BANANA
大きな溜息、一つ。その直後に、隣を歩いていた女性が、一本のバナナを差し出した。
「食べる?」
男性は無言で果物を彼女の手から奪い取ると、何の躊躇いもなくその場で食べ始めた。
「今度はどうしたの?」
「ちょっと、な」
佐橋康太が言い渋った嘆息の理由を、小倉結花は追求しなかった。元より、問うたところで答えが返ってこないのは分かっている。二人が出会った三年前、高校二年の春から今までずっとそうだった。秘密主義というわけではなく、大抵のことは答えてくれる。けれど、その大きさに関わらず自らの抱えた悩みや辛苦の詳細を、一度として口に出したことはなかった。
「大したことじゃないよ」
と、康太は結花の頭に手を置く。
「それならいいけど」
身長が一八五センチの康太と、彼より三〇センチほど低い結花。その差のせいだろうか、結花の頭には彼の手が触れることが多かった。出会ったころはその行為を注意していたのだが、いくら指摘しても直らなかった友人の癖を、最終的には諦めと共に受け入れた。
「どこか、ゴミ箱ある?」
バナナの皮を片手にぶら下げながら、康太は周囲を見回す。
「はい」
結花はバッグからビニール袋を出し、手渡した。
「用意いいな」
「いつも持ち歩いてますから」
「バナナ、好きなんだ?」
「何を今さら」
結花が呆れ半分に答えたのとは対照的に、康太は満面の笑みを浮かべ、
「俺と同じだ」
これが、きっと原因だった。時折見せる、子供のように無邪気な表情。
結花がバナナを好きなのも、それを常に持ち歩くようになったのも、全ては彼から始まっていた。
「なんでなのかなあ……」
誰に聞かせるためでもない呟きと、深い嘆息。学食で何も食べずに机に突っ伏している友人に、市原薫はサンドイッチを差し出した。
「体に悪いわよ?」
「ん、ありがと」
薫からもらったカツサンドを一口かじって、また溜息をつく。
「体調不良?」
「精神の方……」
「と、いうことは――」
「だーれだ?」
続けようとした言葉は、突然視界が人間の手によって塞がれたことで途切れた。目隠しを力任せに外し、後ろを振り向く。
「元気?」
「子供かお前は」
睨みつける薫を意にも介さず、竹仲綾音は結花にも声をかける。
「デザート、くださいな」
反応はない。綾音はもう一度、耳元で名前を呼んだ。
「ゆーかー」
「あ、ごめん。何?」
「バナナ。持ってない?」
「あるよ」
鞄から果物を取り出し、綾音に渡す。いただきます、という友人の声を聞きながら、再びテーブルの上に突っ伏した。
「どうしたの、これ。風邪?」
綾音に問われた薫は、首を横に振った。
「体じゃなくて、心の問題。正確に言うと、感情の」
「また、佐橋君絡み?」
「またって言うな……」
顔を上げた結花は、呪うような低い声を綾音に向かって投げつけた。
「ふられた? それとも佐橋君に彼女でもできた?」
「どっちも、違うから」
ゆるゆるとかぶりを振り、また重い息を吐き出す。学生で賑わう食堂の中で、彼女たちのテーブルだけが奇妙な静けさを漂わせていた。
「私、康太に嫌われてるんじゃないかなあ」
独り言のように、結花が呟く。綾音と薫は顔を見合わせ、同時に呆れた表情を浮かべた。
「そんなわけないでしょう」
とは、薫。
「何か、そう思うだけの根拠があるの?」
尋ねた綾音に、答えとなる言葉を返す。だがそれは返答というより、限りなく愚痴に近いものだった。
「だってさあ……」
結花曰く。
康太が愚痴の一つもこぼさないのは、そもそも私のことを信頼してないからじゃないか。信じられてないなら、それは嫌われてると同じこと。そう思うと、好きになったこと自体が、間違いだった気さえしてくる。
「それは、本心?」
薫の静かな声に、一瞬躊躇してからかぶりを振る。尋ねた友人は、安心したように小さく笑った。
「なら、よかった」
「正直言って辛いけどね。何も話してもらえないっていうのは」
「ふぇもふぁ」
「飲み込んでから喋れ」
綾音はバナナを胃の中に収めると、再び話し始めた。
「でもさ、無理に聞こうとしたって教えてくれるようなことじゃないでしょ、弱音とか愚痴っていうのは。大体、話してくれないってどのくらい? 本当に何も口に出さないってことでもないんでしょ?」
「ううん、本当に何も。溜息をついたり暗い顔はしてるときがあるけど、それ以上は本当に、何一つ……」
「難儀だねえ、それは」
机にまた突っ伏した結花の頭を撫でてやりながら、綾音が苦笑いを浮かべる。
「いつもそばにいるのにね」
「だからじゃない? 佐橋君が何も話さないのは。結花に心配をかけたくないから、何も言わない。結花にしてみたら、そんなのは正しくないんだろうけどね」
「強がりで意地っ張りなのだよ、男の子は」
おどけた口調で綾音が言い、丸くなっている友人の背中を軽く叩いた。
「それより、これからの予定は何かあるの?」
「まだ、講義が残ってる」
「時間、大丈夫?」
薫は携帯電話のディスプレイに映る時計を示す。結花はのろのろと立ち上がると、乱暴に頭を振ってから無理に笑顔を作った。
「行くね」
友人の背中が学食の人混みに紛れるのを見送った二人は、同時に溜息を吐き出した。
「大丈夫だと思う?」
「小学校から結花と一緒に遊んでた人間には、あれが平気に見えるの?」
薫に問い返された綾音は、首を横に振る。
「まさか」
再びの嘆息。綾音は片手に持ったバナナの皮を見つめながら、突拍子もない問いかけを薫に投げかけた。
「薫さ、これ何本もらったか覚えてる?」
「これ、ってバナナ?」
「そう。佐橋君と知り合ってから持ち歩くようになって、私も薫もたくさんもらったんじゃない?」
「少なく見積もっても、三桁は」
「そろそろ、その分のお代を払っておくべきだとは思わない?」
「何企んでるのよ」
「まだ、秘密」
怪訝そうな表情を隠さない薫とは反対に、結花は楽しそうに微笑んでいた。
「落ち込んでない?」
最近オープンしたカジュアルファッションの専門店は、買い物客で賑わっていた。結花もまた新しい服を物色し、その姿を他人が気に留めるはずもない。だが、康太は彼女が負の感情を抱えているように思えた。
「え、どうして」
思わず手を止めて、彼女は聞き返す。短いその声には、微かな動揺が含まれていた。
「何となくだけど、元気がないように見える。どうかした?」
「そんなこと、ない。普通だよ」
笑顔を見せ、服の品定めに戻った結花を見ながら、彼女に聞こえないように康太は小さく呟いた。
「しょうがない、か」
服をあれこれ手に取る結花が楽しそうなのも、また事実だ。本心がどうあれ、今すぐに水を差すような野暮なことをする気はなかった。
「ねえ、これなんかどうかな?」
気に入った服を見つけた結花は、笑顔でそれを康太に見せる。
「似合うと思うよ。着てみたら?」
落ち込んでいると、いつも結花が遊びに誘ってくれた。今日のようなショッピングや、映画やカラオケ、飲み明かしたこともある。何の心情も吐露しない自分を受け入れて、彼女なりに気遣ってくれていることは分かっていた。だからこそ、どうして今更彼女の憂鬱の理由を探り出すことができるのか。
「どう?」
試着室から出てきた結花が、はにかんだ顔で聞く。
「ああ、いいんじゃないか?」
「じゃあ、これにしよう」
結花は満足そうに笑っている。ほとんど無意識に、その頭に手を伸ばしていた。
「わ、何」
突然手を置かれ、驚いたように首をすくめはしたものの、払いのける様子はなかった。
「相変わらず小さいなあと」
「私が小さいんじゃなくて、康太が大きいの。栄養摂りすぎなのよ」
知り合った時点で、身長は一七五センチに達していた。それからさらに十センチも伸びるとは、誰が想像しようか。
「私に少し、分けてよ。十五センチくらい」
「それは少しとは言わない」
「いいじゃない。減るものでもなし」
「分けたら減るだろ。せっかくここまで伸びたのに、そう簡単にあげる気はない」
「ケチだなあ」
「ケチとかって問題じゃない」
結花は満面の笑顔で、冗談に付き合ってくれる康太を見ていた。反応しなくてもいいような、くだらない話に多少でも応じてくれることが嬉しく思えた。
「そんなどうでもいい話は置いといて、早く着替えてきなさい」
「はあい」
子供のように素直に頷いて、彼女はまた試着室へと入っていった。
康太には、結花が分からなかった。心の内を明かそうとしない自分に何故、笑顔を向けてくれるのか。愛想を尽かすこともなく、いつも一緒にいてくれるのだろうか。
「お待たせ」
手に先程の服を抱え、結花が現れる。物思いに耽っていたせいで反応が遅れた友人の顔を、彼女は不思議そうに見ていた。
「また、悩み事?」
「いや、違うよ」
「ならば、よし。流石にここじゃバナナも食べづらいしね」
周囲には、二人と同年代の買い物客を散見することができた。この状況でおもむろにバッグから取り出されたバナナを食べ始める勇気など、持ち合わせてはいない。
「今日も持ってるの?」
「うん。食べたくなったらいつでも言ってね。ジャイアントキャベンディッシュもセニョリータもあるから」
「……は? ジャイアン……?」
唐突に長ったらしい単語を言われた康太は、呆けた顔で結花を見ることしかできなかった。可笑しそうに目を細め、彼女は解説を始める。
「空き地でリサイタルやる子じゃなくて、ジャイアントキャベンディッシュ。普通の大きさのバナナのこと。セニョリータっていうのはモンキーバナナね。あと、モラードっていうのもあるよ。皮が赤紫で、一目見ただけじゃとてもじゃないけど食べようとは思わない」
「作ってる農家の人に怒られるぞ。第一、なんでそんなこと知ってるんだ?」
「暇つぶしにね、調べてみたの」
康太は一つ、短い溜息をつくと、
「あのな、結花。そんなに暇だったら今度から俺にメールでも電話でもしろ。用事なんてなくてもいいから。一人でバナナの本を読んでる姿を想像するのは、忍びない」
と、また頭に手。
「迷惑じゃないなら、そうする。ありがとう」
「いいよ。それよりも、会計しなくていいのか? ちょうど、レジ空いてるぞ」
「あ、うん。ちょっと待っててね」
レジへと向かっていった結花の背中から、自らの手へと康太は視線を移す。まだ、彼女の黒髪の感触が残っていた。
「話した方が、いいよな」
呟き、手の平を強く握りしめる。
そこにある微かなぬくもりを、閉じこめるように。
「ねえ、綾音。本当にやるの?」
「やるよ。結花のためなんだから」
事も無げに言い、彼女は薫に聞き返す。
「何か問題でも?」
「ないと思うの?」
「多少はあるだろうけど、薫にもメリットあるでしょ?」
「どこがよ」
「ないって言い張るなら、そういうことにしておく。薫と言い争ったところでお互いに疲れるだけだし。ただ、今さら降りるなんて言わないでね?」
「言わないわよ。もう船には乗ったんだし」
「それなら、よし」
船頭は満足げに言うと、まだ不服そうな薫に微笑みかけた。
「何よ」
「大変ね。恋する乙女は」
「あの子に言って、そんなことは」
「全部終わったら、ね。これから暇でしょ? 学食で作戦会議するよ」
「はいはい」
綾音に対する抗議と溜息を全て飲み込んで、薫は呟きを足下に落とした。
「妙なことになったわね……」
「誰?」
結花が見せられた写真の中では、制服を着た一人の少女が笑っていた。
「俺の友達」
「こんな若くて可愛い子とどうやって知り合ったの?」
その笑顔は、幼くあどけない。同性の目から見ても愛らしい表情は、異性からすれば魅力的に映るのも当然だろう。
「でも、もう少し待った方がいいんじゃない? せめて高校卒業まで」
もちろんそれは、冗談として発せられた台詞だ。けれどそれを受けて返ってきた声と瞳は、真剣だった。
「同い年だよ。……同い年だった」
「え……」
結花のおどけた顔が一瞬で凍り付く。康太は微笑んで、彼女の頭に手を置いた。
「小学……四年のときだったな、初めて会ったのは。転校生でさ。席が隣同士だった縁で、仲良くなった」
「名前は?」
「矢野、葵」
「葵ちゃん……」
写真に視線を向けたまま、被写体となった人物の名を口にする。同年齢という事実が失われる理由を、結花は一つしか知らなかった。
「それさ、この前買った服だろ?」
「え? あ、うん」
「よく似合ってる」
「ありがとう」
会話が途切れる。賑わう昼時のレストランの中で、二人の間だけに静寂が漂う。それを終わらせたのは、康太だった、
「元気が服を着てるみたいな奴でさ、男より運動神経がよくて、明るくて。あんまり、女っぽくなかったな」
「この写真だと、そうは見えないけど……」
写真の葵は両手で鞄を持ち、静かに笑っている。その姿からは康太の言ったような人物像は想像できなかった。
「これ、誰が撮ったの?」
「俺だけど」
「やっぱり、ね」
結花は何かに納得すると、葵の写真を見つめながらまるで独り言のような口調で尋ねた。
「康太は彼女のこと、好きだったの?」
目を伏せて、彼は微かに笑う。結花にはそれが、自嘲しているように見えた。
「嫌いでは、なかったよ。知り合って以来、ほとんど毎日一緒にいたしさ」
「きっと、葵ちゃんも同じ。そういう顔だよ、これは」
好きな人が撮ってくれる写真に、少しでも可愛らしく写りたい。印画紙の中にいる葵は、精一杯の女心でそう言っていた。
「好きになるのも、分かるよ」
康太は何も答えず、冷めてしまった食後のコーヒーに口をつける。表情からは、彼の感情を何も読み取れない。結花はただ、友人の言葉の続きを待つしかなかった。
「何でも話したよ。楽しいことも、くだらないことも、苦しいことも。どんな話でも聞いてくれて、一緒に笑ってくれたり、怒ったり、泣いてくれたこともあった。……バナナが、好きな子だった」
胸の奥を鋭いもので射抜かれた気がした。声も出せず、自分の想いすら上手く把握できない。無数の感情が頭の中を駆け回り、ぶつかり合い、それぞれが自己主張を始めては消えていく。かける言葉は見つからず、金縛りにでも遭ったように何もできないまま、康太の唇が動き始めるのを待つしかなかった。
「本当に、いつも笑ってた。……だから、何も気付けなかった」
「どうして、葵ちゃんは……」
康太はかぶりを振る。
「未だに、何も分からない。俺が知ってるのは、葵が……自らの手で命を絶った。それだけだ」
結花の唇が、わずかに動く。だが、何も出てこない。出てくるはずがない。
「遺書にはたくさんの謝罪の言葉が書いてあっただけで、その選択の理由は何一つ書いてなかった」
その声は微かに震えていた。顔を見ることはできない。見てしまえば、自分が泣き出すことを結花は知っていた。
「自分のことだけ話して、何もしてやれなかった。そういうのは、もう嫌なんだ」
「だから、何も……」
「結花が心配してくれてるのは、分かるよ。でも、誰がどんな風にいなくなるかなんて、分からないだろ? 自殺じゃなくても、事故に巻き込まれるかも知れないし、病気になるかも知れない。もちろんそうなって欲しくはないけど、そういうことが起こらないなんて断言もできない」
「私は……」
結花は頭を激しく振る。自らにまとわりつく負の感情を無理矢理に追い払い、康太の顔を見据えながら言った。
「私は、死なないよ。康太を悲しませたくないから、絶対に」
「うん、ありがとう」
身を乗り出した康太の手が、結花の頭を撫でる。彼女は少しだけ安心して短い息を吐き出し、彼も小さく笑っていた。
「結花はいなくなったりしない。俺もそう思ってる。だから、悪いのは自分自身なんだよ。あいつの……葵の死に、まだ納得してない。自分を許してないから、結花にも何も話せない。あいつを見殺しにしたような人間が、他人に助けてもらう権利なんてない」
「そんなこと、ないよ……」
弱々しい反論。それ以上は、何一つ声にならない。
「いつかは葵のことも整理がついて、自分を許せるようになると思う。だけどそれがいつになるのかは、自分でも分からない。だから、もし辛いなら……」
「大丈夫だよ、私は」
声を絞り出し、結花は言う。康太は小さな溜息をつくと、伝票を手にして立ち上がった。
「そろそろ、出ようか」
溜息をつく度に、幸せが一つ逃げていくらしい。それなら自分は、今日だけで一体いくつの幸福を手放しているのだろう。窓の外をぼんやり眺めながらそんなことを考えていた結花は、また嘆息を吐き出したことに気付いていなかった。
「今ので、四十六」
「え?」
「結花の溜息の回数。私が見てる範囲だけでも、今日一日で四十六回。何か、あった?」
結花の横で同じように窓外の景色を見ながら、綾音が尋ねる。
「うん……」
頷いただけで、それ以上は何も喋らない。二階の窓越しに外を見下ろしているはずの彼女の瞳は、何も映していないように見えた。
「言えないこと?」
言葉はなく、ただ首を縦に振る。綾音はその頭を撫で、
「あんまり、思い詰めないでね? 落ち着くまで、一緒にいるから」
「ありがとう」
微笑んだ結花の瞳には、少しだけ生気が戻っていた。綾音は再び彼女の頭を撫でて、
「小学校から大学まで一緒の腐れ縁なんだから、少しは頼りなよ。今日はもう予定も何もないから、とりあえず座って話せるところにでも行く?」
「学食でもいい? 昨日から何も食べてなくて……」
「大丈夫なの? とりあえず、これでも飲んで」
綾音が鞄から出したのは、ペットボトルの緑茶だった。それを一口飲んで、結花は少しだけ笑う。
「美味しい」
「ちゃんと、食べられる?」
「大丈夫。心配かけて、ごめんね」
「そう思うんだったら、ちゃんと食べる。分かった?」
「分かりました」
もう一口お茶を飲み、キャップを閉めると歩調と同じくゆっくりと結花は話し始めた。
「ようやく、分かったの。康太が何も話してくれない理由」
「それが、言えないこと?」
頷き、静かに一階へと続く階段を下りていく。彼女が再び口を開いたのは、階段を全て下りたあとだった。
「私には、どうしようもなさそうだったよ。いくら手を伸ばしても届かない、そんなところに原因があるから」
「じゃあ、諦めちゃうの?」
「諦められたら、きっと楽なんだろうけどね」
苦笑いは、まだ足掻こうとしている自分自身に向けた表情。心を一つ捨ててしまえば楽になれることを知っていても、結花は苦しむことを選んだ。
「それだけ、佐橋君のことが好きなのね」
「らしいね。自分でもびっくりしてる」
照れくさそうな表情を浮かべてから、彼女はバッグからバナナを一つ取り出した。
「食べる?」
「もちろん」
受け取ったバナナを、綾音はためらう素振りもなくその場で食べ始める。他者から向けられる奇異の視線を気にすることもなく、彼女はバナナを完食した。
「ごちそうさ……結花?」
綾音の言葉が途中で途切れたのは、結花が窓の向こうを見たまま固まっているからだった。その視線の先では、薫と康太が腕を組んで歩いていた。
「大丈夫、平気だから」
言葉とは裏腹に、足早に歩き出す。綾音は友人に走って追いつくと、彼女の頭を乱暴に撫でながら言った。
「やっぱり、予定変更。うちで何か食べよう。好きなもの、何でも作ってあげるから」
無言で、小さく頷く。綾音は彼女の細い手首を掴むと、歩く方向を変えた。
風の声が寂しく通り抜けていく。俯く結花に、かける言葉があるはずもない。綾音は改めて友人と手をつなぎ直すと、自分にしか聞こえない声量で呟いた。
「最悪……」
白米、豆腐とわかめの味噌汁、ポテトサラダ、エビフライに、烏龍茶。結花の好きな料理をトレイに載せたまま、ドアの前で溜息をつくこと、数回。自分の部屋に入ることをこんなにもためらうのは、無論初めてのことだった。
「入るよ」
ドアの正面にあるベッドには、パジャマ姿の結花が腰掛けていた。呆然と綾音の顔を見る彼女の前に、食事を載せたトレイを静かに置く。
「眠れた?」
「あ、うん……」
目覚めたばかりなのか、結花は未だに自分の置かれている状況を理解していない表情で綾音を見ていた。だが、意識とは反対に、腹の虫は素直に大声で鳴く。彼女は自分の腹部を見下ろし、照れくさそうに笑った。
「いただきます」
「どうぞ」
ゆっくりと自分の料理を食べる結花を見ながら、綾音はまた小さな嘆息を吐き出した。
「綾音は食べないの?」
「ちょっと、食欲がないから」
「具合、悪いの?」
心配そうに顔を見つめる友人の視線を、彼女は正面から受け止められなかった。自らが生み出し、抱えることになった罪悪感のせいだ。
「大丈夫?」
結花はなおも心配そうに様子を窺っている。こうなってしまうと、綾音にできることは一つしかなかった。
「本当に、ごめん!」
両手を顔の前で合わせ、音が聞こえてきそうな勢いで頭を下げる。当然、謝罪の理由に心当たりのない結花は困惑するしかなかった。
「ど、どうして綾音が謝るの? 迷惑をかけたのは、私の方なんだよ?」
「問題は、その原因。あのね、佐橋君と薫が腕組んで歩いてたの、あれ、私のせい。私が薫にけしかけたの。佐橋君と付き合ってるみたいに振る舞ってねって。そしたらそのうち結花が二人のことを見つけて、少しは刺激になるかなあ、って。だから佐橋君も演技。タイミング、悪すぎたけどね……」
一気にまくし立てて、綾音は深い溜息をついた。
「嘘、だった?」
「そう。だから、ごめん」
うなだれながら、謝罪の言葉を繰り返す。無論、許してもらえるとは思っていなかった。
「……綾音」
烏龍茶をかけられることを覚悟しながら、顔を上げる。彼女の目の前には確かにそれが差し出されていたが、それ以上動く気配はなかった。
「飲んで。喉、乾いてるよね?」
「え、あ、うん」
戸惑いながら、結花の手からコップを受け取り、それに口をつける。友人の顔色を観察してみるが、当然笑ってはいないものの、怒っているようにも見えなかった。
「怒ってる、よね」
恐る恐る、馬鹿げた問いかけを小学校からの友人に向けてみる。彼女は、首を横に振った。
「安心してるのが半分と、もう半分で色々考えてる。二人が一緒にいるのを見たとき、凄いショックだったのは確かだけど、でも心のどこかじゃしょうがないなって、そう思ってた。私は康太と一緒にいる時間が多かったけど、それは友達としてで、当たり前だけど恋人として同じ時間を過ごしてたわけじゃなかったんだって、思い知った。告白もしてないんだから、薫でも他の誰かでも、康太の隣にいちゃいけないなんて言う権利、私は持ち合わせてないんだよね」
「はい、お茶」
「ありがとう」
綾音から戻ってきた烏龍茶を飲み干し、手製のポテトサラダを口の中に放り込んで微笑む。
「美味しい。綾音も食べなよ」
言われるまま、箸で運ばれてきたサラダを食べる。ふと見ると、結花が嬉しそうな顔をしていた。
「エビフライ、食べる?」
「まず、結花が食べるの。そのために作ったんだから」
「うん」
幼なじみ。結花と綾音の関係に名をつけるとするなら、そんなありふれたものになるだろう。小学校から中学校、高校に大学まで全て同じところに通った。一緒に過ごした時間の長さと、思い出の多さは誰にも負けない。だからこそ、綾音は一計を案じた。
「薫のことは、責めないでね。巻き込んだのは、私だから……」
「誰も、責めないよ。そんなの、誰のためにもならないから。心配かけて、ごめんね」
「どうして結花が謝るの。悪いのは――」
「綾音は」
声が声を遮る。黙り込む女性と、微笑む彼女の友人。次に口を開いたのは、言うまでもなく笑顔の人だった。
「私のために、動いてくれた。美味しいご飯も作ってくれた。だから、責めたくない。綾音のことを罵ったって、きっと今以上に落ち込むだけだよ。そんなの、嫌」
友人が悪意を持っていなかったことは、彼女の態度から明らかだった。悪者を無理に作り出すよりも、結果として上手くいかなかった綾音の厚意に、今は甘えていたかった。
「もしどうしても悪いって思うなら、今日はずっと一緒にいて。一人でいるのは、辛いから」
「言われなくても、今の結花を放っておくつもりなんてないよ」
結花の隣に座り、その頭に手を置く。少し照れくさそうに、彼女は目を細めた。
「これから、どうするの?」
「どうしたらいいと思う?」
「いっそのこと、告白しちゃうとか……」
無責任な発言だということは自覚していた。だが、それくらいしか思いつかなかったのも事実だ。
「それはまあ、そうなんだろうけどね」
「佐橋君の抱えてる問題が解決するまで、結花の方からは動けない?」
当然、答えは返ってこない。沈黙が漂う室内に、秒針の音だけが刻まれていく。再び結花の髪に触れて、綾音は言った。
「とりあえず、食べた方がいいよ」
頷き、箸を動かす。少しずつ料理は減っていき、最終的には何も残らなかった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。じゃあ、もう一つ質問ね。佐橋君と今の関係でいるのって辛い? ずっと今のままじゃ駄目っていうのは確かだけど、友達として仲がいいこと自体にも耐えられない?」
結花は少し考えると、首を横に振った。
「ううん。今の関係も、そんなに嫌いじゃないよ。ただ、康太の隣に誰か別の人がいるのは嫌。薫と一緒に歩いてるのを見て、気付いた」
「恋人でも友達でもいいから、とにかく一番そばにいたいってこと?」
「うん。……康太は、誰にも渡したくない。相手が薫でも、他の誰でも。だけど……」
「勝てなかったら」
綾音は幼なじみの肩を抱き、
「骨は拾ってあげるから」
と、軽口を叩いた。
「それとも、夜通し飲む方がいい? 上手くいったら祝い酒にもできるし」
「どれだけ飲むか分からないよ?」
「覚悟の上です」
互いに、笑いながら顔を見合わせる。綾音は結花の背中を軽く押すように叩いて、
「頑張れ。私はいつでも結花の味方でいるから。今回は、余計なことしちゃったけど」
「ううん、ありがとう」
どんなに悩んだところで、過去は変わらない。康太の心の奥に根を張っている想いに、勝てる保証もない。けれど、立ち止まっていては何も動かない。結花は自分の内に巣くう恐怖心に抗うかのように、右手を固く握りしめた。
「あ、デザートがないね。何がいい?」
綾音の唐突な問い。だが、結花は迷わなかった。
「バナナが、いいな。甘いやつ」
「え、何」
振り返った康太が、呆けた顔で結花を見つめていた。人気のない公園の中、強い意志を含んだ結花の声が木々のざわめきに消されることもなく繰り返される。
「そばにいる、って言ったの。康太の隣に、ずっと」
「その、それは……」
「葵ちゃんのことを聞かされて、薫と一緒に歩いてるのを見て、色々考えたの」
「ちょっと待て。市原のことは……」
「知ってる。嘘だったんでしょ? でもね、考えるにはあれで充分だった」
康太は黙り込み、その横顔に風が吹きつける。揺れる髪を押さえながら、結花は言葉を続けた。
「葵ちゃんがいなくなって、康太がどれだけ苦しんだかなんて私には分からない。きっと、分かったところで私にはどうしようもない。だけど、私は康太の隣にいるの。葵ちゃんのことが忘れられないなら、それでもいい。何も話してくれなくても、私はそこから離れない」
「でも、それじゃ結花が辛いだろ」
「それでも、構わない」
結花の右手が、康太の服の袖を強く掴む。力の限り握りしめながら、彼女は言った。
「康太のそばにいたいの、私は」
「手、ふるえてる」
康太は友人の頭を梳くように撫でてやる。結花の手から力が抜け、ゆっくりと離れた。
「俺のそばにいたら、きっと結花が辛く思うことになる。俺はまだ、葵の死を後悔してるから」
「それでも、構わない」
「俺が気にするんだよ」
結花は何も言い返せなかった。自分の気持ちだけが、声にならない声を心の奥底で叫んでいた。
「だから、さ。辛くなったらちゃんと言って欲しいんだ」
「え……」
「葵のことを、結花まで抱え込まなくていい。ただ、俺が辛くなったときは、思い切り怒ってくれ。私がいるのに、なんで他の女のことなんて考えてんだ、って」
自分に言われたことが理解できていないのか、結花は呆然としていた。康太は一つ、短い溜息をつく。
「そばにいたいんだろ」
「それが、そうだけど」
「つまり、こういうことだよ」
結花の腕を掴み、自分の方に引き寄せる。次の瞬間には、彼の鼓動が耳に届いていた。
「俺だって、結花が隣にいてくれたら嬉しいよ。断る理由なんて、ない」
「でも、葵ちゃん……」
「その『葵ちゃん』のことを、どうしてお前に話したかって、少しは考えた? ただの友達としか思ってない奴に、わざわざ話す理由なんてないだろ」
「じゃあ、なんで……」
「俺のことを知ってて欲しかったから。自分は、弱い人間だって結花に教えたかった」
康太は大きな息を吐き、結花から離れる。抱擁を他人に見られることはなかったが、それでも胸の音が落ち着くまではいくらかの時間を要した。
「こんな奴で、いいの?」
「え、あ、うん。もちろん」
今さら、結花は混乱していた。自分がされたことと、向けられた言葉を一つずつ思い出す。顔が赤くなるのが自覚できた。
「じゃなくて、その、私でいいの?」
「今の話の流れからどうやったら駄目って解釈できるんだ」
「でも、その、あの」
「ああもう、分かった」
と、康太はもう一度結花を抱きしめた。
「お前がそばにいて欲しい。何か質問は?」
「ありません……」
結花も想い人の背中に腕を回す。静寂の中で聞こえてくる心臓の音は、表情の裏に隠した康太の緊張を訴えているようで、少し可笑しくて、愛おしかった。
「ねえ、康太」
「うん?」
「キスして欲しい」
その瞳はまっすぐに康太を見ていた。照れくささから目を逸らし、彼は答える。
「人に見られたらどうするんだよ。恥ずかしいだろ」
「何を今さら。今の私たちの状態、分かってる?」
「う……」
結花は目を閉じる。康太は周りに誰もいないことを確認したあと、意を決し瞼を閉じた。
彼の顔が近づいてくる。結花の心臓も、飛び出しそうなほどに高鳴っている。前髪を、手がどける。
額に、何かが触れた。
「え……」
「背が小さいから、こっちの方がしやすい」
言われて、額に触れたものの正体が唇だと気付いた。
「あ、あのね! 私がどれだけ――」
抗議の言葉が途切れる。原因は、康太だった。
「だけど、こっちの方がいいよな」
「あ、う、うん」
望みは叶えられたことを、唇に残る感触が教えていた。恥ずかしさで俯く結花の頭に手を置いて、康太は微笑む。。
「あ、あの、バナナ、食べる?」
康太はかぶりを振る。
「今は、いいや。結花がいるから」
「もう二度と、食べないの?」
「いや、そのうち食べるよ」
「よかった」
「何が?」
「ちゃんと、葵ちゃんのことが残ってる。康太が葵ちゃんのことを忘れちゃったら、悲しいよ。気持ちを整理する必要はあるけど、忘れないでね」
「ああ」
「でも、葵ちゃんに負けるつもりはないけどね」
結花が爪先立ちになる。唇に、唇が触れた。
「康太にキスできるのは、私だけなんだから」
「メール?」
「結花から。上手くいったみたい」
「それは、何より」
そう言った薫の頭を、幼なじみにするように綾音は撫でる。
「何よ」
「今夜は、付き合うよ? 朝まで好きなだけ飲んでいいから」
「なんで、そんなこと」
「失恋の定番じゃない? ヤケ酒は。お人好しの薫さんを、放っておけないしね」
薫は大きな嘆息を吐き出す。軽い頭痛がした。
「結花は、気付いてた?」
「さあ?」
大袈裟に肩をすくめるだけで、綾音は薫の問いに答えなかった。
「日本酒、ある?」
「ビールもワインもウイスキーも、大体は。とりあえず、食べる?」
綾音がバッグから取り出したのは、湾曲した黄色い果物。薫は苦笑を浮かべ、言った。
「いただきます」
FIN