し、一つの単語すら出てこない。
「受精卵は人ではない。人間の『種』ではあるがな。では胎児は人か?」
「……人ではないのですか?」
「人であると見る向きもあるだろう。それが間違いとは言わん。だが、堕胎で殺人罪には問われないだろう? 人権も、母親の胎内にいるうちには発生しない」
 男は煙草の煙を吐き出し、雷鳴が遠くに響く雨模様を窓越しに見つめる。白衣の中で握る手に、じっとりと汗が滲んでいた。
「自分達は人間だと、誰もが疑わずに生きている。だが、その定義を問えば視点によって様々な答えが出てきてしまう。恐らく、最も身近な問いであるにもかかわらず、だ。もしかしたらこの惑星に生きるものは誰一人として、『人間』というものを理解していないのではないのかね?」
「しかし、脳や遺伝子の解析はそのほとんどが完了していますし、今ならそれらを作り出すことも可能です。実際、そうして生まれてきたのが彼女なのですから」
「脳の機能を知り、遺伝子の意味するところを分析し終えれば、それで『人間を知った』ことになるのかね? その二つだけでヒトという生物の全てを語れると?」
 男は短くなった煙草を灰皿に押しつけ、白髪の混じった頭をかきながら言葉を続けた。
「私達は科学者だ。故に科学的に人間を捉えて当然だろう。だが、それだけでは不充分なのだよ。医学、遺伝子工学、心理学、社会学、考古学、歴史学……学問と呼ばれうる見地のほぼ全てから、人間を論じることは可能だ。だが、それらから導き出される結論は、全てが違うものだろう」
「それは当然です。論点が異なっているのですから」
 男は散らばっていた書類を一つに重ねると、それを青年に渡した。自らの老いた顔が映る窓の向こうで、稲妻が暗い空を割った。
「その通りだ。人間を語ろうとすれば、無数に存在する視点からいくつかを選んで論じるのが普通だろう。言い換えればそれだけ多面性を持った生物であり、それをたった一つの場所から見定めようとするのは無理のある話ではないのかね?」
「……つまり、彼女を生み出すべきではなかったと?」
 男は煙草の箱を覗き込み、その中が空になっていることを確かめると、強く握り潰した。
「……君達より年を重ねているとは言え、探究心という点において負けているとは思っていない。自分の研究に誇りを持ってやってきた。だからこそ、その結果を否定したくはない。だが……これは、踏み込んではいけない領域にのみ存在すべき技術ではないのか?」
「神の領域……ですか?」
 青年が怪訝そうな顔で尋ねる。男は苦笑いを見せ、深く頷いた。青年が皮肉とも取れる台詞を、憮然とした表情で口にする。
「私は基本的に宗教は信じてないんですけどね」
「私もだ。神がいると本気で思ったことなどない。だが、信仰の対象でなく、単に人の手では本来触れてはならないところを、神の領域と呼ぶとすればどうかね?」
雷が鳴った。一瞬会話が途切れ、乱雑に地を叩く雨の歌が世界中を包んでいるかのような錯覚に陥る。それを破ったのは、初老の男性の低い声だった。
「かつて、世界で初めてのクローン生命――羊が誕生した。そのとき、世界中で議論が巻き起こった。……思えば、あれが最後のチャンスだったのかも知れない。生命倫理を根本から問い直す、な。いくつかの国ではクローン技術を人間に応用することを禁止もした。だが、そんなことは何の意味も持たなかったのだよ。クローンに倫理的問題があることなど、一匹の羊が生まれるそのずっと前から誰もが気付いていたのだから。
 技術が孕む問題など、その有用性の前では些細なことに過ぎないと、言葉には出さずとも多くの科学者が思っていたはずだ。だからこそクローンや遺伝子研究は続けられ、そして大きな区切りとしてこの日を迎えた。……明確に分かったことがある。少なくとも人間は、生来備わっている方法以外で新たな生命を創ってはいけないのだよ」
「では、体外受精や代理母は? あれらにも反対なのですか?」
 男は若い頃から使っている、色褪せたオイルライターを手の中で弄びながら答えた。
「それとはまた別問題だろう。その手の技術には、子供が欲しいという純粋な理由が存在する。だが、彼女はどうだ? 何のために生み出された? 誰が彼女を欲した?」
 それはもはや、自問だった。決して回答が示されない問いかけを、苛立ちと共に自らに課していた。
 科学は常に、人に恩恵をもたらしてきた。もちろんそれが人に牙を剥いた事実も無数にある。だが、利を一切与えない技術など存在しなかった。いや、人間はどんなものを手に入れようと――それが本来、扱うにはあまりにも巨大で危険なものだったとしても――、自分達に都合が良くなるよう、手を加え続けてきた。
「それでも、彼女は生きている。人形ではなく、れっきとした人間として。私達が生み出したのだ。かつて歴史上、誰も背負ったことがない苦しみを抱くことを約束されながら。誰も想像し得ない苦痛をその身に刻むために、彼女は他の全ての生物と同じように、自らが望まぬうちに生まれた。……茶番以外の何だと言うんだ? これでも人間を幸せにするため、科学に身を捧げてきた。その結果行き着いたのが、一人の女性を不幸にすることだと?」
 男は笑い始めた。唇の端から漏れるくぐもった声が、部屋の中に浮かび、消えていく。永遠に続くかとも思えた声は不意に止まり、そして男は大きく息をついた。
「科学にとって、倫理とはブレーキに他ならないと思っていた。そのせいで、科学の発展は幾分か妨げられていたとも。だが、違った。倫理とはつまり、良心なのだよ。……私達の研究のどこに、倫理が存在する? 人が自分勝手な理由に基づいて生命を『造る』ことに、良心が存在するか?」
 不意にドアが開く。研究者の一人が、戸惑いをその瞳に映しながら現れた。
「どうした?」
「それがその……彼女が眠ってしまいまして……」
「眠くなることもあるだろう。ゆっくり寝させればいい」
「それはそうなんですが……その……目を、覚まさないんです」
 男は表情を変えず、静かに立ち上がった。


 ここなら言い知れない不安に苛まれることもない。自分が自分でいられる。全てが望むままに存在しているのだから。
 人間と呼ばれる生命の「規格」から外れていることは、漠然と気付いていた。姿形も、機能も全て人と同じものを有しているとしても、自分と同種に区分される存在はこの星にはいないと理解していた。絶対的な孤独が、約束されていた。
本当の意味で、人は孤独には陥れない。どんなに独りを気取ってみたところで、周りを見渡せば必ず誰かがいるのだから。聖書に記されている最初の人間すら、一組の男女だった。それならば自分は、有史以来初の「孤独」を手に入れることができるのだろうか。
 ふと、自分の手に視線を落としてみる。血が流れ生きている証拠として、そこには温度があった。先程まではいくら目を逸らそうとしても消えなかった違和感が今はなくなり、その感覚自体が嘘だったとしか思えないほど落ち着いていた。ここでなら、永い時間を消費することができる。根拠はないが、確信があった。ここが自分にとっての居場所だった。
 白衣を着た人間に問われ、迷うことなく答えた思い出は、現実としては存在しない。作られた記憶だという事実を、何の躊躇もなく受け入れていた。
 全てが捏造された生命。それでも、自分は確かに今、生きている。他の誰でもない、自分として。
 不意に周囲が、世界中の全ての色に彩られる。総天然色の空間の中、導かれるように白に手を伸ばす。触れた瞬間、全てが純白のキャンバスに姿を変えていた。今まで目の前に息づいていた色達は、一つ残らず自分の中にあった。
 好きな色を頭の中に思い描く。与えられたデータの塊の中で好きだった色ではなく、本当に自らの心が好意を寄せている色――淡い緑が、指先にほのかに灯った。紙をなぞるように何気なく人差し指を走らせると、その道筋通りに緑色の線が引かれる。ただそれだけのことなのに、楽しくなった。
 筆になるのは、指だけではなかった。望みさえすれば、手のひらも、足の裏も、唇も、声ですらも描くことの道具になった。絵と呼べるほど、はっきりとした形を成しているわけではない。車がほとんど通らない路地のアスファルトに生まれは消えていく、落書きと同じようなものだった。目的はなくとも、何かが残ること自体が嬉しかった。
 そうしているうちに、異なる色が混じると新しい色になることに気付いた。左手の青と、右手の赤が触れ合い、紫になる。そんな風にして色数を増やしては、キャンバスに塗りつけていった。
 そして、いくつかのルールに気付いた。綺麗な色に別の綺麗な色を混ぜても、生まれてくるものが綺麗だとは限らないこと。綺麗な色を醜くするのは容易だが、その逆は難しいということ。色を混ぜすぎてしまうと、黒に近づくということ。そして、いくら色を混ぜても、白は生み出せないということ。それらのことを知ってからというもの、描くことより生み出すことに興味が移っていった。
 キャンバスが様々な色にほとんど満たされると、一センチ四方にも満たない白をその中から拾い出し、それをありとあらゆるところにぶつけていった。大抵の色はそれで消えていったが、どうしても消えないものがいくつか残った。初めのうちは戸惑っていたが、一緒にいくらかの時間を過ごすと不思議とそれらのことが大切に思えてきた。
 いつしか、それらと一緒に笑い、泣いていた。そうしてるうちにキャンバスはまた埋まっていき、そしてまた消した。
 大事な色が、少し増えていた。


「……異常は?」
「特に見当たりません」
 男は眉間に皺を寄せながら、ベッドに横たわる女性を見つめる。何の特別なところもない、穏やかな寝顔だった。
「……どうします?」
「どうする、とは?」
「もし彼女がこのまま目を覚まさなければ、研究は間違いなく滞ります。ですから、新しいものを作り……」
「馬鹿げている」
 男は一言で、研究員の言葉の続きを拒絶した。自分の下で働く者の顔を見渡しながら、皮肉をこめた声を吐き出した。
「『新しいもの』を『作る』か。およそ生命に対して発せられた言葉とは思えんな。ここで寝ている彼女と君達のどちらが人間なのか、私には分からんよ」
 男は女性の頭を撫でる。その瞳は、まるで自分の孫でも見ているかのようだった。
「アダムの存在しない世界のイブになる必要はないんだ。ゆっくり眠ってくれ」
「起こさないつもりですか?」
「そのときが来れば起きるだろう? さしずめ、十月十日もすればと言ったところか」
「そんな非科学的な……」
「だが、科学というものを追求した結果がこれだ。そして科学は、彼女を目覚めさせられない」
「ですから、今度こそは……」
 男が手に持っていた書類の束を頭上に放り投げた。何人かの研究員が右往左往し始め、データが記された紙を追いかける。男が言った。
「今度? 科学に携わる者は特権階級か? いつ命を弄ぶ許可証を与えられた? その『今度』でも失敗したらまた次か? 科学に犠牲が必要だとしても、限度はあるんだがな」
 男の憤りに、誰も反論できなかった。彼の言っていることはこの場の誰もが考え、そして心に封じたことだからだ。
「……彼女が眠ってしまったのは、恐らく人間に必要不可欠なものが欠けていたからだ」
「そんなはずはありません。チェックは何度もしましたし、第一欠けた部分があったのならもっとはっきりした形で影響が出ているはずです」
「心は、与えたかね?」
 男は言い、あるカプセルの前に立った。女性が生まれたときに入っていた、言わば彼女にとっての子宮だ。
「彼女は、ここで目を覚ました。そのときは何も着ていなかったのだろう? では彼女は、悲鳴の一つでも聞かせてくれたかね?」
 研究員達がざわつき始める。男は深く溜息をつき、かぶりを振った。
「そんな初歩的なことにすら気付かなかったのかね。仮に彼女がごく一般的な成人女性だったとして、衆人環視の中で裸だったら取り乱して当然だろう。しかし、彼女は極めて冷静だった」
「ですが、彼女には過去の分の記憶が与えてあります。当然心は存在するものと……」
 大きな溜息をつき、苛立ちを抑えきれなくなった男は背後のカプセルを手加減することなく殴りつけた。特殊な材質で作られたカプセルに傷がつくことはなく、男も同様に、何事もなかったかのような無表情で言葉を紡ぎ続けた。
「それは推測に過ぎんのだろう? 記憶と心が同一のものでないことくらい、論じるまでもないことだ。二十数年分の記憶さえ与えてやれば、心も自然と生まれてくるだろう――それはあくまでも、期待に過ぎなかった。第一、その記憶すら危ういものだ。彼女が何かの拍子に昔を懐かしがり、過去の自分を探し始めた時点で破綻するのだからな。本気で彼女に記憶を与えようとするならば、彼女が過去に関わったであろう全ての人間の記憶を、彼女が存在していたように書き換えなければならない。そんなことが可能かね? 生きるということは、私達が机上でその全てを把握できるほど軽くはないのだよ」
 と、男は白衣を脱ぎ、研究員の一人に突きつけた。
「科学は人を豊かにすると、今まで信じ続けて生きてきた。しかしどうやら、科学は人の手を離れ、神を目指し始めたらしい。少なくとも、私は人でありたい。科学者は今日限り、廃業だ。……彼女は私が引き取って構わんかね? 生み出した者として、償いたい」
 皺がいくつも刻まれた手で女性の頬に触れ、男は彼女に語りかけた。
「……許してもらえると、思ってはいない。ただ、死ぬまでの時間を、君のために生きさせてはくれないだろうか……?」
「何故、そこまで……?」
 研究員が問う。男は女性から視線を外さず、いくらかの間を置いてゆっくりと答えた。
「つい最近知ったのだがね、……私は世界で初めてのクローン人間なんだそうだよ。オリジナルが誰かは知らん。だが、事実だ」
 と、女性から伸びているコードを一本ずつ丁寧に取り除きながら、淡々と言葉を続ける。
「……それを知って以来、この研究が失敗するようにと願わずにはいられなかった。妻や友人がいる私ですら、自分が何者か見失いかけたのだから。たった一人でその苦悩と向き合わなければならないのなら、いっそのこと生まれてこなければいい、と」
 女性を背負い、男は歩き出す。誰も止めようとはしなかった。
「この研究は、これからも続いていくのだろう。それをやめさせることなど、誰にもできん。だからせめて、心の片隅で覚えておいてくれ。科学は人を幸せにするために存在していたことを。そして、彼女もまた人だということを」
 女性の寝息がすぐそばで聞こえる。もしかしたら、自分が生きているうちには目覚めないかも知れない。しかし、それでも構わなかった。
「名前がいるな……。君の人生が鮮やかなものであるように、『彩』にしよう……」

FIN