毒入りの「コドク」



 もう何度目か分からない溜息が、少女の口から漏れる。普段は小学生の声に溢れている児童公園も、今日は彼女以外誰もいなかった。今まで――かつて自分がここで遊んでいた頃も含めて――広いと思ったことが一度もなかった場所は、ブランコに座っている少女には居心地の悪さを覚えるほど大きく感じられた。
 少女は俯き、足下の砂を軽く蹴った。一秒の長さを恨めしく思いながら、空を仰ぐ。太陽が夕日と呼ばれるようになるまでは、まだだいぶ時間がかかりそうだった。
 土曜の、午後二時過ぎ。高校と家を結ぶ道からは幾分か外れたところにある公園で、制服姿の草澤夏奈はいつものように時間が過ぎ去るのを待っていた。何をするわけでもなく、ただ漠然と夜の訪れを見届けるのが彼女の日課だった。
「……こんにちは?」
 視線を足下に落としていたこともあって、最初はその声が自分にかけられたものだと分からなかった。公園に自分以外の人間がいなかったことを思い出し、ゆっくりと顔を上げた夏奈の前に立っていたのは見知らぬ女性だった。
「初めまして」
 話しかけられる理由を一つも思いつけなかった夏奈は、彼女の笑顔を呆然と見つめていた。女性はそんな少女に気付いていないのか、さらに言葉を続ける。
「何してたの?」
「え……何も……」
「誰か待ってたとかじゃないの?」
 夏奈はかぶりを振る。女性は不思議そうな顔を見せたが、それ以上の追求はしなかった。
「隣、いい?」
「あ、うん……」
 年齢は二十五前後というところだろうか。明らかに美人の部類に入る顔立ちだが化粧気はなく、チェックの茶色いシャツにジーンズという服装のせいもあって地味な印象は拭えない。軽いウェーブのかかった茶色の髪が、唯一彼女の年齢相応――もっとも、実際の年齢は分からないのだが――のファッションと言えなくもないが、他の素朴さから考えると地毛の可能性もあった。
「名前は?」
「夏奈……。夏に、奈良の奈で夏奈。……あなたは?」
 夏奈が女性に応じたのは、退屈を紛らわすためと、何より陰鬱とした気分から逃れるためだった。無論、女性から悪意の類を感じなかったということも理由の一つである。
「むつき。霧の月で、霧月」
「……本名?」
 女性は満面の笑みを見せて、
「秘密」
 と言った。不満そうな夏奈の意識を別に逸らすかのように、霧月は尋ねる。
「夏奈は高校生?」
「二年。……霧月さん、この辺の人じゃないでしょう?」
「どうして?」
 夏奈は自分の着ている衣服を見る。自然と霧月の視線もそこに注がれた。
「私の高校、有名だから。この辺りに住んでる人なら、みんな知ってるもの」
 胸に校章が刺繍された緑の上着に、夏奈の年代でなければとても履けそうにない赤いプリーツスカート。よく見ればブレザーの下に着ている白いベストにも、小さく校章が縫われていた。
「私はあんまり好きじゃないんだけどね、この制服」
 と、夏奈は苦笑いを浮かべた。
「夏奈はどうしてここにいたの? 待ち合わせ?」
「……ううん」
 ブランコから降り、軽く背伸びをする。微かな風に押され自分の足にぶつかった空き缶を拾い、霧月に背を向けたまま言った。
「帰りたくないだけ……家に」
 投げられた空き缶が放物線を描き、屑入れの中でけたたましい音を立てる。やがて取り戻された静寂を破ったのは、霧月だった。
「帰ってないの?」
「ううん、帰る時間を遅らせてるだけ」
 夏奈は振り返る。笑顔だったが、何かをごまかしているようにも見えた。
「霧月さんは? どうしてここに?」
「私? 私は、これでも仕事なのよ」
 夏奈の表情が気にならないわけではなかったが、どうして霧月がその意味を問いただせるだろう。彼女はただ、何も気付いていないふりをしながら会話を続けるしかなかった。
「出張?」
「まあ、そんなところね」
「じゃあサボってたら駄目なんじゃないの?」
「サボってないわよ。仕事中」
 霧月を見る夏奈の目は不審者に対するものと同じだったが、女性の答えによってその色は一層深くなった。
「私と話してるのに?」
「ええ」
「……何の仕事なの?」
 警戒心を隠さないままに少女が問う。霧月はそれに気付いていないのか、顔色を変えることもなく自分の座っている遊具を軽く揺らしながら答えた。
「秘密」
「怪しい仕事なの? もしかして」
「どうでしょうね。普通の仕事じゃないのは確かだけど」
 霧月もブランコから降り、小さく息をつく。夏奈は彼女のことを疑うように見つめていたが、不意に表情を緩めると大袈裟に肩をすくめた。
「まあいいや。誰にだって話したくないことはあるしね」
「夏奈にも?」
「もちろん」
 またも少女の顔に、一瞬だけ陰りが見える。その後に浮かんだのが満面の笑みだったことが、余計に暗部を強調した。
「夏奈は……今、幸せ?」
 霧月の唐突な質問に戸惑うことなく、夏奈はかぶりを振り苦笑を見せた。
「幸せって……答えたいんだけどね。嫌なことがあるから」
「嫌なこと?」
「うん。私の、他の人には話したくないこと……」
 今度はベンチに座り、夏奈は空を見上げる。雲一つない青色は、どんな大きな音も吸い込んでしまうように思える深さを持っていた。
「霧月さんは、幸せなの?」
「普通かな。可もなく不可もなく、ってところね」
「それが一番いいよ。他の人が体験できないようなことなんて、いらない……」
 夏奈は今日何度目か分からない溜息をつくと、不意に立ち上がった。
「帰るね、私」
「え? でも……」
「ここにいると霧月さんに愚痴ばっかり言っちゃいそうだから。そんなの嫌だし、仕事の邪魔もしたくないしね」
 夏奈は笑う。その表情が何の意味を持っているのか、霧月には分からなかった。
「ごめんね、楽しくない話に付き合わせて……」
 霧月は首を横に振った。
「また明日も、会える?」
「仕事は?」
「明日は日曜よ」
 夏奈は返事を何秒かためらったが、意を決すると短く問い返した。
「待ち合わせ場所は?」
「ここで。時間は……いつでも」
「いつでも、って……」
「ずっと、ここにいる。夏奈は好きなときに来て。どうせ元々、予定なんてなかったし」
 夏奈は何も言えなかった。ただ一言ここで会う時間を伝えればいいだけのはずなのに、少女の口はそれを指定しなかった。
「じゃあ、今日はこれで解散。……ねえ夏奈?」
 霧月は夏奈の頭に手を置き、小さな笑みを見せる。それだけのことに何故か少女は気恥ずかしさを覚え、動揺を悟られないように慌てて顔を伏せた。
「本当の笑い方、忘れないようにしてね? せっかく可愛いんだから」
 夏奈が顔を上げたときには、霧月はもう背を向けていた。だから少女の頬を伝っていた涙は、誰にも気付かれることはなかった。


「肩、凝ってない?」
 夏奈は父親にそう尋ね、返答を聞くより先にマッサージを始めていた。娘の父に対する肩揉みは半ば日課となっていたが、父――草澤雅人がそれを強制することはなく、少女も自分の意志にのみ従って行動していた。
 雅人は自慢の父親だった。思春期の真っ只中にいる少女にとって父親というのは多分に疎ましい存在になるものだが、むしろ夏奈にとっては一番の心の拠り所だった。
 また、父子の仲がいい理由として、雅人が若いことも挙げられるだろう。何しろ彼は、先月に三十六歳になったばかりなのだから。
 だが、親子の距離を近づけている要因としては、年齢は決して大きなものではない。何故なら夏奈は、雅人よりも二年遅く産まれた母親を嫌っているのだから。
「何かあった? いいこととか」
 肩を揉んでくれている娘に、雅人は不意に尋ねた。夏奈は少しだけ驚き、問い返す。
「え、どうして?」
「いつもより機嫌がいいみたいだからね。表情が明るい」
「いいこと……なのかな? 悪いことじゃないとは思うけど……」
「うん? どういうこと?」
 夏奈の曖昧な物言いに対して、雅人は微かな疑問の色をその瞳に宿した。
「あのね――」
 夏奈は昼間の出来事を、かいつまんで父親に話した。できる限り憶測は排し、事実だけを伝える。父親に必要のない心配をさせないための、彼女なりの配慮だった。
「それで、明日もその人と会う約束をしたんだけど……会いに行ってもいい?」
「いいも何も……約束したんだろう? だったら、会いに行かなきゃいけない」
「でも、ほとんど見ず知らずの人だから、危ないとか……」
「相手が男だったら多少は危ぶみもするけど、でも……いや、性別は関係ないか。会いたいんだろう? 夏奈はその人に。会うつもりがないんだったら、そもそも許可なんて求める必要はないはずだからね」
「それはそうだけど……でも……」
「迷ってる?」
 夏奈は頷き、テレビのリモコンに手を伸ばす。いくつかの番組を経た後、画面は音楽番組を映し出した。終わりに近いらしく、ブラウン管の中では聞いたことのない歌手が歌っていた。楽曲は特に興味を惹かれるものではなかったが、気を紛らわすにはちょうどよかった。
「上手く言えないんだけど……少し、怖いの」
「怖い? 明日会う人が?」
「その人本人じゃなくて、その人の瞳が。見透かされてる気がするの、私の心の中……」
 頭に手を置き、微笑んだときの霧月の目を夏奈は思い出していた。優しいけれど、それだけではない瞳の色。何もかもを見抜いているような、別れ際の言葉。それらはまるで、今の自分をそのまま見せる不定形の鏡のようだった。
「夏奈はその人に、心の中を見通されるのが怖いの?」
 夏奈は首を振る。その動きは、父親の問いを否定していた。
「たぶん、私が本当に怖いのは……」
 その先を少女は続けなかった。何気なく仰ぎ見た蛍光灯は眩しく、夏奈はその明るさを嫌がるように目を細めた。
「……ごめんな」
「どうしてお父さんが謝るの?」
 雅人の謝罪の意味を問うてはいたものの、夏奈の声は既にその真意を知っていることを示すかのような、嫌悪感を含んだ強さを持っていた。父親は自分の妻の姿が見えない部屋の中を見渡し、呟くように言った。
「俺が不甲斐ないばっかりに……」
「そんなの、お父さんは悪くない!」
 どこにぶつけていいか分からない苛立ちが、言葉とは裏腹に雅人に叩きつけられる。悔しさを押し殺すように固く閉じられた瞼から、いくつも涙がこぼれ落ちた。
「悪いのは……あの人なんだから……」
 肩を震わせる一人娘の頭を、雅人はゆっくり抱き寄せた。父親の胸に縋り、夏奈は子供のように泣きじゃくる。暖色を発光している蛍光灯を見ながら、微かに抱いた自己嫌悪を吐き出すように溜息をついた。
「落ち着いた?」
「うん……」
 涙を袖で乱暴に吹いて、夏奈は微笑んだ。無論心からの笑顔ではなかったが、雅人はそれを拒まなかった。
「明日どうするか、決めた?」
「……会いに、行く。怖いけど……いつかは、向き合わなくちゃいけないから」
 雅人は何も言わず、娘の頭に手を置く。テレビはいつの間にか、一昨年ヒットした洋画の放映を予告していた。
「テレビ、消そうか?」
「ううん。この映画、観たかったの」
 夏奈はソファーに座り、テレビに意識を向ける。最近売れているらしい小型車の、コミカルなコマーシャルが流れていた。
「……お父さん」
「ん?」
「私のことは、気にしなくていいよ。私だって、今の状態は正直辛いし……」
 雅人は何も応えない。夏奈は本編の始まったブラウン管に、無理矢理意識を向けた。
 期待していたよりは、退屈な二時間だった。


 ちょうど時計が午前十時を指した頃、肩で息をしながら児童公園に現れた夏奈に、霧月は笑顔で手を振った。
「い……いつか……」
 声が上手く続かない。短い呼吸を繰り返し息を整えると、額の汗を服の袖で拭いながら夏奈は尋ねた。
「いつからここにいたの?」
「三十分くらい前からよ。もう少し遅く来るかなって思ってたけど、意外と早かったわね」
「……もし、私が来るのがもっと遅かったらどうするつもりだったの? 午後とか、夕方とかだったら?」
 半ば呆れながら、夏奈は言う。霧月は微笑みながら答えた。
「夏奈は今ここにいる。それでいいんじゃない?」
 霧月の台詞は夏奈が用意していた返答を一つ残らず奪い去り、少女を押し黙らせた。
「私ね、夏奈が来ないんじゃないかって疑ってたの。昨日知り合ったばかりだし、それに夏奈は私のことを少し怖がってたみたいだったから」
 本音を指摘された夏奈は弁解の言葉を探したが、見つけることができなかった。やがて言い訳を諦めた少女は、悪びれた様子もなく口を開く。
「当たり。正直に言えば、ここに来るかどうか昨日遅くまで迷ってた。だから、少し寝不足なの」
「大丈夫?」
「うん、平気。夜更かしはよくするし」
 夏奈は昨日と同じようにブランコに座ると、灰色の薄い雲で覆われた空を見上げた。空気は冷たく、これからの天気を否応なしに予感させる。遊具の動きを足で止め、少女は問うた。
「これからどうするの?」
「……どうしよう?」
「考えてなかったの?」
 苦笑いを浮かべている霧月の目は、昨日の別れ際に見せたのとは正反対の、親近感を抱かせる瞳だった。それにつられたのか、可笑しそうに夏奈も微笑んだ。
「少し、話でもしよう? 昨日知り合ったばっかりなんだし」
 昨日の静寂が嘘のように公園の中では数人の子供が駆け回り、実際よりも大人数がいると錯覚させる喧噪を生み出していた。児童公園という場所のあるべき姿の中で、夏奈は聞いた。
「霧月さんはいつまでここにいるの?」
 話題はどんな他愛のないものでもよかった。無論霧月のことをほとんど知らないと言うこともあったが、それ以上に笑い声が絶えないこの場所で口を閉じてしまえば、自分は拒絶されてしまうような気がしたからだ。
「夏奈次第よ」
「私……次第?」
 予想外の返答に戸惑っている少女に微笑みを向け、霧月は言葉を続けた。
「昨日言ったこと、覚えてる? 私がどうしてここにいるのか」
「仕事……って言ってたよね」
「そう。だから……夏奈次第」
 それだけを言うと、霧月は夏奈から視線を逸らした。自分の台詞の意味を理解して欲しくないと願ったが、淡い期待は裏切られた。
「私が……仕事相手ってこと? だから話しかけた?」
「……軽蔑する?」
 少女の声は聞こえなかった。膝の上に置いた拳を固く握りしめ、自責が外に漏れ出さないように唇を強く噛む。それでも小さな肩の震えを止められない霧月に、無色の声が問い掛けた。
「霧月さんは、何の仕事をしてるの?」
「それは……」
 言葉に詰まる。夏奈に接触したのは、確かに仕事だったからだ。けれど、他者に命じられて彼女に話しかけたわけではない。彼女を選んだのは、誰にも強制されない自らの意志だ。しかし、それが言い訳になるだろうか? 少女の失望を身勝手なものだと非難する資格は、自分にはない。肩を落としていた彼女に、救いがあるかのように見せかけて手を差し伸べたのもまた自分なのだから。
「話せないわけじゃないけど、きっと信じてもらえないから……」
「それ、ずるい」
「え?」
 思わず振り向く。夏奈は空を仰ぎ、小さく息をついた。
「信じるかどうかを決めるのは、私。それなのに判断材料さえくれないなんて卑怯よ」
「……そうね」
 霧月は明後日の方向を向いていた視線を正面に戻した。視界の端に夏奈の横顔が見える。彼女の真似をするように灰色の空を見上げ、ゆっくりと口を開いた。
「私は……あるものを取り扱ってるの。ちょっと特殊なものなんだけど……」
「特殊? お店じゃ売ってないの?」
「ええ。私たちしか取り扱ってないわ」
 子供の声が一瞬途切れる。霧月の深呼吸が聞こえた。
「私は……コドクを売ってるの」
「コドク? ……毒?」
「じゃなくて。独りで寂しい、の孤独」
 夏奈が頭を抱えるのが分かった。霧月は苦笑いを浮かべ、
「信じられない……よね」
「……とりあえず、すぐに『はいそうですか』って言えないことは確か」
 緩くかぶりを振り、遊具から体を離した。六月という季節にはふさわしくない冷たい風が頬に触れる。夏奈は足早に歩き出した。
「夏奈!?」
 呼びかける声にも少女は応えない。公園を出、住宅街の路地を何度も折れる。赤い屋根の家を右折し、少し歩いたところに建っている建物の壁に寄りかかった。
「ここは――」
 古ぼけた小さな建造物だった。造られてから何年が経っているのかは見当もつかないが、十年や二十年程度ではないことは明らかだった。夏奈が背中を預けている壁の上方に、「時計屋」という看板がなければそこが商店だということにも気付かなかっただろう。
「私の好きな場所。私が産まれる前からあったんだって」
「今日は休み?」
 店先に準備中の札がかけられているのを見て、霧月が尋ねた。
「おじいさんが一人でやってるお店だから、たまにしか開かないの。それより霧月さんの仕事のこと、いくつか聞いてもいい?」
「ええ。でも……」
「勘違いしてない? 私、軽蔑なんてしてないよ」
 と、夏奈は空を指差す。霧月の鼻先に一粒の雨が触れ、瞬く間にアスファルトの色を変えた。
「仕事のためだったとしても、霧月さんと話してる間は少し気が楽だから。何もしないで時間が経つのを待つっていうのは、正直辛いよ」
「夏奈は――」
「私が先。だよね?」
 霧月の言葉を笑顔で遮る。雨は二人を時計屋の軒下に閉じこめるように降り注ぎ、穏やかな時間を自らの音色によって演出した。
「孤独を売る……って言ったよね」
「ええ」
「売れるものなの? 孤独なんて形のない、人間の感情でしょ?」
「売れる、としか言いようがないわ。夏奈の言うように形のないものだから証拠を見せることはできないけど」
 夏奈は煩雑としている思考を一つずつ確かめ、やがてある一定の方向にまとめた。
「信じる……しかないね。そうしないと話が進まないから」
 実際は半信半疑なのだろう。いや、疑念の方が大きいのかも知れない。それでも少女は、裏づける要素が何もない霧月の言葉を信用した。
「でも孤独を商品として扱ってるとして、商売になるの? 孤独なんて好きで買う人はいないんじゃない?」
 夏奈の疑問は至極当然のものだった。むしろそんな商品を欲する人間がいるという事実を、何の抵抗もなく受け入れる方が問題だろう。
「それがいるの。お偉いさんとか、有名人とか。ああいう人たちって、いつも誰かしらと一緒じゃない? だからたまには一人になりたいって思ってる人が、結構多いのよ」
「あ、なるほど。それなら分かる。私も一人きりになりたいときってあるしね」
 と、夏奈は小さく笑う。霧月の胸の中が一瞬ざわついた。
 気付いているのだろうか。今の笑顔が、微かに曇っていたことを。
「他に聞きたいことは?」
 夏奈は首を横に振り、
「それだけでいいよ。あんまり詮索するのも悪いしね」
 時間の流れから隔離されたような小さな店の軒下は、二人を必要以上に饒舌にさせなかった。無駄なことを迂闊に口に出してしまえば、雨の向こうに横たわっているせわしない世間に引き戻されてしまう気がした。
「この雨が、いつまでもやまなければいいのに……」
 伸ばした手の甲の上に、雨粒がいくつも落ちる。肌を伝い道路に吸い込まれていく水滴を見つめる少女の瞳は、何の心も宿していなかった。
「私の話、聞いてくれる?」
「もちろん」
「……ごめんね」
 それが何に対しての謝罪なのかは分からなかった。俯く少女の横顔からは、その心情を思い知ることはできない。人は誰一人として二人の前を通り過ぎず、この世界に取り残されたような錯覚すら感じた。
「私の母親……不倫してるの」
 唐突な言葉だった。霧月が返答を探し出すよりも先に、話の続きが紡がれた。
「しかも私のクラスの担任と。……信じられる?」
 その問いかけが自分に向けられたものだと、霧月は即座に気付くことができなかった。それほど夏奈の声は、感情に乏しかったのだ。
「昼間に放送してるドラマじゃないのにね」
 ある一つの感情を抑えるために、他の全ての色を殺している声。何の余韻もなく雨音に浸食された台詞から、悲しみ以外の何を想像しろと言うのだろう。
「お母さん、まだ若いの。十七歳で私を生んだんだって」
「それじゃ……三十四?」
「うん。お父さんは三十六。……凄いとは思うよ。私に今子供ができてもたぶん育てられない。苦労もしただろうし、遊びたかったとも思う。でもこういう取り返し方って……ひどいよね」
「……許せない?」
 夏奈の溜息が、冷たい空気に溶けていく。いくばくかのためらいを見せた後、少女はゆっくりと口を開いた。
「分からない。だけど、大人のやってることだから私が口出ししたって……」
「お父さんは知ってるの? その……お母さんがしてること……」
「……たぶん」
 短い返答は、それ以上を話したくないという意志を言下に表していた。沈黙によって静寂が訪れることはなく、空が気紛れに蓋を開けた水瓶の中身はまだしばらくは尽きそうになかった。
 雨の中にいると、上手く時を計れなくなるのは何故だろう。霧月の腕時計は、夏奈と出会ってから一時間しか経っていなかった。それより多くの時間が流れた錯覚に捉えられていたのは、ここが「時計屋」の屋根の下だからだろうか。そんな皮肉とも冗談とも解釈できる自らの思考を弄びながら、女性は瞼を閉じた。
「だから私に……孤独はいらない。これ以上、そんなもの……」
 一台の車が通り過ぎ、夏奈が言った。
「……ごめん」
 車が踏んだ水たまりが飛沫となり、夏奈の靴を濡らす。それに気を取られている間に少女は霧月に抱きしめられたが、そうされることを分かっていたかのように何の抵抗も驚きもなく、むしろ心は軽くなっていた。
 人が抱きうる全ての痛みは、決して分かち合えない。どんな言葉も温度も、現実を何一つ変えない。けれど、独りではない。孤独と呼ばれる滑稽な悲劇を望むほど、少女は堕ちていないのだから。
「ありがとう」
 霧月の体温を遠ざけ笑うと、夏奈は雨中に歩み出た。濡れ鼠になりながら、彼女は言う。
「もう行こうよ。雨はしばらくやみそうにないから」
 霧月は首を横に振った。
「私の仕事はもう終わり。だからここで、お別れ」
 夏奈はしばらく霧月の顔を見つめていたが、やがて俯くと、
「また会える?」
「……次が、最後」
 そう返ってくることを事前に知っていたかのように、夏奈は小さく頷くだけだった。
「霧月さんのこと、お父さんに話してもいい?」
「いいけど……きっと、信じてもらえないわよ?」
「それでもいいの」
 夏奈は背中を向ける。雨音の隙間から、小さな声が霧月に届いた。
「それじゃ、またね」


「経済の授業をしようか」
 娘から霧月の話を聞いた雅人が、しばらく何かを考え込んだ末に発したのがそんな台詞だった。
「経済?」
 あまりにも唐突で脈絡のない雅人の言葉に、夏奈は面食らった。父親は意に介さず続ける。
「霧月さんは孤独を売っていると言った。その仕事相手が夏奈だとも。でも、夏奈はそんなものを欲しがってはいなかった。そうだね?」
 夏奈は霧月のことを話すのと同時に、何故自分のところに現れたのかということを疑問として呈していた。経済の話がどうしたらその返答になるのか皆目見当がつかなかったが、とりあえず頷き先を促した。
「簡単なことだよ。たとえば書店では本が売っているけど、その本は店で印刷するの?」
「ううん。出版社から――」
 夏奈の声が途切れる。雅人は言った。
「そう、注文して仕入れるんだ。どんな商売でも、自分のところで扱う商品を作っているのでなければ、仕入れという作業が必要になってくる。売るものが孤独でも、それは同じだと思うよ」
 夏奈が勢いよく立ち上がる。時計は午後の八時を過ぎていた。こんな時間の外出を、許してもらえるだろうか?
「お父さ――」
「行っておいで」
 言葉にするのがもどかしかったのか、夏奈は頭を下げ家を飛び出した。雨はやんでいたがその名残は色濃く存在している。その一つである匂いの消えていない空気を大きく吸い込み、走り出した。
 慣れた道を駆ける。何度も水たまりで靴が濡れたが、気にしてはいられなかった。空は未だに雲に覆われ、「彼女」は見えない。漠とした不安が、少女の足を速めた。
「……霧月さん!」
 見慣れていたはずの公園が、闇に包まれている。当然人影はない。それでも夏奈は、その場所に足を踏み入れた。浅く断続的だった呼吸が、次第に普段のものに戻っていく。落ち着きを取り戻した少女は、改めて公園の中を見渡した。やはり人の姿はなく、彼女はたった一人だった。
 空を仰ぎ、大きく息を吸い込む。雲が切れ、月がその体を地上に晒していた。満月だった。
「いつからここにいたの?」
 背後からの声。夏奈は月を仰いだまま、答えた。
「ついさっき。あの月が見える少し前から」
「約束もしてなかったのに、どうしてここに?」
「伝えなくちゃいけないことがあるから……それだけ」
「私が来なかったら、どうするつもりだったの?」
 夏奈は振り向く。真剣な表情のまま、彼女は言った。
「霧月さんは今ここにいる。それでいいんじゃない?」
 霧月は蛇足にしかならない台詞を全て封じ、小さく一度だけ頷いた。
「私……言わなくちゃいけないことがあるの……。たくさんのこと……」
 かぶりを振り、霧月は言う。
「もう、全部聞いたわ」
 と、霧月は微笑む。夏奈の反論を全て消し去る、卑怯だけれど綺麗な微笑だった。
「だから、夏奈は何も言わなくていいの。私は夏奈から、孤独をもらったから」
 夏奈は押し黙る。だがすぐに間違いに気付き、唇を動かした。
「ううん、まだ一つだけある。言ってないこと……」
 月がまた雲に隠れた。それと同時に霧月の目を強く見据えたのは、自分の中にある躊躇を拒むためだった。
「別れの言葉」
 夏奈が再び背を見せる。二人の視線が永遠に交わらないことを悟った霧月は、少女が立っているのとは正反対の方向に爪先を向けた。
 月から雲が完全に取り払われた瞬間、声が重なった。
「さよなら」


 秋の終わりの夜道。冷気を嫌うように、女性はコートに身を包んでいた。吐息は白いが、その顔はどこか嬉しげだった。
「すみません」
 突然の声に女性は一瞬緊張の色を見せたが、話しかけてきたのが同性だと分かると胸を撫で下ろした。
「これ、落としましたよ」
 差し出されたのは彼女の財布だった。そんな重要なものを落としたことに気付かない自分を内心で恥じながらも、彼女は頭を下げた。一礼して歩き出した女性が闇の中に消えるまで見送ると、鞄の奥底に財布をしまい彼女も歩き出す。その直後に鳴り始めた携帯電話の液晶画面に表示されていた名前は、愛おしい不倫相手のものだった。いや、元不倫相手と呼ぶ方が正確だろう。何故なら、今日彼女は離婚届を提出し、晴れて誰にも咎められず恋愛を謳歌できる身となったのだから。
 彼女は初恋をしている少女のように、満面の笑みで電話に出る。だが、その向こうから聞こえてきたのは彼女が予想していたはずのない、恋の終焉を告げる言葉だった。
「二人の関係が学校にばれて解雇になった。俺は次の仕事を探さなきゃならないからあんたとは終わりだ。元々本気じゃなかったがこんなことになるなら余計なことはしなけりゃよかった」
 女性に反論の暇を与えず男はそれだけを言い、一方的に電話を切った。何を言われたのか理解できなかったが、それでも女性は彼に電話をかけ直した。
 着信拒否になっていた。携帯電話がアスファルトに触れ、破壊された。
 やっとのことで離婚をした。親権は元夫に譲り、原則として娘とは会わないという誓約書も書いた。今回のことで友人を何人も失い、親とは絶縁状態にあるが、そんなことは大した問題ではない。全ては彼と幸せになるためなのだから。あの人となら、早すぎた結婚で失った時間も取り戻せる。私の人生はここから始まるはずだ。終わりなどではない。始まりのはず……孤独の。
「お買い上げ、ありがとうございます……」

FIN