それは、街中が色鮮やかなイルミネーションと笑顔で彩られる季節。少女はそんな風景を、白い壁に囲まれた部屋の窓から覗いていた。 「ほら、また電気もつけないで……」 「あ……つけないでください」 「どうして?」 灯りのスイッチを押しかけていた女性が、不思議そうに問いかける。少女は静かに微笑んで、言った。 「綺麗だから……」 小さく溜息をついて、女性が少女に近寄った。 「寒くない?」 「はい……大丈夫です」 「今年のクリスマスも……ここで過ごすんですよね、私」 「……」 少女は再び、穏やかに笑う。 「私、クリスマスは好きです……みんな、幸せそうだから」 「そう……」 少女は自分の手に視線を落とし、呟く。 「ごめんなさい……」 「何が?」 「……」 少女は、謝罪の意味を答えなかった。女性――カウンセラー――はベッドの端に腰かけ、うつむく幼い表情を抱き寄せる。 「……私が子供の頃、病弱だったって話、したよね?」 「はい……」 「だから気持ちが分かる、なんて言わないけど……でも、ほんの少しは……」 沢居美枝は、少し力を入れれば折れてしまいそうな少女の頭を、慈しむように撫でた。 「美枝さんは、クリスマスは……?」 「仕事。一緒に過ごせるね」 「もしかして、私の……」 「ううん」 美枝はかぶりを振って、立ち上がる。 「電気、つけるね」 「あ、はい……」 灯りが点いた病室内から、少女は年末の街並みに視線を向ける。憧れと、寂しさの色がその瞳に浮かんでいた。 「ここの病院、人遣い荒いからね。恋人がいる人間に向かって『クリスマス、出てね』って満面の笑顔で言うんだよ? 信じられる?」 と、白衣のポケットから飴玉を取り出し、美枝は少女の手の上に置く。 「大学時代……私も病院で、クリスマス迎えたことがあったんだ。病気の発作で倒れて、手術しなくちゃ危ないって言われて……でも、難しい手術で。成功する確率はそんなに高くないし、そのときの私の体力だと、手術に耐えられるかどうかも微妙だって言われたのね。で、何日かずっと泣いて、心が空っぽになったみたいに何も考えられなくなった状態で、クリスマスを迎えたの」 肩まで伸びた少女の髪を手で梳いて、美枝も窓の外に目を向けた。 「綺麗だね……。だけど、寂しい……」 少女が美枝の袖を強くつかむ。カウンセラーはその手に自分の手を重ねて、少女の名を呼んだ。 「……奈央ちゃん。寂しいときは、寂しいって言っていいんだよ……?」 「……」 少女――奈央の力が強くなる。それはまるで、自分が抱え隠している「弱さ」に対する抗いのように思えた。 「私がクリスマスを病院で迎えたときに、彼氏がお見舞いに来てくれたんだ……あ、そのときはまだ恋人じゃなくて、単なる後輩だったんだけど。彼が面会時間の終わった夜にね、こう……サンタの格好して。で、思わず笑っちゃってさ……そしたら言ってくれたんだよね。『やっと笑ってくれた』って。――クリスマス、恋人と過ごしたいって気持ちもないわけじゃないよ? だけど、彼とはクリスマスじゃなくても会えるし、それに私がお見舞いに来てもらったときはすごく嬉しかったから、同じように……笑わせてあげたい」 「……」 美枝はほんの少し、さっきより強く少女を抱きしめる。 「手術が成功して、生きられるようになって……助かった命で、何ができるかって考えたの。私は頭がいいわけじゃないし、手先も器用じゃない。だけど、精一杯考えて……出した結論が、今」 時の刻まれる規則正しい音の中、美枝は言葉を選びながら、ゆっくりと言った。奈央の力が弱まり、手からベッドの上へと、静かに飴玉が滑り落ちた。 「みんな、なんて偉そうなこと言わない。だけど、せめて自分の周りにいる人、自分の目に見える人くらいは、笑顔にしてあげたい。――だからね、ほら」 美枝は白衣のポケットから数枚のトランプを取り出し、それを奈央に示して見せる。スペード、クラブ、ダイヤにハートそれぞれのエースと、ジョーカーがそこには描かれていた。 「こうして……」 カードを一つにまとめ、自分の手のひらの上に乗せ、 「こうすると」 と、指を鳴らす。 「全部がハートになるんだよ」 五枚のカードは全てハートのエースに変わっていた。驚いた様子の奈央に微笑みかけ、美枝はカードをポケットの中にしまう。 「私は、今の仕事に誇りを持ってやってるし、彼もそんな私を受け入れてくれてる。――私が、クリスマスに仕事をするのは、みんなが幸せそうな日に独りでいることの寂しさを知ってるから。奈央ちゃんに、笑って欲しいから」 「……私……」 「ああ、それとね」 何か言おうとした奈央をさえぎる形で、美枝は少女の眼前にジョーカーを突きつけた。 「『俺のために仕事をおろそかにするくらいだったら、別れるぞ』って脅されてるの、私。だから助けると思って、私と一緒にクリスマス過ごしてくれないかなあ?」 「……はい」 目の端の涙を拭って、奈央は少し下手に笑った。 「よし、いい子いい子」 子供をあやすように頭を撫で、ベッドの上の飴玉を再び握らせる。 「おいしいよ」 「あ、はい……」 小さく頷いて、奈央は口の中に飴玉を入れた。 「あ……おいしい……」 「でしょ? 最近気に入ってるんだ、それ。あ、看護婦さんとか先生には言わないでおいてね? 私、怒られるから」 美枝はそんな冗談めいた台詞を口にして――もっともばれたら叱られるのは本当だが――、自分も奈央にあげたのと同じ飴を頬張った。 「あの……沢居先生?」 「ん、何?」 「先生の恋人さんって、どんな人なんですか?」 「どんな人、かあ……。考えたことなかったな。とりあえずは、これ」 と、美枝は先程見せたカードマジックを再び披露する。 「これ教えてくれたのは、彼」 「手品、好きなんですか?」 「まあ、嫌いではないと思うよ。元々はね、彼がある女の子に見せるために覚えたの、手品」 「女の子……?」 「四年前十才だった子だから……奈央ちゃんと同い年の子。その子は目の病気でね、手術しなきゃ視力が悪くなっていく病気だったんだけど、その子を元気づけるために覚えたって言ってた。で、もしかしたら仕事の役に立つかなって思って教えてもらったんだけど」 「優しい人なんですね」 「単純なだけ。『だって笑っててくれた方が嬉しいだろ』って、それが口癖」 と、美枝は大きく溜息をつき、肩をすくめて、 「まあ、私も似たようなことよく言ってるけど。似た者同士だって、友達にはよく言われるし」 「羨ましいです、そういうの」 と、奈央は窓の外に目を向ける。 「私は、恋とかできないから……」 「相手の迷惑になると……思うから?」 それはかつて自分も抱いていた感情。奈央は静かに、頷いた。 「私も同じように思ってたなあ……」 「沢居さんは……どうして? 病気が治ったからですか?」 「私は、性格が厚かましかったから」 と、美枝は笑顔で冗談を口にし、それから再びカードを懐から取り出した。 「ババ抜きやっててジョーカーを引いたような感じ。私の場合だけどね」 カードを手の中で弄びながら、カウンセラーは言葉を続ける。 「私もね、奈央ちゃんと同じように考えてた。私の場合、そう遠くないうちに死ぬんだとも思ってたけど」 奈央の手に、本人も気付かないうちに力が込められる。微かに速くなった鼓動のせいだろうか、少女は心が締め付けられるような感覚を覚えていた。 「最初は普通に先輩後輩として付き合ってて、彼の方から告白してきて……早く嫌われるように色々と仕向けたんだけどね。全然逆効果」 「……」 「奈央ちゃん」 不意に奈央の肩に、女性の白衣がかけられる。 「やっぱり寒いでしょ?」 「でも、沢居さんは……?」 「私、寒さには強いから」 いつの間にか街を包み込む闇の中で、雪が振り付けのないダンスを踊っていた。人の肩や手の上に乗ればあっけなく溶けてしまうそれは、誰しもが抱える根拠のない不安によく似ていた。 「結構たくさんひどいことしたのに、彼は変わらずにいてくれて、それであるとき尋ねたの。どうして私のこと嫌いにならないの、って。そしたらね――」 と、美枝はシャツの胸ポケットの中にあった飴玉を口に入れて、苦笑を浮かべた。 「『だって先輩、辛そうじゃないですか。その、俺に接してるとき。だから、辛くさせた分は埋め合わせしなくちゃいけないから、今は嫌いになれません』って。素直って言えば聞こえはいいけど、要するに単純なのよ、私の恋人さんは」 でも、と言って美枝は天井を仰ぎ、小さく息をついた。暖房のノイズと遠くに聞こえるクリスマスソングが、会話の交わされない数秒の空白を染めていた。 「そういう人がいるなら、もしかしたら少し……自分に対して正直になってもいいのかも知れない。そう思ったの」 と、美枝は恋人にするよりもずっと優しく――もしかしたら彼女の恋人が子供じみた嫉妬をするかも知れないほどだ――、少女の頭を撫でた。 「だから奈央ちゃんも恋ができる、なんて言わないよ。私は縁があって今の彼に出会ったけど、それは運がよかっただけのことだから。でも、もしこれから奈央ちゃんに好きな人ができたりしたら、そのときは最初から諦めるんじゃなくて、ほんの少しだけ……自分に優しくなってみて」 「自分に、優しく……」 独り言のように呟いた奈央に微笑みかけて、美枝は軽く伸びをした。 「ごめん、私そろそろ帰らないと」 「あ、はい」 美枝は白衣を奈央から受け取ると、簡単に折り畳んでバッグの中にしまった。 「じゃあ、次はクリスマスだね。――楽しくしようね」 「はい。――じゃあ、お休みなさい」 「お休み」 美枝の背中を見送った奈央は、軽く瞼を閉じた。 「優しく……」 少女の声が暖房の呼吸音と混じり合う。冬にだけ降る純白の結晶と同じくらいの速度で空気に溶けたそれは、わずかの寂しさを含んでいた。 少女は、夢を見る。 『一緒に帰ろう』 人なつっこい、少年の笑顔。奈央はいつも通り、溜息をつきながら応じる。 『帰らない』 ランドセルを背負い、少女は歩き出す。 『……』 困惑顔で、少年は少女の背中を見送る。それが、クラスの中で「毎日の風景」と認識されるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。 そんな日常を、何度も繰り返して、そして。 『……』 少女が、空を見上げる。視線の先にあるのは、厚い灰色の雲と、それが落とす無数の涙。 『奈央』 いつも馴れ馴れしく自分を呼び捨てにする、クラスメイトの聞き慣れた声。 『傘、ないの?』 『……うん』 『じゃあ、貸すよ。だから……』 『帰らない』 少年は大きく肩を落とし、深く息をついた。それを横目で見ていた少女の顔に、不思議と笑みが浮かぶ。 『でも……話なら』 『え?』 『話なら、いいよ』 と、少女は穏やかに微笑んだ。履き替えようと下駄箱から出していた靴を戻し、少年は戸惑ったように尋ねる。 『どうして? 嫌ってたんじゃないの?』 『別に嫌いじゃないよ』 そして、場面は変わる。終業式を数日後に控えた、二学期のある日。 『もうすぐ冬休みだね』 『うん……』 力なく頷いた奈央の顔を、少年が心配そうに覗き込む。 『どうしたの? 今日ずっと、元気ないみたいだけど……』 『……そんなことないよ』 『ならいいけど……。それよりもさ、一緒に帰らない?』 ずっと断り続けられている、少年のいつもの提案。無論彼は、今日も断られることを前提にして言っていた。 『……うん。いいよ』 『……え?』 呆然とする少年。少女は微笑んで、再び言う。 『いいよ、文弥君』 『え、で、でも……』 少年――文弥はしばらく何かを言いあぐねていたが、やがて意を決すると、ゆっくりと念を押すように問うた。 『本当に……いいの?』 『うん』 それから始まる、他愛のない話。昨日のテレビの誰が面白かった、今日の授業は難しかった、給食がおいしかった――そんな、どこにでもあるような会話。 『文弥君って、サッカー上手だよね』 不意に、奈央が呟くように言った。 『え? ううん、他にたくさんいるよ、上手いのは』 『でも、友達もたくさんいるし、羨ましいなあ』 ふと、文弥の脳裏にある光景が浮かぶ。いつも教室の片隅で、誰と話すこともなく本を読んでいる少女の姿と、彼女の寂しそうな瞳。 今、自分の目の前で穏やかに話す人物が、少年の頭に描かれた風景にいる少女だった。 『私は、友達……いらないから』 『……』 文弥には、問いただすことができなかった。奈央の淡々とした言葉には、何の感情も含まれておらず、だからこそどんな反論も質問も許されなかった。 『……ごめんね』 『え?』 奈央が何に対して謝っているのか、文弥には分からなかった。少女はただ、辛そうにうつむくばかりだった。 『……私……』 『……もしかして、迷惑だったかな……』 『そんなこと、ないよ……』 少女は、悲しそうに答える。 『ないけど、でも……』 『……』 二人に訪れる無言の時間。車が一台、道端の水たまりを跳ねて通り過ぎていく。その何秒かの間、少年は次の言葉を探す。 だが、実際に沈黙を破ったのは文弥ではなく、奈央の苦しそうな声音だった。 『……文弥、く、ん……』 奈央はガードレールにもたれかかる形で、頽れていた。自分に覗き込む少年に微笑みかけて、少女は立ち上がろうとする。 『大丈夫……だか、ら……』 『大丈夫って……どう見たって……!』 奈央の意識が少しずつ遠のく。文弥が耳元で何かをまくし立てるが、彼女がその意味を判別することはなかった。 そして、今度の夢の舞台は、病院のベッドの上。 『ごめんね……』 奈央は見舞いに来た少年に対して、開口一番謝罪した。 『別に、気にしてなんか』 奈央は悲しげにかぶりを振って、文弥の言葉を制した。 『私ね、何か難しい病気で……ときどき、この前みたいに苦しくなるんだ……』 『……』 『いつ、ああいう風になるか分からない……。だから、友達は作れない……作っちゃ、いけない。迷惑、かけたくないから……』 『……それじゃ、どうして……』 干上がってしまったかのように渇いた喉のせいか、文弥は上手く声が出せなかった。それでも彼は、掠れた問いかけを紡ぎ出す。 『どうして、一緒に……?』 『……』 奈央は目をつぶり、沈黙を生み出す。彼女が次に口を開いたのは、自分の心をほとんど整理し終わった後だった。 『……それでも……羨ましかったから』 『……』 『友達と一緒に道草して、話をして……そういうの、してみたかったから』 『だったら……』 『ううん、もうおしまい。終わりに、しなきゃ』 整理されずに残った奈央の素直な心が、彼女の声をわずかに震わせる。そのことに気付いているのか、文弥は何も言わなかった。 『……本当はね、手術すれば治るんだって。でも……怖いから。ずっと友達なんか作らずに、独りでいる方が……楽だから』 と、奈央は笑ってみせる。笑えるような気持ちなど、どこにもないはずなのに。 『だから……おしまい。文弥君のこと、嫌いじゃないから……だから、もう……』 奈央が強く握った拳の上に、一つの涙が落ちる。 そして、目覚め。 「文弥……君……」 奈央の頬を、一筋の涙が伝っていた。 見舞いに来た数日後に、文弥がこの街から離れたと聞いたのは三学期が始まったその日だった。 それが、奈央の初めての「友達」との別れだった。 「元気だった?」 「あ、はい」 美枝は奈央の頭を軽く撫で、バッグの中から手袋とマフラーを出した。 「これ、プレゼント」 「私に……ですか?」 「そう、手編み」 と、美枝はおどけてウインクをしてみせた。 「おかげで彼には散々いじけられたけどね。無視した」 「無視って……」 思わず奈央も苦笑いを浮かべる。それにつられるように、美枝も笑顔になった。 「それじゃ、着替えて」 「え? 着替えって……」 「二人で出かけるの。デート」 「出かけるって……でも……」 「大丈夫。許可は取ってあるから」 と、奈央の頭を再び撫でて、 「それじゃ、外に出てるから。寒くないようにしてね」 と、美枝は病室のドア後ろ手に閉めると、小さく息をついた。 「……仕事に理解があるっていうのも、時と場合によっては問題かも……」 と、美枝は小さな紙片をポケットから取り出す。それは、彼女の恋人が記した短い手紙だった。 ――あまり無理はするなよ。いつも通り、適当なもの作っておくから食べて下さい。パートナーより。 「たまにはおいしいものでも作ってやるかな……」 呟き、手紙をまたポケットの中に入れる。そして、病室のドアが開いた。 「着替えた? ――あ、かわいい」 と、奈央の手を取り美枝は笑った。 「じゃあ奈央ちゃん、お借りします」 ナースステーションに顔を出し、看護婦といくつか言葉を交わして、 「行こう」 奈央の歩調に合わせて、美枝はいつもよりゆっくりと歩く。入院患者用の下駄箱で靴を履き替えると、先に外に出ていた女性の腕に少女が抱きついた。 「初デート……かな?」 「あ、はい」 奈央が笑顔で頷く。 「じゃあ私は、奈央ちゃんの『記念の人』なわけだ?」 冗談めかして言い、美枝はふと空を仰いだ。 「星、綺麗だよ」 女性の言葉に誘われて、奈央も星空を見上げる。しばらく白い息を吐きつつ、少女はその風景に見入った。 「ねえ、奈央ちゃん」 「何ですか?」 「奈央ちゃんは、好きな人とかいないの?」 美枝の唐突な質問に、奈央は戸惑った表情を見せて、 「前は……いました」 「どんな子?」 「クラスメイトで、でもちょっと……私の方から一方的にさよならを言って、その子は転校したからそれっきりで……」 「……そっか」 「もし会えるのなら、謝りたいです……」 「気にしてないよ、その子はきっと……」 言って、美枝は大きく息を吐き出す。うつむく少女の頭を、いつも恋人がしてくれるように抱き寄せて、その場に立ち止まった。 「……寒くない?」 「大丈夫です……」 美枝の服を強くつかみ、涙の代わりに大きく息をつくと、奈央は満面の笑みを浮かべた。 「どこ行きます?」 「まずは……おいしいもの。いつも病院食だから、たまにはいいもの食べないとね」 と、美枝は軽く奈央の頭を撫でる。少女は無邪気な表情で、目を細めた。 「……あの」 病院の敷地を出ると同時に、はしゃぐ二人の背後から不意に声がかかる。 「……奈央?」 その声――少年のものらしい――は、女性の一人を訝しげに呼び捨てた。少女がゆっくりと振り向く。 「奈央……だよね?」 念を押すように、もう一度。少女は何も応えられず、ただその場に立ち尽くしていた。 「あの……あなたは?」 美枝がようやく少年のことを問いただす。彼は少し中空に視線をさまよわせながら、口を開いた。 「あ、えっと……俺は――」 「文弥……君?」 少年――文弥が名乗るよりも先に、奈央がその名を呼ぶ。彼は以前と全く変わらない、幼い笑みを見せた。 「あ、俺、奈央の……元クラスメイトです」 「……クラスメイト」 ついさっき奈央の口からその単語が出てきたな、と思いながら美枝は彼女の表情を見つめる。驚きと嬉しさ、それに微かに辛さが混じっているような、複雑だが幸せそうな表情だった。 ――そういうこと、ね。 「でも、どうして?」 奈央が問う。文弥は両手をコートのポケットに入れて、苦笑いを浮かべた。 「いや、それがさ、転校してすぐに両親が仲悪くなっちゃって。で、今年の春先に離婚して、母親についてくる形でこっちに戻ってきたんだ」 「あ、ごめん……」 「いいよ、気にしてないから。――本当は、奈央にももっと早く会いに来たかったんだけど、もしかしたら迷惑になるかも知れないから……」 そこで文弥は言葉を切って、視線を足下に落としながら小声で尋ねた。 「……迷惑だったかな」 「そんなこと、ないよ」 少女は瞳の端に涙を溜めながら、かぶりを振った。 「私の方こそ、ごめん……。本当は、私……」 「ああ、いいよ。もう思い出だよ、そのことは」 文弥はそう言うと、二人の女性の背後にある建物を見つめた。 「体は、大丈夫?」 「うん……」 「手術は、まだ……?」 「……うん」 「そっか……。いや、今日クリスマスだしさ、それにかこつけて会えるかなって思って家に行ったら、入院中って言われたから」 「だからって何もこんなところで待ってなくても……あ、面会時間が終わってた?」 「そんなところです」 美枝の質問に苦笑いで答えて、文弥はためらいがちに先を続ける。 「……本当は、奈央が元気だってこと確認したら会わすに帰ろうと思ってたんですよ。それがたぶん、二人にとって一番いいと思ってたんで……。だけどやっぱり、今こうして話してて……おしまいになんか、できなかったんだなって」 「おしまい?」 「ああ……色々とあったんです」 文弥はやんわりと詳しく聞かれることを拒絶し、ふと思い出したようにポケットを探り始めた。 「あ、これ……プレゼント」 少年の手には小さな箱があった。奈央が躊躇したのを見て、文弥が慌てて言う。 「あ、もし迷惑だったら、返してくれていいけど」 「あ、ううん、そんなことないよ」 「えっと……中身は?」 病院という場所の性質上、持ち込めないものもあるのだろう。無粋だと思いながらも、美枝は確認の意味で尋ねた。 「あ、クッキーです。大丈夫ですよね?」 「看護婦さんとか先生に見つからなきゃね。――あ、私は奈央ちゃんのカウンセリングを担当してる、沢居美枝って言います」 「あ、どうも。えっと……これから二人でどこかへ?」 「そのつもりだったんだけど、話があるなら別にいいよ?」 「あ、いえ……」 文弥は軽くかぶりを振り、口の中でいくつかの単語を呟いてから言った。 「俺は、いいです。その……先約があるならそっちを優先してもらって」 「いいですって、だって――」 と、戸惑いながら文弥の本心を聞き出そうとした美枝を、普段にはない大きな声で――もっとも、それも一般的には普通の声量と認識されるレベルなのだが――制した。 「いいんです」 奈央は女性の腕に抱きつく力を強めて、笑顔でデートの相手を見た。 「今日は、美枝さんとのデートですから」 「でも……」 困惑する美枝に気付かれないように、中学生二人は目を合わせ笑顔を交わした。 「あ、文弥君」 「何?」 「私、たぶん病院で年越しするから……よかったら、また来てくれる?」 「もちろん。――それじゃ、また」 嬉しそうにはにかむ少女に背を向け、少年は雑踏の中へと溶けた。 「……本当に、よかったの?」 「はい」 美枝から離れ、奈央はゆっくりと歩き出す。半分が欠けた月が、ちょうど今の少女と同じ状態だった。 「今、二人きりにされても、何を話していいか分かりませんから」 たとえ、二人の気持ちが本当はすれ違っていなかったのだとしても、二年というブランクを埋めるのは容易ではないだろう。だからこそ奈央は、先を急ぎたくなかった。 「自分に嘘をついて、別れて……きっと、今の私もあの頃とそんなに変わってないから、嘘をつくと思うんです。だけど、次につく嘘は私や文弥君を傷つけるものじゃないように……ゆっくり付き合いたいんです」 「うん。それが、いいね」 奈央は穏やかに笑って、それからうつむいた。 「私の病気は……今だと、どれくらいの確率で治りますか?」 「あそこの病院の先生方、やたらと腕だけはいいから……ほぼ確実に。――手術する気になった?」 奈央は首を横に振って、悔しそうに答えた。 「まだ、怖いです。……でも、このままじゃ嫌だって気持ちも、あるから……」 「そう思うようになっただけ進歩だよ。ご褒美に、何でもおごってあげる」 「あ、それじゃ……」 と、希望の食べ物を耳打ちされた美枝は、驚きを隠さなかった。 「そんなので、いいの?」 「はい」 屈託のない顔で頷き、奈央は再び美枝の手を握った。 「あの……沢居さん?」 「ん、何?」 「友達……でいいですか?」 「友達?」 「……」 奈央はうつむき、黙り込んでしまう。それでも彼女が言わんとしていることを、つながった手に込められる力の強さから、美枝は知ることができた。 「あのね奈央ちゃん。友達なら、『沢居さん』じゃダメだよ?」 「じゃあ、えっと……美枝さん?」 「うん、そう。あ、でも私、彼のこと名字で呼んでる……」 美枝はばつが悪そうに苦笑して、 「呼び方なんて、どうでもいいよね?」 「そうですね」 奈央も誘われるように小さく笑って、言った。 「それじゃ、改めて……メリー・クリスマス」 FIN |