ベンチ



 風が、春の花を揺らす。依田美咲は七分咲きの桜を見上げ、婚約者に微笑みかけた。飯田昭人はその視線に気付かず、淡い色の花を漠と眺めていた。
「昭人?」
 呼びかけられた昭人は美咲の方を向いたが、すぐにまた桜の木を仰いだ。頬に一枚の花びらが舞い降りたことも気にせず、花見を続ける。相変わらずのマイペースだった。
 美咲と昭人の出会いは、十二年前まで遡る。中学の入学式の日、クラスの席が隣同士だったのと、名字が似ていたことがきっかけだった。それから今日に至るまで、特に変わったことはなかった。ありふれた付き合いをし、誰もがするような喧嘩もし、そして今ここにいる。もし変わったことがあるとすれば、プロポーズだろう。もっとも、美咲は昭人が自分のフィアンセであるかどうか、未だに確信が持てずにいるのだが。
 大抵の場合、プロポーズには何らかのドラマがある。けれど美咲の場合、文章に綴られるような出来事は何一つとしてなかった。何しろある日、昭人と同棲しているマンションの一室に帰ると、テーブルの上に真っ白な婚姻届が置いてあっただけなのだから。
 その意味を尋ねても――婚姻届の意味するところなど一つしかないが――、昭人ははぐらかすばかりでまともに答えようとはしなかった。そしていつしか用紙は引き出しの奥にしまわれ、今日になった。
「昭人」
 二度目の呼びかけに、昭人はようやく意識を美咲へと向けた。毎年思うことだが、彼の穏和そうな顔つきはこの季節によく似合う。事実、美咲の小さな苛立ちが彼の顔を見ることによって落ち着いたのも一度や二度ではなかった。
「あれ、どういう意味?」
「あれって?」
「……婚姻届」
 普段はそう簡単に動揺の色を見せない昭人も、さすがにばつが悪そうに視線を逸らし、ためらいがちに言った。
「どういう意味って……一つしかないだろう、あれの意味するところなんて」
「それはそうだけど……」
「もしかして、俺が相手じゃ嫌とか?」
「そんなこと!」
 美咲は大袈裟にかぶりを振って、自分の意志を示した。
「そうじゃないけど……何て言うのかなあ……」
 桜は七分咲きの頃に見るのがいい、って言ってたのは誰だったっけ――一瞬、美咲は自分の思考を会話の主題と全く関係ないところへ移動させた。満開の桜は散るばかりだから、その生命力を感じるためにはまだ途上にある段階で見るのがいい。確か中学の国語の教科書に載っていた、その当時は意味が分からない文だったが、今実物を目の前にしてみると何となく著者の意図が理解できる気がした。
「ああいうやり方はないんじゃない? ただテーブルの上に置いておくだけなんて。私だって一応女なんだから、一生に一度の出来事くらいもう少し演出が欲しいの」
 趣、とでも言うのだろうか。七分咲きの桜とまではいかなくとも、多少の情緒は求めても非難はされないだろう。
「別に、一度きりとは限らないじゃないか」
「二度目があって欲しいの?」
 睨まれた昭人は、さすがに慌てて否定した。
「い、いや、一度でいいよ。それ以降はいらない」
「よろしい」
「でも実際、そんなロマンチストだったっけ? そういうのにはこだわらないと思ってたんだけど……」
「確かに、他のことだったらこだわらない。でも今回は、事情が違うでしょう?」
「まあ、確かに」
「でも、昭人の気持ちも分かるけどね」
 美咲は微笑んで、昭人の腕に抱きついた。二十センチ以上も背が低い美咲が、恋人の顔を見上げながら言う。
「そういうの、苦手だもんね。格好良く振る舞ったりするのは」
「得意じゃないのは確かだけど、このままなし崩し的に事を進めようって気もないよ」
 昭人がそう言うと同時に、美咲の腕に力が入れられるのを感じた。桜が風に撫でられて、短い声を周囲に生み出した。
 木の葉や花が風に吹かれる音を聞くと理由もなく不安になると、美咲はいつも言っていた。何故か、自分だけが取り残されているような気持ちになる。昭人はその感覚を理解してはいなかったものの、軽視もしていなかった。
「本当に、私でいいの?」
「いいよ」
 何の躊躇もなく、昭人はそれだけを答えた。
 何も言わず、二人は住み慣れた街を歩いていた。明確な目的地があるわけでもない、ただの散歩。やがて誰もいない公園に着いた二人は、小さなベンチに腰を下ろした。昭人が美咲の頭を、自分の方に抱き寄せる。
「こうするの、久しぶり……」
 二人で出かけた帰りの電車の中では、疲れた美咲が昭人の肩に寄りかかって眠るのが当然のこととなっていた。彼女曰く、「昭人の肩を枕にしているときが一番落ち着いて眠れる」らしい。だが最近は二人とも忙しくなり、同棲していることもあって、デートからはだいぶ遠ざかった生活をしていた。
「寝るなよ」
 言葉とは裏腹に、その声は美咲が眠ることを認めていた。美咲は少し目を細めて、恋人の横顔を見つめる。甘えようとしているときの表情だった。
「撫でて……」
 茶色がかった髪を、乱れないようにゆっくりと撫でる。染めているわけではなく、元々の色だ。
「髪、綺麗だな」
「じゃあ、キスして」
 と、唐突に美咲は唇を突き出した。昭人は溜息をつき、
「しません」
 と、無下に断った。
「どうして?」
「人に見られたらどうするんだ」
「気にすることないよ」
 昭人は再度息をつき、美咲の額を自分の胸に押しつけて、
「今はこれで我慢しなさい」
「うん、我慢する」
 美咲は素直に頷くと、今さらながらに照れ笑いを浮かべた。微かに聞こえてくる心臓の音が心地よかった。
「美咲って、たまに甘えてくるよね」
「……嫌?」
「そんなことないよ」
 子供をあやすように――甘えているときの美咲は子供そのものなので、比喩は必要ないのかも知れない――ゆっくりと背中を撫でながら、昭人は尋ねた。
「落ち着いた?」
「うん」
 美咲は恋人から離れ、正面を見据えた。車が一台、走り抜けていく。排気音が聞こえなくなると、昭人は尋ねた。
「じゃあ、さっきの話。どうして『私でいいの?』なんて聞いたの?」
「だって、これから先の人生に関わることなのよ? そう簡単に頷いたりできないよ」
「それはそうだろうけど」
「それに私、料理は上手くないし掃除だって得意じゃないし、それに大雑把だし……そんなのと結婚していいの?」
「それ、俺が言うべき台詞じゃない? もっともそんな前時代的なこと、言うつもりはないけど」
 二人とも仕事を持っている現状で、炊事も含めた家事全般は分担でやることが暗黙のルールになっていた。それなのに何故、「結婚」という一要素をもって生活のスタイルを変えなくてはならないのか。
「もしかして、俺が嫌々家事をしてると思ってない?」
「だって……男の人って、そういうの嫌いなんじゃないの? 仕事だってしてるんだし……」
「……意外と古風なんだな、美咲って。俺は好きだけどね、料理も洗濯も。それに仕事してるのは美咲も同じ。気にすること、ないよ」
「結婚したら……家に入らなくていいの?」
 あまりにも予想外の台詞に、昭人は思わず吹き出した。ひとしきり笑った後、瞳の端の涙を拭い、憮然としている美咲の頭に手を置く。
「いつの時代の人ですか、その発想」
「だって……」
「同じでいいんだよ。結婚するからって、特別何かを変える必要なんてない。それとも、俺と結婚したくない?」
「……その質問、ずるいよ」
「だろうね」
 そんな単純な二者択一の問題ではないことを知りながらも敢えて問うたのは、昭人の悪戯心からだった。拗ねた表情を見せるばかりの美咲に、今度は真剣に言う。
「大丈夫だよ。俺、美咲の全部が好きってわけじゃないから」
「うん?」
 その台詞の意味を理解できない美咲の目の前に、昭人は両手を広げて見せた。
「……手相?」
「じゃなくて。俺の嫌なところ、この指の数以上言える?」
 美咲は自分の手に視線を落とし、指折り数え始めた。結論が出るまではそう時間がかからないだろうと踏んでいた昭人だったが、彼女が再び口を開くまでには予想外に間が開いた。
「ギリギリだけど……言える」
「で、俺のこと好き?」
「うん」
「だったら大丈夫だよ。盲目になってるわけじゃないから。それにもう同棲してるんだから、結婚したところで生活が大きく変化するってわけでもないしね」
「それなら……」
 昭人の肩に頭を乗せて、美咲は言葉を続けた。声音こそ子供っぽかったが、その思いが真剣だということは、彼女の表情から窺い知ることができた。
「ちゃんと言ってくれなきゃ嫌だからね、プロポーズ」
「ここで?」
「そう、ここで」
 と、美咲はベンチの上に正座をし、昭人に向き直る。もちろんその行動自体は奇妙なことこの上ないのだが、状況が状況だけにその事実を指摘するどころか、つられるように昭人も恋人と同じ姿勢になった。
「……」
「……」
「……あの、美咲さん?」
「何ですか?」
「その、回答は延期っていうのは……」
「なし」
 昭人は深く息を吐き出し、背筋を伸ばしたまま首から上だけでうなだれた。
「……昭人?」
 しばらくその体勢が続いた恋人の表情を覗き込もうとした瞬間、昭人は勢いよく顔を上げた。
「依田美咲」
「あ、はい」
 昭人が真剣な顔と声で自分のフルネームを呼んだことで、美咲の姿勢も自然と正された。足の痺れを忘れ、次に紡がれる言葉を待つ。何の飾り気もない台詞を予想し、またそれを望んでいた美咲の心を、結果として昭人は裏切らなかった。
「結婚しよう」
「いいよ」
 用意していたシンプルな返答を口に出すと、美咲は足を崩し微笑んだ。昭人も足を投げ出し、念を押すように問う。
「あれでよかったの?」
「充分」
 と、美咲は満面の笑みを見せた。
「とりあえず、美咲の誕生石って何だっけ?」
「緑柱石」
「……何それ?」
 耳慣れない名前が返ってきたことで、昭人は面食らった。その様子が面白かった美咲は、少し悪戯心を出してみる。
「さて、何でしょう?」
「緑色……なんだよな? えっと……」
 昭人が考え込む横顔を何気なく見ていた美咲は、特に理由もなく不意にその頬にキスをした。
「分かった?」
「……エメラルド」
「正解」
「で、今のキスは?」
「何となく。理由、いる?」
 何も答えず、立ち上がる。差し出された手を握り、美咲は桜を仰いだ。彼女の髪に一枚の花びらが舞い降りたことに気付いたが、昭人はそれを払おうとはしなかった。
「これから、どうする?」
 美咲は嬉しそうに微笑む。今まで座っていたベンチを振り返りながら、彼女は言った。
「もう少し、二人で歩こう」

FIN