アナログ



「妙なことになったなあ……」
 茅根豊は自分の手にある一冊のノートを見ながら、困惑の表情を浮かべた。
「書かないわけにはいかないよな……」
 呟きながら、短い溜息を漏らす。
 そこには、「交換日記」と記されていた。


 授業を全て終えた教室で、一時間ほどを過ごすのが茅根の日課だった。友人と話すときもあれば、何もせずにグラウンドを眺めているだけのときもある。何故そうするのかは自分でも分からなかったが、今日も彼は人影のまばらな教室に居残っていた。
「豊君?」
 江沼春花だった。その珍しさから苗字で呼ばれることがほとんどの茅根を、名前で呼ぶ数少ない友人の一人である。
「何してるの?」
「外、見てた」
「面白い?」
「あんまり……」
 春花は眼鏡の奥の瞳を細めると、茅根の右隣の席に座った。
「江沼は帰らないの?」
「うん。もう少しいるつもり」
 五月も半ばになり、中学の制服も馴染んできた。五年生のときに同じクラスになって以来の付き合いだが、入学して何日かは互いの見慣れない姿を気恥ずかしく感じることもあった。
「それなら、屋上に行かない?」
「いいよ。ちょっと待っててね」
 春花は自分の鞄から真新しいノートを取り出すと、それを抱えて戻ってきた。
「行こう」
「それは?」
「とりあえず、秘密」
 と、春花は微笑んだ。
「豊君は屋上によく行くの?」
「たまにね。天気がいいときなんかは、風が気持ちいいんだ」
 階段を昇り、鉄の扉を押し開ける。茅根は屋外の空気を目一杯吸い込むと、空を仰ぎ見た。
「やっぱり、ここが一番好きだな」
 春花はフェンスに背中を預け、小さく息をついた。緊張を悟られないようにするため目を伏せた直後、茅根が彼女の顔を心配そうに覗き込んだ。
「どうかした?」
「あ、ううん。何でもないよ」
 春花は慌てて首を振ったが、すぐにまた俯いてしまった。
「どこか具合でも悪い?」
 再び否定すると、一呼吸してからノートをゆっくりと差し出した。
「あの、これ……」


 最初のページは、当然のことながら春花の日記だった。小さい文字で、他愛のない日常が綴られている。半ページほどの文章を必要以上の時間をかけて読み終えると、少年は椅子の背もたれに体重をかけながら自室の蛍光灯を見上げた。
 おとなしい女子、というのが初めに抱いた印象だった。授業が終わるたびに騒がしくなる教室の中で、本を読む姿が目についたからだ。それは同時に、彼女が暗い性格をしているという思い込みも生み出した。
 結果として彼のイメージは半分が正しく、半分が誤っていた。同級生と比較すれば確かに落ち着いていたが、自分の殻に籠もっているわけではなかった。一人でいる時間は少なくなかったが、友人と笑い合う姿もよく見かけることができた。
 初めて言葉を交わしたのは、掃除当番で一緒にごみを捨てに行ったときだった。
「本、好きなの?」
 切り出したのは、茅根だった。クラスメイトは戸惑いの表情を覗かせたが、それは一瞬のことだった。
「うん。茅根君は?」
「漫画はたまに読むけど、小説とかはほとんど読まないよ」
「嫌い?」
「そういうわけじゃないけど、興味があんまりないから……」
「そっか」
 だが、ほのかな憧れはあった。少年からしてみれば、活字だけの本を読んでいる人はそれだけで大人びて見えたからだ。
「読書以外の趣味は?」
「音楽を聴いたり、料理とかも好きだよ。茅根君の趣味は?」
「体を動かすことは、割と好きかな。観る方も好きだけど」
「特に好きなスポーツとか、あるの?」
「えっと――」
 ありふれている始まりだったからこそ、友人として親しくなることができた。けれど、春花のことを特別な存在として意識したことは一度もない。だから自分の目の前にあるノートの意味が、分からなかった。
「第一、文章を書くのは苦手なんだよなあ……」
 と、茅根は溜息をつく。部屋のドアがノックされ、彼が返事をするより早く扉が開いた。裏表紙が上になるように慌ててノートを閉じ、冷静を装いながら口を開く。
「何だよ、一体」
「返事を待たずに部屋に入ってきたことについては触れないの?」
 三歳上の姉、萌だった。特に悪びれている様子もなく、そんな質問を弟に投げかける。
「故意だったのか……」
「ところで何? そのノート」
「別に何でもない」
「見せて」
「嫌だ」
「何でもないんでしょ? だったら見せてよ」
「嫌なものは嫌だ」
 萌は考え込んでいるような素振りを見せると、おもむろに自分の右手をノートに向けて伸ばした。
「何してる」
 姉の手の甲を力一杯つねりながら、冷たい視線を彼女に向ける。萌は弟の指を振りほどくと、涙目で赤くなった肌に何度も息を吹きかけた。
「あんたね、加減ってものを知らないの?」
「姉貴に対しては知らない。それより何か用があったんじゃないの?」
「CDを借りようと思ってたけど、目的変更。絶対にそれ、見てやる」
「見せられないんだよ、これは」
「何でもないものなんでしょ? だったら見せられるじゃない」
 茅根は疲れたように重い息を吐き出すと、
「……日記なんだよ」
 と、諦念と共に白状した。
「日記? あんた日記なんか書いてたの?」
「俺の日記じゃないよ……」
「どうして他人の日記があんたの手元にあるのよ。盗み見?」
「そんな趣味はない」
 萌は弟の表情と机の上に置かれたノートをしばらく見比べていたが、やがて正解に辿り着くと、
「可愛らしいことしてるのね」
 と、弟の頭を撫でた。
「で、相手は誰?」
「聞かれて素直に答えるとでも?」
「思わない。で、返事はもう書いたの?」
「それが……」
 言葉に詰まったことが、何よりの答えだった。今日何度目か分からない嘆息をつき、
「そもそも、なんで俺とこういうことをしようと思ったのか……」
「それはやっぱり、あんたのことをもっとよく知りたいとか親しくなりたいとか、そういうことじゃない?」
「その人とはもう仲がよくても?」
「仲がいいのにも色々な種類があるからね」
「種類……」
 口の中で単語を呟く弟を尻目に、萌は彼のラックから目当てのCDを探し出していた。
「じゃあこれ、借りてくね」
「うん。あ、そうだ姉貴」
 ドアノブに手をかけていた萌が振り返る。茅根は背中を見せたままだった。
「何?」
「今回のこと、誰かに口外したら関節技の実験台にするから」
「技は?」
「腕ひしぎ逆十字」
「……了解」
 静かにドアが閉まる。少年はノートを開くと、白い紙の上に突っ伏した。
「さて、どうするかな……」


 翌日の放課後も、茅根は学校に残っていた。昨日とは違い、窓の外は雨模様だ。教室を出ていくクラスメイトに手を振ると、彼は屋外の景色に目を移した。
 今日は一言も、春花と話していなかった。機会がなかったというのが一番の理由だが、彼女を避けたい意識があったことも否定できない。気分が憂鬱なのは、天候のせいばかりではないだろう。
「豊君?」
 昨日と同じように隣席に座り、春花は心配そうに尋ねた。
「具合、悪いの?」
「そんなことないよ」
「よかった」
 少女は笑ったが、茅根が未だ落ち込んでいることに気付くと、すぐにその表情は曇った。
「何かあった?」
「まだ書いてないんだ、日記」
「え?」
「ごめん」
 と、茅根は頭を下げる。だが、彼の耳に入ってきたのは、予想外の台詞だった。
「安心した」
「え?」
「朝からずっと元気がないから、どうかしたのかなって思ってたの。そんなことだったら、気にしなくていいよ」
「そうは言うけどさ、やっぱり遅くなるのは悪いよ」
 雨音は直に心に響く。大した意味を持たないはずの声は、やたらと少年の耳にまとわりついた。
「あの日記、書くのに三日かかってるの」
「そんなに?」
「うん。少し書いては消して、書いては消してって繰り返してたから。そんなに急がなくていいよ。それより、迷惑じゃなかった?」
 茅根はかぶりを振った。
「驚いたけど、嫌ってことはないよ」
 少年は正直な気持ちからそう答えた。
「でも、なんで俺と?」
「とりあえず、秘密」
 と、春花は穏やかに微笑んだ。その表情は茅根の追求を封じたが、無論そうなることを彼女が意図していたわけではなかった。
「でも、パソコンや携帯電話があるのに、今時交換日記なんて変だよね」
「別にいいと思うよ。それに俺、どっちも持ってないし」
「私も。機械って苦手……」
 今度は苦笑い。眼鏡の奥にある瞳は、よく変わる表情の象徴だった。
「豊君は?」
「機械? 普通だと思うよ」
「じゃあ、私がパソコンとか携帯電話とか買ったら、使い方教えてね」
「もちろん」
「あ、でも……」
 春花はわずかにためらい、続きを口にした。
「そのときもまだ、仲がいいとは限らないよね」
「大丈夫だよ、絶対に」
 茅根は反射的に断言した。その語勢が期せずして強いものだったために、春花は言葉を返すことができなかった。
「仲がいいままでいたいと思ってるんだから、きっと大丈夫。江沼を嫌いになる予定なんて、どこにもないしね。これからも、このままでいられるよ」
 茅根自身ですら気付かないほど小さな波紋が、胸の奥だけに静かに広がる。生まれたことを誰かに知られる前に、波は消え失せた。
「茅根、君」
 普段とは違う呼び方を口にし、春花は窓の外に視線を向けた。
「やっぱり、そう呼んだ方がいい?」
「他の友人だったらともかく」
 と、茅根はそこで軽い咳払いをしてから、
「江沼には名前で呼ばれるのに慣れてるからね。今のままでいいよ」
「でも、女子で豊君のこと名前で呼んでるのって、私だけじゃないの?」
「そう言われると、確かに」
 茅根は大して気に留めていないという風に、肯定の言葉を呟いた。
「でも、江沼に苗字で呼ばれると――」
 またも波が起きる。先程よりも大きく、その存在を認識することはできたが、正体は分からなかった。
「どうしたの?」
 不自然に声を途切れさせた茅根の顔を、少女が覗き込む。彼は首を振りながら、
「何でもないよ」
 と、言った。
「江沼に苗字で呼ばれるとさ、違和感があるんだ。たぶん、名前で呼ばれることに慣れたからだろうけど」
 茅根は不意に教室の中を見渡す。見慣れた風景に、一年前の記憶が重なった。
 春休みが明け、小学校最後の年が始まった日の放課後、彼の呼び名は変わった。今日と同じような暗い空を恨みながら教室を出ようとしていた少年の背中に、何の前触れもなく変化が知らせられたのだ。
「江沼に初めて名前で呼ばれた日のことは、よく覚えてる。最初は驚いたし、何日かは戸惑いもしたけど、嫌って感じたことは一度もないよ」
「じゃあ、豊君」
「はい」
 茅根は返事をすると、はにかんだ表情を見せた。慣れたとはいえ、改めて呼ばれてみると気恥ずかしさを隠せなかったからだ。
「そろそろ、帰ろうか?」
 微笑みながら、春花が提案する。それもまた、少女が照れていたからだった。


「茅根、豊」
 茅根は自分の名前を口の中で呟き、小さく息をついた。目の前には、右半分が白いままのノート。ただし、一つページを戻ればそこには自分の字が記してあった。
「江沼、春花」
 他愛のない日々の断片を互いに報告し、何ら特別でない時間の中から記すことを見つけていく。何故そんな方法を選んだのかは見当がつかなかったが、話し言葉より丁寧な文章にその意味が隠されているように思えた。
 住宅街の一角にある小さな児童公園のベンチで、鮮やかな夕日を横顔に感じながら、彼はこれまでに書かれた日記を読み直してみた。
『今日は本を見ながら、チーズケーキを作ってみました。だけど、あんまりおいしくなかったよ。材料の分量をまちがったのかも…。豊君は、甘いものは好きですか?』
 春花がケーキを作る姿を、茅根は頭の中に思い描こうとする。だが、料理をする友人をはっきりとイメージすることはできなかった。
『それから、ラジオでいい曲がかかってました。豊君にも聴いてほしいんだけど、タイトルがわかりません。調べてみるので、少し待っててね』
 音楽が好きだということは知っていたが、具体的な話をしたことはなかった。どんなジャンルを聴くのかも、誰の歌が好きなのかもほとんど知らない。意図的にその種の話題を避けてきたわけではない。どこにでもあるような雑談の一つでしかないのだから、そもそも回避する必要がないのだ。
だから、話す必然性もまたなかった。ありふれたことだったからこそ、特に触れなくても何の問題にもならなかった。
『それと図書室で――』
 声にするまでもない一日のかけらだったが、それを退屈に思うことはなかった。何の変哲もない日記からでも、茅根の知らない春花を見つけることができるからだ。裏を返せば、彼が少女について知っているのはほんの一部だけということでもある。
 茅根はノートを閉じ、溜息をついた。薄い雲の向こうに、輪郭のはっきりとした橙の陽が浮かんでいた。
「江沼、春花」
 再びクラスメイトの名を呟き、軽く目を閉じる。騒ぎ始めた心を落ち着かせるために、彼は深呼吸を繰り返した。
 自分の中で波が起こる理由は、未だ分からない。ただ、そこに不快感はなかった。


 放課後の屋上。もっとも、今日は半日で授業が終わりだったので、まだ午後一時を回ったばかりだ。
「暑いね」
 気温は二十五度を越えている。脱いだ上着をたたみ、春花は額に流れる汗を拭った。
「六月からは夏服なんだから、あと何日かの我慢だよ」
 と、茅根は下敷きで自分の顔を扇ぎながら、自らに言い聞かせるように応えた。
「もう夏だなあ……」
 茅根は呟きながら、下敷きの風を春花に向けた。どれだけの効果があるのかは正直疑問だったが、何もしないよりはましだろう。
「ありがとう」
 春花は後ろで束ねていた髪留めを外し、軽く背伸びをした。茅根が初めて見る姿だった。
「結構長いんだ」
 肩まで伸びた髪を見て、茅根が正直な感想を漏らす。春花は髪留めを上着のポケットの中に入れた。
「そろそろ切ろうかと思ってるの」
「やっぱり、色々と面倒だから?」
「うん。それと、気分転換しようかと思って。切らない方がいいかな?」
「いいと思うよ……って、俺が言うのも変だけど。あ、そうだ。これ」
 茅根が鞄から差し出したのは、スローペースで進行している交換日記だった。もっとも、春花が彼にノートを渡したのはつい昨日のことだが。
「ここで読んでいい?」
「うん。いいよ」
 春花は段差に座り、ノートを開く。そんな彼女を見ないように、少年は金網に背中を預けうつむいた。
 妙なことは書いていないはずだ。それなのに、春花の顔をまともに見られない。長くは書いていないはずだったが、春花が読み終わるまでは予想していたよりも多くの時間がかかった気がした。
「豊君」
「読み終わったの?」
「うん。私の分、今書いちゃってもいい?」
「それは構わないけど、別に急がなくてもいいのに」
 少女は微笑み、言った。
「少し時間がかかるかも知れないけど、それでもいい?」
「いいよ」
 春花は鞄からペンケースを取り出し、白いページとにらみ合いを始めた。
 時間がかかるということは、それだけ書きたいことが多いのだろうか。あるいは単純に、筆が遅いのか。いずれにしても、彼にとっては実際よりも長い時間となることだけは確かだった。
「江沼、春花」
 本人に気付かれないように、口の中で名前を呟いてみる。胸がさざめき始めた。
 自分の中に広がるのが、違和感だと気付いてから三日と経っていなかった。その正体も、おぼろげながら見え始めている。それを明確なものとするために、彼は一つの質問を春花に投げかけた。
「江沼はどうして、俺のことを名前で呼ぼうと思ったの?」
 春花は手を止めて、困惑の色を浮かべた瞳を向けた。
「どうしてって、それは……」
「あ、別に無理に答えなくていいよ。ちょっと気になっただけだから」
 茅根の苦笑いを受けて、シャープペンが自分の仕事を再開する。その動きは止まらなかったが、答えは少女の口から紡ぎ出された。
「仲良くなりたかったから……っていうのは変だよね、やっぱり」
「変じゃないよ」
 ペンが一瞬止まる。静止画のような風景が広がる屋上で、グラウンドの喧騒だけが時間の存在を証していた。
 空には雲がなく、太陽は次の季節の表情を見せている。少年は無言でありながらも物思いにふけるわけでもなく、絶え間のない微かな鼓動を感じていた。
「……江沼」
 当人に届かないように、今度は苗字だけを声にしてみる。波紋のように違和感が拡大し、それを消すために彼は小さく息をついた。輪郭はもはや曖昧なものではなかった。
「江沼は、友達から名前で呼ばれてたりするの?」
「仲がいい子は大体名前。『ハル』って呼ぶ子もいるけど」
「男子は?」
「みんな苗字だけど、何か気になることでもあった?」
「いや、別に……」
 茅根は首を横に振っただけで、唐突な質問の意図を説明しなかった。同級生の顔を見るが、特に怪訝そうな瞳をしているわけでもない。彼の視線に気付いた春花が、
「ごめんね、もう少しだから」
 と、微苦笑を浮かべた。
 春花は交換日記を始めた理由を、仲良くなりたいからだと言った。それなら、自分はどうなのだろう。彼女とのやりとりを、暇潰しにしか考えていないのか。
 少年の自問は、答えがすでに出ているものだった。フェンスから背中を離すのと同時に、春花が立ち上がる。
「待たせて本当にごめんね」
「気にしなくていいよ」
 ノートを受け取り、鞄を左手に持ちながら茅根は今書かれたばかりの文章を読み始めた。いつもと変わらず、どこにでもありそうな話が記されている。最初の三行だけを読み、彼は日記を閉じた。この場で全部に目を通してしまうのは、もったいない気がしたからだ。
「そろそろ帰ろうよ」
「うん。次の日記、少し遅くなるかも知れない」
 頷いた少年は、鞄に日記をしまいながら言った。
「豊君も、書くことたくさんあるの?」
「そんなところ」
「じゃあ、楽しみにしてるね」
 春花の笑顔は、無邪気だった。


 ふと見た時計は、午後九時を回っていた。夕食を食べ終え、日記と向き合ったのが七時前なので、二時間以上も書き続けていたことになる。ペンをずっと握っていた右手を振っていると、何の前触れもなしに部屋の扉が開いた。
「何してた、我が弟よ」
「……用件は?」
「あんたをおもちゃにして眠くなるまで暇潰し。で、何やってたの? 宿題?」
「それはない」 
「じゃあ、何書いてたの?」
 茅根は溜息をついて、
「日記だよ……」
「へえ、ちゃんと続いてたの。偉いぞ、弟」
 と、萌は弟の頭を撫でる。茅根は彼女の手を叩くと、机の上に散らかっていた筆記用具を片づけながら言った。
「前々から思ってたけど、姉貴って絶対ブラコンだよね……」
「節度は持ってるつもりだけど?」
「否定はしないのか……」
「たった一人の弟だもの。嫌う必要なんてないでしょう?」
「お言葉を返すようですが」
 電気スタンドの電源を切り、椅子から立ち上がる。萌はベッドに腰かけていた。
「思春期の姉弟は仲が悪いのが普通なのでは?」
「別にいいじゃない。仲が悪くないと何か不都合でもあるの?」
「それはないけどさ」
 と、彼は諦め気味に嘆息を吐き出した。精神的疲労が見て取れる弟の背中に、萌が何気なく問いかける。
「ところで、春花ちゃんとの仲はどうなってるの?」
 全く予想していなかった姉の言葉に、少年はただ固まるしかなかった。続いた姉の台詞が、追い打ちをかける。
「交換日記が続いてるってことは、前よりは仲良くなったんでしょ?」
 弟が振り向く。彼の瞳は、実の姉を標的として捉えていた。
「ちょ、ちょっと待って。誤解よ」
「……」
 萌は後ずさる。だが、当然逃げ場などあるはずもない。
「スリーパーと足四の字、どっちがいい?」
「じゃあ四の字……ってそうじゃなくて! 話を聞いてよ!」
 茅根の動きが止まる。その目は猜疑の色に溢れていたが、ひとまず関節技の練習台にされるのは免れたらしかった。
「まず言うけど、そのノートは読んでない。勝手にそういうものを見られることが、どれだけ嫌かってことぐらい私にだって分かるよ」
「だったら、どうして?」
 春花が誰かに話すとは到底思えない。無論、茅根自身も他人に話したことはないし、実際今回のことで冷やかされた記憶もない。つまり、日常を交わしている相手を萌が知る術はないはずだ。
「豊の中学校は当然私の母校でもあるの。つまり、後輩から情報が伝わってきたって不思議はないでしょ? ただ、私が聞いたのは豊と春花ちゃんが一緒にいるのをよく見かけるって、その程度のことだけど。言ってみれば、状況証拠ね。確証はなかったの。だから――」
「鎌をかけてみた、と」
「正解」
 豊は重い息を吐くと、うなだれながら尋ねた。
「……八つ当たりしていい?」
「だめ。だけど、ごめん」
 茅根は首を横に振ると、
「いいよ。引っかかったのが悪いんだし、それにいつまでも隠せるとは思ってなかったしね」
 萌の単純な罠にかかった自分に落胆する一方で、心のどこかでは安心しているのもまた事実だった。隠し続けることが、面倒になっていたからだ。
「ところで、姉貴はまだここにいるの? 日記に変なところがないか、チェックしたいんだけど」
「私のことは気にしないで……っていうわけにもいかないよね」
 萌はベッドから降りると、
「じゃあ、頑張ってね」
 と、弟の肩を叩き、早々に部屋を出ていった。
「頑張るっていう種類のものじゃないんだけどね……」
 苦笑いを浮かべ、机上の灯りのスイッチを入れる。開いたノートに記された自筆の文は、一ページに収まっていなかった。日常風景に加え、今の自分が思っていることが書き連ねてあるからだ。
 春花はこの日記を始めた理由を、簡単な言葉で教えてくれた。茅根が書く理由も、彼女と違わない。
だからこそ、彼は最後に尋ねた。友人を苗字で呼ぶことで生まれる、違和感を消すために。

『だから、名前で呼んでもいいですか?』

FIN