「雨だねえ……」
冬の雨を見上げながら、浅川成司は一人呟いた。
「冬だねえ……」
「……いいから掃除しなさいよ、あんたは」
溜息混じりに井上香奈子は言って、机を運んでいるクラスメイトを指差す。
「へいへい」
「……ったく」
溜息をつきながら、香奈子は用具入れの中に箒を放り込んだ。
「終わり……っと」
手を軽く払い、香奈子は自分の鞄を机の脇から取った。
「……あれ、成司帰んないの?」
「ん? ああ、まあ……な」
「誰か待ってんの?」
「うるさいな、関係ないだろ」
ぶっきらぼうに答えて、成司は窓の外に視線を向ける。
「じゃあ先、帰るね」
「さっさと帰れ」
成司は香奈子を追い払い、自分の机の中を探った。そして取り出した「それ」に、少年は複雑な表情を見せる。
「『今日の四時、校門の前で待ってます』か……」
そんな短い文面の手紙の隣にあるのは、綺麗にラッピングされた箱。
「そして今日は二月十四日……」
と、成司は腕時計に視線を落とした。
「そろそろ行くか」
ほとんど何も入っていない鞄の中にその箱を入れ、成司は席を離れた。
「なんでこんなときに雨なんだか……」
窓の外に視線を向け、成司は溜息をつく。
「気分、重いよなあ……」
靴を履き替え、傘を広げて外に出る。
「はあ……」
校門の前にと足を進めた成司は、それらしき人物がいないかと周りを見回す。
「人待ち?」
「帰ってなかったのか?」
校門の前で青い傘を差し、香奈子が立ち尽くしていた。
「うん、ちょっと……ね」
と、香奈子は足下に視線を落とす。
「成司は誰か待ってるの?」
「え……どうして?」
「誰か探してるみたいだったから」
「ああ……」
成司は曖昧な相槌を打って、空を仰いだ。
「……聞いちゃいけなかった?」
「ん……いや、そんなことないけど……」
「バレンタイン絡み?」
「……まあ、な」
「チョコくれた人を待ってる……とか?」
驚いた表情を浮かべた成司に、香奈子は溜息混じりに言った。
「当たりみたいね……。その割には、表情が暗いじゃない」
「……暗くもなるよ。断りに来てるんだから……さ」
「なんで?」
「……お前に答える義務はない」
「そこまで言って核心だけ隠すってのはなしよ」
「うるさい! お前には関係ないだろ!」
「……ごめん……」
「あ、い、いや、その……俺の方こそ、ごめん……」
慌てた成司は力なくそう言うと、大きく息をついた。
「……俺って、ひどい奴だよな……」
「……え?」
「いや、普段からお前にきつく当たってさ……。何か、冷たいよな……」
「何言ってんの、今さら。気にしてないって」
「いや、でもな……もしかしたら、お前を傷つけてるんじゃないかって……」
「私があの程度で傷つく人間じゃないって、あんたが一番よく知ってるでしょ?」
笑いながら、香奈子は成司の背中を遠慮なしに叩く。
「成司が私のこと女だと見てないことくらい、とっくの昔に承知してるよ」
「とっくの昔って、去年出会ったばっかりだろ……」
「一週間で悟ったから、とっくの昔よ」
と、香奈子は腕時計に視線を落として、
「成司の待ち合わせ、何時?」
「四時……」
「じゃあ、邪魔者は去るとしますか」
「お前も人を待ってたんじゃないのか?」
「そうだけど……」
「じゃあ俺のことなんか気にするなよ」
「……」
「……香奈子?」
「ねえ、成司……」
香奈子の目は、涙ぐんでいるように見えた。雨音の中で、微かな声が紡がれる。
「……好きな人って、どんな人?」
「……え?」
「好きな人がいるから……断るんでしょ?」
「……」
今度は成司が沈黙する番だった。今までにない気まずい雰囲気の中を、二人の間に壁を作るかのように雨が降る。
「じゃなきゃ、差出人が分からないのに断るなんてこと、しないもんね……」
「え?」
「……なんで知ってるんでしょう?」
と、香奈子は笑う。普段見ているのとは全く逆の、儚い表情だった。
「お前……なのか?」
「……うん」
「どうしてあんな回りくどいことを?」
香奈子は答えず、足下の石を蹴った。転がったそれは水たまりの中に入り、小さな波紋を立てる。
「……喜んでもらえないと思ったの」
途切れない雨音は、少女の言葉を遮る防音壁のようだった。それにかき消されそうな小声で、香奈子は続ける。
「私なんかからもらってもきっと嬉しくないだろうって思って……名前書かなかったんだけど……結局、同じだったね」
「……」
「というわけで、チョコ返して。私、食べるから」
「……嫌だ」
「え?」
「名推理だよ、本当」
と、成司は鞄の中からチョコレートの包みと、手紙を取り出した。
「確かに、好きな人はいるよ。だから、断ろうと思ってた」
「だったら、返してよ」
「……あのな。いつ俺が『好きな人はお前じゃない』って言った?」
「え? え?」
「つまりはそういうことだよ」
しばらく戸惑いの表情を見せていた香奈子だったが、やがてその顔を満面の笑みに変えると、
「やだなもう。いくら彼女がいないからって、好きでもない女と遊びで付き合っちゃだめよ」
と、鞄で軽く成司の頭を叩いて、
「そういう冗談は私だけにしておきなさいよ。他の子にそんな嘘ついたら刺されたって文句言えないんだからね」
「……」
「そろそろ帰るね、色々用事――」
背中を向け、校門を出ようとしていた香奈子の腕を成司がつかんだ。
「……冗談じゃない」
「え?」
「本気で……お前が好きなんだ」
「……」
「俺が好きなのは井上香奈子なんだよ……」
香奈子の腕の戒めが解かれ、沈黙が訪れる。次の言葉が発せられるまでに要した時間は、白い吐息が浮かび、消えるまでに等しかった。
「少し……安心した」
香奈子は振り向いて言い、微笑んだ。
「告白して気まずくなるのが、一番怖かったから……」
「まあ確かに、俺にとってもツッコミ役がいなくなるのは死活問題だなあ……」
「一体どんな存在なのよ、私」
「冗談だよ、冗談。それよりそろそろ、帰るぞ」
「うん」
と、香奈子は成司の隣に並び、歩き出した。
「こうやって帰るのって、初めてじゃない? いつもはほら、漫才してたから」
「そう言われると、香奈子と落ち着いて話すこと自体久しぶりな気もするな」
「何か……ちょっと嬉しい」
はにかんだように笑い、香奈子は傘を閉じた。
「濡れるぞ」
と、成司は自分の傘の下に少女を招き入れ、そっぽを向いた。
「もしかして成司、照れてる?」
「……別に」
「素直じゃないね、本当に」
「お前に言われたくない」
「でも、そういうところも好きよ」
成司は黙って、香奈子の頭を叩いた。
「……いきなり叩く? 普通」
「急に変なこと言うからだ」
「本心だけど?」
と、香奈子は成司の顔を覗き込み、その頬を引っ張る。
「かわいい」
「……」
香奈子の髪を引っ張り返し、成司は歩調を速めた。
「あ、待ってよ」
「……」
「成司ってば」
香奈子の声を無視し、成司は足を進める。道路にできた水溜りを踏みながら、少女が追いついた。
「だめだってば、先行っちゃ。濡れちゃうじゃない」
「傘、持ってるだろ。……ったく」
溜息をつきながらも、髪についた雨粒を払い自分の隣に少女を迎え入れた。
「ちゃんと後で乾かせよ」
「うん。風邪になったら、成司に会えなくなるからね」
「……やっぱり濡れてろ」
「冗談よ、冗談」
溜息をつくと、雨の間に白い靄が生まれた。それに向かって、香奈子が手を伸ばす。
「何やってるんだ?」
「少しは暖かくなるかなあ、って」
「寒いのか?」
「手袋してなくて暖かいわけないでしょ?」
と、加奈子は自分の左手を振って見せる。
「上着のポケットにでも突っ込んでろ」
「うう……冷たい」
「どうしたいんだ」
成司は立ち止まり、拗ねる香奈子に尋ねた。
「どう、って……せっかくだから手、つながない?」
「傘持ってるのに?」
と、成司は傘を左手に持ち替える。当然、香奈子は無数の雫に襲われていた。
「こうなるけど?」
成司は傘を利き手に持ち直して、香奈子の頭を撫でるように水滴を払った。
「じゃ、腕を組んで……」
「恥ずかしいだろ、いくら何でも。……ちょっとこれ、持ってろ」
と、加奈子に傘を渡すと、左手の手袋を脱いだ。
「ほら、これ」
「え?」
「片方だけでよかったら、貸すよ」
差し出された手袋を前に呆然とする香奈子から傘を奪い返し、成司は視線を逸らす。
「……寒いんだろ?」
「……あ、うん」
慌てた表情で成司から手袋を受け取り、自分の手を通す。右手を軽くさすった後、小さく笑った。
「暖かい」
「……そりゃよかった」
「成司は……寒くない?」
「大丈夫だ」
その答えを最後に、二人の間を沈黙が支配する。どこか気まずくて、また他方では長く続いて欲しいと思えるその空気は、彼と彼女の心を素直にさせた。
「なあ、香奈子」
「何?」
「今度の日曜……暇か?」
「特に用事はないけど……」
「その、さ……二人でどこか出かけないか?」
「……素直じゃないね」
成司の目の前に回り込んだ香奈子は、手袋をしていない手で成司の肩を軽く払った。
「雨。――デートって言えばいいのに」
「……どんな呼び方しようと俺の勝手だろ」
後ろ歩きをする香奈子に気付かれないように、成司は歩幅を小さくする。生まれたばかりの水たまりを車のタイヤが踏みつけ、その音が合図となって少女は元の立ち位置に戻った。
「で、いいのか? それとも――」
「断る理由がないでしょ」
成司の問いかけを遮り、香奈子は微笑んだ。
「大体、ここで断ったらもうずっとデートに誘ってもらえそうにないしね。成司、意地っ張りだから」
「……素直じゃないのは香奈子も同じだ」
「まあ、それはそうなんだけど。それよりも――」
時間に雨が負荷をかける。荷物を背負い、歩く速度を落とした風景の中で、青い傘が静かに揺れていた。
待ち合わせ場所は、濡れていた。雨の隙間に浮かんでは消える白い吐息を、少年は何を思うわけでもなく見つめていた。
「……」
約十ヶ月前に、香奈子と出会った。高校の入学式の日に、成司の三年間は決まったと言っても過言ではないだろう。
――明るかったよなあ……。
春の時点では、成司は人付き合いが得意ではなかった。元々の性格が内向的だったことに加え、クラスの中に見知った顔がほとんどいなかったからだ。
「手伝ってよ……か」
香奈子からかけられた最初の言葉を、まだ鮮明なそのときの記憶を想起しながら呟いてみる。
四月の終わり頃、ゴールデンウィークの予定を漠然と考えながら教室の掃除をしていた成司は、背後から聞こえた声が自分に向けられたものだと気付かなかった。
「浅川君」
「……俺?」
「そう。ちょっと手伝ってよ」
「手伝うって、何を?」
「色々と運ぶものがあるんだって」
「……で、どうして俺?」
「先生直々のご指名だから」
「……了解」
渋々頷いた成司は、手にしていたほうきを壁に立てかけて歩き出した。
「浅川君」
教室を出ると同時に、香奈子は特に遠慮する様子も見せず成司に話しかけた。
「浅川君って、いつも一人だよね?」
「それが何か?」
成司はわざと素っ気なく返すが、隣を歩く少女は気にも留めず言葉を続ける。
「つまらなくないの?」
「……別に」
会話が途切れる。香奈子は困惑した表情で言葉を探していたが、やがて諦めたように小さく息をついた。
窓の外では雨が降り続いている。校庭の隅で立ち尽くしている木々は、その寒さに身を震わせているようにも見えた。
「あ、ここだよ」
国語準備室と書かれたプレートが掲げられているドアに鍵を差し込み、ドアノブを回す。
「埃っぽい……」
咳込みながら香奈子は部屋の中を見回す。
「ここ、国語準備室……?」
同様に室内に視線を巡らせた成司が、思わず呟く。
「国語には使わないものの方が多いような気がするんだけど……」
「知り合いの先輩が言ってたんだけど、ほとんど先生の私室らしいよ、ここ」
「へえ……。で、持っていくものって?」
「これ」
香奈子から渡されたメモに目を通した成司は、苦笑いを浮かべた。
「多いね」
「でしょ? 一人じゃ無理」
「それじゃ俺、大きいの持つから細かいのは井上さんが」
「あ、うん」
二人はメモに記されているものを一つずつピックアップしていく。もっとも、ちゃんとした整理がされているわけではないので、目的の品物を探し出すのは一苦労だったが。
「これで最後、っと……。そっちは?」
「俺の方も全部終わり。あ、足下、気をつけ――」
成司の声は続かなかった。彼が注意を促すより早く、香奈子がつまずき手に持っていたものが全て放れたからだ。
派手な音が終わると同時に、成司はクラスメイトに駆け寄った。
「大丈夫? 立てる?」
「うん……あ、でも……」
香奈子の視線の先には、赤くにじんだ膝があった。
「保健室、行った方がいいよ」
「でも……」
「雑用は俺がやっておくから」
「うん……ありがとう。優しいんだね、浅川君」
成司は何も答えず、床に散らばったものを拾い上げていく。
「ねえ、浅川君」
「……」
「友達、いなくてもつまらなくないかも知れないけど、いた方が今より面白いと思うよ」
――大切なときは雨ばっかりだな……。
過去から意識を引き戻した成司は、濡れてその色を濃くしたアスファルトに視線を落とした。
「……どうしたの? 元気ないよ」
唐突に、少年の顔を覗き込むようにして少女が現れた。
「そんなことないよ。ちょっと考えごとしてただけ」
「それならいいけど……。あ、それはそうと今何時?」
成司が左腕に巻かれた時計を差し出す。待ち合わせの時間の五分前を差している針を確認した香奈子は、胸を撫で下ろして息をついた。
「よかった……。間に合った」
「少しくらいなら遅れたって気にしないけど?」
「成司がよくても私が嫌なの。無遅刻無欠席が自慢なんだから」
「そういえば今のところ皆勤賞みたいだな」
「そう。だから遅刻はしたくないの」
香奈子は傘を閉じると、成司の隣に寄り添うように立った。
「どこ行くの?」
「この天気だからなあ……どこかゆっくり話ができるところに行くか」
「じゃあこの近くに喫茶店あるから、そこに行こう」
普段よりまばらな足音のいくつかが、小さな水たまりを踏んでいく。絶え間ない波紋が、空の色と二人の心の素直な色を映すことを許さなかった。
「チョコ、食べてくれた?」
「ああ、おいしかったよ」
「よかった。あれ、手作りなんだよ」
少女は屈託なく笑って、
「ちゃんと食べてくれるんなら、毒でも盛ればよかったかな」
と、冗談めかした台詞を口にした。
「またそういうことを……って、『ちゃんと食べてくれる』?」
その奇妙さに気付いた成司が、頭の中でその意味を探す。答えが見つかったとき、香奈子はうつむいていた。彼女の頭を軽く叩いて、少年は溜息をつく。
「食べるつもりがなかったら香奈子に返してるよ、もらわずに。それに……好きだって言っただろ」
「うん……」
「……覚えてるか? 俺たちの最初」
「最初?」
「初めてちゃんと会話したときのこと」
「覚えてるよ。先生に言われた雑用、手伝ってもらったんだよね」
「うん。香奈子を待ってる間、そのときのこと思い出してた」
「どうして?」
成司はその問いに答えず、灰色の空を見上げた。それにつられるように、香奈子も頭上を仰ぐ。
「雨ばっかりだな……。初めて話したときも、この前も、今日も」
「私は雨、好きだよ」
「じゃあ香奈子が雨雲を引き寄せてるんだな、きっと」
「何よそれ」
「雨女なんじゃないのか?」
「そんなこと……」
ない、という一言が声となって出てくることはなかった。アルバムの中に刻まれている思い出の大部分は、多種の傘と共にあったからだ。
「やっぱり」
「そういう成司は?」
「俺は晴れ男。イベントで雨だった記憶がないからね。まあ、香奈子には負けるけど」
「勝ち負けの問題じゃないでしょ」
「そりゃそうだけどさ」
赤信号の交差点に固まっている群集の最後尾に、二人は並ぶ。視界の端に映る歩行者用信号が点滅を始め、渡りかけの幾人かが足早になった。
「ねえ、成司」
青から黄色、そして赤。一所にあった集団が、縦の長さを増していく。
「どうして、私なの?」
「どうして、って?」
「私のこと好きになった理由、教えて」
「難題だな……」
「難しいの?」
拗ねた表情を見せた香奈子の頭を、成司は軽く小突き、それから肩に乗っている雨粒を軽く払った。
「人を好きになる瞬間ってそんなはっきり分かるか? そりゃ、分かる恋もあるんだろうけど。でも、今回に限って言えばはっきりした区切りは、ない。気付いたら好きだった」
「うん……。私、本当はずっと不安で……少し、怖かった」
「怖い?」
小さく頷いて、香奈子は続ける。
「本当は私のこと好きでも何でもなくて、でも私のこと気遣って付き合ってくれるんじゃないかって……。成司、優しいから」
「好きでもないのに付き合うことは優しさじゃないだろ。で、喫茶店ってここか?」
二人の目の前には、最近店舗数を急速に増やしている全国チェーンのカフェがあった。天候のせいか、いつもの休日よりはいくらか空いているように見える。もっとも、他の店に比べればかなり混雑しているのだが。
成司は傘をたたみ、傘立てに入れる。その隣に、少女も自分の傘を放り込んだ。
「いらっしゃいませ」
ウエイトレスに案内された席につき、コーヒーと紅茶をそれぞれ頼むと、どちらからともなく話を始めた。他愛もない会話が積み重なっていく。ありふれたデートの風景の中、成司はふと言った。
「知らないこと、たくさんあるな」
「え?」
「香奈子のこと。雨女だっていうのもそうだし、好きなものも、嫌いなものも」
「まだ一年も経ってないんだから、しょうがないよ」
「そうだな……」
窓外の人の流れはめまぐるしい。ゆったりとしたコーヒーの湯気を見ていると、壁一枚を隔てただけの街並みに流れる時間が、せわしないものに思えた。
「成司は、今までに誰か好きになったことってある?」
「そりゃ、あるよ。全部片想いで終わったけど」
と、ブラックのコーヒーを口の中に流し込む。心地よい苦味が舌の上から喉の奥へと落ち、成司を暖めた。
「いい思い出だよ……って、振り返るほど前でもないけど」
「後悔してないんだ?」
「後悔する理由がないからね」
「ふうん」
香奈子はティーカップを傾け、小さく息をついた。
「私は、いつも後悔してる」
「うん?」
「成司もさっき言ってたけど、人を好きになる瞬間って分からないじゃない。『好きになる』んじゃなくて、『好きになったことに気付く』のが普通だと思うの。少なくとも、今までの私がそうだったから。
いつも、誰かを好きでいる自分に気付くと、後悔してた。どうして私はあの人のこと、好きになったんだろうって。好きになる瞬間が分かれば、きっとそれを避けることもできたのに、どうして分からないんだろう……」
「ちょっと待って。そしたら、俺を好きになったのも後悔してるってこと?」
「あ、ううん、成司はそうじゃないよ」
と、慌てて少女はかぶりを振った。
「私が好きになった人は、みんな――って言っても何人もいないんだけど――友達として仲のいい人だった。だから、その人のこと好きになると同時に、もうただの友達じゃいられないんだろうなって後悔するの」
「香奈子は、恋人よりも友達を大切にするタイプ?」
「うん……。成司には悪いけど」
「いや、いいよ。俺も同じだから」
コーヒーカップの中に残っていた最後の一口を飲み干すと、軽い背伸びをした。
「あ、もう出る?」
「ゆっくりしてていいよ。で、話の続きは?」
「恋人になったら友達じゃない。恋人じゃなくなっても、もう前みたいに付き合えない。だから、好きになる気配が感じ取れればいいってずっと思ってた」
「今は?」
「思ってないよ。どうしてか上手く言えないけど、成司は今までとは違う気がするの」
「また元に戻れる?」
「それは分からないけど……でも、違う気がする」
「そっか」
香奈子がティーカップを置いて、立ち上がった。コートに袖を通して、伝票を成司の方に押しやる。
「……おごりますよ」
支払いを済ませ、店員の声を背後に聞きながら、少年は外に出る。
「はい、傘」
香奈子から渡された傘を広げ、空を仰ぐ。
「晴れそうにないな……。どこ行く?」
「とりあえず、歩きながら決めよう。――成司を好きになって、どうして人を好きになる瞬間がはっきりしないのかが、分かったの。誰かを好きになる瞬間が分かるってことは、その人を好きになった理由がはっきりするってことでしょ? 逆に言えばそれって、嫌いになる瞬間も分かるってことじゃない? 好きな理由がなくなれば、それが嫌いになったときなんだから。きっと、簡単に嫌いにならないように、好きになる理由も曖昧なんだと思う。あんまりぼやけてるのも、それはそれでだめだけど」
交差点で足が止まる。自分の横顔を見つめ、微笑む少女に成司が気付いたのは、横断歩道を渡り始めたときだった。
「何ニヤニヤしてるんだ?」
「今、隣にいるんだなって思ってたの。自分が成司の恋人なんだってやっと実感できた」
「……俺は今でも実感ないけど」
「そのうち嫌でも感じるようになるよ」
と、少女は傘を持っている成司の腕に自分のそれを絡ませて、
「歩き辛い?」
「いや、そんなでもない」
「じゃ……いい?」
「いいよ。その方が濡れないだろうし。――さっきの質問なんだけどさ……」
「え?」
「好きになった理由。香奈子はどうして俺を?」
「どうしてだろうね?」
少女は悪戯めいた顔つきをして、答えを保留し歩き続ける。成司は特に追求することもなく、彼女の横顔を横目で見、沈黙を守りながら、雨音を聴き続けた。
たとえ香奈子がどういう答えを返してこようと、あるいは何も示さなくとも、成司には大した問題ではないように思えた。恋人は、隣にいるのだから。
「なあ、香奈子」
「ん?」
「次に雨が降るの……いつだろうね?」
「別れのときだったりして」
「……そうじゃないことを願うよ」
たとえば雨の降り始めた瞬間がはっきりしないように、心の始まりが分からないこともあるだろう。だが、スタートがいつなのかは問題にはならない。
「次は……成司の誕生日かな?」
二人の望む「今」が、傘の下には確かに存在しているのだから。
FIN
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