ネジ巻き時計



 林道を彩る無数の木の葉がさざめく。秋の色を帯びたそれを見上げながら、女性はその先にある場所に向かっていた。彼女の推測が当たっていれば、中学からの友人がそこにいるはずだ。
「やっぱり、ここだったのね」
「あれ、綾。どうしたの?」
「部屋にいないし、電話にも繋がらないからここだろうって思って来てみたのよ。美咲が携帯電話の電源を切るの、ここにいるときだけだから」
 霧原美咲の背中を見つけた岩居綾は、彼女と同じようにしゃがみ、手を合わせる。二人の周囲には、永い眠りについた者の名を記した石がいくつも並んでいた。
「また、報告?」
「うん。この前の契約、結局とれなかったから……」
「いつも美咲の愚痴を聞かされる川瀬君もいい迷惑だよね」
 川瀬智明、享年十七歳。今から十年前に逝ってしまった、美咲と綾の後輩。それが、彼女たちが合掌している墓の下で眠る人物である。週に一度はここを訪れ、日々の出来事を彼に伝えるのが美咲の習慣となっていた。
「愚痴なら私が聞くって、いつも言ってるでしょ?」
 美咲は苦笑いを浮かべるだけで、友人の言葉には何も答えなかった。
「いつまでも引きずってたんじゃ、川瀬君だって向こうで心配するわよ?」
「分かってるけど……ごめんね」
 綾は溜息をつくと、友人の頭に手を置いた。
「嫌なことは、おいしいものでも食べて忘れる。このあとの予定は?」
「何もなし。お金もないけど」
「私が出すから、心配しなくて大丈夫。駅前に新しくできたイタリア料理屋さん、知ってる? そこのパスタがおいしいみたいよ」
「綾が行きたいなら、そこでいいよ」
「じゃあ、決まり」
 携帯電話の液晶画面に表示された時計に、綾は視線を向ける。あと5分で正午だった。
「まだ、川瀬君と話す?」
「ううん、もう終わり。早く行こう。お腹――」
「お姉さん」
 唐突に、背後から子供の声。二人が同時に振り向くと、少年――小学生だろうか――が立っていた。
「霧原美咲さん、だよね」
「知り合い?」
「心当たり、ない」
 困惑顔が交差する。戸惑う大人を気に留める様子もなく、少年は笑顔で自分の右手を差し出した。
「これ、あげる」
 美咲の手のひらに、硬く冷たいものが載せられる。針の動いていない、懐中時計だった。
「それね、この世界の時間を司る時計なんだ。今は、止まってるけどね」
 あまりにも突拍子のない言葉に、美咲も綾も呆気にとられるばかりだった。少年の口からは、冗談としか思えない説明が紡がれ続ける。
「このまま放っておくと、時間が止まっちゃうんだ。今すぐ、ってわけじゃないけど」
 手の中にある何の変哲もない懐中時計と、目の前にいるどこにでもいそうな少年。この二つと美咲を結ぶ、あまりにも非現実的な話。一瞬、白昼夢を見ているかのような錯覚さえ覚えるが、頬に触れる冷たい風が、これは現実だということを否応なしに突きつける。
「大体、止まるまで丸二日くらいかな。それまでに時計が動き出さないと、風景が変わらなくなっちゃうんだ。昼は昼のまま、夜は夜のまま。太陽や星の位置も、雲の形も天気もずっと同じ。花はこれ以上枯れないし、咲かない。それって、怖いことだよね」
「なんで、これを私に」
 時計から目を離せないまま、美咲は尋ねる。自分でも驚くほど、声に抑揚がなかった。
「美咲さんだけなんだ、その時計にもう一度命を与えられるのは」
 予想外の台詞に、女性たちは思わず顔を上げる。
 そこにはもう、少年の姿はなかった。


「あんなの、ただの悪戯よ。時間が止まるなんて、そんなことあるわけないもの」
 結局昨日は来ることのなかったイタリア料理店で、カルボナーラを食べ終わった綾が口を開く。少年に時計を託されてから、美咲は微笑みすらしなかった。
「ただの悪戯だとしたら、どうしてあの子は私の名前を知ってたの? 目の前で消えたのは?」
「名前くらい、どうにかして調べたんでしょ。消えたのは、あのとき時計に気をとられてた隙じゃない? その隙にどこかに隠れたのよ」
「探したけど、いなかったよ」
 綾は一瞬、言葉に詰まる。あのあと二人で周囲を散々探し回ったが、結局少年の姿を再び見ることはなかった。
「だからって、あの子の話が本当だって言うの?」
 手の中にある止まった時計を、美咲はずっと見ていた。彼女の前に置かれているミートソースのスパゲッティは全く減っていない。
「食べないと、体壊すわよ?」
 美咲が顔を上げる。今にも泣き出しそうだった。
「もしもあの子の話が本当だったら、私のせいで明日がなくなっちゃうの?」
「明日が、なくなる?」
 綾には、その言葉の意味が理解できなかった。
「もしこの時計が動き出さなかったら、景色も天気も変わらなくなる。そうなったら、今日と明日の区別なんてできるの?」
 朝は夜になり、夜は朝日を待つ。その繰り返しがあるからこそ、人は漠然とではあっても、止まることなく流れる時間の中に線を引くことができる。もしもそのサイクルが失われてしまえば、一日の終わりと始まりの境に横たわっていた線も、消えてしまうだろう。
「そんなこと気にしなくていいのよ。あんな話、信じる価値なんてないんだから」
 友人に気付かれないように小さく溜息をついた綾は、窓の外に視線を向けた。昨日よりも空には雲が多くかかり、今にも雨が降り出しそうだ。繰り返しのようでいて、絶えず変化を続ける毎日。それが終わることなど、あるのだろうか。
「食べないの?」
 美咲の手が全く動いていないことに気付いて、尋ねる。彼女は深く息を吐き出すと、苦しそうに言った。
「食欲、ない……」
「大丈夫? ご飯も昨日からろくに食べてないんでしょ?」
「なんで、分かるの」
 綾の言ったことは当たっていた。昨夜は一睡もしておらず、食事も今朝、トーストを少しかじっただけだ。もちろん、そんなことをわざわざ綾に報告するわけがない。
「中学の入学式の日に知り合って以来の付き合いなんだから、その程度のことは顔を見れば分かるのよ。大体、その顔色だったら気付かない方がおかしいの」
「そんなにひどい?」
「ひどいも何も、青ざめてるもの。今日はもう帰った方がいいと思う。課長には私から言っておくから」
「ごめん……」
「謝らなくていいの。ちゃんと家に帰って、何でもいいから食べて、眠れなくてもとにかく横になって体を休めること。仕事が終わったら部屋に行くから、それまでおとなしくしてなさい。途中まで送るから」
「じゃあ、お金は私が……」
 伝票を手にとって、綾は首を横に振った。
「私のおごりって、昨日言わなかった? 美咲はちゃんと元気になればいいの。それで今日の分はチャラよ、分かった?」
「うん……了解」
 やっと美咲が、少しだけ笑った。


「そもそもどうして、美咲なのかな」
 ベッドの上でお粥をゆっくり食べる友人に、綾は一つの疑問をぶつけた。
「どうして、って?」
 短いながらも眠ることのできた美咲の顔色は、昼間よりも幾分かよくなっていた。少しずつとはいえ食事を口に運んでくれるところを見ると、精神的にも多少落ち着いたのだろう。だからこそ、綾も時計についての話を切り出すことができた。
「あの子の話を信じるとすれば、時計が動き出さなきゃ世界中の『時間が止まる』のよね? そんな重大事を、どうして美咲に頼んだの? どこにでもいる、一市民なのに」
「偶然、じゃないかな。誰でもよくて、たまたま目についたのが私だった、とか」
「はっきり言ってたじゃない、美咲じゃなきゃ駄目だって」
「じゃあやっぱり、このまま時間が止まったら私のせいってことだよね」
 友人の呟きに対して、綾はかぶりを振った。
「この世界の風景と季節は、止まらない。あの子の言ったことは、嘘よ」
「嘘だっていう根拠があるの?」
「ううん。だけど、どう考えたって不自然よ。美咲だけが、この世界を救えるなんて」
「時計は実際にここにあるの。不自然かどうかなんて、問題じゃない」
 確かに、真実と言えるのはそれだけだ。少年の言葉に偽りが含まれていたかなど、今となっては知りようがないが、少なくとも手元にある時計が動かないうちは、美咲は安らかに眠ることができない。何も信じずに取り返しのつかない事態を招くよりは、信じて騙される方がずっといいと彼女は考えていた。
「そもそも、あの子の言ってた『世界』って何なの?、本当に、この世界全てって意味だったと思う?」
「他の意味があるって言うの?」
「言ったでしょ? あの子は嘘をついてるって。それこそが嘘なのよ。世界中の時間は止まらない。たった一箇所……ううん、一人を除いては」
「それって……」
「そう。美咲のことよ」
 会話が途切れる。次の声が発せられるまでの沈黙はほんの数秒だったが、二人はその時間を実際よりも長く捉えていた。
「正確に言えば、美咲の時間はもう止まってる。その理由は……」
 先を言い淀む。彼女が口に出そうとしているのは、友人がこの十年ずっと抱えてきた傷そのものだからだ。
「智明君、だよね」
 綾は頷きもせず、否定もしなかった。思い当たったのがそれだけだったというだけで、本当に正解なのかは分からないからだ。
「私ね、好きって言ったの。入院する少し前にね。答えは、聞けなかった」
 夏休みが始まるちょうど一週間前、川瀬は体調を崩し入院した。夏風邪をこじらせたらしいと教師は言っていた。大したことはないだろう、とも。それを言い訳にして、美咲は見舞いに行かなかった。本当は、ふられることを恐れていただけだった。
 夏休みが明ける前に、彼は逝った。
「今でも後悔してるし、聞きたいと思ってる。告白の答えを」
「川瀬君はもう、いないのよ」
「うん。だから、私の時間はあの夏から動いてないの。ずっと、明日のない今日を生きてるだけ」
 それ自体に慣れてしまうほど、後悔を繰り返してきた。永久に失われた返事を求め、幾度眠れぬまま朝を迎えただろう。川瀬と別れた日からどれだけ季節が巡ろうと、あの夏が褪せることはなかった。
「本棚の、一番上の左端。ノートがあるの、分かる?」
 美咲が言ったとおりの場所に、色褪せた一冊の大学ノートがあった。表紙には何も書かれておらず、一見しただけではそれが何なのか分からなかった。
「これ? 随分古いものみたいだけど」
「元々、智明君のものだからね。病院から送られてきたの。読んでみる?」
 川瀬はそのとき既に、自らの死期を悟っていたのだろうか。もしそうだとすれば、綾の手の中にあるノートは遺書のようなものだ。他人が簡単に見ていいはずがない。
「だけど、これって……」
「大丈夫だよ」
 ためらいを残したまま、ノートを適当にめくり目を通してみる。整った字で、物語が綴られていた。
「これって、小説? 川瀬君が書いたの?」
「うん。まだ全部は読んでないんだけどね。読むたびに智明君を思い出すから、ちょっとだけ辛くなるの」
 美咲は苦笑いを見せる。過去から抜け出せない友人に複雑な思いを抱きながら、綾はさらにページを繰った。それぞれの話につけられたタイトルだけが、彼女の意識の中を通り過ぎる。ほとんどただの作業となっていたその手を止めたのは、最後の話のタイトルだった。
「これって……」
 読んでいくうちに、顔色が変わっていくのを自覚した。彼女は非科学的な話を信じるタイプではない。今回の件にしても、子供の冗談に過ぎないのだろうというのが本心だ。けれど、今目の前にある現実を偶然で片付けることは不可能だった。
「これ、もう読んだ?」
 そのページを開いたまま、美咲に突きつける。戸惑いの表情を隠さないまま、彼女は首を横に振った。
「悪いとは思うけど、今、読んでみて」
「いいけど……」
 そう長い話ではない。ノートの持ち主が読み終えるまで、十分とかからなかった。
「どう思う?」
「そんなの、こっちが聞きたい」
 書かれていたのは、少女が主人公の話だ。三年前に死んだ、幼なじみの少年の墓参りに来ていた少女に、男の子が声をかける。彼は初対面にもかかわらず彼女の名前を呼び、壊れた時計を渡し、告げる。
 その時計が動かなければ世界の時間が止まってしまう、と。そして物語は、そこで終わっていた。
「偶然、じゃないよね」
「常識と科学に照らし合わせたらそれで片付けるべきだろうけど、さすがに無理よ」
 ノートに書かれた話が現実と酷使していることに、関連性を見つける必要はないのかも知れない。だが、それで終わらせたところで、納得できるはずがなかった。
「とにかく、もう一度あの男の子に会わなきゃいけないみたいね」
「どうするの?」
「川瀬君のお墓。会えるとしたら、そこしかないわ」
 未完のストーリー――「ねじ巻き時計」の結末を、知るために。


「『明日』って、何だと思う?」
 川瀬の墓へと向かう途中、そんなことを言い出したのは綾だった。
「何、って?」
「昨日、お昼に美咲が言ってたじゃない。このまま時間が止まったら、明日がなくなる、って。夜には明日のない今日を繰り返してきたとも言ってたわよね。それで、疑問に思ったのよ。『明日』って、そんなに大切なの?」
「綾は、違うの?」
「上手く説明できないけど、何か違う気が……。ごめん、考えがまとまらないから、今は忘れて」
 美咲は怪訝そうな表情を浮かべたが、友人の言葉の従いそれ以上の追求はしなかった。
「課長、怒ってないかな。昨日は勝手に帰って、今日は休みなんて」
「心配はしてたけど、怒ってはなかった」
「迷惑かけてばっかりだね、私……」
「そう思うなら、ちゃんと元気になればいいのよ。そのために行くんだから」
 二人の声の合間を、足音が埋める。時折枯れ葉を踏む音も紛れ込むが、当然それを気に留めることはない。頬には冷たい風が触れ、空は暖かかった季節よりも高い位置で澄み渡っている。秋という季節の風景は、どれもが寂寥を抱えていた。
「やあ、美咲さん」
 薄着の林道を抜けた先、大きくはない墓地の片隅に彼はいた。
「時計、動いた?」
「まだ、止まってる」
「どうするの?」
 少年は何故か、笑顔だった。その表情から、悪意の類は一切読み取れない。無邪気と表現するより、他になかった。
「聞きたいことがあるの」
 綾だった。少年は笑みを崩さないまま、頷く。
「いいよ。何?」
「あなた、時計を美咲に渡したときに言ったわよね? これが動かなかったら、時間が止まる。風景も天気も、変わらなくなるって。なんでそんなものを美咲に渡したの?」
「あのときも言ったけど、美咲さんじゃなきゃいけないからだよ」
「どうして美咲じゃなきゃ駄目なの?」
「どうしてって、そういう決まりなんだ」
 話にならない、とでも言いたげに綾は首を振った。
「美咲じゃなきゃいけない理由が、ちゃんとあるんじゃない? だから一昨日もここで声をかけてきたし、今も私達の前にいる。この場所で美咲に関係あるもの、それはもちろん、川瀬君よ」
 笑みを自分の顔から消した少年は、何も言わず綾を見据えていた。その瞳には強い意志が宿っていたが、それは敵意ではなかった。
「一つだけ聞かせて。あなたは美咲を救いたいの?」
「救うって、もしかして昨日話した……」
「そう。止まった時間。それを動かしたいんじゃないの?」
「僕が、そうしなきゃいけない理由は?」
「思いつくのは、一つだけ。それが正解だとすれば、あまりにも馬鹿げてる。だから、詳しくは聞かない。私達にあなたの言ってることが真実なのかどうか確かめる術はないから、聞いたところで意味はないしね」
「もう分かってるんだね、全部」
「信じたくはないわよ、言っておくけど」
 少年は小さく笑う。つい先程までとのそれとは違う、どこか儚げな表情だった。
「だから、あなたの言ったことは嘘になる。美咲はやっぱり普通の人だし、あなたも普通ではないにしろ、世界の時間を司る時計なんて持ってるはずはないのよ。元はただの一人の男の子なんだから」
「でも、あの嘘のおかげで気付いてもらえたよね? 美咲さんの、止まった時間のこと」
「遠回りだったけど、感謝はしてるわよ」
 少年は美咲の方を向く。彼女は時計に向けていた視線を彼の方へと動かし、口を開いた。
「ごめんなさい」
「どうして、美咲さんが謝るの?」
「心配かけたから。だから君が、ここにいるんだよね?」
 少年は答えない。白い息をいくつも空気に溶かしながら、美咲は時計を握りしめた。
「私は、ふられたんだよね。智明君に」
「どうして? 何も聞いてないのに」
「『ねじ巻き時計』の女の子は、私だから。あの子の時計は、物語の中じゃ動き出すことを望まれてた。だから、あの子の時計がどうしたら動き出すか、考えてみたの。あの子は、幼なじみの男の子の死に縛られてる。それは、女の子が男の子をずっと、好きだったから。恋を、してたから」
 美咲は目をつむる。手の中には壊れた時計。瞼の裏には鮮やかな夏の記憶。けれど、それも今日で終わる。
「だから……ふられたんだよね、私。智明君には、もう会えないんだから」
「うん。悲しいけど、ね」
 閉じた瞼から、涙がこぼれる。嗚咽が漏れ始めるより先に、彼女は友人に抱きしめられた。
「長い、恋だったね」
 子供のように泣きじゃくる美咲を抱く腕に、少しだけ力を入れる。彼女の頭を撫でながら、綾は呟いた。
「泣いていいよ。ここにはもう、私と美咲だけしかいないから」


「結局あの子って、智明君だったのかな」
 イタリアンレストランの窓越しに初雪を見つめながら、美咲が言った。
「何となくそういう前提で話してたけど、あれが川瀬君だっていうはっきりした証拠はないのよね」
 二人の前には空になった皿。頼んだのは、カルボナーラとミートソース、それにデザートだった。
「でも、どっちでもいいんじゃない? 動いてるんでしょ、あれ」
「うん。これからも止まらないよ、この時計は」
 美咲は上着の内ポケットから懐中時計を取り出し、満面の笑顔を見せた。
「それより、聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「あの日、川瀬君のお墓に行く前に、『明日』がそんなに大切じゃない、って言ってたよね。あれの意味、説明できるようになった?」
「ああ、そのこと。そもそも明日なんて存在しないのよ」
「え、ええ?」
 美咲は目を丸くする。まさかあの日手に入れたものを、こうも簡単に否定されるとは思わなかったからだ。
「別に悪い意味じゃなくてね、私達が生きてるのって『今』よね。だから、昨日も明日もないのよ。私にしても美咲にしても、今の積み重ねが明日に繋がるし、昨日に変わる。私達にできることは、結局今日を精一杯生きることだけよ。明日も昨日も、結局思い出とか希望とかって形で頭の中にだけあるんだから、そんなに大事じゃないのよ。それこそ時計と同じで、ずっと止まらずに今を繋げていくのが大切なの。要するに、明日がどうとか言う前にまず足元固めろってことよ。それもなかなか、簡単じゃないけどね」
 綾は残っていたコーヒーを飲み干し、窓の外に目を向ける。音もなく降り続ける雪は、しばらくやみそうになかった。
「出る? それともまだ、ここにいる?」
「もう少しいようよ。それとも、予定とかあるの?」
「何もないよ。だけど、これ以上何か食べるにはお金が……」
 と、正面に座る友人を見つめる綾の目は、何かを訴えかけていた。
「分かった、おごるから」
「本当? じゃあ、デザートもう一個頼んでいい?」
「どうぞどうぞ。ゆっくり選んで」
 美咲は苦笑いを浮かべ、手の中の時計を綾のそばに置いた。
「時間はたくさんあるんだから」

Fin. 


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