桜花の笑顔



「ねえ、今度の日曜って暇?」
 少女――桜井美佳の問いかけに、彼女の幼なじみの酒井和也は素っ気なく頷く。
「ああ。けど、それが何か?」
「今度の日曜って、何の日か覚えてる?」
 和也は不思議そうな顔で幼なじみの顔を見つめながら、
「何かあったっけ?」
 と、逆に聞き返した。
「う、ううん。何でもないよ」
 慌てて首を振る美佳を、少年はますます怪訝そうな表情で見る。
「あはは、気にしないで。私の勘違いだったみたい」
「……変な奴」
 そう呟いてから、少年は空を仰ぐように花の咲き始めた桜の木を見上げた。
「桜が咲いてくるとさ、もうすぐ春だなって思うよ」
「うん。そうだね」
「二人で合格発表の掲示板で喜んだのが一年も前になるんだ。早いな」
「この一年、色々あったよね」
「そうだな。楽しいこともあったし、それなりに辛いこともあったし。けど、もう少しでで二年生だもんな、俺ら」
 と、和也は空を見上げ、万感の思いを込めて、言った。
「もっと勉強も難しくなるんだろうな……」
「しょうがないよ。学生って、勉強するのが仕事なんだから」
「そりゃ分かっちゃいるけどさ……」
 うんざりした表情で、和也は小さく溜息をついた。
「その分、楽しいこともたくさんあればいいんだけど……」
「楽しいこと、ないの?」
「ないってわけでもないよ。ただ、あんまり多くないだけ」
「じゃあ、楽しいって感じるのってどんなとき?」
 そう問いかけられた和也は、その顔に悪戯っぽい色を含ませて、
「美佳と一緒にいるとき……かな?」
 と、微笑んだ。
「……また、そうやって冗談言う」
 その言葉とは裏腹に、少女の顔は少し赤らんでいた。
「あ、やっぱり分かった?」
 その会話は、二人の間でいつも交わされているものだった。そして、そこに伴う感情も常に変わらない。
 答えが分かっている少女は、それでも普段とは違う台詞が聞こえてくることをどこかで期待していた。だが、返ってくるのは聞き慣れた言葉。おなじみの台詞に、美佳はいつも複雑な気持ちだった。
「でも、和也も暇だよね。せっかくの春休みなのに、恋人とかいないの?」
「その言葉、そっくりそのまま美佳に返すよ」
 和也の言葉に、美佳はおどけた調子で切り返した。
「残念。恋人はいないけど、好きな人はいるよ。私だって高校生なんだから、好きな人くらいいたっておかしくないでしょ?」
 嘘だった。その偽りで、和也の反応を窺おうとしたのだ。
「そうだな」
 和也の素っ気ない態度に、美佳は思わず、
「和也こそ、好きな人とかいないの? 知ってる人だったら、応援するよ」
 自分の本心とは正反対の台詞を口にした。そしてそれが、美佳の心を締めつける。
「いないよ、そんな人」
「やっぱり暇だね」
 幼なじみの言葉に苦笑しながら、和也は逆に尋ねた。
「美佳こそ、好きな人にアプローチかけないでいいのか? 俺と喋ってる場合じゃないだろ」
「あ、いいのいいの。どうせ学校が始まったらいつでも会えるし、それに――」
「それに?」
 聞き返す和也の表情は、ごく平然としていた。自分の気持ちを必死に抑えながら、美佳は自身を苦しめるだけで何の意味も持たない嘘を重ねる。
「その人もね、私のこと好きらしいの」
「そりゃ、よかったな」
「うん。だから、新学期が始まったら今までみたいに和也に構ってられなくなるからね。早く恋人作った方がいいよ」
「恋人なんかいなくても、別に友達がいれば――」
「和也の友達、みんな彼女いるじゃない」
「う……」
 反論のしようがなかった。美佳の言うとおり、和也の仲のいい友人には全員、見事に恋人がいるのだ。
「美佳まで裏切るのか? 俺を一人にしないでくれよ」
 情けない声を出す幼なじみに、美佳はごまかすためにおかしそうな笑顔を見せた。
「ダメ。早く、恋人見つけなさい」
「美佳〜」
「そんな声出しても、ダメなものはダメ。その人のこと、好きって事実は変わらないんだから」
 そう、その事実は変わらないのだ。たとえ美佳がどんなに上手く嘘をついても、和也がその嘘に騙され続けようと。
「なあ美佳」
「何?」
「お前、本当に好きな人いるのか?」
 和也に気付かれないようにと答えを急ぐあまり、美佳の声が幼なじみのそれに重なった。
「いるよ。どうして?」
「それ、どんな人?」
 美佳は返答に困った。本心を言ってしまえば、それが指し示すのは一人しかいないのだ。
「どんなって?」
「優しいとか、顔がいいとか……色々あるだろ」
「心配してくれてるんだ」
「そりゃな。いくら美佳でも、辛そうな顔なんて見たくないから」
 視線を逸らし、独り言のように言う和也に、美佳は正直な気持ちから嬉しそうな表情を見せた。
「優しい……かな、やっぱり。私のこと、よく分かっててくれる人だよ」
「美佳がそう言うんだから、いい奴なんだろうな」
「うん。そうだよ」
 頷く美佳の微笑みを見て、和也は安心したように息をついた。
「なら、大丈夫だね。俺、ちょっと用事あるから」
 と、和也はベンチから立ち上がり背伸びをする。美佳は幼なじみを見上げて、精一杯の偽りの笑顔を彼に向けた。
「じゃあ、またね」
 立ち去る和也の姿が完全に見えなくなると、美佳のこらえていた感情が一度に表に吹き出してきた。
 緩やかな風の中、誰もいない公園の静かに揺れる桜の木の下で、美佳は声を押し殺し、泣いた。誰にも届かない気持ちを断ち切れない少女は、他人に気付かれないように、何もかも隠しながら、涙だけを流した。
 彼女を見ているのは、桜だけだった。


 その日は、美佳にとって大切な一日のはずだった。だが、彼女は部屋のベッドに寝転んでいるだけだ。
 両親も、友達も、そして一番そばにいて欲しい人もいない。ある意味でそれは彼女の望んだ状況であり、そして同時に最も否定したい現実でもあった。
 美佳は心のどこかで、家のインターホンが鳴るのを待っていた。ほとんどはそれをあり得ないことだと思っていても、気持ちの奥底では聞き慣れた音が耳に飛び込んでくるのを期待していた。
「あるわけないよね……」
 誰に聞かせるわけでもない言葉を呟いたあと、美佳は目を閉じた。疲労が蓄積していたせいだろうか、彼女はすぐに浅い眠りへと落ちていった。
 美佳は夢を見た。
 夢の中の彼女は、誰かの背中を追いかけていた。よく見慣れたその後ろ姿――和也だ。
 いくら懸命になって追いかけても、幼なじみには追いつけなかった。和也は彼女の存在に気付いていないのか、全く後ろを振り向こうとしない。
 あるいは、全て分かっているのかも知れない。知っていて、意図的に振り向かないのだとしたら……?
 美佳は首を振り、それを拒絶する。そんなこと、あるはずが……。
――本当に、ないの?
 立ち止まり、美佳は自分に問いかける。それと同時に、和也も足を止める。だが、彼女は追わない。
――私は、自分の気持ちをはっきり言える。だけど、和也は……?
 彼の気持ちが、自分と同じ場所にある保証はどこにもなかった。そのことが美佳に不安を植えつける。
――和也を遠ざけてるのは、自分じゃないの?
 それはそのまま答えだった。自分の嘘が、幼なじみとの距離を大きくしている。どこかではすでに感づいていたその事実は、美佳が自分自身に対してひた隠しにしていることでもあった。
 そして、そこで目覚め。
 彼女は涙を流していた。本当に寝てる間でも泣くんだ、と変なことに感心しながらも、瞳から流れ落ちていたものは今の夢が自分の本心であることを教えてくれていた。
「でも……しょうがないよね。自業自得なんだから」
 そう言って、美佳は微かに笑う。自嘲以外の感情は一切含まれていない笑顔。
 そのとき、不意に「音」が聞こえてきた。
 美佳は一瞬気のせいかと思ったが、もう一度鳴ったその「音」に慌てて階下へと降りる。
 もう一度、インターホンの音。
 それが終わると同時に、美佳は玄関を開けた。後ろを向いていたその背中を、彼女は無意識に呼び止めた。
「和也……!」
 少し掠れ気味の声に、和也は足を止め振り向いた。
「よう、いたんだ。今、暇?」
「う、うん」
 美佳は精一杯首を縦に振る。幼なじみが、そこから離れることを拒絶するかのように。
「じゃあ、上がるよ」
 と、靴を脱いでいた和也の視線が美佳の顔の上に留まった。
「な、何?」
「美佳、目が真っ赤だぞ。もしかして、寝てた?」
「う、うん。少し――」
 彼女の言葉は嘘ではなかった。もっともそれは、要因の一つにしかすぎないが。
「じゃあ、お邪魔します……って、誰もいないの?」
「うん。お父さんもお母さんも、仕事」
「ふうん」
「ねえ、それよりもそのバッグ、何?」
 和也の手にあるバッグに気付いた美佳は、不思議そうな表情で尋ねた。
「これ?」
 彼はバッグの中から一つの箱を取り出し、テーブルの上に置いた。それは、きれいな包装紙で包まれ、リボンがかけられている。
「俺からのプレゼント」
「プレゼント、って?」
 場の状況を理解していない様子の美佳に、逆に和也の方が怪訝そうな表情を見せた。
「だって、今日って美佳の誕生日だろ? まさか、忘れてたとか?」
「ううん、そうじゃないけど……」
「けど?」
 美佳は少しうつむきながら、
「和也、まるで忘れてるみたいだったから……」
「ああ、この前の『今度の日曜って、何かあったっけ?』って台詞ね。あれ、嘘。美佳のこと驚かせようと思って、わざと忘れたみたいにしてたんだ」
「じゃあ、ずっと覚えててくれたの……?」
 和也は心外だと言わんばかりの表情で、
「当たり前だろ? 一体、何年お前の幼なじみやってると思ってるんだよ」
 一瞬の空白のあと、美佳の顔に救われたような笑顔が浮かぶ。
「そうだね」
「まあ、それはともかくとして、開けてみてよ」
「うん」
 美佳が丁寧にラッピングを外し箱を開けるとそこには、ペアになったペンダントがあった。
「これって……」
「安物だよ。でも、デザインは悪くないと思うよ。片方はさ、ほら、美佳の好きな人にでもプレゼントしてよ。もちろん、美佳からってことで」
「……うん」
 美佳の表情が一転して暗くなったことに、和也は気付かなかった。彼は楽しそうに、少女の嘘を真実と信じたまま言葉を続ける。
「そういえば、今日はその『好きな人』は来ないの? せっかくの誕生日なのに」
「今日は、部活なんだって」
 元々は自分のついた嘘。それだけに、和也の台詞がどんなに残酷なものだろうと美佳には憤ることも、泣くこともできなかった。こうなってしまえば、あとは笑顔で偽りを重ね続けるしかないのだ。
「まあ、後日祝ってもらえばいいことか。学校が始まれば、いつでも会えるんだしね」
「うん。あ、あのさ、和也の誕生日、五月だよね? 一緒に祝ってくれる人とか、いないの?」
「皆無。美佳にも恋人できるしさ。親はそういうの興味ないし。こうなったら彼女でも作るかな」
「でも、好きな人いないんでしょ?」
「いや、それがさ……」
 和也の曖昧な物言いに、美佳は大きな不安を覚え、そしてそれを消去するために短く尋ねた。
「いるの?」
 だが、現実は彼女にとって最悪の白日夢を見せつけた。
「まあ……そういうことかな」
 美佳は一瞬心臓が止まりそうになった。幼なじみの発した言葉は、自分のものと違って嘘であるはずがない。
「そ、そう。頑張ってね。応援するから」
 動揺をひた隠しにして、できる限りの笑顔を和也に向ける。それに対する彼の台詞は、残酷だった。
「ありがとう。――あ、そうだ。ケーキ買ってきたんだ。食べる?」
「うん」
 何気ないふりで相槌を打って、和也が買ってきたショートケーキを口の中に入れる。だが、普段は大好きな甘いものの味が、今は全く分からなかった。食べているのかどうかすら疑わしくなるほど、そこには何の感覚も発生していない。
「ごちそうさま」
 その一言も、自分が言っているのか確信が持てなかった。ひどく遠くで、全くの他人が口にしているような気がしていた。
「とりあえず、これでやっと美佳も十六歳だな。あと何週間か遅かったら、俺たち違う学年だったんだ」
「うん、そしたら私も、今と全然別の人になってたんだろうね」
――そしたら、こんな辛い気持ちにならずにすんだかも知れないね……。
「まあ、とりあえずは時間の神様に感謝しなきゃね」
「え?」
 不思議そうな表情を浮かべる美佳を見て、和也は慌てたように、
「い、いや、だからさ。学年が違ってたら、美佳と友達になれてなかったかもってこと」
「そう……だよね。うん、私もそう思う」
 そして訪れた、奇妙な沈黙。口を開きたくない、けれど相手に話しかけてきて欲しい。時計ではほんの数分でも、二人の感覚の上では短くない時間だった。
「あの……さ」
 先に口を開いたのは、和也の方だった。ためらいがちに、ゆっくりと話し出す。
「美佳……好きな人、いるんだよね?」
 念を押すような問いかけに、小さく頷く美佳。和也は一つ溜息をついてから、諦めがちに言葉を紡ぐ。
「じゃあ、無駄かな……。俺にも、好きな人がいるけど、それってどんな人だと思う?」
「きっと……かわいくて、優しくて、いい人なんでしょ?」
「ああ」
「それが、何か?」
 和也を責めることはできない。全て、今の状況を招いたのは自分なのだから。残酷なのは、自分自身なのだから。
「でも、その人にそう言うと、否定されるんだよね。どうすればいいと思う?」
「どうすれば……って、そのままにしておけば? 本人に無理に思い込ませる必要なんて、ないんじゃないの?」
「そうなんだけどさ。その人、自分のよさに全然気付いてないみたいだから……」
「よく知ってるんだね、その人のこと」
「まあね」
「じゃ、仲いいんだ」
「まあ、それなりには」
「それじゃなおさら、頑張ってね」
「そうだね。……でも」
「でも?」
 和也は少し寂しげな笑顔を浮かべた。
「その人、別に好きな人がいるみたいなんだ。しかも、両想いらしくてさ……」
「それって、辛いね」
「うん。まあでも、しょうがないよ。その人が笑っててくれれば、そばにいられなくてもいいんだから」
 今度は、笑みで寂しさを隠そうとはしなかった。美佳が彼の隣に来て、明るく励ます。
「そんな暗い顔しないでよ。和也らしくないじゃない。ほら、もっと笑ってよ」
「ああ。いっそのこと、告白して振られた方が楽になるかな、って気もするんだけど……」
「あ、それいいかも。そうしたら?」
「そうだなあ……」
 和也は大きく溜息をついたあと、いくらか間を置いてから――優しく、美佳を抱きしめた。
「ごめん……」
 美佳は何が起こったか全く分からない。一つ一つは分かる。だが、それを総合した意味を少しも把握できなかった。
「え……?」
 呆気に取られている少女から体を離すと、和也は申し訳なさそうな表情で口を開いた。
「ごめん……。こんなことしたら苦しむのは美佳だよな」
「え? え?」
「本当に最低だな、俺……」
 と、和也は立ち上がり、バッグを肩にかけると優しく微笑んだ。何もかも吹っ切れたあとの表情だった。
「本当にごめん。――答えはさ、分かってるから言わなくていいよ。じゃ、彼氏と上手くやれよ」
 美佳はまだ全てを把握していなかったが、それでもこれだけは分かった。
――呼び止めなきゃ。
「ちょっと待ってよ、和也!」
 混乱しきった思考と、大きすぎる焦りに支配されながらも、美佳は叫ぶようにその名を呼んだ。
「何?」
 振り返った和也の顔は、さも意外そうだった。その表情から、美佳の言葉を一つも疑っていなかったことが容易に推測できる。
「か、和也、好きな人いるって……」
 それだけで、質問としては充分だった。話が少し長くなりそうなことを予期して、肩のバッグを椅子の上に置いて答える。
「だから、それが美佳なんだってば」
「だって、優しくてかわいいって……」
「実際、そうじゃない? 美佳は優しいし、かわいいよ」
 普段ならば、一瞬にして顔が赤くなるところだろう。だが今は、一つ一つの台詞に照れている暇はない。
「じゃあ、その人が笑っててくれれば、自分はそばにいられなくてもいいっていうのも……」
「もちろん本心。常識的に言って、好きな人のそばにいるのが一番幸せなはずだろ? 俺の気持ちがいくらこうでも、他に好きな人がいる美佳を俺に縛りつけておくなんてできないよ。でも、伝えておきたかったんだ。俺の正直な気持ちってものを、さ。美佳には迷惑だろうけど……」
 それは、美佳の心に張っている氷を溶解させるには、充分すぎる効果を持っている台詞だった。彼女の感情は一気に弾け、そして少女は声を上げて泣き出した。彼女のあまりに予想しなかった行動に、慌てふためくことしかできない和也。
「な、泣くなって。そりゃ、お前には迷惑だと思うよ。け、けど、別に俺の彼女になってくれって言ってるわけじゃ……」
「違うの!」
 美佳はしゃがみ込み、顔に両手を当てて同じ単語を繰り返す。
「違う、違う、違う!」
「な、なあ、とりあえず落ち着いてよ。何か言いたいことがあるなら、ちゃんと聞くから……」
 しかし、その言葉は届かない。和也は彼女と視線の高さを合わせると、両肩に手を置いてその体を強く揺らした。
「話があるなら聞くから! 俺はちゃんとここにいるから!」
 しばらくの時間をおいたあと、美佳はゆっくりと顔を上げると、真っ赤になった瞳で和也の顔を見つめてから小さく頷いた。
「ほら、涙拭かないと。かわいい顔が台無しだって」
「えへへ……。私、かわいくなんかないよ」
 そう言いながらも、顔は照れ笑いを見せていた。無論、そこには大きな嬉しさも含まれている。
「とりあえず、落ち着いた?」
「うん」
「ならよかった」
 と、和也は心から安心した表情を浮かべていた。彼にしてみれば、美佳が笑顔を取り戻してくれればそれでいいのだ。何故泣いていたかという理由は、大して重要なことではない。
「あ、あのね……」
 だが、美佳はそういうわけにもいかない。今自分に正直にならなければ、もう二度と気持ちを伝えられるチャンスは巡ってきそうにないからだ。
「私が言ったこと、少し嘘なの」
「嘘って? 好きな人がいるってこと?」
「ううん、それは嘘じゃないよ。すごく好きな人はいるから……」
「じゃあ、嘘って?」
「学校が始まったらいつでも会えるって言葉。本当は学校が始まらなくてもすぐに会えるの。あとは、変に誤解させるように言っちゃったことかな?」
 和也は落胆の色を隠せなかった。だが美佳はそんな少年を見てさもおかしそうに笑う。
「その人はね、私のこと一番よく知ってる男の子なの。すごく優しい人だから、そばにいるだけで安心できる人なんだよ」
「そ、そう」
 目が泳いでいる。つまり、美佳の言葉の真意を全く捉えていないということだ。
「やっぱりその人も、私のこと好きなんだって」
「そ……そうなんだ」
 ここまでいけば、一つの才能だろう。美佳は満面の笑顔のまま、笑い声混じりに告白した。
「もう、鈍すぎるよ。私が好きなのは、和也なんだってば。大体、和也以上に私のこと知ってる男の子なんているわけないでしょ? それに、学校が始まらなくてもすぐに会える……ううん、今こうして会ってるじゃない」
 そう言われた和也の表情は、喜びよりも戸惑いが先行していた。
「え……えっと、つまりは、あれですか? 俺の勘違いだったってこと?」
「そういうこと。もっとも勘違いさせたのは私だけど。ごめんね」
「い、いや、それは別にいいんだけどさ……」
 言葉に詰まっている和也の態度に、美佳は小さな違和感を覚えた。
「どうしたの? 何か、変だよ」
「い、いや……その……」
「?」
「美佳って……その……かわいいんだなあ、って……」
「え……」
「前々から、かわいいとは思ってたけど……」
「そ、そんなこと……」
「美佳はそうやって否定するけど、俺は充分かわいいと思うよ。それとも、こんなこと言われるのって嫌……?」
「う、ううん。ただ、すごく、照れくさいから……」
「それは、俺だって同じだよ。でもやっぱり、本心だから……」
 和也はそれだけ言うと、うつむいて黙り込んだ。自分の気持ちをこれ以上素直にしてしまうと、何を口にするか自分でも見当がつかないのだ。
「ね、ねえ。さっきのプレゼント、片方は私の好きな人にプレゼントしてって言ったよね」
「う、うん。けどまさか――」
「自分がすることになるなんて思わなかった?」
「ま、まあ、そういうことだね。えっと……それじゃ、そのペンダント――」
 美佳は少年の言葉をさえぎるように、自分の声を重ねた。
「あ、今日はしなくていいよ。その代わり、一つお願いがあるんだけど……」
「お願い?」
 意外そうな和也から視線を外したまま、美佳はやっと聞き手の耳に届くような小声で、その意志を台詞にした。
「あ、あのね……さっきみたいに……」
 その顔は、完全に子供のそれだった。ただ、その幼さは彼女を正直にしてくれるもので、全く嫌味さは存在していない。
「私のこと……抱きしめてくれる……?」
「な、何を急に……」
「ダメ……?」
 和也を見つめる美佳の瞳は、少しのきっかけで涙をこぼしそうなほど潤んでいた。少年は狼狽の色をその顔に浮かべる。
「い、いや、ダメじゃないけど……その、さっきのは断られるって思ってたから……」
「だから、できた?」
「う、うん」
「じゃ、今はできない?」
 美佳の表情は穏やかだ。そこに、特に悪意は感じられない。むしろ、しどろもどろになっている和也の言動を楽しんでいるようにさえ見える。
「そんなことないけど……。ただ、美佳の方から言い出すなんて意外だったから……」
「え?」
 美佳は幼なじみの言葉に違和感を感じ取り、そしてその裏に存在する真意に辿り着くと、破顔一笑した。
「それって、和也も私のこと抱きしめたいって言ってるよね?」
「……あ」
「どうなの?」
 相も変わらず、美佳は嬉しそうな笑顔を見せているのに対して、和也は視線を足元に落とし、言葉を濁していた。
「いや、それは……」
「違うの?」
「……」
「ねえってば」
 和也は大きく息を吸うと、意を決したように顔を上げ、美佳の瞳を強く見据えた。強い意志の内在している視線に、今度は少女に動揺の色が生まれる。
「な、何?」
「違うわけないだろ。俺は、美佳が好きなんだから」
「そ、そうだね」
 その短い台詞を言い終わるとほぼ同時だった。美佳の体と意識は、和也の暖かい腕に包み込まれていた。
「あ……」
「これでいい?」
「う、うん」
 頷いて、美佳は自分の体と気持ちを和也に寄り添わせた。よく知っている幼なじみの体温は、心地よく安らげる場所だった。
「やっぱり、少し照れくさいな……」
 と、和也は赤く染まった顔で、自分を信頼しきっている女性を見下ろす。彼女は、その長い付き合いの中でさえ見たことがないほど幸福な表情をしていた。
「うん。でも……しばらく、こうしててくれる?」
「もちろん」
 と、和也は恥ずかしそうな笑い顔を見せる。それに応えるように、美佳もはにかんだ笑みを浮かべた。
「私……和也を好きになって……和也のそばにいられて……幸せだよ」
 美佳の言葉に、和也は自分の大切な人を少しだけ強く抱きしめた。

FIN