「……来るんじゃなかった」 荻村薫は自分の目の前を歩くカップルの耳に届くように、短い恨み言を吐き出した。 「まあまあそう言わずに」 「そうだぞ。せっかくのクリスマスなんだから」 「その『せっかくのクリスマス』に何が悲しくてバカップルと一緒にいなきゃいけないのよ……」 馬鹿呼ばわりされた男女――片瀬修哉と高槻郁美は顔を見合わせ、異口同音に 「馬鹿はひどいな」 と、言った。 「クリスマスにわざわざ友人を呼びつけるカップルの、どこが馬鹿じゃないって言うのよ……」 「お言葉を返すようですが」 と、郁美。 「呼び出されてわざわざ来る友人の、どこが馬鹿じゃないって言うんですか?」 「だから今、後悔してるのよ……」 薫は深い溜息をつき、二人を離れさせるように間に割り込んだ。 「……で、この後はどこに行くの? 夜景が綺麗なレストラン? それともホテル?」 「荻村はどっちがいい?」 片瀬は悪戯めかした笑顔を浮かべ、友人に尋ねる。薫は憮然とした表情を隠さずに答えた。 「どっちも嫌よ」 街並みはイルミネーションに彩られ、手を繋いで歩く人の姿が普段よりも多い。聖夜だからこその風景は、独り身の女性に充分過ぎる精神的苦痛を与えた。 「じゃあ、薫はどこに行きたいの?」 「私に聞いてどうするのよ」 「参考までにね。薫がどういうクリスマスを過ごすのか、興味があるし」 「……カラオケ。もちろんおごりで」 「うん、いいよ」 「……え?」 半ば自棄で言ったことに頷かれ、薫は言葉を失った。そんな彼女に気付いていないのか、郁美は問いを重ねる。 「機種は何にする? 何時間歌う? あ、それより――」 「ちょ……ちょっと待ってよ」 慌てて郁美の声を遮り、困惑の色を瞳に浮かべながら友人達に言った。 「冗談を真に受けないでよ。そんな面白くないところに行きたいなんて思ってないんだから」 「荻村、カラオケ嫌いだったっけ?」 「そりゃ好きだけど、今日は話が別。主役はあんた達なんだから」 「それ、間違い」 と、片瀬は薫の顔を指し、 「今日の主役は荻村薫。お前だよ」 「……はい?」 「最初からそのつもりで呼んだんだから」 郁美の言葉は、薫の混乱をさらに深くした。その真意を把握するよりも先に、郁美が腕を掴み彼女を引きずるようにして歩き出した。 「行こう。私達は三人じゃなきゃ始まらない」 その強引さに呆れる反面、心のどこかでは安心する自分がいることにも気付いていた。 「……マイク、放さないからね」 白い吐息の向こうに、純白の結晶が見えていた。聖なる夜に祝福を与えるかのように、空は絶え間なく儚いものを落とし続ける。 出会いの日と重なる景色だった。 「あ、そうなの?」 大学の入学式で並んで座った三人が、式の終了後に行動を共にするというのは珍しいことではない。だが、その三人の出身地が同じだというのは、そう頻繁にあることではないだろう。 「うん。……って言っても、私と片瀬は高校も同じだったんだけどね」 と、微笑む郁美の顔は屈託がなかった。まっすぐに肩まで伸びた茶色の髪と、澄んだ黒い瞳。同性である薫ですら、彼女のことを美しいと思わずにはいられなかった。 それに比べて、自分は何なのだろう。何の飾り気もない眼鏡と、その奥にある小さな目。枝毛があることにも気付いた。毎朝、鏡を覗き込むたびに失望せずにはいられない。物心がついて以来、自分の容姿に自信を持ったことはなかった。 美醜は個々人の価値観の問題に過ぎない――そんな言葉が、何の慰めになるというのだろう。確実に多数の人間が好む顔は存在する。無論、その逆も然り。周りでは誰もが美しさを競い、その競争に参加することを憚る薫はいつも溜息をついていた。 「それにしても二人とも、なんでスーツなんだよ。高槻、着物で出るって言ってなかったか?」 「面倒だからスーツにしたの。大体、どうしてあんたに文句言われなきゃいけないのよ」 「楽しみにしてたんだよ」 「じゃあ、片瀬が着なさいよ」 「男が着たって意味ないだろ」 「いいじゃない。世にも珍しい生物が見られるかもよ?」 「ま、まあまあ二人とも」 小学生の口喧嘩と同次元の言い争いを、薫は苦笑いを浮かべながら止めた。 「……荻村さんは? どうして――」 片瀬の再度の質問が最後まで紡がれることはなく、代わりに聞こえてきたのは鈍い殴打音だった。 「いい加減にしろ着物フェチ」 「……女がグーで殴るか普通……」 片瀬は後頭部を押さえながら、涙目で自分を殴りつけた女性を睨んだ。郁美は視線を涼しい顔で受け流し、困惑している薫の肩を軽く叩いた。 「これからの予定は?」 「特にないけど……」 「じゃあ、飲みに行かない?」 「……こんな昼間から飲むつもりかよ」 時計は午後三時を過ぎたばかりだった。だが、そんなことは意に介した様子もなく、郁美は平然と言い放つ。 「昼間から飲んじゃいけないって法律でもあるの?」 「……小学生かお前は。大体この時間じゃまだ居酒屋も開いてないだろうが」 「コンビニにも売ってるわよ」 「そのアルコール分をどこで摂取するんだよ……」 「ええと……公園?」 今度は郁美の頭に、手刀が振り下ろされた。 「昼間から公園で酒を飲む大学生がどこにいる。しかもスーツ姿で」 「……痛い……」 「だ、大丈夫?」 と、自分の顔を覗き込む薫に抱きつき、 「片瀬君がいじめる……」 と、子供のような口調で言った。 「……本気で殴るぞ」 「女を殴れるの?」 「バッカスの生まれ変わりを女と認めるつもりはない」 「バッカス……?」 自分から未だ離れない女性に対する呼称の意味を、片瀬が肩をすくめながら説明し始めた。 「ローマ神話の酒の神だよ。酒豪なんだよ、高槻は。ワイン樽一本ぐらいなら一人で飲めるぞ」 「……化け物か私は」 「無論冗談だ。でも、一升くらいだったらいけるだろ?」 「う……」 二の句が継げないことが、そのまま肯定の返事だった。 「それよりも、荻村さんから離れろ。迷惑だろ」 「……迷惑?」 「あ、その……」 答えあぐねている薫を、郁美は上目遣いで見つめる。だが程なくして、その顔は離れていった。 「似合わないことするんじゃない」 腕を掴まれ、薫から遠ざけられた郁美は、恨めしそうに同級生を見る。片瀬は彼女の目を気に留めず、三時間前に知り合った女性に謝った。 「悪い。不愉快だったよな……」 ばつが悪そうにしている片瀬に、薫は微笑みかけた。 「ううん、いいよ。気にしてないから」 「じゃあ、飲みに行こうよ」 と、これは当然郁美。 「……どうしてそうなる」 呆れ果てる片瀬の横を、一枚の桜の花びらがゆっくりと舞い落ちていった。三月中の最高気温が軒並み平年より高かったことで、まだ四月の第一週であるにもかかわらず――四月の半ば頃に開花宣言が出されるのが、この地域では通常らしい――木々は鮮やかに彩られていた。 「それじゃ、お花見でもする?」 「賛成っ」 薫の提案に対して、勢い込んで手を挙げた人物の名前をここに記す必要はないだろう。 「飲みたいだけだろ、お前は……」 「何を仰いますのやら。お花見は日本人の心なのよ?」 「……まあ、別にいいけどさ。花見自体は嫌いじゃないし」 郁美の瞳が爛々と輝く。その表情だけでも、彼女がいかに酒好きなのか窺い知ることができた。 「あの、でも……私、飲めないけど……」 子供のように無邪気だった郁美の笑顔が固まり、次の瞬間彼女はその場に崩れ落ちた。さも愉快そうに、片瀬が言葉を投げかける。 「残念でした」 「あの、何か私、悪いこと……」 「ああ、気にしなくていいよ。こいつ、一緒に飲んでくれる人がいないと飲まないんだ」 「片瀬君は飲めないの?」 「コップで二、三杯程度。高槻のペースにまともに付き合ってたら、体がおかしくなるよ」 未だ頽れたままの郁美に、どうしていいか分からないままの薫が謝罪した。 「あの……ごめんね」 「ううん、いいの……」 郁美は深い溜息をついてから、緩慢な動きで立ち上がった。その沈んだ表情からは、いかに彼女がアルコールの登場を望んでいたかが容易に想像できた。 「やっぱり、悪いことしたんじゃ……」 薫に耳打ちされた片瀬は、苦笑いを浮かべながら言った。 「飲まない日があった方がいいんだよ、高槻の場合」 つられるように薫も苦笑し、前方を歩く女性の背中に視線を向けた。線が細く、とても大酒飲みとは思えなかった。 「そうは見えないけど……」 「同感」 独り言のつもりで呟いた言葉に反応された薫は、驚きと戸惑いの混在している瞳を片瀬に向けた。 彼は小声で、確認のための質問を返す。 「そんな酒飲みには見えない、ってことだよな? 俺もそう思うよ。外見だけの印象で言うなら、紅茶でも好んで飲んでそうな感じなのにな。ちなみに、荻村さんは……真面目?」 「そんなこと、ないと思うよ。……眼鏡かけてるとやっぱりそう見える?」 「気分を悪くしたなら、謝る。ごめん」 と、片瀬は顔の前で両手を会わせ、 「その……眼鏡に対する、貧困な想像だよ。眼鏡をかけてるかどうかと、真面目かそうじゃないかなんて関係ないのにさ」 「……何をこそこそ話してるのかな?」 二人の会話に割り込んだ郁美は、片瀬の肩を抱くと咎めるような口調で尋ねた。 「口説いてたんじゃないでしょうね?」 「そんなことするか。数時間前に出会った人を口説ける度胸なんて、俺は持ち合わせてないよ」 「気をつけてね。こうやって油断させるのが片瀬の手だから」 「嘘を言うな、嘘を」 冗談とも本気とも解釈できる郁美の台詞を、男性は諦め顔で否定する。彼女の言っていることが幾度となく繰り返されてきた偽りだと、何よりもその表情が語っていた。 「それより、花見はどこでやるんだ? 桜の咲いてる場所なんて知らないぞ」 問われた郁美は、得意げな表情で鞄から小さなノートを取り出した。 「もちろん調査済みよ。そうね、ここからだと近いのは――」 思わず薫と片瀬は顔を見合わせ、同時に苦笑いを浮かべた。 桜の花が、まばらに降っていた。 「……本当に放さなかったわね」 外に出た郁美は、開口一番にそう言った。薫は雪の生まれる場所を仰ぎ見、微動だにしない。白さと冷たさに覆われた街は、幻想的な空気を纏っていた。 「喉痛い……」 「二十曲以上歌ってりゃ無理もないな……」 三時間で歌った三十曲のうち、八割近くは薫の声によって歌い上げられたものだった。無論ただの素人でしかない彼女の喉が保つはずもなく、終盤は音程をほとんどなぞれなくなっていたのだが。 「大丈夫か? おごりだ、飲め」 と、片瀬はつい先程買った缶コーヒーを差し出した。遠慮なく受け取り、暖かいと表現するには温度が高すぎる缶を両手の上で弄ぶ。やがてそれにも飽きると、大きい息を一つ吐き出してからプルトップを開けた。 「高槻、この前の話なんだけど……どうする?」 眼鏡を曇らせ、何も見えなくなった薫の傍らから、片瀬の声が聞こえた。その会話を気に留めようともせず、彼女はコーヒーを飲んでは眼鏡の曇りを拭き取ることを繰り返していた。 「別に今すぐに、ってわけじゃないんでしょう?」 「ああ。まだ先の話だ」 「じゃあ、いいわよ。断る理由もないし」 と、郁美は薫の方に向き直り、 「ごめん、片瀬と二人で適当に時間潰しててくれない?」 「いいけど……どうして?」 「クリスマスプレゼント、買うの忘れてたの。今から買ってくる」 申し訳なさそうに郁美とは対照的に、片瀬はそのことを責めるわけでもなく、のんびりとした口調で呟いた。 「そういえばもらった記憶がないな……」 「そういうわけで、三十分ぐらいで戻ってくるから」 そう言うと、郁美は他の二人の反応を待たずに雪の街へ消えていった。 「これからどうする? ファミレスにでも入るか?」 薫はコーヒーの最後の一口を飲むと、空き缶を手にしたまま冷たい空気を目一杯吸い込んだ。 「……今日はありがとう」 「恨まれるならともかく、感謝される理由はないぞ」 「心配してくれてたのよね? ちょうど去年のイブにふられたから……」 「……ああ」 片瀬は小さく頷くと、薫の顔を見ないまま尋ね返した。 「あいつは……元気にしてるのか?」 「……さあね。生きてるのか死んでるのかすら定かじゃないわ」 薫は素っ気なく言うと、闇色の空を見ながら声を紡いだ。 「連絡、来ないのか?」 「一度も。あっちで好きな人でも見つけたんじゃないの?」 昨年のクリスマスに、薫は恋人と別れた。ゴールデンウィークを過ぎた頃に出会ったその人物は、夏に彼女と付き合い始め、初秋に自分の夢を追うことを決めた。 「ドイツに行くのは勝手だけど、何もクリスマスに出発しなくてもいいと思わない?」 恋人がこの国を出た理由を、薫は知らなかった。彼女が一切聞こうとしなかったからだ。 「……まだ好きなのか?」 薫は小さく息をつき、 「もうどうだっていい……って言いたいところなんだけど。実際は未練だらけよ」 と、自嘲してみせた。 「それより、『この前の話』って何? 旅行の相談でもしてたの?」 「いや、それよりも少し重要な話だよ」 「重要な話?」 「ああ」 ゆっくりとした速度で車が通り過ぎていく。内容を把握できない無数の話し声の中、背を向けた男性の言葉だけが形を成して薫の耳に届いた。 「結婚しよう、って言った」 「……結婚? 誰と誰が?」 「俺と高槻が」 薫は何も答えず、足下の雪をすくい上げる。彼女の手の中で球形になった白い結晶は、片瀬の背中に当たり、砕け散った。 「……学生結婚するの?」 片瀬も雪玉も作り、手の中で転がす。それは薫にぶつけられることはなく、球体と同じものの上に置かれた。 「まさか。卒業してからの話だ」 「随分と気の早いプロポーズね」 「……不安だったからな。俺も高槻も」 「不安?」 傘を持っていない手をコートのポケットに突っ込み、視線を足下に落とす。靴についた雪を落とし、彼はおどけた口調で言った。 「さて、ここからが今日の本題です」 だが、その一言だけで道化の顔は消え去ってしまう。男性は俯き、苦笑混じりに呟いた。 「……俺、荻村のことが好きだったんだ」 「冗談にしては笑えないわね」 「本気だとしたら?」 「殴る」 踏み固められた雪を隠すように、新たな柔らかいものが重なっていく。今日のために施されたイルミネーションが、闇の存在を強調している。その風景は、聖夜をイベントに仕立て上げた人間の功罪の象徴だった。 「それじゃ、二人の不安の正体って……私なの?」 片瀬は首を横に振った。 「本当は存在しないものに怯えてるんだよ。高槻は俺がまた荻村のことを好きになるんじゃないかって心のどこかで疑ってて、俺はその疑惑が原因で嫌われることを怖がってる。俺の荻村に対する気持ちは過去形で、今はちゃんと通じ合ってるのに」 「……私なんかのどこが好きだったの? 誰がどう見ても、郁美の方が綺麗だって言うと思うんだけど」 「よく言うだろ。美人は三日で飽きる、って」 「不細工は三日で慣れる、ともね。片瀬が蓼食う虫だったとは思わなかった」 冗談のような表現をしてはいたが、薫は真面目だった。そんな彼女の心情を感じ取ったのか、片瀬の瞳にはありありと不服の色が浮かんでいた。 「それじゃ俺、悪趣味みたいじゃないか」 「実際悪趣味よ。こんな……」 薫は一旦言葉を途切れさせ、自らを嘲るように続きを吐き出した。 「こんな、眼鏡をかけてて冴えない女が好きなんて……」 「眼鏡が嫌なら、コンタクトにすればいいだろ」 「……そういうことじゃないのよ。自分を好きになれない理由を、外見に押し付けてるだけ。眼鏡を外しても、きっと別の場所を嫌いになる。そんな人間を好きなんて……」 先を言い淀んだ女性とは正反対に、男性は何の迷いもなく過去の心を言い切った。 「それでも好きだったって事実は変わらない」 「だったらどうして郁美と付き合ったの? やっぱり、郁美の方が綺麗だからじゃ……」 足下の雪を蹴り飛ばし、片瀬は空を仰ぐ。雪が弱くなっていることに気付いた男性は傘を閉じた。 「……ふられたからだよ」 「ふられた? 誰に?」 「荻村に。告白する前に彼氏ができて、俺は片思いのまま失恋したんだよ」 「だって、あれは――」 薫は言いかけた言葉を飲み込んだ。本来の続きの代わりに彼女の口から出たのは、 「いいこと教えてあげる」 という、脈絡のない一言だった。 「いいこと?」 「私も、片瀬のこと好きだった」 「……は?」 呆ける片瀬に微笑み、薫も傘を閉じる。雪を振り落としながら、淡々と失恋の真相を語った。 「でも、片瀬には郁美がいると思ってた。二人はお似合いだったから私が入り込む隙なんてないって……」 「ちょっと待て。俺と高槻が付き合い始めたのは去年の秋だぞ。お前があいつと恋人同士になった方が早い――」 薫の言わんとしていることに気付くと、片瀬は頭を抱えた。 「つまり……勘違いだった、と? 荻村は俺が好きだったのに、俺が高槻と付き合ってると思い込んで、それで……」 「私はあいつと付き合うことになって、傷心の片瀬は郁美と付き合うことにした。両想いだったのに、すれ違った」 真実は滑稽で、僅かに残酷だった。振り出しには戻せないことを知っていながら、薫は悪戯に似ている問い掛けを押し殺すことはできなかった。 「じゃあ、やり直してみる? 私達が出会ったときから」 「まさか。勘違いで始まったものが間違いだって保証があるか?」 「……そうよね」 薫は安堵の溜息をついて、 「恋愛なんてそんなものよね」 と、開き直った瞳を男性に向けた。 「それより、片瀬が私を好きだったってこと、郁美は知ってるの?」 「知ってるも何も、荻村を呼び出して話しろって言い出したのはあいつなんだよ。燻り続けてる火種は、どんなに小さいものでもちゃんと消しておけ、ってさ」 「消えたの?」 「もう、ずっと前に消えてる。再点火させる気力もないよ。今の俺には……高槻だけだ」 「ごちそうさま。それから、おめでとう」 その一言は、無論本心から発せられたものだった。だが、片瀬は複雑な表情を覗かせ、頭に積もった雪を払いながら口を開いた。 「めでたい……とも限らないんだよな。結婚できるかどうかまだ分からないし」 「分からない……って、片瀬はプロポーズして郁美はそれを受けたんでしょ? だったら、決まりじゃないの」 「いや、高槻にちょっとした課題を与えたんだ。それをクリアしない限りは式も挙げないし、籍も入れない」 「課題……って何よ?」 薫がその内容を尋ねたのは至極自然なことだったが、その答えを知っている男性は、何故かかぶりを振ると嘆息混じりに呟いた。 「断酒……」 「絶対無理」 即答した女性は、片瀬が抗議の声を上げるよりも早く責問を重ねた。 「どうしてそんな条件を出したの? 本当に結婚する気あるの? もしかして、郁美のこと好きじゃないんじゃ……」 「馬鹿なこと言うな」 「じゃあ、どうしてよ」 「体に悪いからに決まってるだろ」 「それはそうだろうけど……。できると思う?」 「……できるって、信じてる」 それは薫に対してというより、自分自身に向けて発したように聞こえる台詞だった。 「……ねえ、片瀬」 「うん?」 「……もしもの話だけど」 と、薫は一旦言葉を切り、俯く。眼鏡の奥の瞼は閉じられ、その表情から彼女の心中を窺い知ることはできなかった。 「仮に、郁美と上手くいかなかったとしても……私のこと、口説かないでね。そんなことしたら、私……怒るから」 「口説いたら……もう一度、俺のこと好きになるのか?」 薫はゆっくりと首を横に振り、曖昧に笑う。それから程なくして郁美が戻ってくるまで、二人が言葉を交わすことはなかった。 郁美と片瀬が「婚約」してから、三度の聖夜が明けた。 招待状は、まだ届いていない。 FIN |