ラブレターは好きですか?



「あの……すいません」
 靴ひもがほどけていることに気付いてしゃがみ込んだその男性は、横から聞こえてきたその声が自分に対してのものだと気付かなかった。
「すいません。そこの靴ひも結んでる人」
 そう言われて、沢野広和は周りを見渡す。自分と同じ動作をしている人間が周囲に一人もいないことに気付いた彼は、その声が自分にかけられているものだとようやく理解した。
「――何ですか?」
 ひもを結わえ終えた広和は、立ち上がりながらそれに応じた。声をかけた中学生ぐらいの少女は、笑顔と共に彼を見つめている。
「あの……」
 戸惑う広和に、少女が言った。
「ラブレターは好きですか?」
「……は?」
 あまりに唐突で意図を捉えかねる質問に、広和は即時に応じることができなかった。だが少女は元々の性格がマイペースなのか、それとも相手が呆気に取られていることに全く感付いていないのか、同じ問いかけを繰り返す。
「ラブレター、お好きですか?」
 どう答えていいか分からなかった。この手の怪しげな質問と言えば宗教の勧誘が考えられるが、それならばラブレターなど引き合いには出さないだろう。
――まさか、信仰の対象がラブレターだとか……?
 そう思い目の前の少女を見下ろす。だが彼女は相変わらず笑みを浮かべながら広和の回答を待っているだけだった。
――って、そんなわけないか……。
 考えてみれば、そんな誰でも作り出せるようなものを神体にはしないだろう。第一、いくら現代が病んでいるとしても、手紙を崇める人間などいるはずがない。
「好きですか?」
 様々な思考を巡らせた結果、答えても悪い影響はないだろうと判断した広和は、真っ白な吐息と共に頷いた。
「うん、好きだよ」
 広和自身それをもらったことも書いたことも一度としてないが、特にラブレターに悪い印象があるわけではない。むしろ彼は、それを微笑ましいものだと思っていた。
「じゃ、はいこれ」
 少女が差し出したのは、真っ白な封筒だった。もっとも、今までの話の流れからすれば容易に中身の想像はつくが。
「プレゼントです。ちょっと早いけど、クリスマスの」
 そう言って半ば押しつけるように渡すと、少女はそれまで以上の笑顔を見せてからその場を走り去った。
「な、何なんだ……?」
 広和は呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。厳しい寒風から逃れるために足早に流れていく雑踏の中、我に返った彼は封筒の裏を見返す。
『メリー・クリスマス』
 記されていたその言葉に、広和は今がどんな時期なのかを改めて思い知った。
「クリスマス、か……。もうそんな季節なんだな」
 呟き、広和はその封筒をコートのポケットの中にしまい込んだ。
 ウィンドウを彩る様々なネオン。街中に流れる流行りの歌手のクリスマス・ソング。そして、赤の他人の幸せそうな話し声。
 それらは全て、広和には関係のないものだった。もっとも、だからうっとうしいというわけでもなかったが。
 大学生の彼に、出会いのチャンスは何度か存在した。だが、女性に対しては消極的な性格が災いして、結局恋愛には縁のないまま、大学に入って初めてのクリスマス・シーズンを迎えることになったのである。
「はあ……」
 そんな彼の口から出るのは、孤独を象徴するような溜息だけ。もっともそれも、幸せなジングルベルにすぐかき消されるのだが。
「帰るか……」
 街並みを吹き抜ける冷たい風に、広和は猫のように背中を丸める。だが、彼にとっては冬の代名詞である北風も、恋人たちにとっては手をつなぐためのいい口実でしかなかった。
――メリー・クリスマス。
 しばらく声にしていない言葉だった。確か、最後に言ったのは――。
「……あれ?」
 思い出せなかった。ただ、その場面が忘失の彼方にあるわけではなく、霧で包まれたようにぼやけてしまっているのだ。
「とりあえず、冬だよな……」
 想起しなくても何ら問題がないはずのその記憶は、しかし広和の心のどこかに引っかかった。
「……どうしてだろ」
 忘れてしまった過去など、数え切れないほどあった。そして広和は、そのことを気にするタイプでもないはずだった。それにも関わらず、そのことは彼の頭の中に居座ろうとしていた。だが、それが自分にとって必ずしもマイナスではないような感覚も同時に存在していた。
――星の見える場所。
「え……?」
 不意に自分の心に生まれた短文に、広和は小さく声を上げる。驚いたからではない。それにひどく心地いい懐かしさを覚え、その感情に戸惑ったからだ。
 彼は思わず、自分の額を軽く指で叩いた。その仕草は、彼が考え事をしているときに見せるものだった。
「……」
 だが、感情の理由は出てこない。その事実をもどかしく思う自分がいる。
「……もどかしい?」
 自らの心が呟いた単語を、広和は怪訝そうに繰り返した。思い出さなくてもいいはずの出来事を、どうして自分は必死になって探し出そうとしているのだろうか。それは何でもない、どこにでもある昔の一つにしかすぎないはずなのに。忘却の順番待ちをしている、たった一つの記憶のはずなのに。
「あ」
 いつの間にか自宅を通り過ぎていたことに気付いた広和は、すぐに引き返し玄関に鍵を差し込んだ。それと同時に、無意識に溜息が漏れる。
 地元の大学に通っている広和は、当然今も両親と同じ屋根の下に暮らしている。だが、彼の二人の親は仕事で自分の家に寄りつくことはほとんどなかった。
 事実、ここ二週間ほどたった二人の家族の顔を見た覚えがない。彼が帰るのは誰も存在しない、ただ広いだけの空間なのだ。無論、それが寂しいわけではない。ただ、誰もいない一軒家が帰り場所であることに、一抹のむなしさを感じてしまうのだ。
「メリー……」
 広和はあとを続けようとして、しかし実際にはそれを声に出さなかった。自分がその言葉を実際に口に出すのは、今であってはならないような気がしたからだ。
 自室のベッドに寝転がりながら、封筒をジーンズから取り出し、開いてみる。その中にあったのは、少し子供じみたデザインの便箋だった。

〈クリスマス・イブの夜七時に『星の見える公園』で待ってます。Y・T〉

「Y・T……?」
 心当たりのないイニシャルだった。少なくとも、今の自分の周りにはいない頭文字である。
「手紙をくれた子の……? でも、それだったら……」
 わざわざそんな回りくどいことはしないで、フルネームを記すだろう。第一、街角で出会った少女とは全く面識がない。
――それに、ラブレターは好きですか? なんて質問しないだろうし……。
 謎だらけだった。もっとも、ミステリー小説の題材にはならないだろうが。
「イブ、か……。確かに暇だけど……」
 行くつもりはなかった。様々な要素からすると、悪戯の可能性が非常に高かった。その日は、テレビでも見てすごそうと思っていた。
 そう、考えていた。


「――なのに、何で俺はこんなところにいるんだろうな?」
 答えは存在しなかった。自分の「理由なき行動」にあきれながら、広和はコートのポケットに収まっている手紙を確かめる。
「ふう……」
 真っ白な息をついて、広和は空を見上げる。雲が一つもない、星のよく見える夜だった。
――子供のころはここでよく見上げてたな。
 それは純粋な思い出だった。何かがあった日も、何もなかった日も、この公園で夜空を見つめていた。
「星座の名前なんて、何一つとして知らなかったけど……」
 それでも少年は、この場所が、ここから見上げる星屑が、好きだった。
 何気なく、広和は時計に視線を落とす。七時になろうとしていた。
 それと同時だった。
「きゃ!」
 突然の突風と、女性の短い悲鳴。そして、公園の小さな灯りに照らされながら宙を舞っている真っ白な帽子。
「よっ、と……」
 自分の頭上を通り過ぎようとする帽子を、広和は手を伸ばして捕まえる。
「あれ……?」
 それを見た瞬間、彼の心に生まれたのは既視感だった。だが、それを追求する間もなく持ち主らしき女性に声をかけられる。
「あ、ありがとうございます」
 女性はまるで命でも助けてもらったかのように、大げさに頭を下げる。
「あ、いえ、別に……。でも、こんな冬の夜に帽子ですか?」
「変ですか? やっぱり」
 手渡された帽子をかぶりながら、女性は少し恥ずかしそうに尋ねる。
「まあ、そりゃあ……」
「ですよね。でも、これ、私の宝物なんですよ。ここで、大切な友達からもらった……」
――え?
 帽子に対するデジャブ。それは、気のせいだと思っていた。けれど――。
「子供のころ――もう、七年以上も前の話なんですけど」
 女性はそこまで言ってから、目の前の男性が呆然としているのに気付いて、
「あ……すいません。こんな話されても、困りますよね」
 広和はその言葉に、一瞬だけの微笑みで応えてから、
「――沢野広和」
 と、自分の名前を特に目標もなく吐き出した。
「え……?」
「その少年は、この公園で星空を見上げてるのが好きだった。そうだよね、月宮由紀さん」
「ど、どうして……?」
 呆気に取られる由紀に、悪戯が成功したときの子供のような顔を見せながら、
「分からない? あの少年は成長して、今も地元の大学に行ってて、そして今ここにいるんだよ」
 と、広和はその種明かしをした。
「広和君……なの?」
「そういうこと」
 五秒間の沈黙。そして再び口を開いたとき、由紀の顔には笑みがあった。
「ただいま」
 由紀の笑顔は広和の記憶と重なるもので、けれど子供のころと同じものではなかった。
 月宮由紀は、広和の小学校時代における唯一の女友達であり、そして初恋の相手でもあった。
 しかし七年前、卒業を数ヶ月後に控えた十二歳の冬に、彼女は親の都合で転校してしまい、その気持ちが伝えられることはなかったのである。
「七年ぶりだね。でも、ここにはどうして?」
「今、こっちにある大学に通ってるから」
「それなら、連絡してくれればよかったのに」
「うん、でも、広和君地元じゃない大学受けたって聞いたから……」
 由紀の言葉に、広和は大きく息を吐き出しながら顔に手を当てた。
「どうしたの?」
「……いや、確かに受けた。けど……」
「落ちた……?」
 無言で広和は頷いた。どこか疲れたような顔の彼とは対照的に、由紀は微笑んでいた。
「でも、広和君には悪いけど、私は落ちてくれて感謝かな。またこうして会えたから」
「あのねえ……。他人事だと思って……」
「あはは、ごめんね」
 そう言っている由紀の表情に申し訳なさそうな色など微塵もなく、また広和もそれが原因で気分を損なうことなどあるはずもなかった。
「まあ、いいけど。そう言ってもらえて、嬉しいしね。でも、こんな日にどうしてここに?」
「何となく。家にいてもやることなかったし」
「それじゃ、月宮さんも恋人とかいないんだ」
 頷いてから由紀は少女の顔に戻って、七年の空白によって生まれた、二人の距離を縮めた。
「由紀でいいよ。名字で呼ばれるのって、慣れてないから」
 その台詞は、広和が由紀と最初の言葉を交わしたときに言われたものと、寸分も違わなかった。「誰とでも仲良くできる、明るい女性」――その印象を再び受け取れたことで、広和の顔には自然と笑みが浮かんでいた。
「どうしたの?」
「変わってないなって思ってさ。子供のころと少しも」
「それって、私が子供だってこと?」
 由紀の小さな抗議を、広和は特に慌てることもなく打ち消した。
「そうじゃないって」
 昔もいつもこんな感じだった。広和が少し子供っぽい由紀をからかい、それに対して少女が全く本心の伴わないすねた表情を見せていた。
「――ねえ、私の初恋の人って誰なのか知ってる?」
 夜空を見上げ、白い息を吐いたあとの由紀の唐突な問いかけ。広和はもちろんその答えを知らなかったが、予測はついていた。
「俺?」
「当たり。だからこの帽子、宝物なの。何か、子供っぽいけどね」
「まあ、いいんじゃない? 由紀らしいし、それで誰かに迷惑かけるわけでもないんだし」
 不意に、広和は空を仰いだ。暗闇の中に様々な絵を思い浮かばせる星座たちは、少女だった由紀に帽子をプレゼントしたときと同じ場所に浮かんでいた。
「何が見えるの?」
「まあ、いろいろと」
「思い出とか?」
「そんなとこだね」
 夜の中に現れては溶ける白い吐息。そんな冬の夜の象徴的な景色の一つが、広和は好きだった。そしてそれは、思い出を形作っている重要な要素の一つでもあった。
「この帽子もらったときも、今日みたいに寒かったね」
 そう言って、由紀は大きく息を吐いた。一瞬の白が消えたのを確かめると、彼女は楽しそうに微笑んだ。
「この街を離れて分かったんだけど、やっぱり私、ここが好きみたい。何でもない風景とか、今夜みたいな空気の冷たさとか。だけど、一番の理由は、ここに私の好きな思い出がたくさんあるからなの」
「帽子のこととかも含めて?」
「うん。白い息を見てたら、この街での記憶がたくさん浮かんできた。ほんの少しだけ悲しかったことも」
「悲しかったこと?」
「ラブレター、渡せなかったの」
「ラブレター? 誰に?」
「広和君。それでその手紙、結局捨てたんだけどね」
 広和は少し意外そうな顔で、
「へえ。――あ、そういえば」
 思いだしたようにコートのポケットを探り、何日か前に街角でもらった「手紙」をその中から取り出した。
「何これ?」
「ラブレターらしきもの。少し前に、変な女の子に渡されたんだ。ちょっと早いクリスマスプレゼントです――って」
「見ていい?」
「いいけど、面白いことは何にも書いてないよ」
 由紀に手紙を渡すと、寒気から逃げるように広和は素早くコートの中に両手を突っ込んだ。
「大体、中学生ぐらいの女の子。『ラブレターは好きですか?』なんて、変な質問されてさ」
「これ……」
「誰が書いたかなんて、一切分からない。ヒントは文末に書いてあるイニシャルだけ。もっとも、それだけじゃ――」
「私」
「え?」
 由紀は手紙に視線を下ろしたまま、まるで独り言のように呟いた。成長し美しくなった彼女が、広和をじっと見つめる。
「これ書いたの、私」
「どういうこと……って、まさか」
「そう。今言ったばっかりの、ラブレター。――この便箋とこの筆跡、それにイニシャル。全部、私が書いたの」
「そりゃ、Y・Tって頭文字は一致するし、筆跡や便箋についちゃ俺は何とも言えないけど……でも、捨てたって……」
 由紀は神妙な面持ちで頷いた。広和の言葉に対してというより、捨てたはずの手紙が目の前にあることに対する肯定の意味で。
「うん。だから私も不思議なんだけど……。でも、証拠があるから」
 そう言うと、由紀は便箋を広和の鼻先に突きつけて、
「ここの公園の名前は?」
「え?」
「名前は?」
「南山公園だけど……」
「そう。でも広和君、どうして『星の見える公園』でここに来たの?」
「だって、子供のころにそう呼んでたから……」
「うん。私たちだけがね」
「あ……」
 初めに言い出したのは由紀の方だった。南山公園が自分の知っている中で一番きれいに星の見える場所だと気付いた彼女が、広和だけにその呼び名を提案したのだ。あまりにも子供じみた二人だけの秘密。それはちょっとした暗号のようで、その呼び名を使うだけで胸が高鳴った。
「結局あれ、他の人には一言も言わなかったから、『星の見える公園』がここだって分かるの広和君だけのはずよ」
「でもそれじゃ、これをくれた子って……」
「サンタクロースじゃないの?」
 広和は面食らった。サンタクロースという実在しない人物の名を口にしたことも理由の一つではあるが、それ以上にサンタクロースという言葉のイメージが、手紙をくれた少女にあまりにも似つかわしくなかったからである。
「中学生ぐらいの女の子だったのに? 第一サンタなんて非現実的なこと、ありえないって」
「でも、非現実的なことはもう起こってるもの。それぐらいの想像したっていいんじゃない? 今日はクリスマスなんだしね」
「まあ、それはそうだけど。じゃあ、女の子だった理由は? サンタって普通は白髭の老人だよ」
 年に一度の神秘的な夜に、現実にしがみつくことが馬鹿らしく思えたからだろう、広和は由紀の意見をいつの間にか受け入れていた。
「あれは、こっちが勝手に作った偶像だから。私は別に女の子でもいいと思うよ。――ううん、女の子じゃなきゃ、いけなかったの」
「どういうこと?」
 由紀は答えずに、意味深長な笑みを見せると、逆に問い返した。
「サンタクロースって、どこにいるか知ってる?」
「え? えっと確か……北欧の方だったかな」
「はずれ。サンタクロースがいるのは、私たちの心の中。サンタが運んでくるものって、何?」
「自分が欲しいもの……じゃないね」
 由紀の瞳に自分をからかうような色を見て取った広和は、自らの言葉を否定した。
「全くのはずれってわけじゃないけど。サンタクロースが運んでくるのは、夢とか人の気持ちとかじゃないかって私は思ってるの。それで、運ぶものによっていろいろな姿になるから――」
「だから、俺の前に現れたサンタクロースは少女だった。それが、七年前の由紀の象徴だから。でも、そうだとすると、どうしてこの手紙を俺にくれたんだろ? だって、今さら昔の気持ちを引っぱり出してきても……もしかして、まだ引きずってるとか?」
 由紀はそれを、何の偽りもなく否定した。
「ううん、それはない。私、自分の気持ちを七年も凍らせておくような人じゃないもの。――たぶん、再会がその理由だと思う」
「俺と由紀がここで会うために、あの手紙を渡したってこと?」
「そう。だって広和君、この手紙がなかったらここには来てなかったでしょ?」
「ああ。家でテレビでも見ようと思ってた」
「だから、そうならないために手紙を渡したんだと思うよ。都合のいい解釈だけどね」
 広和は相槌を打ちながら、公園のベンチに腰を下ろした。そのすぐ隣に、子供のころと同じように由紀も座り込む。
「私、この手紙を書いてよかったと思ってる」
 由紀の唐突な話の切り出し方に、広和は特に戸惑うこともなく言葉を返した。
「渡せなかったのに?」
「うん。勝手な話だけど、今から考えると渡せるかどうかが問題じゃなかったような気がするの」
 由紀は便箋に視線を落としながら言った。
「この手紙を書いた時点で、広和君のそばにいられなくなることは分かってたから、ずいぶん迷ったの。広和君を好きな自分を認めるかどうかって。その気持ち自体を子供の勘違いだって思って、なかったことにするか、それとも認めて告白して、遠くに離れて辛くなるかって二択をしたの」
「由紀、あの時点でそんなこと考えてたの?」
「うん、考えてた。でもこの二択って、そもそも選択肢が間違ってるの」
「間違ってる?」
「『恋愛感情を子供の勘違いだと思って、ないことにする』――これって、そもそも前提として、子供の恋愛感情は不完全で未成熟っていう考え方があるのよ。でも、恋愛感情って完全になったり成熟したりする?」
「しない……と思うよ。大人ってのは、好きって気持ちを表現する方法をたくさん知るってだけだから。その根底なんて、少しも変わらない」
「そう。子供だからって、誰かを好きになる気持ちが嘘ってわけじゃないよね。だから、この二つに一つは成立しなかったの」
「――そして由紀は後者を選んだ」
「うん。辛くなるって分かってたけど、告白しようって思えたことで、この手紙を書けたことで、私は未練を引きずらずにすんだの。結局、こういう手紙を書いて、自分の口から気持ちを伝えようって思った時点で、私の初恋は決着してたような気がする」
「伝えられないで終わったのに?」
 由紀は苦笑混じりに、
「そこを言われると辛いんだけどね。でも、私にとっての『恋』は、自分の気持ちと向き合うことだから。誰かを好きでいる、自分の心とね」
 と、言った。
「それによく言うじゃない。初恋は実らないって」
「由紀が言うとものすごく説得力あるな、その言葉」
 広和のからかうような台詞は、少年のころの彼を連想させる、少し懐かしい匂いがするものだった。七年前の別れのときは、全てを思い出として話せることになるとは考えもしていなかった。
「それはそうと、由紀は今、何してるんだ?」
「私? 一人暮らししながら、大学で福祉関係のことやってる。広和君は?」
「心理学」
「心理学?」
 さも意外そうに聞き返す由紀には視線を向けず、広和は前を見据えながら頷いた。
「カウンセラーになりたいんだ。心に傷を負ってる人たちの手助けをしたいから……」
 広和は星空を仰ぎ、白い息を吐き出した。不思議と、寒くはなかった。
「星座の名前なんて一つも分からなかったころから、誰かのために生きていければいいって思ってた。他人の力になれる人間になろうって、あのころから決めてた。俺自身、たくさんの人に迷惑かけてきたし、これからもかけていくだろうからね」
 その夢を抱え込んで、十年近くが経っていた。最初のころは、形を成さない漠然とした心でしかなかったが、それでも根底に存在する感情は今と何も違ってはいなかった。
「本当は、カウンセラーじゃなくてもいいんだ。要は、自分以外の人たちに何かの『力』を与えられる職業だったらね」
 夢は叶えば現実になる。しかし、そこで終わりではない。夢が現実となったとき、それはまた新しい夢を創り出してくれるからだ。
「自分のことだけ考えてれば充分に生きていける世の中だけど、俺は他人を相手にして生きていきたい。不器用で、苦労の多い生活かも知れないけど、俺にできることなんてたかが知れてるけど、それでも誰かの力になりたいんだ。――似合わないかな、こんな台詞」
 広和が恥ずかしそうな瞳と共に口にした最後の一言を、由紀は真剣な表情で打ち消した。
「ううん、そんなことない。私と最後に会った日にも、同じこと言ってたじゃない。そんなちゃんとした言葉じゃなかったし、カウンセラーっていう明確な目標もなかったけど」
 と、由紀は七年前の手紙に視線を落とした。一度は捨て、また戻ってきた思い出のかけらの先にいた少年が、今もまだ自分の大切なものを守っていたことが、彼女を心から安心させた。
「そう……だっけ? じゃあ俺、七年で何も変わってなかったのかな」
 由紀はゆっくりと首を横に振ることで、種々の感情を含んだ広和の声を否定した。
「変わったところもあるし、変わってないところもある。ただ、広和君が他の人になってなかったのはほっとしたな。それが一番心配だったから」
 七年という時間は、全てを変えてしまう力を持っている。絶対に失わないと思っていた強い感情も、様々な要因がそれを捨てさせようとし、大抵の人間は負けてしまう。
 そして、どこかの時間において強い感情を持っていた自分を振り返るとき、敗者は決まって過去の自分を嗤うものである。本当に嘲られる立場にあるのは、自分であることに気付いていないような顔色をして。
「まだ子供なんだよ、俺は」
「そうかもね。でも、自分の本当に大切なものを切り捨てられるのが大人だったら――」
「そんな『負け犬』にはなりたくないね」
 広和はそう言って溜息をつき、立ち上がって優しく微笑む月を仰ぎ見た。
「もっとも、俺は本当に子供だけどさ。――七年前の別れのこと、覚えてる?」
「うん、もちろん。七年前の二日前――十二月二十二日、場所はこの公園でしょ?」
「そう。で、最後に言った台詞は?」
 広和は分かっていた。自分が今日という日にこの公園に来た理由が、奇妙なラブレターではなく、その言葉だということに。だからこそ、思い出せないことが心を捉えていたということに。
「メリー・クリスマス」
 七年前の別れの挨拶。それを思い出せないのは、時間による忘却のせいだと思い込んでいた。
 だが、違った。広和は忘れていたのではなく、閉じこめていたのだ。
「――俺、あの日からずっと、その台詞が言えなかったんだ。一年に一度しか言うことのない挨拶――『メリー・クリスマス』がさ」
「どうして?」
「怖かったんだろうな」
 高校時代に教えられた数学の公式や英語の構文は、その大抵をすぐに理解することができた。うっとうしかった教師の説教も、言いたいことは分かっていた。しかし、一番身近なはずの自分の感情の意味を知るのに、広和がその目にしてきたどんな難しいものを解釈するより長い時間がかかったのである。
「あの日、俺たちは別れなきゃいけなかった。だから思い出を作るためにここで待ち合わせした。もちろん由紀にはこの街を離れるまでまだ少し時間があったけど、でも、ここを離れる日が近くなればなるほど、由紀に会うのが辛かった。だから、あの日だった。
 正確に言えば、あのころの俺が由紀に会える唯一の日が、イブの二日前――学校の終業式があって、まだ冬休みが始まってないあの日だった。小学校最後の冬休みに辛い思い出なんて、残したくなかったからね。それは由紀も同じだろ?」
「うん。だから、あの日に待ち合わせの約束を言い出してくれて、少し嬉しかった。もしあれより遅かったら、きっと笑えなかったから……」
 それは、由紀の思い出の中で最も笑顔の多い一日だった。無理をしているのでも、偽っているのでもなく、素直に笑えた時間だった。きっと、隣にいたのが広和だからこそ、自分が一番好きな月宮由紀でいられたのだろう。
「ねえ、広和君も、私のこと好きだったんでしょ? だから、辛くなるのが分かってて、それでもこの公園に呼んでくれたんだよね」
「ああ。上手くいかないって分かってた、でも辛いだけじゃない初恋だった。今から考えると、由紀と同じで気持ちが伝えられるかどうかって、あんまり問題じゃなかったんだ。楽しいこととか悲しいこととか、いろいろな思い出がそれなりに作れたから、それで充分だったんだろうな」
「だからあの日、私たちは最後の思い出を作った。後悔しないためにね」
 広和が好きだった少女は、心に残る何の変哲もない風景を見つけるのが得意だった。小さな林と木漏れ日、それによってできる日溜まり。夕日によってオレンジ色に染まる街並みを一望できる、少しだけ高い場所。それに、星空。
 いつも少年は、教えてもらってばかりだった。だから、最後の日に小さな記憶をプレゼントすることで、少しでも恩返しをしようと思ったのだ。
「あの日は楽しかったんだ。特に何かをしたわけじゃないけど、でも、一番楽しかった。だけど、楽しい時間には終わりがある。当然俺と由紀はそれを知ってたけど、受け入れられなかった。だから、最後の最後で言ったのが『メリー・クリスマス』だったんだ。七年前の俺たちには『さよなら』も『またね』も辛かったから」
 今、少年は改めて考えてみる。自分は何かを教えてあげられたのかと。
「けど、そのせいで俺にとってクリスマスを祝う一言は悲しい言葉になったんだ。別れを象徴する言葉にね。――代償なんだろうけど」
「代償?」
「由紀にはいろいろと教えてもらっただろ? この公園の星だとか、風が気持ちいい丘だとか。けど、俺は何も由紀にとっての新しいもの、増やしてあげられなかったから……」
 由紀は優しい微笑みと共に、白い帽子を差し出した。
「はい、私がこの街にいなかった、七年分の思い出。必要ないなんて言わないでね? 私が広和君からもらったものなんだから」
 自分の戻ってきた帽子に視線を落としながら、広和はそこに存在している暖かさを感じていた。懐かしいぬくもりだった。
「私はこの七年間、楽しかったよ。楽しくしようって、頑張ったから。そうやって思い出を作ることの大切さは、広和君が教えてくれたものだから、知っておいてもらいたいの。だから、始めないとね」
「始めるって?」
 由紀はすぐに答えずに、七年前のラブレターを手渡してから、言った。
「メリー・クリスマス」
 広和はほんの少しの空白のあと、笑顔を見せた。七年前の少年としてではなく、今ここにいる自分として。
「メリー・クリスマス。――でもさ、どうしてこの手紙? 悪いけど、七年前の恋をやり直すつもりは今の俺にはないよ」
「うん、私もない。だからね、それはプロローグ。友達として、これからの時間を積み重ねていくためのね。ずっと友達でいるかどうか、それは分からないけど。だから広和君も、『今の俺には』って言ったんでしょ?」
「ああ。まあ、とりあえずはお互いの思い出を知って、それからだと思うんだけどね。恋愛に限らず、人と人との関係とか、他人に対する感情とかは、いつどんな理由で始まって、どんなきっかけで終わるのかなんて、誰にも分からないよ。だからこそ、心理学やってカウンセラーになろうと思ったんだろうけど」
 と、広和は過去の手紙に視線を落とし、呟くように言った。
「俺も書くかな、ラブレター」
「誰に?」
「由紀も含めた友人みんなとか、思い出だとか、大切な風景の一つ一つとか――とにかく、俺の好きなもの全てに対して」
「今日みたいな星月夜にも?」
「あと、月に照らされる桜とかにもね。まあ、結局のところ、俺も――」
 一旦言葉を切り、月のように明るく輝く星たちを見上げる。それは、広和が「ラブレター」を書きたいと思っている相手でもあり、そして由紀との共有の記憶が存在する場所でもあった。
「ラブレター、好きだからさ。とりあえず、一番最初に書く相手は決まってるけどね」
 そう言った広和の顔は、七年前の少年のように素直で優しいものだった。

FIN